耳を洗う

世俗の汚れたことを聞いた耳を洗い清める。~『史記索隠』

映画:『おくりびと』と元祖「納棺夫」の青木新門さん

2009-02-27 12:08:24 | Weblog
 “納棺師”を描いた映画『おくりびと』がアカデミー賞外国語映画賞を受賞し、話題になっている。『東京新聞』2月24日のWeb版は次のように伝えた。

 <「おくりびと」がアカデミー賞外国映画賞を受賞してから一夜明けた23日、米メディアは「番狂わせ」「サプライズ」などと、米国内で知名度が低かった同作の受賞の驚きを伝えた。
 
 ロサンゼルス・タイムズ紙は「穏やかなユーモアを織り交ぜ、厳粛な美を描いた映画が番狂わせの勝利をつかんだ」と紹介。ニューヨーク・タイムズ紙も「昨夜の数少ないサプライズの一つが、失業したチェロ奏者の物語を描いた日本映画の受賞だ」と、意外さを強調した。(中略)

 しかし、納棺師という職業を題材にした「おくりびと」は、日本の葬送文化を世界に伝える機会に。ロイター通信は、遺族の前で遺体を清める所作を「魔術師のような巧妙な手さばきで繰り広げられる儀式は、死者へのお悔やみと崇敬の気持ちを紡ぎ出す」と紹介した。>

 
 この映画では「納棺師」となっているが、この道の元祖で映画の原点とされる“青木新門”さんは「納棺夫」と言われていた。1993年出版のベストセラーとなった著書『納棺夫日記』(文春文庫)はアカデミー賞受賞後、5万部増刷するらしいが、青木さんが商売に失敗して冠婚葬祭会社に入社したのが1973(昭和48)年、36歳の時。間もなく湯灌、納棺という特異な作業についたと書いている。場所は富山だが、その頃まだ郊外の村落では「座棺」があったらしい。しかも座棺専用の焼き場もあったというから驚く。私の小さい頃の田舎はすべて土葬で、死者はみな座棺で葬送された。本家の叔父の納棺場面(膝を抱えた姿勢で納棺)は今もはっきり記憶している。

 さて、映画『おくりびと』はまだ観ていないので脚本がどうなっているか知らないが、元祖「納棺夫」の青木新門さんは田舎の大地主で本家筋(本人は戦後旧満州からの引揚者)の立場にあって、納棺の仕事を始めて思わぬ障害に直面する。分家の叔父が突然尋ねて来た。

 <叔父は、いい仕事があるがと切り出し、話の中で、何代も続いた家柄の本家の長男が納棺夫になりさがったことをなじったり、わが一族には教育者や警察など国家公務員も多く、社会的に地位のある人も多い、と言ったり、その一族の恥だと言ったりした。
 そして最後に、今の仕事を辞めないのなら絶交すると言った。>

 さらに、仕事のことは隠していたが、妻は知っていて内に秘め、悶々としていたらしい。

 <昨夜、体を求めたら拒否された。今の仕事を辞めない限り、嫌だという。いろいろ話し合ったが、子供たちの将来のことも考えてくれと、最後は泣き出した。
 近々に何とかするからと、その場逃れの言葉で再度求めたが、
「穢(けが)らわしい、近づかないで!」
 とヒステリックに妻は拒否した。>

 彼は、この「穢れ」という妻の言葉を契機に死や死者にまつわる「不浄」について考える。折口信夫や柳田國男ら民俗学者が解明してきた「ケガレ」と「ハレ」の思想。誰もが無縁ではありえない「死」とそれに対する根強い不浄観。若い頃、詩や小説を書いていた青木さんの仏教、とくに浄土真宗宗祖・親鸞(富山=越中地方は真宗信者が多い)への関心がこうして深まっていく。

 「職業に貴賎はない。いくらそう思っていても、死そのものをタブー視する現実があるかぎり、納棺夫や火葬夫は、無残である」との考えが、ある日を境に一変する。湯灌・納棺の仕事が入って、その行き先が「父に会ってくれたら結婚も」と言ったあの昔の恋人の家だった。横浜に嫁いだと風の頼りに聞いていたが、来ているだろうか。意を決して入ったら本人は見当たらない。ほっとして、湯灌を始めた。

 <額の汗が落ちそうになったので、白衣の袖で額を拭こうとした時、いつの間に座っていたのか、額を拭いてくれる女がいた。
 澄んだ大きな目一杯に涙を溜めた彼女であった。作業が終わるまで横に座って、私の汗を拭いていた。
 退去するとき、彼女の弟らしい喪主が両手をついて丁寧に礼を言った。その後ろに立ったままの彼女の目が、何かいっぱい語りかけているように思えてならなかった。…
 軽蔑や哀れみや同情など微塵もない、男と女の関係をも超えた、何かを感じた。
 私の全存在がありのまま認められたように思えた。>

 心が変われば、行動が変わる。彼は早速、医療機器店へ行き、医師の手術用の衣服、マスク、薄いゴム手袋、それに往診用の鞄などを買い揃える。本腰を入れて納棺夫に徹しようと決心したのだ。すると途端に周囲の見方が変わった。

 <昨日など、山麓の農家であったが、納棺を終えて勧められるままお茶を飲んでいると、お棺に納めた死者よりも歳を経た老婆が畳を這うように近づいてきて、
「先生様、私が死んだら先生様に来てもらうわけにはいかんもんでしょうか」
 と、真剣な顔で言うのである。
 先生様にも参ったが、こんな約束も当惑する。納棺夫の指名予約である。しかし、悪い気はしなかった。
「ええ、いいですよ」と言うと、老婆はにっこりした。>

 青木さんは、いつの間にか「死体処理の専門家」になっていた。異常な死体の場合「あいつを呼べ」ということになる。水死、首吊り、列車への飛び込み自殺、発見の遅れた孤独死など、無残な死体とも遭遇し、腐乱死体にたかった蛆虫を取り払い、礫死体の脳味噌を小枝で拾い集めたりするのだ。そんな時は大抵鑑識課のベテランS氏と二人で後始末にかかった。こうして“納棺夫”の元祖・青木新門さんは湯灌・納棺の仕事を「崇高な職業」へ導いたのである。

 
 『納棺夫日記』が出版されると、青木さんは講演で引っ張りだこになる。とくに多かったのが真宗寺院からで、この著書に宗祖“親鸞”に関する記述が目立つからだろう。浄土宗系の仏教大学に「仏教とターミナル・ケアの研究会」というのがあって、1995(平成7)年1月から3月にかけて開催した特別講演シンポジュームの記録が『「死」をめぐる三つの話』(大法輪閣)と題し出版されている。内容は宗教学者・山折哲雄の「死の看取りと死の作法」、元納棺夫・青木新門の「納棺夫が見た光の世界」、元東京都監察医務院長・上野正彦の「死体が語る命の尊厳」である。

 青木新門さんの講演に関し、司会にあたった藤本浄彦仏教大学教授は同書「あとがき」に書いている。

 <「納棺夫」という言葉を知っている人は少なく、何かしらけげんな感じを抱くかもしれない。自らの生い立ちや人生経験をちりばめながら直面する「死」について、青木氏は語る。そこには、自らが、職業として客観的に対応する“死”以前に、人間としておもんばかる豊かな情緒が漂う。「人はよく、死を見つめると生が輝いて見えてくるなどと言いますが、生者は死を見ることはありません。生と死が限り無く接近した瞬間、真実の光に出合い、その光に照らされて生が輝いて見えてくるのです」と力強くお話になる。「生と死が限り無く接近した瞬間」を捉えて離さない情感が迫ってくる。>


 「納棺夫」としておよそ2000人の死者と接した“青木新門”という人は、葬送儀礼業者の一員でありながら、人の「死」を深く見つめ、死者と無言の対話を続けてきた稀有な職業人といえるかも知れない。映画:『おくりびと』はその辺をどう捉えているのか観てみたいと思っている。