仏印進駐は、日本軍のフランス領インドシナ(仏印)への1940年北部進駐と、1941年南部進駐を指します。1907年に結んだ日仏協約でフランスは広東・広西・雲南を、日本は満州と蒙古・福建を自国の勢力圏として相互に承認していました。南部仏印進駐はアメリカに、日本に対する決定的な不信感をもたらし、太平洋戦争突入を不可避にしました。
1937年(昭和12年)7月日中戦争が勃発し、米英の蔣介石政権への軍事援助は仏印ルートでした。10月仏印政府は中国への輸出を禁止しましたが軍事援助は継続され、1938年10月日本は仏印政府に国境線の封鎖と、視察機関の派遣を要求し拒否されます。
1939年11月仏政府と再度交渉しましたが拒否され、11月24日日本軍は仏印国境に近い南寧を攻略しました。第21軍参謀長土橋勇逸少将がハノイで仏印総督ジョルジュ・カトルーと会談し、中印国境封鎖と南寧の日本軍への補給を求めましたが応じません。
1940年5月ドイツがフランスに侵攻しフランスが劣勢になると、6月17日仏印政府は武器弾薬・燃料・トラックの輸出を禁止する措置を取ると通告してきて、19日日本側は仏印ルートの閉鎖について24時間以内に回答するよう要求しました。カトルー総督はシャルル・アルセーヌ=アンリ駐日フランス大使の助言で、本国政府に請訓せず仏印ルートを閉鎖し、日本の軍事顧問団を受け入れます。
6月22日ヴィシー政権はカトルーを解任し、フランス極東海軍司令官ジャン・デクー提督を後任としました。8月「松岡・アンリ協定」が締結され、極東での日本とフランスの利益の相互尊重、仏印への日本軍の進駐と経済関係強化が合意されました。
大本営は平和裏に仏印進駐を行う前提で、西原一策少将に折衝を一任します。参謀本部第1部長富永恭次少将も現地入りし、8月30日デクー総督と会談しましたが、デクーは「フランス政府が協定に署名したとは聞いてない」と交渉を拒否します。
富永はフランス側に脅しをかけるため、第22軍に仏印への武力進駐の準備をさせ、東條陸相も許可しました。9月3日富永はデクーに最後通告を突きつけ、フランス側が折れて同日現地協定案を示します。
富永恭次少将(右)デクー総督(中央)西原一策少将(左)
フランス案は日本軍の行動領域や使用可能な飛行場などで日本側の希望とは異なりましたが、富永と西原はフランス案を受け入れ、9月4日現地司令官アンリ・マルタン将軍と西原の間で「西原・マルタン協定」が調印されます。
交渉妥結後の9月6日日本軍が道に迷って偶発的に仏印に越境する事件がおこり、マルタンが西原に「本国政府の回答あるまで現地交渉を中止したい」と通告してきました。フランス側にも米英に武器供与を要請したり、フランス砲艦が日本船に発砲する挑発行為があり、デクーと会見した富永は不信感を露わにして東京に帰り、陸軍の態度も武力進駐へ傾いていきます。
9月14日「佛印進駐に伴う陸海軍中央協定」の大命が下り、平和進駐を原則としつつもフランス軍が抵抗すれば、政府の指示を待たずに武力進駐に切り替えてよいことに決り、西原は平和進駐実現に向けてマルタンと交渉を続けました。
ここで富永が再度現地入りします。富永の権限は陸軍の指揮で、陸海軍代表の西原に及ばないはずでしたが、富永は参謀総長の職印を押した辞令を西原に示し「今次交渉期間は富永の命に従って行動し海軍には内密」と命じます。
富永は同じ東條派の南支那方面軍参謀副長佐藤賢了少将と謀議し、軍司令官の安藤利吉中将や第5師団長中村明人中将を集め、松岡・アンリ協定で定められた9月22日0時より前の9月21日12時までに交渉が妥結しない場合、拒絶と見なして出撃する準備を行うよう独断で指示しました。
9月17日富永と西原はマルタンと会談しますが、富永は独断で仏印進駐兵力を西原・マルタン協定の5,000人から25,000人に増やし、進駐する飛行場も3か所から5か所に増やして提示しました。
マルタンは富永の条件に難色を示して回答は18日となり、飛行場の5か所は受諾したものの25,000人の進駐は拒否しました。マルタンの回答は富永の要求と距離がありましたが、西原は直接陸軍中央にこの協定内容で打診、参謀本部が承諾して9月22日「西原・マルタン協定」が再締結されます。
富永は西原と参謀本部を非難し、第5師団への進撃中止の指示を出さずに現地を去りました。南支那方面軍も既に準備が進んでいる第5師団の進撃を止める意志はなく、参謀本部から「陸路進駐中止」との電文が入っても、中村第5師団長は西原からの「協定成立」の通報を無視して、9月23日未明に進撃を開始しました。
第5師団の無断越境の報告を受けた参謀本部は、深夜3時に進撃停止の大陸命を出しましたが、師団はドンダン要塞に進撃して既に戦闘が始まっており、現地軍の局地的交戦権は付与せざるを得ず、第5師団はこの「局地」を拡大解釈してさらに進撃、9月23日の11時にドンダン要塞を攻略し、明らかな武力進駐になりました。
南支那方面軍は第5師団を称賛し、第5師団は要衝ランソンも占領しましたが、デクーは「日本軍と戦ってはならぬ。それではインドシナを根こそぎ取られてしまう」と指令し、9月25日に停戦させました。
ハノイなど重要拠点に進駐した日本軍は、仏印内の飛行場や港湾を利用して援蔣ルートや中国本土攻撃を行いました。9月25日富永は報告のため参謀次長室を訪れましたが、沢田次長に更迭を言い渡され、富永は参謀飾緒を引きちぎって怒りを露わにしたといいます。
折角平和裏に進めていた仏印進駐を、富永らによって武力進駐にされてしまった西原は、大本営の沢田次長と陸軍省の阿南次官宛てに「統帥乱レテ信ヲ中外ニ失ウ」との電文を発しています。
1940年(昭和15年)9月27日我が国はドイツ、イタリアと「日独伊三国条約」を締結しました。アメリカは10月12日に三国条約に対する対抗措置を執ると表明、16日に屑鉄の対日禁輸を決定し、英領ビルマを利用した蔣介石への援助を続けます。
1941年に入ると、主要な資源供給先の米英の輸出規制で銅などの禁輸品目を増やされた日本は、資源の供給先をオランダ領東インド(蘭印)に向けました。蘭印政府に圧力をかけて資源の提供を求めましたが、オランダをかえって英米に接近させる結果となります。
陸海軍首脳は資源獲得のための南部仏印進駐を主張するようになり、南部仏印はタイ、イギリス領植民地、蘭印に圧力をかけられる軍事戦略的要地で、陸海軍は北部仏印進駐への反発が少なかったことから、南部仏印への進駐も米英の反発を招かない見通しでした。
仏印の軍事戦略的位置関係
南部仏印進駐に反対の松岡外相は6月22日に勃発した独ソ戦の戦況が伝えられると、ソ連への攻撃を主張して南部仏印進駐延期を唱えますが、25日大本営政府連絡懇談会で南部仏印進駐が決り、1941年7月2日の御前会議で裁可されました。
7月5日駐日イギリス大使ロバート・クレイギーが日本の南進について外務省に懸念を申し入れ、日本は情報漏洩に驚き進駐準備を延期しましたが、イギリスはこれ以上の警告は行いませんでした。
7月14日加藤外松駐仏日本大使がヴィシー政権副首相フランソワ・ダルランと会談して南部仏印への進駐許可を求め、ヴィシー政権は19日日本の要求を受け入れます。フランスの極めて早い受諾は、仏印軍が日本軍に対し明かに劣勢で、植民地の継続には日本軍にすがるしかないことが背景でした。
7月24日野村大使と米国サムナー・ウェルズ国務次官の会談が行われ、当時我が国は8割の石油を米国から輸入していましたが、ウェルズは対日石油禁輸に踏み切る可能性を警告します。翌25日ルーズベルト大統領と野村の会談が行われ、大統領は仏印を英・蘭・中・日・米によって中立化させる案を提案しました。
米閣僚は日本の南部仏印進駐を、日独伊三国同盟によるヨーロッパでのドイツと呼応した作戦と考えており、この疑問が氷解するまで日米間の交渉は無意義と判断していました。野村は「手ノ施シ様ナキニ至リタル」として、対日石油禁輸と日本資産凍結も不可避と報告します。
日本政府は南部仏印進駐の方針を変えず、7月28日に進駐を開始します。南部仏印進駐後の米国の態度は極めて強硬になり、8月1日米国は「全侵略国に対する石油禁輸」を発表し、その対象に日本を含みました。
米国の対日制裁のうち、特に航空機燃料、潤滑油、屑鉄、工作機械等の主要戦略資機材の禁輸の影響が大きく、この時期の日本における重要物資の海外依存度は石油92%(うち米国81%)、鉄鋼87%、ゴム100%、ニッケル100%でした。これらの制裁は日本陸海軍にとって予想外で、当時の石油備蓄は一年半分しかなく、海軍は石油がある内の早期開戦論に傾きはじめます。
8月2日野村が米閣僚と会談しました。米側は仏印中立化案についての回答を求めていましたが、日本は南部仏印進駐が平和的自衛的措置で支那事変終了後に撤退するという回答をし、米国の申し入れに対する回答になっておらず、ハル国務長官は日本が武力行使をやめることによって初めて、日米交渉が継続できると伝えました。
我が国は9月6日の御前会議で、10月上旬までに日本の要求が受け入れられなければ米英蘭と開戦することが裁可されました。10月2日ハル国務長官が「ハル四原則」の確認と中国大陸および仏印からの撤退を求める覚書を手交し、日本側はハル四原則に「主義上」は同意するが、「実際ノ運用」については留保する、中国大陸からは日中の和平が成立した後に撤退する、仏印からの撤退は日中の共同防衛が実現した後に行うと回答します。
11月5日東條英機が首相になった最初の御前会議で、12月1日零時までに日本の要求が通らなければ、12月上旬に真珠湾攻撃、英領マレー半島上陸により対米英戦争を開始することが裁可されました。日本側は日米の諒解案の最終「乙案」を11月14日アメリカに提示しましたが、この提案に米国は不満で11月27日に「ハル・ノート」がアメリカから手交されます。
11月28日野村大使、来栖三郎特命大使とルーズベルト大統領の会談が行われましたが、この席でハル・ノートが日本政府をいたく失望させたという日本側に対し、ルーズベルト大統領は「日本の南部仏印進駐により冷水を浴びせられた」とし、ハル国務長官も暫定協定が失敗に終わったのは「日本が仏印に増兵したことである」と日本側の対応を非難しました。
12月2日ハル国務長官が北部仏印でも日本軍の増派が行われていると非難し、日本側はこの増派は協定による合意内であると反論しましたが、日本海軍機動部隊はその前日に真珠湾に向けて出撃しており、マレー半島を目指した陸軍の大部隊を乗せた輸送船団も南方に向けて航行中でした。12月8日日本は米英に宣戦布告し、ここに太平洋戦争が勃発します。
皮肉なことに1940年の日本軍の北部仏印進駐は武力侵攻で、1941年の南部仏印進駐は仏印を植民地として残したいフランス側の理由で平和進駐に留まりました。仏印は終戦まで日本との貿易で経済危機を脱しましたが、我が国の南部仏印進駐は軍事戦略的意義が極めて大で、アメリカが見逃せるものではなく、我が国が対米戦争に突入する直接の原因となり、太平洋戦争の敗戦をもたらしました。