耳を洗う

世俗の汚れたことを聞いた耳を洗い清める。~『史記索隠』

「“平泉”~みちのくの浄土」展~戦争のない理想郷だった!

2009-02-21 10:40:39 | Weblog
 「みちのくの浄土」“平泉”を訪ねたのは、車で東北をめぐった15,6年前の旅でのことだった。年輪を重ねた杉が中天高く鬱蒼と立ち並ぶ中尊寺の参道を登ると、左手奥に忽然と浮かび出る金堂。その頃はまだ、「世界遺産をめざす」などという騒ぎはなく、観光客もほどほどだったように記憶する。それにしても、あの金堂を目にするだけで、ここが尋常な地でないことを思い知らされた。その「“平泉”」が「世界遺産」登録をめざして“特別展”を開催しているというので行ってきた。

「平泉~みちのくの浄土」展(福岡市博物館)
             


 案内のパンフには次のようにある。

 <十一世紀の終わりごろ、奥州藤原氏が開いた平泉。それは、仏教を心の柱とし、美しいお堂や庭園に彩られ、富にあふれた都でした。

 そのいにしえの姿を、現代の我々は、黄金や螺鈿(らでん)の輝きに満ちた仏教文化の遺産や、さかんな発掘研究の成果から知ることができます。

 この展覧会は、国宝中尊寺金色堂の仏像(西北壇諸仏十一体)をはじめとする仏教美術の名品や多彩な歴史資料約260点をとうし、平泉の魅力を伝えるものです。>

 
 中尊寺の寺伝は慈覚大師円仁の開基(850)としているが、それを裏づける確かな史料はなく、実質的には藤原清衡が創建したことになっている。展覧会の頭初の展示品として「中尊寺供養願文」が置かれていたが、それによれば、前九年・後三年の役の戦没者(清衡は妻子のすべてを失う)をはじめ、あまたの霊を浄土へ導き、奥州全体を仏国土にしたいとの願いから建立したと記されている。1124年、金色堂落慶、2年後に主要堂塔が完成した折に清衡が読み上げたものという。肉親相食む悲惨な戦を体験した清衡の、戦争のない理想郷を造りたいという強い願望が読みとれる。

 陸奥押領使となった二代基衡(1105?~1157?)は、父の意志を継いで勢力を拡大し、平泉の南玄関口に大伽藍毛越寺(もうつじ)を建立、中尊寺の規模が寺塔四十余宇、禅坊三百余宇だったのに対し、毛越寺は寺塔四十余宇、禅坊五百余宇に及んだと『吾妻鏡』にあるという。基衡の時代に仏教文化華やかな平泉の原形が出来あがったといえるようだ。

 三代秀衡(1122?~1187)は、鎮守府将軍に任じられ、のちに陸奥守になった。秀衡は父が残した毛越寺の一部未完成部分を完成させ、さらに無量光院、加羅御所の築造、平泉館という政治の中枢部を造り上げ、要所に大寺院を配したこの世の楽園都市・平泉を完成させた。またこの秀衡は源義経を少年時代と都落ちの際の二度にわたって庇護し、わが子泰衡に「伊予守義顕(義経)ヲ大将軍トナシ国務セシムベキ由、男泰衡以下ニ遺言セシム」(『吾妻鏡』)と言い残して世を去っている。

 周知のとおり、武家政権を確立した源頼朝は、平家滅亡後、弟義経と対立するのだが、義経を庇護していた秀衡が死ぬと、翌1188年2月と10月に頼朝は朝廷に宣旨を出させて泰衡に義経追討を要請する。これに応じない泰衡に対し頼朝は執拗に奥州追討の宣旨を要請し、ついに院では泰衡追討の宣旨が検討され始めた。これに屈した泰衡は1189年閏4月30日、兵数百騎で義経の衣川館を襲撃し、義経を自害へ追いやった。泰衡は義経の首を差し出し事を治めようとしたが、頼朝はこれを聞き入れず自ら奥州追討に向かう。迎え撃つ奥州軍はあっけなく敗れ、泰衡は主な館に火を放って北方へ逃れた。こうしておよそ100年にわたり栄華を誇った平泉も戦禍の犠牲になったという。

 北方に逃れた泰衡は頼朝に助命嘆願を申し入れるが、頼朝はこれを許さず探索のすえ泰衡の首を討ち取らせ、古事に習いその首は眉間に八寸の鉄釘を打ち付けて柱に懸けられたという。泰衡25歳。無傷で残った中尊寺金堂中央の須弥壇の中には清衡、基衡、秀衡の遺骸とともに泰衡の首が納められている。(以上「Wikipedia」などネット内記事参照)


 この展覧会で目を引いたのは清衡らが発願した膨大な数の「紺紙金銀交写経」(一行おきに金字と銀字で書写した経)である。大長寿院所有の「金字一切経」が2,739巻、高野山金剛峰寺に所蔵されるもの4,296巻など、いずれも国宝に指定されている。写経巻頭部分に描かれている金泥の絵は発願者の篤い願いを伝え、これは平安時代の絵画の貴重な資料になっているという。

 
 近年、平泉では大掛かりな発掘調査が続けられ、栄華を誇った平安の北の都に光をあてようとしている。古くから東北地方は金銀の産地として知られ、中尊寺金色堂ほか煌めく都の出現もそれに支えられたものだった。そればかりか奈良の大仏建立にあたって用した膨大な金も、そのほとんどが東北からもたらされた。さらに、肥沃な土地に恵まれ、その豊かな天然資源と人的資源がうまく結びついて「夢の理想郷」は誕生したのだろう。だが、歴史遺産の大部分はいずれも戦禍によって失われてきた。清衡が築いた戦争のない理想郷「平泉」はおよそ100年で潰えたが、思えば、現代人のわれわれは100年と続く平和を体現していない。そんな思いを抱きながら過ごした一日だった。


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