耳を洗う

世俗の汚れたことを聞いた耳を洗い清める。~『史記索隠』

泣かされた黒澤映画:『赤ひげ』~40数年ぶりにテレビで観る

2009-02-07 11:15:07 | Weblog
 一昨夜、NHKが再放送している“黒澤映画”の『赤ひげ』を久しぶりに観た。40数年前、組合本部にいた頃、関連の文化協会から名画の「試写招待券」が配布されていて、同僚と連れ立って有楽町の映画館(館名は忘れた)で上映される「試写会」によく出かけていた。この『赤ひげ』は、のちに名村造船労働組合委員長を長く務めた今は亡きY君と観に行ったのをよく憶えている。恥ずかしい話だが、遊郭に売られていたのを“赤ひげ”に引き取られた二木てるみの“おとよ”と、やがて貧乏人一家心中に巻き込まれる少年「こそ泥」頭師佳孝の“長次”との間の、「どん底」に生きる子供同志が傷を舐め合うような交流場面で涙が止まらなかった。後年、何かの事件で俳優を辞めてしまった頭師佳孝だが、ここでは7,8歳ぐらいの子役でその名演技が大変な評判だった。私にとって記憶に残る映画と言えば、エリア・カザン監督、ジェームス・ディーン主演の『エデンの東』とこの『赤ひげ』が双璧である。

 原作『赤ひげ診療譚』の作者・山本周五郎は、映画を観て「原作よりいい」と唸ったらしいが、数多く黒澤映画に主演した三船敏郎の最高傑作といえるかも知れない。三船敏郎の“赤ひげ”は、「医者の仕事は各人が持っている生命力に手を貸すことだ」(古代の“医聖”ヒポクラテスの言葉にもある)と言い、「貧困と無知を失くせば、病気の大半はなくなる」と怒るがごとき声で言う。これらは普遍的な「医の原点」と言える思想だ。『赤ひげ診療譚』は、8代将軍徳川吉宗(1684~1751)が「目安箱」を設置し庶民の意見を聞いて開いた「小石川養生所」がモデルとされる。ここは無料の医療施設で、幕末までの140年余り江戸の貧民救済施設として機能したという。こんにちのわが国医療制度の混迷をみるにつけ、この時代の貧困庶民への吉宗のまなざしがうらやましい。

 
 さて、「医は仁術」とも「医は算術」とも言う。「医は仁術」の語源は唐の徳宗の時代(779~805)の宰相“陸宜”の次の言葉とされている。

 <医は以て人を活かす心なり。故に医は仁術という。疾ありて療を求めるは、唯に、焚溺水火に求めず。医は当(まさ)に仁慈の術に当たるべし。須(すべから)く髪をひらき冠を取りても行きて、これを救うべきなり>

 わが国最古の医学書『医心方』巻第一にはこう書かれている。

 <大医の病いを治するや、必ずまさに神に安んじ志しを定め、欲することなく、求むることなく、先に大慈惻隠の心を発し、含霊の疾を普救せんことを誓願すべし>

 さらに、貝原益軒は『養生訓』で言う。

 <医は仁術なり。仁愛の心を本とし、人を救ふを以て、志とすべし。わが身の利養を、専に志すべからず。天地のうみそだて給へる人を、すくひたすけ、万民の生死をつかさどる術なれば、医を民の司命と云(いい)、きはめて大事の職分なり>


 わが国で医学が庶民の診療を担う「実用の学」として独立したのは江戸期とされている。それまでの医学は宗教社会に隷属し、加持祈祷と同居していた(三浦三郎著『くすりの民俗学』/健友館)。もちろん国家試験があるはずはなく、大袈裟に言えば誰でも医療の看板を掲げられたわけだ。映画『赤ひげ』の頃は、丁度西洋医学が入ってきて、長崎で蘭医学を学んだ医師が登場するというわが国医療の端境期であった。

 患者が来ると裏の藪の中から適当な野草を採ってきて処方した当てにならない医者を“藪医者”と言ったという説もあるが、『大辞泉』には、「診断・治療の下手な医者。◆野巫(やぶ)医、すなわちまじないを用いる医者の意から出たという」とある。つまり、“藪医者”という言葉が江戸時代に存在したことからみれば、「仁術」とは程遠いいい加減な医者も多かったのだろう。こんな江戸川柳が残っている。三浦著よりの孫引きである。

 俄医者三丁目で見た男   (柳多留壱拾遺)
 
 俄雨藪の門の賑かさ    (柳多留)

 また、貧民救済を目的に無料の小石川診療所が開かれた背景に、貧乏人は病気になっても滅多なことでは医者にかかれない事情があった。それほど一般に、医者代はベラボウに高かったわけだ。ことわざに、

 人参のんで首くくる

 とあるが、人参とは高貴薬の「朝鮮人参」のことで、命大事と思って高貴薬に手を出したばっかりに、その借金で首をくくったという話である。ここから「医は算術」という実態が浮かび上がる。

 「御一新」の明治になり、文部省が全国に「医術開業ノ者」に履歴明細書を提出するよう府県あてに指令を出したのが1873(明治6)年である。翌年末、その集計が発表されている。

 ・総数    2万8262人
    漢医  2万3015人
    洋医    5274人

 明治8年2月25日の『あけぼの新聞』の記事。

 <…我等人民凡そ三千万余として、此生命を保護するに三万人弱の医師を以てせば其比例千人の生霊を僅に一人の医師に托するに不過なり。加え。陳腐用を為さゞる漢医殆んど洋家の医師に五倍せり。此洋家の医師も亦た悉く其術を得たりと云ふべからず。…然れども今日天下医員の数を以て考れば、此野巫医を合するも我等三千万余の人民に配当し、僅か千人に一人ある而已(のみ)。野巫医すら猶如此、況良医国手に於てをや。嗚呼是れ人民を保護するの大義を知れる政府なりやと云ふ可んや。嗚呼是を人命を重ずる政府なりと云ふべけんや。>

 明治新政府になって、国民の医療事情が急に好転するはずはなかった。病院はどこも大入り満員の状況が続き、税制でも格別優遇された医業はどこも「大繁昌」していた。20世紀にはいった1909(明治42)年に出版された長尾折三著『噫 医弊』は、医業の弊風をつぎのように憂えている。

 <医師てふ職業は利益を得るを主眼とする職務なりや。或る一面より観れば国家の公職として社会衛生上必須の機関たるは上下之を認め、営業税下に立たざる神聖なる職業にあらずや。職業其ものヽ性質が、大なる利益を得るてふ商業的のものにあらず。よし多少の利益を獲得するにせよ、そは職業に伴ふ自然の副産物のみ、…医を以て普通一般の商業観をなし、暴利貪欲飽くことを知らざる者、抑も何の心ぞや。>

 金儲け主義の医者を揶揄した川柳は明治の世でも多かったという。

 ・仁術も金が命の匙加減

 ・所得金、医者は調合して届け

 (以上「明治」の部分は立川昭二著『明治医事往来』/新潮社)を参照)


 現代にも“赤ひげ”先生と呼ばれる医師はいる。私が知っている人でも十指に余る。そのなかの一人故“間中喜雄”先生の著書『そろばんのむだ玉』(医道の日本社)を読めば、「良医」のおもかげが浮かんでくる。その冒頭「中国俗諺より」にこんなことが書かれている。

 <薬はすべて三分は毒
   是葯三分毒
と思っておけば、まちがいない。

  病状を見て薬を盛る
   対症下葯
ごもっとも。ただしどう症状をとらえるかで、医者の上手下手が分れる。
  
  良薬口に苦し
   良葯苦口
漢方薬はまずいね。

  医者は自分の病気は治せない。
   医不自治
日本には自治医大なんてのがあるがね。

……

  自慢する医者へぼ医者
   誇嘴的大夫・没好葯
日本にもいるわ、いるわ!>


 最後に、日本医師会が採択した『医の倫理綱領』を収録しておく。「医は仁術」か「医は算術」か、皆さんの現状認識はいかがだろうか。

 <【医の倫理綱領】

 医学及び医療は、病める人の治療はもとより、人びとの健康の維持もしくは増進を図るもので、医師の責任の重大性を認識し、人類愛を基にすべての人に奉仕するものである。
1.医師は生涯学習の精神を保ち、つねに医学の知識と技術の習得に努めるとともに、その進歩・発展に尽くす。
2.医師はこの職業の尊厳と責任を自覚し、教養を深め、人格を高めるように心掛ける。
3.医師は医療を受ける人びとの人格を尊重し、やさしい心で接するとともに、医療内容についてよく説明し、信頼を得るように務める。
4.医師は互いに尊敬し、医療関係者と協力して医療に尽くす。
5.医師は医療の公共性を重んじ、医療を通じて社会の発展に尽くすとともに、法規範の遵守及び法秩序の形成に努める。
6.医師は医業にあたって営利を目的としない。>


 ご参考までに本ブログ07.1.14『医は仁術』をリンクしました。

 『医は仁術』:http://blog.goo.ne.jp/inemotoyama/d/20070114

今日は“二十六聖人”が処刑された日

2009-02-05 09:06:29 | Weblog
 1597年2月5日(慶長元年12月19日)、“二十六聖人”が長崎で処刑された。

 キリスト教が日本に伝えられたのは1549年8月15日(天文18年7月22日)、東洋の使途と称されたフランシスコ・ザビエルによる。彼は2年ほど日本に滞在し布教に努めたが、思うほどの成果は上がらなかった。1587年、豊臣秀吉が「伴天連追放令」を出すが、この間(約40年)、240の教会が建てられ、25万人が改宗したという。キリシタンの語はポルトガル語をそのまま日本語にしたもので、吉利支丹、切支丹などの字が当て字されている。キリスト教伝来当初は、幾利紫旦・貴理志端・吉利支丹などがあてられたが、禁教令施行後は鬼利至端・貴理死貪と書いたという。1680年、綱吉が将軍職につくと、「吉」の字を憚って「切支丹」と書くようになった。(参照:五野井隆史著『日本キリスト教史』/吉川弘文館)

 キリシタン大名で知られる大村純忠がキリスト教に改宗したのは1563(永禄6)年、家臣25名と一緒に洗礼を受けたのは6月初旬、30歳の時であった。当初平戸に寄港していたポルトガル船が、松浦領主との折り合いが悪くなって大村藩横瀬浦への寄港となった。これは熱心な仏教徒だった大村藩家老朝長伊勢守純利が、藩財政の脆弱性のためポルトガル船来航による巨利に注目、藩主純忠も財政上の理由から改宗を容認せざるをえなかったとみられている。改宗後の仏教への弾圧は半端ではなかったらしい。大村藩近郷の町では、神社仏閣の破却はもちろん、仏像は路傍の石仏までもが大村湾に捨てられたと今に語り継がれているが、キリシタン弾圧の前に、キリシタン大名による激しい仏教弾圧があったことは記憶に留めておくべきだろう。

 1582年2月20日(天正10年1月28日)、日本イエズス会の巡察師ヴァリニャーノは帰国にあたり、大友・大村・有馬のキリシタン大名の名代として4人の少年をヨーロッパへの使節として同伴した。有名な「天正遣欧少年使節」である。大友宗麟の名代伊東マンショ、大村純忠と有馬鎮貴の名代千々岩ミゲルが正使となり、中浦ジュリアンと原マルチノが副使で、いずれも12,3歳の少年であった。この年6月21日(天正10年6月2日)、信長は明智光秀に討たれている。

 織田信長が比叡山の堂塔を焼き(1571)、伊勢長島の一向一揆を壊滅させ(1574)、大坂石山本願寺との間にことを構える(1570~80)なかで、イエズス会宣教師に好意を示し保護を与えたことから、信長のキリスト教への関心の深さが覗える。彼は在京のイエズス会宣教師等の訪問を幾度も受け入れ、キリスト教の教理に関してあくことなく質問を発したという。信長がポルトガル人の帽子、服装、履物を着し、これを秀吉、家康らにも着すよう命じたのは有名な話である。

 
 信長の後を継いだ豊臣秀吉は、信長が平定できなかった一向衆の残党狩りに励む。最後まで残った紀州の根来(ねごろ)、雑賀(さいが)衆を根絶やしにしたのが1585年である。(その経緯については昨年1月12日の記事で書いた)秀吉はキリシタンに対し当初は是々非々の態度をとっていた。1586年3月16日には大坂城にイエズス会宣教師を引見し、布教の許可証を発給している。その秀吉が禁教へ傾いた理由には諸説あるようだが、歴史学者の安野眞幸は「キリスト教のイデオロギーと秀吉政権の統一思想との衝突」が原因としている(ウイキペディア)。

 1587年7月24日(天正15年6月19日)発布された「伴天連(バテレン)追放令」は、神国である日本でキリスト教を布教することはふさわしくないこと、領民などを集団で信徒にすることや神社仏閣などの打ちこわしの禁止、宣教師の20日以内の国外退去などと同時に、この法令が南蛮貿易を妨げるものではなく、布教に関係しない外国人商人の渡来に関してはなんらの規制を設けないことが示されていた。  原文は以下のとおり。

 【伴天連追放令】
一、日本ハ神国たる処きりしたん国より邪法を授候儀 太以不可然候事
一、其国郡之者を近付門徒になし 神社仏閣を打破之由 前代未聞候 国郡在所知行等給人に被下候儀は当座之事候。天下よりの御法度を相守、諸事可得其意賭処 下々として猥義曲事事
一、伴天連其知恵之法を以 心さし次第に檀那を持候と被思召候へは 如右日域之仏法を相破事曲事候条 伴天連儀日本之地ニハおかされ間敷候間 今日より廿日之間に用意仕可帰国候 其中に下々伴天連に不謂族(儀の誤りか)申懸もの在之ハ曲事たるへき事
一、黒船之儀ハ 商買之事候間格別候之条 年月を経諸事売買いたすへき事
一、自今以後仏法のさまたけを不成輩ハ 商人之儀は不及申、いつれにてもきりしたん国より往還くるしからす候条 可成其意事

已上
天正十五年六月十九日 朱印


 “二十六聖人”処刑の端緒は、「サン・フェリーペ号事件」(1596年10月、土佐に漂着した同船への奉行の訊問で「宣教師の派遣は領土を奪うのが目的」と述べたことから、これを聞いた秀吉が激怒した事件)が一つのきっかけになっているらしい。

 <秀吉は、フィリピン総督使節として来日したフランシスコ会士たちが布教に公然と従事していたことを強く非難し、京都・大坂にいた宣教師たちの逮捕を命じた。…
 フランシスコ会士六名とその日本人同宿、イエズス会の日本人イルマンと同宿、その他のキリシタンなど二十四名が捕えられ、京都・大坂・堺の市中を引き回しののち、長崎へ護送されて処刑されることになった。護送中に二名が逮捕され、最終的には二十六名が1597年2月5日(慶長元年12月19日)長崎の西坂で磔(はりつけ)にされた。>(五野井隆史著書)


 二十四名は、京都・堀川通り一条戻り橋で左の耳たぶを切り落とされて(秀吉の命令では耳と鼻を削ぐように言われていた)、市中引き回しとなり、歩いて長崎へ向かったというが、一向衆の討伐でも秀吉は残酷な仕打ちを行っている。二十六聖人の氏名を記しておく。

・フランシスコ・吉  伊勢出身の大工。一行の後を追い、途中で捕縛さる。
・コスメ・竹屋  尾張出身の刀研ぎ師。
・ペトロ・助四郎  京都出身。フランシスコ・吉と共に途中捕縛。30歳。
・ミゲル・小崎  伊勢出身の弓師。46歳。
・ディエゴ・喜斎  備前出身、会堂の祭壇係兼門番。最年長の64歳。
・パウロ・三木  阿波か摂津の出身で、熱烈な説教師。33歳。
・パウロ・茨木  尾張出身の桶屋。
・ヨハネ・五島  長崎五島出身。19歳。
・ルドビコ・茨木  尾張出身の最年少者で12歳。
・アントニオ  父が中国人、母が日本人で長崎生まれ。13歳。
・ペトロ・バウチスタ  スペインの神父。殉教者たちの長。48歳か54歳?
・マルチノ・デ・ラ・アセンシオン  スペインの貴族出身の神父。33歳。
・フェリッペ・デ・ヘスス  メキシコ生まれの修道士。24歳。
・ゴンサーロ・ガルシア  ポルトガルの修道士。日本語が上手。40歳。
・フランシスコ・ブランコ  スペイン生まれの修道士。30歳。
・フランシスコ・デ・サン・ミゲル  スペイン生まれの修道士。53歳。
・マチヤス  修道院の料理人マチアスの身代わりと?として。氏名など不詳。
・レオン・烏丸  尾張出身の伝道師。48歳。
・ペントウラ  都出身の日本人。氏名など不詳。
・トマス・小崎  ミゲル・小崎の子。14歳。
・ヨアキム・榊原  大坂出身の武士で料理人として働く。40歳。
・フランシスコ・医師  都出身で、当時の“赤ひげ”医師。46歳。
・トマス・ダンキ  京都生まれの薬種商人。42歳。
・ヨハネ・絹屋  都出身の絹織り職人。28歳。
・ガブリエル  伊勢出身の日本人伝道師。19歳。
・パウロ・鈴木  尾張出身。説教師で都の病院長。49歳。

 「日本二十六聖人西坂の殉教地」:http://www1.odn.ne.jp/tomas/seijin.htm


破綻に瀕する“GM”は「ネズミ講」にはまっていた?

2009-02-03 12:06:15 | Weblog
 前回記事(「浜矩子著『グローバル恐慌』~中南米になぜ目を向けないか?)を書いた夜たまたま、『NHKスペシャル』で「サンパウロ 富豪は空を飛ぶ」と題するブラジルの最新経済情報が放送された。ここではアメリカ発の世界金融危機が「場違い」な形で現れていることがわかる。参考までにNHKのサイトから紹介記事を掲載しておく。いずれにしろ、これから中南米の動きには目を離せない。

 <BRICs(注:ブラジル・ロシア・インド・中国)の一角を担い、新興国パワーの象徴でもあるブラジル。世界的な金融危機の荒波は、ブラジルをも襲っている。その試練をブラジルは、圧倒的な農業力と豊富な資源で乗り切ろうとしている。
 経済の中心地であるサンパウロには、「空飛ぶ富豪」と呼ばれる人たちがいる。日常の移動手段はヘリコプター。自宅からビル屋上のヘリポートに上がり、オフィスや商談へとまるでタクシーのように乗り回す。誘拐や強盗の危機や劣悪な交通渋滞を避けるためである。サンパウロの空を飛ぶヘリコプターは4百を超える。個人所有の数は、ニューヨークを抜いて世界一、ヘリポートの数も4百以上でこれも世界一を誇る。
 そうした「空飛ぶ富豪」たちの中で、最近増えているのが、バイオ燃料エタノールで財を成した人たちである。広大な農地から収穫されたサトウキビを原料としたエタノールには、ブラジルの自動車の増加とともに、売り上げを伸ばしている。さらにポスト石油文明を模索する。アジア、アフリカなどからの投資も急増している。
 空飛ぶエタノール富豪のビジネスを追いながら、金融危機後の世界でリーダーを目指すブラジルの挑戦を描く。>(再放送:2月4日午前0時45分~1時34分)


 引き続き昨夜の『NHKスペシャル』は「アメリカ発 世界自動車危機」と題する興味深い報道だった。まず、同サイトの紹介記事を見ていただこう。

 <20世紀の世界経済を牽引してきたアメリカの自動車産業が、メルトダウンともいうべき崩壊の危機に直面している。2008年、金融危機の炎がまたたく間に自動車産業に延焼、旺盛だった自動車の需要は一気にしぼんだ。GMをはじめとするビッグスリーは経営危機に陥り、トヨタなどアメリカでの販売で利益を上げてきた日本のメーカーも深刻な打撃を受けている。
 なぜこんなことになったのか。関係者への取材で浮かび上がってきたのは、長年のビジネスモデルを延命させるために作り出された「架空の消費」である。売り上げをのばすため自動車ローンの審査が極限まで甘くされ、ウォール街が推し進めた証券化ビジネスと手を結んだ車販売のシステムが広がった。それが今回の金融危機で一気に瓦解したのである。
 時代は次のビジネスモデルへ向かって急展開し始めている。大物投資家などが参入し、業界再編後を見据えた電気自動車など環境対応車の時代への模索が加速している。自動車業界の歴史的な大転換を、現場の動きから明らかにしていく。>(再放送:2月5日午前0時45分~1時34分)

 アメリカ自動車産業の危機もまた、新自由主義(市場原理主義)者たちが主導する「金融資本主義」がその背景にあったことがわかる。アメリカ経済は「金融商品」という一種の「ネズミ講」の胴元によって取り仕切られていたわけだ。

 「架空の消費」とはどういうことか。GMは金融子会社のGMCAを使って、収入や支払い能力も確かめず住所・氏名など簡単な書類審査でローンを組ませ、500万円以上もする高級車を売りつけてきた。杜撰なローンのリスクを回避する方法として「発明」されたのが債権の「証券化」である。わずかな優良債権と多量の不良債権をゴチャマゼにして高配当で世界中に売りまくったわけだ。当事者だったディーラーの一人は「自分で自分をだましてきた」と告白している。いま、“レポマン”という「取立て屋」が、ローン支払い不能となった消費者宅から有無を言わさず車を奪い取って行く。

 熊本に“天下一家の会”という「ネズミ講」をはじめた内村健一という男がいた。最盛期の会員数は180万人ともいわれたが、記憶を辿れば1967,8年ころ、造船所の職場でも会員勧誘に熱心に動いた人間がいたのを想い出す。のちに内村は会員からの訴えで逮捕されたが、「詐欺罪」には問われず「脱税」の罪で収監された。現実に世界を震撼させている「金融商品」は、“無限連鎖”を追求した点で「ネズミ講」によく似ている。「金融商品」を発明した人物も、この「ネズミ講」同様、恐らく「詐欺罪」に問われることはないだろう。それにしても、“カネ”をめぐる「だましの手口」の巧みさには「ホレボレ」するばかりである。


 つけ加えておきたいことは、「世界恐慌」といわれるこの時期が、時代の大きな転換期であることである。国際社会の秩序がどのように再構築されるのか、かつて「石炭から石油へ」と文明史が塗り替えられたような科学技術の新たな進展がどうなるか、世紀の分岐点がここに始まるような気がしてならない。

 



浜矩子著:『グローバル恐慌』~中南米になぜ目を向けないか?

2009-02-01 09:15:59 | Weblog
 『毎日新聞』に経済評論を執筆している?(現在続載中かどうか購読していなので不明)浜矩子さんの近著『グローバル恐慌~金融暴走時代の果てに』(岩波新書)を読んだ。表紙帯には「大不況がやってきた本当の理由」、「世界と日本はこれからどこへ行く?」とある。新聞評論でその筆さばきの巧みさに一目おいていたが、本書も現在進行中の生々しい世界「恐慌」に関し、われわれ素人にも分かりやすい切口で解説してくれる。

 まず「はじめに」で彼女は、現状を“危機”ではなく「恐れ慌てる」“恐慌”ととらえる。「経済という名の生き物がいかに凶暴な側面を持っているか。経済が牙を剥いた時、いかに人々が戦々恐々として周章狼狽するか。“恐慌”の字面から、実によくそのイメージが伝わって来る」といい、以下の章立てでそれを解明する。

・第1章 何がどうしてこうなった
 1 地獄の扉が開いた日
 2 事の起こり~証券化という名の錬金術
 3 グローバル・バブルの背景
・第2章 なぜ我々はここにいるか
 1 原点はニクソン・ショックにあった
 2 金融自由化から金融証券化へ
 3 金融が地球を一人歩きする時
・第3章 地球大の集中治療室
 1 迷走するアメリカ
 2 足並み乱れる欧州
 3 擬似体験者、日本のお粗末
・第4章 恐慌を考える
 1 恐慌とは何か
 2 歴史が語ること
 3 21世紀型グローバル恐慌とは
・第5章 そして、今考える
 1 金融サミットの残された課題
 2 グローバル恐慌、モノの世界に及ぶ
 3 引きこもる地球経済
・おわりに~金融暴走時代の向こう側

 現在進行中の「恐慌」を著者はこう述べている。

 <かくして、今日の状況は実にユニークだ。管理通貨制度の下で、恐慌は起こらないという戦後の通念を破った。しかも、むしろ基軸通貨国の管理通貨制度への移行が恐慌への第一歩を形成したと考えられる。モノとカネとが決別状態にある中で起こったという点で、従来の資本主義論的な恐慌の理解をどうも逸脱している。しかも、むしろモノと決別したカネの暴走に問題の焦点がある。>

 このカネの内実に関しては本ブログ(08.10.02『“大恐慌”に怯えるアメリカ~これぞ自業自得』http://blog.goo.ne.jp/inemotoyama/d/20081002)ですでに概略取り上げたが、浜さんは「カネの暴走」が「モノの世界」に、ひいては「ヒト」へ及んでくる恐怖を語っている。とくに印象に残るのは、彼女が引いている「良きにつけ、悪しきにつけ、最終的にものをいうのは理念である」というケインズの言葉である。ここには、従来の概念では捉えきれない「資本主義」にどう立ち向かうかという課題がこめられているようだが、彼女が答を示してくれているわけではない。ただ文末で、「グローバル時代の通貨」との中見出しで、「筆者は、その軸が“地域通貨”になるのではないかと考えている」と言っている。


 アメリカ発のこの「世界恐慌」に処方箋はないのか。なぜか浜さんは触れていないが、社会主義に目ざめた中南米に目を向ければ、わが国のマスコミが書かない目覚しい胎動が見られる。『北沢洋子の国際情報』に「途上国から見た金融危機とその処方箋」として詳しく取りあげられているが、中にこんなことが書かれている。

 <たとえば、これまでボリビア産の大豆を一手に輸入してきたコロンビアが、米国との間で自由貿易協定(FTA)を締結した。そこで、ベネズエラとキューバがボリビア産大豆をほとんど買い取るという協定に合意した。キューバはその見返りにボリビアの貧しい地域に医師と教師を派遣することになった。ベネズエラは、このキューバのプロジェクトの支援として石油をキューバに輸出する。
 ここには、ボリビア産の大豆が、物々交換(バーター取引)に近い形で取引され、代価として保険や教育のサービスを提供するという「社会的貿易」という概念がある。これは、ドルを基軸通貨にした「経済的貿易」に対抗するものである。>

 ケインズが言う「理念」が見事に実現していると言えないだろうか。IMFや世界銀行を通じさんざん痛めつけられた中南米諸国。その「理念なき大国アメリカ」と決別した国々の行動を抜きに、現実進行中の「世界恐慌」は語れないだろう。

 ・参照(必読!):『北沢洋子の国際情報』:http://www.jca.apc.org/~kitazawa/

 
 [中南米の事情を理解する手がかりとして、本ブログの次の記事もご参照下さい。]

 ・『米国が経済封鎖する“キューバ”に行ってみたい』:http://blog.goo.ne.jp/inemotoyama/d/20080614

 ・『今の“世界恐慌”はチリのクーデターが発端!』:http://blog.goo.ne.jp/inemotoyama/d/20081028