耳を洗う

世俗の汚れたことを聞いた耳を洗い清める。~『史記索隠』

今日は“二十六聖人”が処刑された日

2009-02-05 09:06:29 | Weblog
 1597年2月5日(慶長元年12月19日)、“二十六聖人”が長崎で処刑された。

 キリスト教が日本に伝えられたのは1549年8月15日(天文18年7月22日)、東洋の使途と称されたフランシスコ・ザビエルによる。彼は2年ほど日本に滞在し布教に努めたが、思うほどの成果は上がらなかった。1587年、豊臣秀吉が「伴天連追放令」を出すが、この間(約40年)、240の教会が建てられ、25万人が改宗したという。キリシタンの語はポルトガル語をそのまま日本語にしたもので、吉利支丹、切支丹などの字が当て字されている。キリスト教伝来当初は、幾利紫旦・貴理志端・吉利支丹などがあてられたが、禁教令施行後は鬼利至端・貴理死貪と書いたという。1680年、綱吉が将軍職につくと、「吉」の字を憚って「切支丹」と書くようになった。(参照:五野井隆史著『日本キリスト教史』/吉川弘文館)

 キリシタン大名で知られる大村純忠がキリスト教に改宗したのは1563(永禄6)年、家臣25名と一緒に洗礼を受けたのは6月初旬、30歳の時であった。当初平戸に寄港していたポルトガル船が、松浦領主との折り合いが悪くなって大村藩横瀬浦への寄港となった。これは熱心な仏教徒だった大村藩家老朝長伊勢守純利が、藩財政の脆弱性のためポルトガル船来航による巨利に注目、藩主純忠も財政上の理由から改宗を容認せざるをえなかったとみられている。改宗後の仏教への弾圧は半端ではなかったらしい。大村藩近郷の町では、神社仏閣の破却はもちろん、仏像は路傍の石仏までもが大村湾に捨てられたと今に語り継がれているが、キリシタン弾圧の前に、キリシタン大名による激しい仏教弾圧があったことは記憶に留めておくべきだろう。

 1582年2月20日(天正10年1月28日)、日本イエズス会の巡察師ヴァリニャーノは帰国にあたり、大友・大村・有馬のキリシタン大名の名代として4人の少年をヨーロッパへの使節として同伴した。有名な「天正遣欧少年使節」である。大友宗麟の名代伊東マンショ、大村純忠と有馬鎮貴の名代千々岩ミゲルが正使となり、中浦ジュリアンと原マルチノが副使で、いずれも12,3歳の少年であった。この年6月21日(天正10年6月2日)、信長は明智光秀に討たれている。

 織田信長が比叡山の堂塔を焼き(1571)、伊勢長島の一向一揆を壊滅させ(1574)、大坂石山本願寺との間にことを構える(1570~80)なかで、イエズス会宣教師に好意を示し保護を与えたことから、信長のキリスト教への関心の深さが覗える。彼は在京のイエズス会宣教師等の訪問を幾度も受け入れ、キリスト教の教理に関してあくことなく質問を発したという。信長がポルトガル人の帽子、服装、履物を着し、これを秀吉、家康らにも着すよう命じたのは有名な話である。

 
 信長の後を継いだ豊臣秀吉は、信長が平定できなかった一向衆の残党狩りに励む。最後まで残った紀州の根来(ねごろ)、雑賀(さいが)衆を根絶やしにしたのが1585年である。(その経緯については昨年1月12日の記事で書いた)秀吉はキリシタンに対し当初は是々非々の態度をとっていた。1586年3月16日には大坂城にイエズス会宣教師を引見し、布教の許可証を発給している。その秀吉が禁教へ傾いた理由には諸説あるようだが、歴史学者の安野眞幸は「キリスト教のイデオロギーと秀吉政権の統一思想との衝突」が原因としている(ウイキペディア)。

 1587年7月24日(天正15年6月19日)発布された「伴天連(バテレン)追放令」は、神国である日本でキリスト教を布教することはふさわしくないこと、領民などを集団で信徒にすることや神社仏閣などの打ちこわしの禁止、宣教師の20日以内の国外退去などと同時に、この法令が南蛮貿易を妨げるものではなく、布教に関係しない外国人商人の渡来に関してはなんらの規制を設けないことが示されていた。  原文は以下のとおり。

 【伴天連追放令】
一、日本ハ神国たる処きりしたん国より邪法を授候儀 太以不可然候事
一、其国郡之者を近付門徒になし 神社仏閣を打破之由 前代未聞候 国郡在所知行等給人に被下候儀は当座之事候。天下よりの御法度を相守、諸事可得其意賭処 下々として猥義曲事事
一、伴天連其知恵之法を以 心さし次第に檀那を持候と被思召候へは 如右日域之仏法を相破事曲事候条 伴天連儀日本之地ニハおかされ間敷候間 今日より廿日之間に用意仕可帰国候 其中に下々伴天連に不謂族(儀の誤りか)申懸もの在之ハ曲事たるへき事
一、黒船之儀ハ 商買之事候間格別候之条 年月を経諸事売買いたすへき事
一、自今以後仏法のさまたけを不成輩ハ 商人之儀は不及申、いつれにてもきりしたん国より往還くるしからす候条 可成其意事

已上
天正十五年六月十九日 朱印


 “二十六聖人”処刑の端緒は、「サン・フェリーペ号事件」(1596年10月、土佐に漂着した同船への奉行の訊問で「宣教師の派遣は領土を奪うのが目的」と述べたことから、これを聞いた秀吉が激怒した事件)が一つのきっかけになっているらしい。

 <秀吉は、フィリピン総督使節として来日したフランシスコ会士たちが布教に公然と従事していたことを強く非難し、京都・大坂にいた宣教師たちの逮捕を命じた。…
 フランシスコ会士六名とその日本人同宿、イエズス会の日本人イルマンと同宿、その他のキリシタンなど二十四名が捕えられ、京都・大坂・堺の市中を引き回しののち、長崎へ護送されて処刑されることになった。護送中に二名が逮捕され、最終的には二十六名が1597年2月5日(慶長元年12月19日)長崎の西坂で磔(はりつけ)にされた。>(五野井隆史著書)


 二十四名は、京都・堀川通り一条戻り橋で左の耳たぶを切り落とされて(秀吉の命令では耳と鼻を削ぐように言われていた)、市中引き回しとなり、歩いて長崎へ向かったというが、一向衆の討伐でも秀吉は残酷な仕打ちを行っている。二十六聖人の氏名を記しておく。

・フランシスコ・吉  伊勢出身の大工。一行の後を追い、途中で捕縛さる。
・コスメ・竹屋  尾張出身の刀研ぎ師。
・ペトロ・助四郎  京都出身。フランシスコ・吉と共に途中捕縛。30歳。
・ミゲル・小崎  伊勢出身の弓師。46歳。
・ディエゴ・喜斎  備前出身、会堂の祭壇係兼門番。最年長の64歳。
・パウロ・三木  阿波か摂津の出身で、熱烈な説教師。33歳。
・パウロ・茨木  尾張出身の桶屋。
・ヨハネ・五島  長崎五島出身。19歳。
・ルドビコ・茨木  尾張出身の最年少者で12歳。
・アントニオ  父が中国人、母が日本人で長崎生まれ。13歳。
・ペトロ・バウチスタ  スペインの神父。殉教者たちの長。48歳か54歳?
・マルチノ・デ・ラ・アセンシオン  スペインの貴族出身の神父。33歳。
・フェリッペ・デ・ヘスス  メキシコ生まれの修道士。24歳。
・ゴンサーロ・ガルシア  ポルトガルの修道士。日本語が上手。40歳。
・フランシスコ・ブランコ  スペイン生まれの修道士。30歳。
・フランシスコ・デ・サン・ミゲル  スペイン生まれの修道士。53歳。
・マチヤス  修道院の料理人マチアスの身代わりと?として。氏名など不詳。
・レオン・烏丸  尾張出身の伝道師。48歳。
・ペントウラ  都出身の日本人。氏名など不詳。
・トマス・小崎  ミゲル・小崎の子。14歳。
・ヨアキム・榊原  大坂出身の武士で料理人として働く。40歳。
・フランシスコ・医師  都出身で、当時の“赤ひげ”医師。46歳。
・トマス・ダンキ  京都生まれの薬種商人。42歳。
・ヨハネ・絹屋  都出身の絹織り職人。28歳。
・ガブリエル  伊勢出身の日本人伝道師。19歳。
・パウロ・鈴木  尾張出身。説教師で都の病院長。49歳。

 「日本二十六聖人西坂の殉教地」:http://www1.odn.ne.jp/tomas/seijin.htm



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