タツノヒノエ

神仏への道-神社仏閣巡りから、古代の神々との出会い

ヴァッジ族の七つの法 (ウクライナは勝てるか)・・・

2022-10-28 18:57:12 | 神社仏閣 神仏 御神霊 ウカノミタマ女神 ニギハヤヒノミコト 

釈尊とヴァッジ族の「七つの法」・・・

「マハーパリニッバーナ・スッタンタ」。

古代インドの大国・マガダ国王アジャータサットゥの企み。

お釈迦様が王舎城の鷲の峰におられた時の話です。

大国・マガダ国王アジャータサットゥは、ヴァッジ族と言うヴァイシャーリーに住んでいた非常に富裕な部族を征伐しようと企てていました。

ヴァッジ族は商工業が栄え、共和政治を行っていました。

これを征服すれば、ガンジス河の北岸一帯を手に入れることができる。アジャータサットゥ王はこう考えて、大臣ヴァッサカーラ (バラモン) に告げました。

「釈尊のいますところに行け。そこへ行って尊師の両足に頭をつけて礼拝せよ。そして、≪マガダ国王アジャータサットゥは、ヴァッジ族を征伐しようと考えています。それについて尊師のご意見をうかがいたい≫ 」と、うかがえ。

ヴァッサカーラ大臣は、霊鷲山の釈尊のところに行き、

王の命じた通り釈尊に申し上げた。

「王様は、ヴァッジ族を攻め滅ぼそうとしていますが、いかがでしょうか?」

その問いに対して、釈尊は良いとも悪いとも答えず、従者アーナンダ (尊者) に、次の七点だけ問いただしました。

「第一に、ヴァッジ族は、しばしば会議を開き、会議には大勢の人々が集まってくるかどうか」アーナンダ尊者は、「はい、その通りです」と答える。

「第二に、ヴァッジ人は、共同して集合し、共同して行動し、共同してヴァッジ人としてなすべきことを処理するかどうか」アーナンダ尊者は、「はい、その通りです」と答える。

「第三に、ヴァッジ人は、いまだ定められていないことを定めず、すでに定められたことを破らず、昔に定められたヴァッジ人の旧来の法に従って行動するかどうか」

アーナンダ尊者は、「はい、その通りです」と答える。

「第四に、ヴァッジ人は、彼らのうちでの古老を敬い、古老の言葉を聞くべきものと思っているかどうか」アーナンダ尊者は、「はい、その通りです」と答える。

「第五に、ヴァッジ人は、一族の婦女・童女を暴力を持って連れ出し、捕え、押しとどめるようなことをしないかどうか」アーナンダ尊者は、「はい、そのようなことはいたしません」と答える。

「第六に、ヴァッジ人は、都市の内外の霊場を敬い、尊び、あがめ、支持し、そして以前には与えられ、以前には為された法にかなった彼らの供物を廃することがないかどうか」アーナンダ尊者は、「はい、そのようなことはいたしません」と答える。

「第七に、ヴァッジ人は、真人 (しんじん・・・お釈迦様のように正覚を得た聖者) たちに、正当な保護と防御と支持とを与えているかどうか。まだ来たことの無い真人たちがそこにやって来るか、また既に来た真人たちは領土の内に安らかに住まうことを願っているかどうか」アーナンダ尊者は、「はい、その通りです」と答える。

・・・そこで釈尊は、「ヴァッジ人たちが、この七つを守っている間は、彼らは繫栄し、衰えることは無いであろう」と言いました。

そう教えられて、大臣ヴァッサカーラは、「このうち一つ具えているだけでも、マガダ王はヴァッジ人に手をつけることはできないでしょう。いわんや、すべてを具えているなら、なおさらです」と言って去っていきました。

マガダ王に対して、「戦争はダメだ」と言うのではなく、やんわりと、「戦争をはじめてはいけないな」と自覚させる・・・「対機説法・応病与薬」と言われる、機に応じて変化する、お釈迦様の説法の醍醐味です。

ヴァッジ族の「七つの法」とは、

共和の精神が強調されています。

それから、観念的な保守主義です。

参考資料・・・中村 元「ブッダ入門」(春秋社)

時代も国も宗教も違いますので、この「ヴァッジ族の七つの法」を、現代のウクライナに当てはめることは無理ですが、

ウクライナの置かれている立場に変化させて見て読み解けば、弱い立場のウクライナが、強大で絶対悪のロシアに勝てるかどうかが・・・見えてくると思います。

ゼレンスキーの星、九星気学「五黄土星」の「傲慢さ」が表面化し、ワンマンになれば負け、「国民世論に重きを置き」、「自分がすべての責任を負うからついてこい」となれば、戦術的にと言うより、政治的には勝てるかも知れない。

ではまた。

・・・・・


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貧女の一灯・・・

2022-10-28 17:54:08 | 神社仏閣 神仏 御神霊 ウカノミタマ女神 ニギハヤヒノミコト 

和歌山県ふるさとアーカイブより。

コピペです。

貧女(ひんにょ)の一灯(いっとう) 長者(ちょうじゃ)の万灯(まんどう)

出典:かつらぎ町今むかし話

発行:かつらぎ町

「 むかし、和泉(いずみ)の槇尾山(まきおさん)のふもと横山村に、奥山源左衛門(おくやまげんざえもん)・お幸(こう)の夫婦が住んでいました。子宝にめぐまれるように、いつも槇尾山のお寺にお参りしておりました。
ある日お寺からの帰り道、幼子(おさなご)の火のついたような激しい泣き声を、ふしぎに思った夫婦は声をたよりに進んで行きました。辻堂(つじどう)ののき下に、浪人のあみ笠の中にもみじのような手をふりながら、声をかぎりに泣いているではありませんか。
むちゅうでかけ寄った二人は、子どもをだき上げると、りっぱな絹の小そでに美しいたんざくがそえてありました。

千代(ちよ)までも ゆくすえをもつ みどり子を
            今日しき捨(す)つる そでぞ悲しき

このとき、乳飲(ちの)み子を捨てるせつない親心をさとった夫婦は、(きっと仏様が授けてくださったんよ)と喜びました。
「もし親御(おやご)さん、わが子を見たくなったら、横山村をたずねて来てくださいよ。」と、槇尾山に向かって手を合わせました。
夫婦は、子どもに「お照(てる)」と名付けてだいじに育てました。

月日のたつのは早いもの、小さかったお照はすくすくと美しく育ち、村いちばんのやさしい娘になりました。
お照が十六歳になったとき、ふとしたことから両親が病のとこにつきました。お照の心のこもった手厚いかいほうもむなしく、母がなくなりました。間もなく、父も後を追うようにこの世を去りました。
父が息をひきとる前に、お照をまくらもとに呼んで、その生い立ちを話して聞かせ、実の親の形見をわたしました。あいついで両親を失ったお照は、一人ぼっちのさびしさ、悲しみにくれていました。
やがて、お照は育ての親の心をありがたく思うようになりました。お照は、両親のあの世の幸せをいのるため、冥土の道を照らすという灯(ひ)を、高野山(こうやさん)の「奥(おく)の院(いん)」にお供えしようと決心しました。けれども、貧しいくらしのお照は、手元に灯ろうを買うだけのお金は少しもありませんでした。
お照はいろいろと考えたすえ、女の命とまでいわれる黒かみを切って、お金にかえることにしました。そのお金で小さな一つの灯ろうを買い求めました。お照は形見の品と両親のいはいといっしょに、灯ろうを持って高野山へ向かいました。
ようやくたどり着いた神谷(かみや)の里で、お山の女人禁制(にょにんきんせい)のおきてを聞かされました。
一心に思いつめてきたお照はおどろいて、とほうにくれました。今までの旅のつかれがどっと出て、その場にうずくまってしまいました。ただ、なみだだけがとめどなく、ほおを伝っていました。
そのとき幸いなことに、高野山から足早に下りてきた若いお坊さんに助けられました。夢のお告げで一人の娘のことを知らされて、急ぎかけつけて来たのでした。お照はお坊さんとともに女人堂まで上り、うれしなみだでほおをぬらしながら、灯ろうをわたしました。

やがて、「奥の院」のお祭りの日、新しい一万個の灯ろうに灯がともされました。おごそかなお経の声に包まれて、長者は今までにだれもできなかったありがたさに、満ち足りた気持ちでいっぱいでした。
長者は、ふと万灯に目をやったとき、見知らぬ一灯に気付きました。
「あの小さな灯ろうは、だれのものか。」
と、僧にたずねました。
「あれは貧しい娘がささげました。」
と、聞いたとたん、
「いやしい女の、明かりが何になろう。」
と、立ち上がろうとしました。
するとにわかに風がふきこんで、こうこうとかがやいていた万灯がぱっと消え、お堂の中は真っ暗になりました。
その暗やみの中に、静かに光る一灯(いっとう)がありました。両親のぼだいをいのり、乙女の命の黒かみで納めたお照のともしびでした。
このふしぎなできごとに、長者は自分の行いを心からはずかしく思い、両手を合わしました。
それから、お照のともしびは「貧女の一灯」として、長い長い年月を一度も消えることなく、今もなお「奥の院」の大きなお堂に清い光をはなっています。
その後、お照は長者の世話により、天野(あまの)の里にいおりをつくり、尼となりました。毎日まことのいのりをささげるお照は、いつしか天野の里人にも親しまれるようになりました。
ある年の冬、粉雪がまう朝、お照は慈尊院(じそんいん)への道すがら、行きだおれの老人を見つけました。
お照は、
「御仏(みほとけ)に仕える者です。どうぞ、いおりにおいでください。」
と、だき起こしました。
すると老人は、
「かたじけない、どうかおかまいなく………。人の情(なさけ)にすがることのできない、罪深い男でござる。このたび高野山へ登り、お大師様(だいしさま)のもとで一生を送りたいと、ここまで参った。どうか、ざんげ話をお聞きくだされ。」
老人は長い旅の間に妻に先立たれ、困り果てたすえ槇尾山のふもとで、わが子を捨てたことを話しました。じっと聞いていたお照は、父の今はのきわの話を思い出しました。
(もしや、このお方がお父上様では………。)
と、はやる心をおさえながら、あのたんざくの和歌を静かに読みました。

千代までも ゆくすえをもつ みどり子を………

「そ、その和歌を知っているあなたは、照女(てるじょ)………。」
「………お父上様………。」
両手をにぎる父親と娘は、このふしぎなめぐり合わせをなみだを流して喜びました。 その後、老人は高野山で僧になり、お照は天野の里でおだやかないのりの一生を送りました。
かつらぎ町天野では今もなお、お照の墓・いおりのあと・父母の墓石(ぼせき)の伝説が、ゆかしく語りつがれています。 」

・・・以前、知り合いの曹洞宗の方丈 (ほうじょう=住職) に聞いてみました。

「貧乏人が一万円お寺に御布施するのと、松下幸之助さんみたいな大金持ちが百億円御布施するのでは、どっちが功徳が大きいですか?」と。

「どっちも功徳になりますが、どちらかと言えば、貧しい人がするお布施の方が功徳が大きいですかね」

ではまた。

・・・・・


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