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歳を取らないと分からないことが人生には沢山あります。若い方にも知っていただきたいことを書いています。

近衛文麿

2022-11-24 06:22:13 | 日記

近衞文麿は1891年(明治24年)公爵近衛篤麿の長男として生まれました。近衞家は皇別摂家で、400年前の後陽成天皇の男系子孫にあたります。3度内閣総理大臣に任命され、第1次近衞内閣では盧溝橋事件が支那事変に拡大、近衛声明や東亜新秩序で対応、戦時体制に向け国家総動員法を発動しました。

第2次・第3次近衞内閣では大政翼賛会総裁となり、八紘一宇と大東亜共栄圏構想を掲げ、日独伊三国同盟や日ソ中立条約を締結しましたが、南部仏印進駐で対米戦争不可避に追い込まれ、政権を投げ出します。

公爵近衛文麿

父の篤麿は学習院院長や貴族院議長を務め「アジア主義」の盟主として東亜同文会を興しました。母の衍子は加賀前田家の出身で文麿が幼いときに病没、父は衍子の異母妹貞を後妻に迎え、文麿は貞を長年実母だと思って成人し、事実を知った後「この世のことはすべて嘘だと思うようになった」と文麿の人格に大きな影響を与えています。

1904年(明治37年)父が41歳で死去し、文麿は12歳で近衛家の当主として父が残した多額の借金も相続しました。父のアジア主義は明治初期から我が国で唱えられたもので、日露戦争に勝利した後はアジア諸国の反植民地運動を支援する思想に発展し、日中戦争初期の昭和研究会による「東亜協同体論」での政策化、次いで「大東亜共栄圏」構想へと繋がっていきます。

近衞は当時華族の子弟が進学した学習院高等科には進まず一高に入学、東京帝国大学哲学科に進みましたがあきたらず、マルクス経済学者で共産主義者であった河上肇や、被差別部落出身の社会学者米田庄太郎に学ぶため、京都帝国大学法科大学に転学しました。河上の自宅を頻繁に訪ねて社会主義思想を学び、深く共鳴しています。

妻の千代子とは恋愛結婚で、華族女学校の美女だった千代子を一高生の文麿が電車の中で見初めたものです。京都帝大在学中に京都で挙式し「学生結婚」にはそぐわない豪勢な生活を送りました。

在学中の1914年(大正3年)オスカー・ワイルドの「社会主義下における人間の魂」を翻訳し「社会主義論」の表題で雑誌「新思潮」大正三年五月号、六月号に発表、五月号は発禁処分になりました。

1916年(大正5年)満25歳で貴族院議員になり、1918年に雑誌「日本及日本人」に「英米本位の平和主義を排す」を発表しました。1919年(大正8年)「パリ講和会議」の西園寺公望全権に随行、ヴェルサイユ条約締結の前に調印された「国際連盟規約」へ提出した、自らも提案に加わった我が国の人種的差別撤廃提案が否決され、白人に強い恨みを抱くようになったとされます。

1927年(昭和2年)木戸幸一、徳川家達らとともに火曜会を結成して貴族院内に政治的地盤を作り、次第に西園寺から離れて院内革新勢力の中心人物となっていきました。五摂家筆頭の家柄と一高から2つの帝大への高学歴や、180cmを超す長身の貴公子然とした風貌、対英米協調外交の既成政治打破の主張で大衆的人気も獲得し、早くから将来の首相候補に擬せられ、1933年(昭和8年)貴族院議長に就任しました。

同年近衞を中心とした「昭和研究会」が後藤隆之助らにより創設され、暉峻義等、三木清、平貞蔵、笠信太郎、東畑精一、矢部貞治、企画院事件で逮捕される稲葉秀三、勝間田清一、正木千冬、和田耕作ら、後にゾルゲ事件で死刑になった尾崎秀実もメンバーでした。

1934年5月訪米、フランクリン・ルーズベルト大統領、コーデル・ハル国務長官と会見しましたが、帰国後の記者会見で「ルーズベルトとハルは極東についてまったく無知だ」と語っています。

1936年(昭和11年)3月4日二・二六事件で辞職した岡田啓介首相の後継として西園寺から推薦され、組閣の大命降下がありましたが健康問題を理由にして辞退しました。

3月5日広田弘毅に大命が下り、自由主義者の吉田茂を外相に押す広田の組閣人事に陸軍が干渉し、軍に大幅に譲歩した形で3月9日広田内閣が成立しました。広田内閣は対中国政策で行き詰まり1937年1月に総辞職、陸軍の宇垣一成が大命を受けましたが陸軍内の反対で組閣できず、林銑十郎内閣も3か月の短命で5月31日辞任しました。

近衞は西園寺の推薦で再び大命降下を受け、6月4日に第1次近衛内閣を組閣します。45歳の首相就任年齢は初代伊藤博文に次ぐ史上2番目の若さでした。杉山元陸相、米内光政海相が留任し、外相は広田弘毅、昭和研究会から有馬頼寧が農相、風見章が内閣書記官長に加わり、民政党と政友会からも大臣を迎えました。陸海軍からの受けもよく、財界、政界から支持を受け、国民の期待度は非常に高いものでした。

ところが就任直後に国内各論の融和を図るとして、治安維持法違反の共産党員や二・二六事件の服役者の大赦を主張し周囲を驚かせます。この大赦論は荒木貞夫が陸相時代に提唱したもので、二・二六事件以降皇道派将校の救済の意味を持つようになり、真崎甚三郎の救済に熱心だった近衞は以前から共感を示していましたが、西園寺の反対で大赦はできませんでした。

1937年(昭和12年)7月7日盧溝橋事件をきっかけに北支事変が勃発します。7月9日に閣議で不拡大方針を確認し、杉山陸相が香月清司支那駐屯軍司令官に「盧溝橋事件ニ就テハ、極力不拡大方針ノ下ニ現地解決ヲ計ラレタシ」と命じ、7月11日現地の松井太久郎大佐(北平特務機関長)と秦徳純(第二十九軍副軍長)との間で停戦協定が締結されました。

ところが近衞は蔣介石が4個師団を新たに派遣しているとの報で、11日午後3個師団を派兵する「北支派兵声明」を出します。現地の停戦努力を無視する行動でした。

近衞はその後の特別議会でも「事件不拡大」を唱え続けながら、17日には1,000万円余の予備費支出を閣議決定、26日陸軍が要求もしていない9,700万円余の第一次北支事変費予算案を閣議決定し、31日に4億円超の第二次北支事変費予算を追加するなど、不拡大とは正反対の行動をします。

近衛内閣が展開したこの動きは、国民の戦争熱を煽る華々しい宣伝攻勢と見られても仕方のないもので、石原莞爾陸軍参謀本部第一部長は7月18日に杉山陸相に意見具申し「このまま日中戦争に突入すれば底無し沼にはまる。思い切って北支の日本軍を一挙に山海関の満支国境まで下げ、近衛首相が自ら南京に飛び蔣介石と膝詰めで談判する」提案をしました。

当初、近衞は首脳会談に大変乗り気で飛行機の手配までしましたが、直前に取り消します。石原は「二千年にも及ぶ皇恩を辱うして、この危機に優柔不断では、日本を滅ぼす者は近衛である」と激怒しました。

近衞は宋子文を通じて和平工作を図り、国民政府からの特使の派遣を求める電報で、杉山陸相の確認を取り、宮崎龍介を上海に派遣することにしました。陸軍の強硬派がこれに反対で、神戸港で憲兵が宮崎を拘束して和平工作は立ち消えとなり、杉山はこの件の関係者の事情聴取を行わずに拘束を黙認した形となり、以後、近衞は杉山に強い不信感を抱きます。

8月8日に近衞は日支間の防共協定の要綱を纏めますが、9日日中両軍による上海での戦闘が始まると、13日 2個師団追加派遣を閣議決定、15日には海軍が南京を渡洋爆撃し、近衞は「今や断乎たる措置をとる」と声明、17日閣議決定で不拡大方針を撤回しました。

近衞の一連の動きは、日本人主導のアジアの反植民地運動を展開し、大日本帝国の自立を図る父親の創設した「東亜同文会」のアジア主義を受け継ぎ、東三省軍閥の張作霖を倒して満州国を樹立したのに習い、反日勢力を打倒して中国を日本の勢力下に置こうとする行動だったと思われます。

上海事変が全面戦争へ発展すると、9月2日閣議決定で「北支事変」を「支那事変」と呼び代え、臨時軍事費特別会計法を公布し、10月に国民精神総動員中央連盟を設立、企画院を誕生させて計画経済体制の確立に向けて動き、11月には「日独伊防共協定」を締結しました。

近衞は12月5日の夕刊に「全国民に告ぐ」と云う、国民の一致団結を謳った宣言文を載せて全体主義体制確立へ突き進み、12月13日南京攻略により日中戦争は第1段階を終えます。

翌1938年1月11日御前会議で「支那事変処理根本方針」が裁可され、ドイツの仲介で講和を求める方針が決まりましたが、近衞は14日和平交渉の打ち切りを閣議決定し、16日「爾後國民政府ヲ對手トセズ」の声明を国内外に発表して講和の機会を閉ざしました。

5月に日本軍が徐州を占領、7月には尾崎秀実・松本重治・犬養健・西園寺公一・影佐禎昭らの工作により、中国国民党の有力者である汪兆銘に接近して和平派切り離し工作を開始、日本軍は広東と武漢三鎮を占領します。

近衞は「国家総動員法」「電力国家管理法」を5月に施行し、経済の戦時体制を導入。国家総動員法や電力国家管理法はソ連の第一次五か年計画の模倣で、我が国の国家社会主義化が始りました。

3年後の1941年(昭和16年)の「国民学校令」もナチスドイツのフォルクスシューレを模倣したものです。また戦争継続の戦費調達のために大量の赤字国債「支那事変公債」が発行され、強制割当が行われました。

近衞は陸軍参謀総長閑院宮載仁親王らに根回して杉山元の更迭に成功し、後任の陸相には不拡大派の支持があった板垣征四郎を迎えました。この内閣改造で入閣したのは陸軍の非主流派や、石原莞爾らが以前閣僚への起用を考えていた事変不拡大派の人々です。

近衞はこの人事で軍部を抑える考えだったとされますが、板垣は傀儡に過ぎず、近衞は広田弘毅に代えて陸軍の宇垣一成を外相に迎えたものの、宇垣の和平工作を助けず、宇垣はこれを不満として辞任しました。

11月3日「東亜新秩序」声明を発表し、日本からの和平工作に応じた汪兆銘の重慶脱出を受けて、12月22日には対中国和平における「近衛三原則」で「善隣友好、共同防共、経済提携」を提示しました。

汪に呼応する中国の有力政治家はなく、重慶の国民党本部は汪の和平要請を拒否、近衞の狙った中国和平派による早期停戦は阻まれました。1939年(昭和14年)1月5日内閣総辞職します。

近衞の後を承けたのは前枢密院議長平沼騏一郎でした。平沼内閣には近衞内閣の七大臣が留任した上、枢密院に転じた近衞自身も班列(無任所大臣)として名を連ねました。

平沼は1937年に締結した日独伊防共協定をさらに進めるべく、ドイツとの防共同盟を模索していましたが、8月23日に「独ソ不可侵条約」が締結されたことに衝撃を受け「欧州の天地は複雑怪奇」という声明を残して内閣総辞職します。

平沼の後は1939年8月30日から1940年1月16日までを陸軍の阿部信行、1月16日から7月22日までを海軍の米内光政が政権を受け継ぎましたが、陸軍は日独伊三国同盟の締結を執拗に政府に要求、米内がこれを拒否すると陸軍は陸相を辞任させて後任を出さず、米内内閣を総辞職に追い込みます。

この間、近衞は新党構想の肉付けに専念し、1940年(昭和15年)3月25日に聖戦貫徹議員連盟を結成、5月26日には木戸幸一や有馬頼寧と共に「新党樹立に関する覚書」を作成しました。

6月24日ソ連共産党やナチスをモデルにした一党独裁を目指す「新体制声明」を出し、これに応じて7月に日本革新党・社会大衆党・政友会久原派ついで政友会鳩山派・民政党永井派、8月に民政党が解散しました。

米内に替わって大命が降下した近衞でしたが、西園寺は近衞を首班に推薦するのを断っています。近衞は閣僚名簿奉呈直前の7月19日荻窪の私邸荻外荘で「荻窪会談」を行い、入閣予定の松岡洋右(外相)、吉田善吾(海相)、東條英機(陸相)と「東亜新秩序」の建設邁進で合意します。

1940年(昭和15年)7月22日第2次近衛内閣を組閣し、26日「基本国策要綱」を閣議決定し「皇道の大精神に則り、先ず日満支をその一環とする大東亜共栄圏の確立をはかる」構想を発表。新体制運動を展開して全政党を自主的に解散させ、8月15日で日本に政党が存在しなくなりました。

9月1日ドイツがポーランドに侵攻、9月3日イギリス、フランスがドイツに宣戦布告して第二次世界大戦が始まります。欧州でドイツが破竹の進撃を続け、国内では「バスに乗り遅れるな」という機運が高まりましたが、一党独裁は日本の国体に相容れないとする批判もあって独裁政党の結成には至らず、10月12日の大政翼賛会の発足式では「綱領も宣言も不要」と近衞は新体制運動を投げ出します。

新体制運動の核の一つであった「経済新体制確立要綱」は財界の反発を受け、近衛が商工相に据えようとした商工次官岸信介が辞退し、代わりに任命した小林一三は経済新体制要綱の推進者の岸と対立、小林は岸を「アカ」と批判しました。

内相となった平沼騏一郎は、経済新体制確立要綱を骨抜きにしての決着を図り、経済新体制確立要綱の原案作成者たちを共産主義者として逮捕させ、岸信介も辞職しました。閣僚の新体制推進派も辞任しましたが、平沼は大政翼賛会を政治に関わらない団体に規定して、大政翼賛会の新体制推進派も辞職させました。

その間我が国は9月23日北部仏印に武力進駐し、27日「日独伊三国同盟」を締結、11月10日には神武天皇の即位から2600年目に当たるとして「紀元二千六百年記念式典」を執り行い国威発揚を図りました。

1941年(昭和16年)1月11日近衛と風見章、有馬頼寧の間で「4月の任期満了に伴う衆議院選挙を1年延期して対米戦決意を明らかにし、国防国家建設に全力を挙げる」ことで意見が一致しました。20日に声明を発して対米戦気運を醸成するとともに、大政翼賛会で対米戦に備える国民運動を組織化することを決めます。

4月13日「日ソ中立条約」を締結しますが、6月22日独ソ戦が勃発し日独伊三国同盟を結んでいた日本は、独ソ戦にどう対応するかが求められました。陸軍は仮想敵国ソビエトに軍事行動をとる千載一遇の好機と捉え、海軍はこの機に資源が豊富な南方進出を考え、松岡外相は三国同盟に基づいたソ連の挟撃を訴えました。

7月2日の御前会議では海軍が主張した南方進出と、陸軍と松岡が主張した対ソ戦の準備の二面作戦「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」が裁可され、南方に対しては南部仏印進駐を、ソ連に対しては関東軍特種演習名目で7日に兵力を動員し、独ソ戦争の推移次第でソビエトに攻め込む方針を決定しました。

7月18日に第2次近衞内閣は総辞職しますが、大日本帝国憲法では閣僚を罷免する権限が総理になく、足枷でしかなかった松岡外相を更迭する目的でした。同日第3次近衛内閣を組織して、外相には南進論者の海軍の豊田貞次郎を任命します。

7月23日すでにドイツに降伏していたフランスのヴィシー政権から、仏領インドシナの権益の移管を取り付け、28日南部仏印に進駐しました。アメリカは東南アジアの戦略的最重要地である南部仏印への日本軍の進駐を容認できず、石油全面輸出禁止等の対日制裁強化を行い日本は窮地に立たされます。

9月6日の御前会議で、アメリカに対する交渉が10月上旬までに受け入れられない場合、アジアに植民地を持つイギリス、アメリカ、オランダに対し開戦する「帝国国策遂行要領」が裁可されました。

9月6日の夜近衞はようやく日米首脳会談による解決を決意し、駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーと極秘に会談、危機打開のための日米首脳会談の早期実現を強く訴えます。

事態を重く見たグルーは、その夜直ちに首脳会談の早期実現を要請する電報を打ち、国務省は首脳会談をアラスカで行うことまで一旦決めましたが、日本を力によって封じ込めるべく、10月2日首脳会談を拒否する回答を示しました。

陸軍は日米交渉が事実上終了したと判断、参謀本部は政府に外交期限を10月15日とするよう要求します。10月12日戦争の決断を迫られた近衞は、豊田貞次郎外相、及川古志郎海相、東條英機陸相、鈴木貞一企画院総裁を荻外荘に呼び、対米戦争への対応を協議し、近衞は「今、どちらかでやれと言われれば外交でやると言わざるを得ない。戦争に私は自信がない。自信ある人にやってもらわねばならん」と述べ、18日に内閣総辞職します。

近衞と東條は東久邇宮稔彦王を次期首相に推しましたが、木戸幸一内相らは皇族に累が及ぶことを懸念し、次期首相には東條が決まりました。近衞は東條を首相に推薦する重臣会議を病気の理由で欠席し、後世の近衞批判の一因となりました。

ここまでの経過を要約すると、日露戦争に勝利した後のアジア主義は、植民地と化したアジア諸国の独立運動を日本が支援する思想になり、日中戦争初期には「東亜協同体論」から、日本を盟主とする「大東亜共栄圏」構想へ発展していきます。

近衞は北支事変の不拡大を唱えながら陸軍の軍事費を増大し、北支事変が全面戦争に拡大すると、不拡大方針を撤回する閣議決定をし、1936年(昭和16年)年頭からは対米戦気運を醸成するとともに、大政翼賛会で対米戦に備える国民運動を組織化し、近衞自身の軍部に押し切られたのではない、積極的な行動を積み上げます。

7月2日の御前会議で「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」が裁可され、松岡と陸軍が主張した対ソ戦の準備と、海軍が主張した南方進出の二正面作戦でしたが、南部仏印進駐で米国との開戦が避けられない途を選びました。

対米開戦が不可避となるまでの近衞の構想は、すべて父から受け継いだアジア主義から描き出されたもので、手段はソ連共産党やナチスドイツの全体主義体制を踏襲したものです。ここまで来て近衛は戦争をする自信がないと政権を投げ出しました。

近衞は1945年(昭和20年)8月17日から10月9日まで続いた敗戦処理の東久邇宮内閣に副総理格の無任所国務大臣として入閣していますが、巣鴨拘置所に出頭を命じられた最終期限の12月16日未明、青酸カリで服毒自殺を遂げます。

「自分は政治上多くの過ちを犯してきたが、戦犯として裁かれなければならないことに耐えられない、僕の志は知る人ぞ知る」と書き残しますが、首相として我が国を日米開戦まで強引に導いた経過を詳細に知ることができるようになった今日、近衞は我が国の歴史上もっとも許すべからざる人物に見えてきます。

 


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