明治に「神仏分離」されて久しい。
今は、「神仏霊場会」が創られ、神社と寺院もそれなりに仲良くなりつつあります。
地元の宮司も言ってました。
「高野山や比叡山は行ったことありますよ」
平安仏教である天台宗や真言宗は、鎮守社として神社をお祀りしている所が多く、神社側も好意的に見ている感じです。
もっと古い、東大寺や薬師寺も神社があります。真言宗や天台宗以上に、境内神社を大切にしているかも知れません。
東大寺にはたくさん神社があり、コロナ下の「修二会 (しゅにえ)」・・・お水取りの前行では、法要の無事を祈願して、境内にある様々な神社で僧侶たちが祈願しているのをテレビで観ました。
境内の、ある神社では、社殿前の階段左右に僧侶たちが横向きでしゃがんで祈願していて、黒い僧衣を着てたので、「まるでカラスたち」が神社にくっついているみたいでした。
ただ、神社と寺院が仲良くなりつつある中・・・
私の知る限り、お坊さん (真言宗や禅宗) は、神社で御祈祷受けたりすることはなく、
宮司・神職も、寺院で御祈祷受けたりすることは・・・ない印象です。
明治で分けられた、「カミ」と「ホトケ」は、ふたたび融合しつつあるのですが、
僧侶が、直接「カミ」に触れての御祈祷や、神職が、「ホトケ」に触れての御祈祷はしてない印象ではあります。
例えは悪いですが、「鍼灸師」のプロは、絶対に「カイロプラクティック」や「柔道整復」の治療には行かず、
「カイロプラクティックの先生」は、「柔道整復」や「鍼灸院」には行かない・・・「柔道整復師」は、「カイロプラクティック」や「鍼灸院」には行かないような感じでしょうか?
私は、神社、寺院ともに、何度生まれ変わっても、「絶対にプロ(神職・僧職)にはならない」と、自らに誓っているのは、
神社であれ、寺院であれ、プロは、思想的に、それぞれの範疇に凝り固まっているムキがあるからなのです。
例えば、今は天台宗と真言宗の地方寺院の坊さんは仲が良かったりしますが、と言っても、天台宗のお坊さんが「四国遍路」したりすることは・・・ないと思います。真言宗のお坊さんが比叡山に参拝することはあります。
「自由に様々な神社や寺院を見聞できる一般人の方が、幅が広がる」・・・そう思います。
これが一番・・・と言うなら、お釈迦様の仏法が一番で、お釈迦様の時代には宗派も流派も無かったのは、そのためです。「真理」そのものである、お釈迦様の仏法に、本来、「宗派」「流派」の垣根など存在するハズが無いのです。
神道で言うなら、神社の御祭神を、ただ「参詣」する。又は、家庭の神棚で、御神饌をお供えし、ただ参拝する。これのみだと思います。(何度も書いて申し訳ありませんが、私が言う神社・神々は、古代の神々をお祀りする神社又は東照宮などです。靖国・護国は含みません。私論です)
東照宮は不思議なもので、徳川家康公をお祀りする新しい神社なのに、古代の神々と同じ息吹を感じるのです。八幡さまに「神気が」似てるとか・・・同じような神気を感じます。
今日は、ハクセキレイが、すぐ傍まで来て羽繕いしたり鳴いたりしていました。
私は、「白黒ミニー」と呼んでいます。
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