耳を洗う

世俗の汚れたことを聞いた耳を洗い清める。~『史記索隠』

泣かされた黒澤映画:『赤ひげ』~40数年ぶりにテレビで観る

2009-02-07 11:15:07 | Weblog
 一昨夜、NHKが再放送している“黒澤映画”の『赤ひげ』を久しぶりに観た。40数年前、組合本部にいた頃、関連の文化協会から名画の「試写招待券」が配布されていて、同僚と連れ立って有楽町の映画館(館名は忘れた)で上映される「試写会」によく出かけていた。この『赤ひげ』は、のちに名村造船労働組合委員長を長く務めた今は亡きY君と観に行ったのをよく憶えている。恥ずかしい話だが、遊郭に売られていたのを“赤ひげ”に引き取られた二木てるみの“おとよ”と、やがて貧乏人一家心中に巻き込まれる少年「こそ泥」頭師佳孝の“長次”との間の、「どん底」に生きる子供同志が傷を舐め合うような交流場面で涙が止まらなかった。後年、何かの事件で俳優を辞めてしまった頭師佳孝だが、ここでは7,8歳ぐらいの子役でその名演技が大変な評判だった。私にとって記憶に残る映画と言えば、エリア・カザン監督、ジェームス・ディーン主演の『エデンの東』とこの『赤ひげ』が双璧である。

 原作『赤ひげ診療譚』の作者・山本周五郎は、映画を観て「原作よりいい」と唸ったらしいが、数多く黒澤映画に主演した三船敏郎の最高傑作といえるかも知れない。三船敏郎の“赤ひげ”は、「医者の仕事は各人が持っている生命力に手を貸すことだ」(古代の“医聖”ヒポクラテスの言葉にもある)と言い、「貧困と無知を失くせば、病気の大半はなくなる」と怒るがごとき声で言う。これらは普遍的な「医の原点」と言える思想だ。『赤ひげ診療譚』は、8代将軍徳川吉宗(1684~1751)が「目安箱」を設置し庶民の意見を聞いて開いた「小石川養生所」がモデルとされる。ここは無料の医療施設で、幕末までの140年余り江戸の貧民救済施設として機能したという。こんにちのわが国医療制度の混迷をみるにつけ、この時代の貧困庶民への吉宗のまなざしがうらやましい。

 
 さて、「医は仁術」とも「医は算術」とも言う。「医は仁術」の語源は唐の徳宗の時代(779~805)の宰相“陸宜”の次の言葉とされている。

 <医は以て人を活かす心なり。故に医は仁術という。疾ありて療を求めるは、唯に、焚溺水火に求めず。医は当(まさ)に仁慈の術に当たるべし。須(すべから)く髪をひらき冠を取りても行きて、これを救うべきなり>

 わが国最古の医学書『医心方』巻第一にはこう書かれている。

 <大医の病いを治するや、必ずまさに神に安んじ志しを定め、欲することなく、求むることなく、先に大慈惻隠の心を発し、含霊の疾を普救せんことを誓願すべし>

 さらに、貝原益軒は『養生訓』で言う。

 <医は仁術なり。仁愛の心を本とし、人を救ふを以て、志とすべし。わが身の利養を、専に志すべからず。天地のうみそだて給へる人を、すくひたすけ、万民の生死をつかさどる術なれば、医を民の司命と云(いい)、きはめて大事の職分なり>


 わが国で医学が庶民の診療を担う「実用の学」として独立したのは江戸期とされている。それまでの医学は宗教社会に隷属し、加持祈祷と同居していた(三浦三郎著『くすりの民俗学』/健友館)。もちろん国家試験があるはずはなく、大袈裟に言えば誰でも医療の看板を掲げられたわけだ。映画『赤ひげ』の頃は、丁度西洋医学が入ってきて、長崎で蘭医学を学んだ医師が登場するというわが国医療の端境期であった。

 患者が来ると裏の藪の中から適当な野草を採ってきて処方した当てにならない医者を“藪医者”と言ったという説もあるが、『大辞泉』には、「診断・治療の下手な医者。◆野巫(やぶ)医、すなわちまじないを用いる医者の意から出たという」とある。つまり、“藪医者”という言葉が江戸時代に存在したことからみれば、「仁術」とは程遠いいい加減な医者も多かったのだろう。こんな江戸川柳が残っている。三浦著よりの孫引きである。

 俄医者三丁目で見た男   (柳多留壱拾遺)
 
 俄雨藪の門の賑かさ    (柳多留)

 また、貧民救済を目的に無料の小石川診療所が開かれた背景に、貧乏人は病気になっても滅多なことでは医者にかかれない事情があった。それほど一般に、医者代はベラボウに高かったわけだ。ことわざに、

 人参のんで首くくる

 とあるが、人参とは高貴薬の「朝鮮人参」のことで、命大事と思って高貴薬に手を出したばっかりに、その借金で首をくくったという話である。ここから「医は算術」という実態が浮かび上がる。

 「御一新」の明治になり、文部省が全国に「医術開業ノ者」に履歴明細書を提出するよう府県あてに指令を出したのが1873(明治6)年である。翌年末、その集計が発表されている。

 ・総数    2万8262人
    漢医  2万3015人
    洋医    5274人

 明治8年2月25日の『あけぼの新聞』の記事。

 <…我等人民凡そ三千万余として、此生命を保護するに三万人弱の医師を以てせば其比例千人の生霊を僅に一人の医師に托するに不過なり。加え。陳腐用を為さゞる漢医殆んど洋家の医師に五倍せり。此洋家の医師も亦た悉く其術を得たりと云ふべからず。…然れども今日天下医員の数を以て考れば、此野巫医を合するも我等三千万余の人民に配当し、僅か千人に一人ある而已(のみ)。野巫医すら猶如此、況良医国手に於てをや。嗚呼是れ人民を保護するの大義を知れる政府なりやと云ふ可んや。嗚呼是を人命を重ずる政府なりと云ふべけんや。>

 明治新政府になって、国民の医療事情が急に好転するはずはなかった。病院はどこも大入り満員の状況が続き、税制でも格別優遇された医業はどこも「大繁昌」していた。20世紀にはいった1909(明治42)年に出版された長尾折三著『噫 医弊』は、医業の弊風をつぎのように憂えている。

 <医師てふ職業は利益を得るを主眼とする職務なりや。或る一面より観れば国家の公職として社会衛生上必須の機関たるは上下之を認め、営業税下に立たざる神聖なる職業にあらずや。職業其ものヽ性質が、大なる利益を得るてふ商業的のものにあらず。よし多少の利益を獲得するにせよ、そは職業に伴ふ自然の副産物のみ、…医を以て普通一般の商業観をなし、暴利貪欲飽くことを知らざる者、抑も何の心ぞや。>

 金儲け主義の医者を揶揄した川柳は明治の世でも多かったという。

 ・仁術も金が命の匙加減

 ・所得金、医者は調合して届け

 (以上「明治」の部分は立川昭二著『明治医事往来』/新潮社)を参照)


 現代にも“赤ひげ”先生と呼ばれる医師はいる。私が知っている人でも十指に余る。そのなかの一人故“間中喜雄”先生の著書『そろばんのむだ玉』(医道の日本社)を読めば、「良医」のおもかげが浮かんでくる。その冒頭「中国俗諺より」にこんなことが書かれている。

 <薬はすべて三分は毒
   是葯三分毒
と思っておけば、まちがいない。

  病状を見て薬を盛る
   対症下葯
ごもっとも。ただしどう症状をとらえるかで、医者の上手下手が分れる。
  
  良薬口に苦し
   良葯苦口
漢方薬はまずいね。

  医者は自分の病気は治せない。
   医不自治
日本には自治医大なんてのがあるがね。

……

  自慢する医者へぼ医者
   誇嘴的大夫・没好葯
日本にもいるわ、いるわ!>


 最後に、日本医師会が採択した『医の倫理綱領』を収録しておく。「医は仁術」か「医は算術」か、皆さんの現状認識はいかがだろうか。

 <【医の倫理綱領】

 医学及び医療は、病める人の治療はもとより、人びとの健康の維持もしくは増進を図るもので、医師の責任の重大性を認識し、人類愛を基にすべての人に奉仕するものである。
1.医師は生涯学習の精神を保ち、つねに医学の知識と技術の習得に努めるとともに、その進歩・発展に尽くす。
2.医師はこの職業の尊厳と責任を自覚し、教養を深め、人格を高めるように心掛ける。
3.医師は医療を受ける人びとの人格を尊重し、やさしい心で接するとともに、医療内容についてよく説明し、信頼を得るように務める。
4.医師は互いに尊敬し、医療関係者と協力して医療に尽くす。
5.医師は医療の公共性を重んじ、医療を通じて社会の発展に尽くすとともに、法規範の遵守及び法秩序の形成に努める。
6.医師は医業にあたって営利を目的としない。>


 ご参考までに本ブログ07.1.14『医は仁術』をリンクしました。

 『医は仁術』:http://blog.goo.ne.jp/inemotoyama/d/20070114


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