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高橋真梨子、人生の贈りもの 第5回

2018年07月28日 02時25分48秒 | 音楽

成功には、別れがつきものです。

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(語る 人生の贈りもの)高橋真梨子:5 「ジョニイ」がヒット、覚悟決めた
朝日新聞 2018年7月27日05時00分

1975年ごろのペドロ&カプリシャス(右前が本人)。当時は「高橋まり」と名乗っていた=本人提供

 ■歌手・高橋真梨子

 博多に戻って、中洲のクラブとかいろんなところで歌いました。地元のテレビやラジオにもよく出たし、私は一生博多で歌うつもりでしたね。

 若いから歌を覚えるのも早くて、500曲ぐらいは暗記していたかな。とにかくとっても楽しい時期でした。母はスナックを開いて忙しかったので、母は母、私は私、という感じで暮らしていました。

 そんなときです。ペドロ(梅村)さんとヘンリー(広瀬)さんが訪ねてきたのは。

 《ペドロ&カプリシャスは1971年に「別れの朝」がヒットしたが、女性ボーカルが急に辞めて困っていた》

 いろんな人にスカウトされたけど、「もう二度と東京には行かない」と断りました。なのに、この人たちはなぜ来たのか。「何であなたたちのところに入らなきゃいけないの?」と聞きました。

 ただ、ペドロさんとは以前から知り合いで、博多で一緒に歌わせてもらったこともありました。レコード会社のえらい人たちも来て、しつこいぐらいに誘われて、そんなに言うなら1年だけ行ってあげる、と折れたんです。私が23歳のときでした。

 レコーディングだけ、って最初は言われたんです。後から、既に開催が決まっているコンサートでも歌って欲しいと頼まれました。

 「ジョニイへの伝言」をレコーディングして、でも全然売れなくて。2作目の「五番街のマリーへ」もたぶん売れないと思っていました。

 《♪ジョニイが来たなら伝えてよ――独特の歌い出しで始まる「ジョニイへの伝言」(阿久悠作詞)は73年の発売から1年ほどして売れ始め、大ヒットに。74年のNHK紅白歌合戦に出場した》

 「ジョニイ」にバーッと火がついて、「五番街のマリーへ」も一気に売れちゃった。これはもう帰れないな、と自分でも覚悟を決めました。

 1年のつもりで博多のバンドに楽譜を全部預けていたんです。謝りに行くと、すごくがっかりされて「約束破ったね」。悪いことをしたなと思いました。(聞き手・坂本真子)

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真梨子さんがそのまま博多にいたら、おそらく貧乏英語塾長は真梨子さんのことを知らずにいました。東京へ出ていってくれて『ジョニイへの伝言』『五番街のマリーへ』を唄ってくれたから、こうしてファンになれたのです。真梨子さんの決断に、感謝です。

ファンといいながら、いい加減だと反省しました。『ジョニイへの伝言』は「ジョニーの伝言」、『五番街のマリーへ』は「五番街のマリー」で憶えていたのですから。この際、きちんと記憶を修正しておきます。真梨子さん、すいません。

 


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