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歳を取らないと分からないことが人生には沢山あります。若い方にも知っていただきたいことを書いています。

スーパーカブ1億台達成

2017-11-08 07:19:02 | 日記

1958年(昭和33年)に発売され、そば屋の出前や郵便配達で活躍したホンダのオートバイ「スーパーカブ」が、生産台数1億台を達成しました。ホンダは1961年マン島TTの2輪車のレースで圧倒的な強さを見せて世界を驚かせましたが、たった50㏄のオートバイがスタイルも性能もほとんど変えずに、60年後に1億台を達成したのです。 

スーパーカブは発売された直後から大ヒットしましたが、ヒットの理由はそれまでにない性能と斬新なデザインでした。エンジン性能はライバルの50㏄のオートバイの2倍以上で、燃費は90km/ℓ以上と他を圧倒しました。

当時のそば屋の出前がおかもちを左手に持ちながら運転できるように、ウインカーの操作レバーを右に移し、手を使わずに足でギアチェンジができるシステムを導入しました。使いやすさに徹底的にこだわったスーパーカブの開発を指揮したのは、ホンダの創業者本田宗一郎氏です。 

戦後復興が進んだ日本のオートバイ市場では、富士重工業(現SUBARU)の「ラビット」・中日本重工業(現三菱重工業)の「シルバーピジョン」など、125㏄~250ccクラスの上級スクーターが支持されていました。

その中で藤沢武夫は廉価な小排気量オートバイの開発・製造販売を考え、50ccの二輪車が欲しいと本田に訴えます。本田は当初50㏄では乗れるものは作れないと一蹴しましたが、藤沢の熱心さに商品性の高い新製品のイメージを膨らませるようになり、本田の陣頭指揮により開発が開始されました。

耐久性の高い高回転4ストロークエンジンと変速を容易にするクラッチシステムの実用化に苦心を重ね、最終的に50ccクラスながら既存上位排気量車にも比肩する出力を絞り出す高回転エンジンと、変速操作を容易にした自動遠心クラッチ式変速機を揃えて完成させました。

藤沢は「これなら3万台は売れる」と云い、本田や開発陣は年間見積もりと受け取ってその台数に驚いたのですが、藤沢は「月間だ」と補足して一同をさらに驚嘆させました。当時、主力商品であるドリームベンリィを合せたホンダの生産台数は月産6~7千台で、日本全国の二輪車販売台数が2万台程度だったのです。

C100スーパーカブは1958年8月に発売されましたが短期間で生産・販売は軌道に乗り、1958年度 2万4,000台、1959年度16万7,443台、1960年度56万4,365台を達成しました。

日本の高度経済成長とともにオートバイ販売は右肩上がりに拡大しましたが、1982年(昭和57年)に329万台に達した後は四輪車の普及で二輪車市場は縮小に転じ、2016年の販売台数は33万8千台と10分の1に落ち込みました。

スーパーカブは20世紀モータリゼーション史上で、四輪車のT型フォードフォルクスワーゲンのかぶと虫にも比肩しうる二輪車で、小排気量の二輪車分野ではイタリアピアッジオベスパスクーターと並ぶ世界的ロングセラーです。

 

車体は太いパイプとプレス鋼板で構築されたフレームに、排気量49ccの自然空冷式4ストローク単気筒エンジンを80°前傾させて搭載し、自動遠心式クラッチを組み合わせた常時噛合式3段変速機と、フルカバーされたチェーンで後輪を駆動します。

運転者前方のフレームを低くしてあるため、スカートを履いた女性でも容易に乗れます。この構造では低く下がったフレームの上に燃料タンクを置き、その上にサドルを載せる極めて合理的な配置をしました。ウインカースイッチはスロットルグリップがある右手側に、上下動作式のスイッチが装備されました。

車体には射出成形プラスチック製の大型レッグシールドが装備され、風防効果を得ています。このレッグシールドは自然空冷エンジンを両側から抱え込む配置で、ヘッドが前方に傾斜してシリンダー部が走行風にあたらないエンジンに冷却空気を誘導する役割を担います。レッグシールドのエンジンの真上の運転者の足下両サイドには穴を開け、誘導された冷却風の抜けを良くする配慮もなされています。

自動遠心クラッチとロータリー式変速機構は本田宗一郎の「蕎麦屋の出前持ちが片手で運転できるように」と云う条件に応え、左手のクラッチレバーを廃した結果です。足での変速操作を可能とするためシフトペダルにはかかと用踏み返しが付けられ、この形式のシフトペダルは競合各社も追随採用するようになります。

エンジンはシンプルな自然空冷式の4ストローク単気筒エンジンで、実用優先のチューニングですが、8,000rpm以上の高回転を許容し50ccモデルの1958年製造開始時の最高出力は4.3psで、当時の2ストローク同級排気量の競合車各車に比してほぼ2倍、既存の90㏄~100ccモデルにすら比肩しうる性能を誇りました。

エンジンの内径と行程を変えることによって、排気量のバリエーションを構成します。動弁機構はOHVでしたが、1964年発売のC65(排気量63cc)でSOHCを初採用し、以後は排気量ごとに順次SOHC化が実施され、主力の50ccモデルは1966年に変更されました。

燃料供給装置は平成18年度排気ガス規制への適合で、2007年9月に50ccシリーズ全車で、キャブレターから電子制御式燃料噴射装置へ変更しました。同時にエキゾーストパイプ内に三元触媒を装着しマフラー容量を大きくして、4ストロークエンジンと相まって、オートバイとしてはエンジン騒音を特段に低下させました。

非常に低燃費であることでも知られており、実際の50ccモデル公道走行燃費は法定30km/hを遵守した運転で60~90km/ℓ、アクセル全開や高速での走行などラフな使い方で45~60km/ℓで燃費効率に特に優れる存在です。

ホンダ主催による低燃費競技会「Honda エコ マイレッジ チャレンジ」では、市販のスーパーカブ50がエントリーする市販車クラスで、最高541.461km/ℓの記録が樹立されました。

拡販営業は、従来の外交員に飛び込み営業させるスタイルを採らず、日本全国に5万軒存在する自転車店に、取扱を働きかけるダイレクトメールを送付しました。早々に5千軒もの自転車店が反応して、ほどなく注文が殺到します。

本モデルはその後数年間で同社の経営を支える重要製品になると同時に、既存自転車店を「自社製品の新しいディーラー網」として開拓して行くきっかけとなり、以後の通常型オートバイ分野進出の原点ともなりました。

1958年(昭和33年)のC100に始まるシリーズは、高性能・高耐久性によりそれ以前の日本市場に存在していた同クラス小型オートバイのみならず、上位クラスのスクーターを一挙に圧倒する大成功を収めました。2010年代に至るまで基本設計の多くが継承され、日本国内および国外で生産されています。

そうした中でホンダが小さな名車「モンキー」の生産を終了、ヤマハがクラシカルなデザインで人気だった「SR400」など15車種の生産を終了したほか、カワサキも5車種の生産を終了するなど寂しい話題が続いています。スーパーカブも例外ではありません。国内販売はピークの88万台から2016年の3万台にまで減少しています。
それでも売り上げを伸ばし続けているのはスーパーカブの海外での存在感で、世界では2016年に320万台も生産されているのです。中でもタイやインドネシアなど東南アジアでの販売は圧倒的です。スーパーカブはミャンマーやバングラデシュなどでも販売を伸ばしていて、市場をさらに広げています。
スーパーカブの発売以前の1954年6月、本田宗一郎は2輪レースの檜舞台である「マン島TTレース」の視察に行きました。トップクラスのマシンが彼の想定していた3倍のパワーで走っていたことに衝撃を受けます。帰国後本田はマン島TTレース推進本部を立ち上げ、このプロジェクトリーダーを30歳前でエンジン設計課長であった河島喜好に命じました。

ホンダはそれまで国内レースやブラジル・サンパウロでのレースには、すべて市販車の改造で参戦していました。1955年浅間高原で日本2輪レース史上有名な「全日本オートバイ耐久ロードレース」が始まりましたが、この第1回大会でホンダは肝心の125ccと250ccで優勝を飾れず、1957年に開催された第2回大会でもこのクラスではヤマハに優勝をさらわれました。

1958年9月ホンダは、イタリアの市販レーシングマシン125ccのモンディアルを入手してその馬力に驚かされますが、翌年の初めにはそれに匹敵するマシンを作り上げることに成功し、河島はマン島TTレースへの挑戦を決意します。

本田の視察から5年の歳月が流れた1959年「マン島TTレース」初挑戦で、ホンダは圧倒的なパワーを見せ、50㏄・125㏄・200㏄・250ccの各クラスを制し350ccクラスでも2位と華々しい戦果を挙げました。

マン島TTレース初挑戦から3年目の1961年、ホンダは世界GPシリーズ全11戦へフル参戦し、第1戦のスペインGPでは前年からの好調を持続して125ccクラスで優勝を飾ります。第2戦ドイツGPでは日本人ライダーの高橋国光が250ccで優勝し、第3戦フランスGPでは125cc・250cc両クラスで優勝と、ホンダの速さは誰もが認めるところとなりました。

そんな中で迎えた3度目の「マン島TTレース」では、ホンダチームは125cc・250ccクラスともに1位から5位までを独占し、開発と研究を続けてきたメンバーの努力が報われるとともに、若いスタッフを信じてこのプロジェクトを任せた本田の夢が実現しました。そして日本国中にこの快挙が伝えられたのです。

 昨2016年は、実は、オートバイレース界でまさにホンダイヤーとも云える1年でした。ロードレース世界選手権の「MotoGP」クラス(排気量1,000cc)で、「ホンダRC213V」を駆るマルク・マルケス(スペイン)が「日本グランプリ」に優勝し、年間チャンピオンを決めました。

モトクロス世界選手権「MXGP」クラス(排気量450cc)では若干19歳のティム・ガイザー(スロベニア)が「ホンダCRF450RW」を駆り、ルーキーながら年間チャンピオンに輝きます。ホンダにとっては1994年以来22年ぶりの最高峰クラス制覇でした。

トライアル世界選手権では、ホンダのファクトリーマシン「モンテッサCOTA 4RT」を駆るトニー・ボウ(スペイン)が前人未到の10連覇を達成し、同じマシンを駆る日本人ライダーの藤波貴久もランキング3位に入る活躍を見せました。

しかし、この日本メーカーの快挙は日本国内ではほとんど報じられていないのです。国内の二輪車販売台数は2015年で37万2,700台と、1980年代のピーク時と比較して15%にまで落ち込んでいます。

国内でオートバイに対する関心が低下しているのは否めませんが、世界的な視点で見れば日本のホンダ・ヤマハ・カワサキ・スズキという4大バイクメーカーが、海外では今も昔も高い技術力を誇っています。

 

ホンダは2017年1月ラスベガスで、ライダーが乗っていなくてもそのまま立っている「Honda Riding Assist」を世界初公開しました。ASIMOに代表されるヒューマノイドロボット研究で培ったホンダのバランス制御技術を二輪車に応用したものです。

高速走行時には既存の2輪車と同等の操縦性を実現する一方で、ライダーが少しバランスを崩してもバイク自体がバランスを保つことで、低速走行時や停止時のふらつき・転倒リスクを軽減します。車庫入れや停止直前時などに、初心者や筋力に自信のないライダー、背の低い女性などが救われるシステムです。

人々をあっと云わせるホンダの技術の伝統が、IT化の時代にも間違いなく継承されているのは嬉しいことです。

 


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