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ブルーリボン賞

2014-07-29 19:24:15 | 日記

現代の船旅は海外への移動手段の役割を飛行機に譲り、豪華客船のクルーズに代表されるように、船に乗ること自体が目的になっています。クルーズ船には客室のほかに、レストランおよびバー、ラウンジプールフィットネスクラブスパ美容室、ショップ、劇場カジノ医務室などが備えいて、エンジンとスクリューをもった超豪華ホテルと云えるでしょう。 

クルーズに参加する人びとは、豪華絢爛たる船内設備や食事、エンターテイメントなど、非日常的な贅沢を満喫します。寄港地での観光も楽しみますが、旅客にとっては最終目的地に着くのは遅いほどよく、船旅での速さの要求はなくなっています。 

大西洋航路は帆船による定期便が、1818年に始まりました。リバプール-ニューヨーク間の航海は風任せで、所要日数は40日のこともありました。汽船による最初の大西洋横断は1833年でしたが、1838年には定期航路が開始されて汽船の時代が始まります。1870年代なると、アメリカ、ドイツ、フランス、イギリスの大きな船会社の定期航路が出揃うことになりました。 

ブルーリボン賞は、大西洋を横断する最も速い船に与えられる賞で、東回りと西回りの2種類の賞があります。受賞した船は細長いブルーのリボンを、トップマストに掲げる栄誉を得ました。 

客船のスピード競争時代と呼ばれた1930年代、ブルーリボンは海洋各国の威信を賭けた競いの的となり、各船会社は速度記録更新に挑みました。ブルーリボン賞を獲得することは、受賞した国や船舶会社の栄誉であるだけでなく、それに乗る船客にとってもステータスとなったのです。 

ブルーリボン賞は、航海の平均速度に基づいて与えられます。大西洋横断の距離は、航路により異なるからです。基本的には、西側の終着点はカナダ、アメリカ東海岸各港のいずれでも良く、東側の終着点はアイルランドイギリス、西ヨーロッパのどこでも良いのですが、伝統的にニューヨークを出発地、もしくは目的地とした航海となりました。 

最初のブルーリボン賞は、1838年の西回りの8.03ノット、東回りの7.31ノットの低速でした。しかし一世紀を経た1929年の西回りの記録は、ドイツのブレーメン号の27.83ノットで、東回りの記録も同じくブレーメン号の27.91ノット、20ノットも速度が向上しています。 

その後西回りでは、ブレーメン号と姉妹船のオイローパ号、イタリアのレックス号、フランスのノルマンディー号がブルーリボンを奪い合い、1936年イギリスのクイーン・メリー号が30.14ノットと、はじめて30ノットの大台に載せます。その後、ノルマンディー号、クイーン・メリー号の奪い合いがあって、1952年のアメリカのユナイテッド・ステーツ号の34.51ノットが、客船による記録として最終的に保持されています。 

東回りではブレーメン号、ノルマンディー号、クイーン・メリー号が争いますが、1952年にアメリカのユナイテッド・ステーツ号が、35.59ノットで栄冠を獲得し保持しています。 

その頃のわが国には、海を見たことのない子供たちもたくさんいたはずですが、ブルーリボン賞を獲得した各国の熱狂振りは、大西洋とは地球の反対側の海洋国日本の子供たちにも、そのまま血沸き肉躍るニュースとして伝えられていたのです。それでなければ80歳を超えた私が、ブルーリボン賞など覚えている筈はありません。 

ブレーメン号は総トン数51.656トンで、姉妹船オイローパ号と共に大西洋横断のために建造された船で、革新的なデザインが評判でした。オイローパ号は後に、第二次世界大戦の賠償でフランスに接収されてしまいます。 

1929年7月16日、ブレーメン号はブレーマーハーフェン-ニューヨーク間の処女航海で、4日17時間42分、平均速度27.85ノットでニューヨーク港に到着し、西回りのブルーリボン賞を獲得しました。さらに次の航海では、4日14時間30分、平均速度27.91ノットを記録して、東回りのブルーリボン賞も受賞しました。ブレーメン号は長年にわたる、イギリス船の速度記録を破ったのです。 

1939年8月26日ドイツ海軍はポーランド侵攻を前に、ドイツの商船に帰還を命じました。ブレーメン号は当時ニューヨーク港にいたため、8月30日悪天候の中を出港し、9月1日に第二次世界大戦が勃発した後、10月13日ブレーマーハーフェンに到着しました。ドイツ海軍はブレーメン号を徴用しましたが、1941年、造船所のドックで火災に遭って全焼し、戦後の1946年に解体されてしまいます。

 

クイーン・メリー号は1930年12月に建造が始まりましたが、1931年12月に世界恐慌により工事が中止されました。建造資金の補助を政府に依頼して3年半後に工事が再開され、1934年9月26日に進水しました。総トン数81.961トンの巨船です。 

クイーン・メリー号のデザインは古典的で、船容は第一次世界大戦前の客船と大差がありませんでした。内装はアール・デコの落ち着いた雰囲気で、古めかしいと云う批判もありましたが、乗客には大人気となりました。 

1936年8月、クイーン・メリー号は西回りで30.14ノット、東回りで30.63ノットを記録し、ノルマンディー号からブルーリボン賞を奪います。その後ノルマンディー号は、1937年ブルーリボン賞を奪い返しましたが、1938年に再びクイーン・メリー号が西回りで30.99ノット、東回りで31.69ノットを記録し、ブルーリボン賞を受賞しました。 

クイーン・メリー号の1等船客のための設備は極めて豪華でした。有名だったのは室内プール、バー、図書館や児童センターのほかに犬小屋まであったことで、広大な1等船客の食堂は2デッキ分の高さがあり、室内プールも同様に2デッキ分の高さがありました。 

1939年 9月1日にニューヨークへ向けて出港したクイーン・メリー号は、第二次世界大戦が勃発したため、ニューヨークでノルマンディー号と共に、アメリカ当局に抑留されました。その後、姉妹船のクイーン・エリザベス号を含めた3隻が、兵員輸送用に徴用されます。 

クイーン・メリー号は姉妹船クイーン・エリザベス号と共に、輸送船として戦争に従事し、ドイツの潜水艦Uボートより速度が優るため、護衛も無しに15,000人の兵士を運ぶことが可能でした。戦争中、視認されにくい灰色の塗装を施されたため、2隻とも灰色の幽霊と云うあだ名をつけられました。 

第二次世界大戦が終って、クイーン・メリー号は客船に改装し直され、クイーン・エリザベス号と共に、1940年代から1950年代にかけて、再び、大西洋横断定期船の花形となりました。1967年に引退し、引退後の現在はアメリカ西海岸のロングビーチに係留されて、博物館とホテルになっています。 

ノルマンディー号は、1935年に建造されたフランス客船です。流線型で革新的な船体であったことから、古典的なクイーン・メリー号とは対照的でした。洋上の宮殿と謳われた華麗さと、就航期間の短さから伝説的な客船となりました。 

ノルマンディー号の総トン数は竣工時79,280トンで、全長がはじめて300mを超えた世界最大の客船でした。姉妹船はありません。フランスの威信をかけ、国家的な援助のもとで建造され、ブルーリボン賞を狙うべく最高速船計画が盛り込まれました。 

かつてイル・ド・フランス号で成功したキャビンレイアウトや、アール・デコ様式の豪華な内装を引き継ぎ、広いリドデッキを継承しつつ、様々な角度で調和のとれた船型デザインを保つため、ダミーで第三煙突を設置するなど外観には細心な注意を払い、洋上の宮殿の異名をとりました。緻密に計算された船型デザインは、不朽の豪華客船と讃えられ、建築や工業デザインの分野でも、高く評価されています。 

1935年の処女航海では西回り29.94ノット、東回り30.35ノットの平均速度でブルーリボン賞に輝きました。その後クイーン・メリー号に抜かれますが、1937年に西回り30.58ノット、東回り31.2ノットの新記録を打ち立て、ブルーリボン賞を奪い返します。しかしクイーン・メリー号が再び奪い返したあと、第二次世界大戦になってしまいます。 

第二次世界大戦勃発とともに、ニューヨーク港に抑留されたノルマンディー号は、アメリカに接収されて軍隊輸送船に改装されることになりました。1942年2月9日、改装作業中の不手際から火災が発生し、さらに消火の際の不用意な放水によって船内に大量の水が入った結果、鎮火後にバランスを崩して転覆してしまい、戦後の1946年に解体されています。 

ユナイテッド・ステーツ号は、1952年に建造された総トン数53,329トンの客船で、1952年の処女航海ブルーリボン賞を受賞したことにより、ヨーロッパの船が独占していたブルーリボンを、10年ぶりに更新することになりました。 

1952年7月、東回りを3日10時間40分、平均速度35.59ノットで横断し、14年前のクイーン・メリー号の記録を10時間以上上回りました。また、西回りでは3日12時間12分、平均速度34.51ノットの記録を打ちたてたため、ユナイテッド・ステーツ号は西回り、東回り両方でブルーリボン賞を獲得したのです。 

ユナイテッド・ステーツ号は、第二次世界大戦クイーン・メリー号とクイーン・エリザベス号を徴用した経験に基づいて、アメリカ海軍とユナイテッド・ステーツ・ラインが共同で、有事には容易に輸送船に改装でき、病院船にも転用可能なように設計されました。 

攻撃を受けても沈みにくい海軍仕様で建造され、防火のために内装や調度品には木製の部品を一切使用しませんでした。船内の設備や家具類にはガラスや金属など耐火性に優れた材料を使い、客室の洋服ハンガーまでアルミ合金製でした。 

ユナイテッド・ステーツ号が就航した1950年代には、大型旅客機が大西洋横断路線に配備されるようになり、さらに1958年には大型ジェット旅客機のボーイング707が参入して、1960年代に入ると大西洋横断定期航路の乗客は、急激に減少しました。 

ユナイテッド・ステーツ号は、所有していたユナイテッド・ステーツ・ラインが、1969年貨物輸送専業となったことから、ドック係留されてしまいました。何度かクルーズ船への復帰が計画されましたが、船体内部で大量に使用されているアスベストの問題などから、実現には至りませんでした。 

客船が大西洋を渡る手段の座を航空機に譲ったのは、時代の流れとしか云いようがないのですが、そのことを踏まえても、国の威信をかけてブルーリボン争奪戦に参加した、時代の最先端の技術の結晶であった豪華客船の末路は、あまりに恵まれない気がします。栄枯盛衰の感を深くするのは、私だけではないでしょう。 

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