![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/66/70/b34cabe19b22c2c5d8b6f9d4d2b15cdf.jpg)
「不思議の国のアリス」は、いま世界でもっとも読まれている童話のうちのひとつです。
疑問の余地のない傑作というのは文学史のうえでも案外少ないものなのですが、この作品はその稀な例外にあたります。
ジョン・レノンも、バート・ヤンシュも、先代エリザベス女王も、あと、僕の小学校時代の憧れの女の子も、みーんな、この童話が大好きでした。
作家の北杜夫氏もかつてエッセイのなかで、この童話の非凡な独創性について言及されていたことがありました。自分はこの作者が天才だとは思わないが、作品自体は、これは天才の業である、誰にも真似のできない、これほど独創的な話は、今後誰にも書けないだろう---みたいな内容だったと記憶してます。
僕自身もまったくその意見に賛成ですね。
こんな、唖然とするほどおかしな話はないですよ。
自分の流した涙の海で溺れたり、兎の竪穴を延々と落下していくとちゅうの穴の棚からオレンジ・マーマレードの瓶をとりだしたり、急激に巨大化したおりに、遠去っていく自分の足にむけて手紙を書こうとしたり、気狂い帽子屋とヤマネと3月兎とで終りのないキテレツお茶会をいきなりおっぱじめたり……。
奇想天外でもって、ちょっぴり不気味わるいけど、胸底がきゅっとなるような無垢なキュートさもしっかり宿してる---こんなアリスの白日夢のようなまほろば世界に惹かれない子供なんて、果たしてこの世にいるんでせうか?
僕にいわせれば、アリス・ワールド、イコール、童心そのもの。
ですから、この話を解さないひととは友達になりたくないなあ、なんてつい思っちゃいますね。
知っての通り、この話の作者であるルイス・キャロルは、本名をチャールズ・ラドウッジ・ドジソンといって、1832年、英国のチェシャー州ダーズベリ産まれの---ここで早くもチェシャー猫を連想してにこっとされたあなた、あなたは凄い、アリスの有段者認定です!---有名な大学教授さんなのでありました。
ええ、彼、本職は、数学者であり論理学者であったわけでして。
本職以外でもなかなかに多趣味なひとでして、当時まだ幼年期だった写真術に凝り、知りあいの少女のポートレイトなどいっぱい撮影してます。彼女たちのヌード写真なんてのもけっこう残ってる---いまだったらスキャンダルですよね、こういうの---どうも、ちょっとばかりロリコン趣味のある方だったようですね。
実際、「不思議の国のアリス」の母胎は、キャロルが彼のいちばんのお気に入りの少女---アリス・リデル---のために語った、即興のお伽話がもとだったんですから。
お気に入りの少女をなんとか喜ばせたくて、彼女を物語のヒロインにしたウケ狙いの話を紡いでいったら、それを聴いたアリスがもうむちゃくちゃに喜んじゃって、その話をぜひ本にしてくれ、とせがんだ。それが、結果的に「地下の国のアリス」という自家製の本となり、のちの「不思議の国のアリス」のクロッキーともなったわけなんです。
こういうの聴くと、いい話だなあ、と僕なんかは自然に頬がゆるんじゃいますね。
いい話、かくあるべし。
誰か特定の個人を喜ばすための、素朴な奉仕の気持ちが、あらゆる傑作のたまごなんですよ。
ひとりのひとを喜ばせたい気持ちが、結果的にほかの、多数のひとの気持ちに徐々に伝播していく---これが、傑作のあるべき正しい姿でせう。
最初から「マス」を相手にして発信される名作は、それは名作なんかじゃなくて、名作という体裁だけ借りた企業プロジェクトじゃないの、と皮肉突きを咽喉元に一発入れたくなりますね。
というようなわけで「不思議の国のアリス」という作品は、世評の通り、誰が読んでもおっそろしく面白い作品として仕上がって、日夜不特定多数の読者から愛されてるわけなんですが、よくよく読みこんでいってみると、この作品内の大部分を占めている「不思議の国」というのが、すこぶる異様な相貌をしてるんですよ。
なにが? どのへんが異様なの?
うーん、うまくいえないんですけど、この不条理世界、たくらんで編まれた形跡がまったくないんです。
ライマン・フランク・ボームの「オズの魔法使い」あたりだと、なにか作者の「読者をびっくりさせてやろう!」みたいな、健康な空想上の茶目っ気を感じられる部分がずいぶん多いんですよ---いうなれば、意図的な悪戯魂みたいな。
要するに、ボームの生みだしたオズの国というのは、あくまで作者ボームの空想の管理下にあるわけなんですよ。
したがって、作者ボームの管理人としてのたくらみ手腕も、しっかり窺える。「オズの魔法使い」なんかでは、読んでてそのあたりの機微が明瞭に分かります。ああ、さすが、ミスター・ボームは自分の幻想世界をしっかり管理してるなあって。
しかるに、アリスの場合はぜんぜんちがう、アリス世界の場合においては、完全に主客の逆転が実現しちゃってる。
というか、物語の背景であるべきキテレツ世界のリアルティーが、あんまりありすぎる。
つまり、物語内の空想世界が、作者であるキャロルの筆力を完全に凌駕しちゃってる感じなんです。さながら氾濫寸前の濁流とでもいった様相ですか。
で、作者であるキャロルは、それに食われまいと必死に奮戦してはいるけど、そんなけなげな堤防工事がいつまでもつのか、はなはだ心もとない感じです。
ええ、僕は、アリスのいる不思議の国は、度を超したナンセンス・エネルギーをたえず噴出してる、と感じます。
本来なら、こんな不毛な土壌に、物語の花は咲かないはずです。
このささやかな童話が、物語として成立していられるのは、一重に、物語のモデルであり、主人公でもあったアリス・リデルという一少女のおかげでせう。
彼女のおかげで、この物語は物語として成立していられるのです。
僕は、この物語の作者であるキャロルは、心に非常に深い闇を抱えた人間であったと見ますね。あなただってその気になれば、アリスの物語のあちこちの隙間から、なにか「無明」の闇のけむりがもくもくとあがっているのが見分けられると思う。この不思議の国全体がキャロル内面のデッサンだとするなら、このひと、恐らくこの世でなんにも信じてないですよ…。
かろうじて少女であるアリスと、彼女の健康な肉体だけを信じてるような顔はしてますが、それは、通常にいうところの「信じる」という単語とはだいぶレベルの異なる感じです。
信じるというより、内面いっぱいに広がった、キャロル内部の暗いカオス的情熱が、エントロピーの増大で崩壊しきってしまうまえに、アリスという少女の肉体にすがりつき、ぶら下がって、落ちまいと必死にもがいている、といったほうがむしろ実情に近いでせうか。
ちょろっとまとめてみませうか---。
えーと、作者であるキャロルはね、僕にいわせれば、明らかに影の国の住人であり、徹底して非存在のひとなんですよ。
アリスはその真逆---れっきとして存在してる、触ることのできる、あくまで健康な一少女です。
で、そのルイス・キャロル教授が、ある日の午後、影の国から光の国のアリスにむかって手紙を書いたわけ。
年齢、ずいぶん離れてますけど、まあ、これは求愛の手紙として解釈すべきなんでせうね。
無意味の国の影法師が、分不相応な光の国の少女に恋しちゃったんですよ---切ないなあ…。
恋をしたら、まず相手の気を惹きたくなりますよね? 自分のなしうるあらゆる手練手管を使って、綺麗な花束をいっぱい相手に捧げなくっちゃ、です! この花束が、アリス内に登場するあらゆるナンセンスであり、また、不条理であったというのが僕の持論です。
影が実在に接近しようとしたら、影なりの手練手管を使うしかない---それが、ナンセンスであり、あるゆる不条理であったというわけです。皮肉といえばまあ皮肉なんでせうけど、キャロル的には、もうそれしかなかったんですよ。
アリス世界のなかに満ち満ちている、あらゆるナンセンス・ギャグのヴァラエティーは、あれは、キャロルなりの精一杯の「遊戯」であり「社交」であり、さらにいうなら彼流の「エンゲージ・リング」でもあったんですよ。
ええ、「不思議の国のアリス」という作品は、根本にそのような構造を隠しもっている童話なんじゃないか、なんて僕は思います。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4d/a0/136dc6b4db84cd0d9995a39d0ec1b3e4.jpg)
上にUPしたのが、ルイス・キャロル氏の生前のフォトです。
ねっ、キャロルさん、ナイーヴすぎる、いくらか過敏症チックな人相されてるでせう?
これが、あの歴史的なキテレツ物語を生みだした顔なんですよね。
ちょっと見だけでも詩人肌の顔ですよねえ、これは?
ただ、詩人顔というだけじゃ収まりきれないものもけっこうある、思索するひと独自の石みたいな頑固さ、そんな独自の兆候がこめかみのあたりに兆してますね。それに、頭蓋のでかいこと! この顔はやっぱり詩人じゃなくて、数学者の顔なんでせうね。
うーむ、アリスを語ろうと思ったら、やはりそちら側からのアプローチも試みなければ片手落ちになる気がします。
というわけで数学者としてのルイス・キャロルについていきませう。
ただ、学生時代まったく数学がダメだった僕にとって、数学についての発言権はほとんどありません。
こんな文系かつ体育会系男に数学を語らせちゃイカンと思いもします。けれど、そんなむかしむかしの中学少年だった僕の目に、ある日、たまたまとまった数学者についての見解があったんです。
出典は---なんと、探偵小説!---それ、アメリカの古典探偵小説作家ヴァン・ダインの著作なのでありました。
創元推理文庫からでてた「僧正殺人事件」っていうの---これ、犯人が数学者なのでありまして、インテリ探偵のファイロ・ヴァンスっていうのが、数学者の精神的生活というものにウンチクを傾けるくだりがあるんです。
その部分をちょっとだけ書きぬいてみませうか。
----空間と物質---これが数学者の思索の領域だ。ウイレム・デ・ジッターの空間の形についての考えは球状、あるいは球面形である。アインシュタインの空間は円筒形で、その周線あるいは、『境界線の状態』といってもよいが、そこでは物質は零に近づく……さて。このような概念を片方において計算したとき、自然とか、われわれの住む世界とか、人間の存在とかいったものはどうなるというのか。エディントンは、自然の法則などというものは存在しない---ということは、自然は充分に合理性をもった法則では律し得ないという結論を出している。そしてバートランド・ラッセルは現代物理学が必然的にたどり着く結論を要約して、物質は単に出来事の集団であり、物質自体はなにも存在する必要は持たないと解釈すべきだと述べている……その理論を押しすすめていくと、どういうことになるかね。世界が非原因的で、無存在だとすれば、単なる人間の生命などは、何ものかね……人間社会の個人などというものはその中におくと、無限小なものにすぎない、このように巨大な、ふつうの標準ではとうてい計り切れないような概念と取り組んでいる人間が、やがて、地上のいっさいの相対的価値の観念をなくして、人間に対して、限りない軽蔑心を持つようになっても、べつにふしぎはあるまいじゃないか……そういった人間の態度は不可避的に皮肉になる。心中では、いっさいの人間的価値を笑いものにし、自分の周囲に見えるものすべてのけち臭さをあざ笑うことになる。たぶん、その態度のなかには嗜虐的な要素もふくまれていよう。冷笑癖というものは嗜虐性のひとつの形式だものね……。 (ヴァン・ダイン「僧正殺人事件」創元推理文庫より)
僕は初めてこのくだりの部分を読んだとき、あれ、この感覚どっかで感じた覚えがあるぞ、と思ったんですね。
最初は分からなかった。
でも、考えているうちに思いだしてきた…。そう、それって当時から愛読していた「不思議の国のアリス」のなかで感じた、体感温度の奇妙なひんやり感と酷似してたんですよ。
特に、アリスの流した涙の海で濡れまくったアリスと動物たちが、自分たちの身体を乾かすために開催した、あのふしぎなコーカス・レース!
僕が、「僧正」のこのくだりを読んで最終的に辿りついたのは---ええ---実は、アリスの物語のなかの、このコーカス・レースのイメージだったんですよ…。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3d/77/7b2d170abd5af517aad9a6704a40e21c.jpg)
では、そのコーカス・レースとは、いったいどのようなものなのでせうか?
てっとりばやいとこで原作から引用いきませう---それほど長くもないんで。はい。
----「コーカス・レースってなあに?」とアリスはききました。べつだん、それほど知りたかったわけではないのですが、ドードー鳥が、だれかが質問するはずだというように間を置いたのに、だれも何も聞こうとしないようだからです。
「いや、やってみるのが何よりの説明になるんだ」とドードー鳥はいいました。
ドードー鳥はまず、レースのためのコース線をまるく書きました。(正確な円でなくてもいいのだとドードー鳥はいいました)そして、一同は、そのコースのあちこちに位置を定めました。「一、二、三、ゴー!」というような出発の合図もなく、みんな、好きなときに走りだして、好きなときにやめればいいのです。だから、レースがいつ終ったかを知るのは、必ずしもやさしくありません。とにかくみんなが三〇分も走って、すっかり乾いた頃に、ドードー鳥がとつぜん「競争おわり!」と大声でどなりました。一同は輪になって集まると、息をはあはあ切らせながらききました。「でも、誰が勝ったんだ?」
(ルイス・キャロル「不思議の国のアリス」講談社文庫より)
と、まあこのような塩梅---すなわち、コーカス・レースとは、以下のようなレースであったのです。
1.スタート・ラインがない。誰が、いつ、走りだしてもかまわない。
2.ゴール・ラインもない。誰が、いつやめてもかまわない。
むーっ、なんという自由なレースなんでせう! というより通常の視点からいくと、これはもはやどう見てもレースじゃありませんよね。
はじめのうち、僕は、それをルールに厳しい英国社会で育ったキャロル少年の、押しつけられたルールというものに対する本能的な反発の表現じゃないか、みたいなラインで捉えようとしてたんですが、どうやら、そうではないようです。
反発、というような気構えの気配は、文中にはありません。
それよりも濃く漂っているのは、「ルール」という存在そのものに対する、先験的な疑惑であり不信です。
キャロルさん、ここで、非常に無邪気に、ふだんはしかめっつらをしている「ルール」というモノを、縦に置きなおしたり横に倒したりして、もう玩具扱いしてらっしゃいます。
あえて学術的な言葉を弄するなら、これは、いわゆる思考実験という範疇に属するものと思います。
それを、こんなささやかな空想童話のなかで、見事に物語中にはめこんじゃった手腕には敬服しますが、それよりも僕が感じ入るのは、キャロル氏がふだんから使っている目線のなかにある、なにか非常に相対的な、場合によっては虚無的にすら見えるくらいの、一種独特な、暗いまなざしの翳りなんですね。
ええ、前ページの末尾のヴァン・ダインからの引用のなかにあった、あの数学者の病についての検証です。
あのなかで語られていた数学者の病についての症例に、僕は、キャロルが創造したこのコーカス・レースは、見事にかっちり当てはまると思います。
コーカス・レースには、勝者も敗者もない。
コーカス・レースには、スタートもゴールもない。
さらには、もしかすると参加者がいてもいなくてもいいのかもしれない…。
これは、童話のメルヘンの衣で上手にくるまれてはいますが、よくよく見るなら非常に虚無的な発想ですよ。
物語から「絶対」の秤が取りのけられて、「相対性」のほうに傾くと、物語は限りなくナンセンスの谷にずり落ちていくのです。
やっぱり、人間が人間として生きていくためには、絶対的な何者かに対する帰依の心が必要ですよ。
偏見でも執着でもなんでもいいの、憎悪でも金儲けでも---何者かに対する強力無比なこだわりってやつは、絶対要る!
これがなかったら、大事なものがなにもない人生は、ただのまったいらな、茫漠たる無価値の砂漠でしかないんですから。
あらゆるものの価値が等価であるという相対論的な世界は、僕には、非常に非人間的な、虚無的なざらざら地点として感じられます。
しかし、僕は、キャロル氏が生涯を通じて間借りしていたのは、このような部屋にちがいなかった、と思いますよ。
というより数学者って人種全般が、そもそもそういうキャラなのかもしれませんね。学のない僕としては数学という学問の深遠は推し量ることしかできないんですが、そのような危険な存在の根源領域に接近するには、日常の場合とは逆に、むしろ存在係数の低い人間でないといけないのかもしれません。
非常に特殊な世界ですよね---そこで遊戯するということは、ある意味、飛行機乗りみたいに危険と隣りあわせになるっていうことなのかもしれない。
けれど、どんな優秀な曲乗りパイロットにしても、地上というものがあるから飛べるんですよね。
地面がなければ、そもそも平衡感覚自体の意味がない、どんな曲芸飛行もただの無意味なきりもみ状態でしかなくなっちゃう---それを見て感嘆してくれる人も、心配してくれるひともいない孤独な曲乗り飛行に、いったいなんの意味があるでせう?
だからこそ、キャロルは、この茫漠たる手狭な思索部屋に居住している息苦しさと虚脱感をひとときでも忘れるために、アリス・リデルという一少女が必要だったのです。
生きるために---あるいは、呼吸するために。
主人公のアリスが生き生きと笑うから、不思議の国のもののけたちもヘンチクリンな言葉遊びに嬉々として熱中できたのです。
主人公のアリスむきになって怒るから、不思議の国のトランプの兵隊たちも最後にあんな風にそろって天空を飛翔できたのです。
結局、アリスがすべての蝶番だったのですよ。
彼女がいなけりゃ、キャロル世界はなんにも廻らぬ、というわけです。
さて、そのような処々の事情をつらつらと考えますと、「不思議の国のアリス」という作品世界の全体が、我々の暮らす実在世界に対しての反証の意志をこめて創造された、一種の逆ユートピアとしての世界なのだ、というようなことがいえるかと思います。
ユートピアはいつでも孤立者の夢想から生じます。
そして、孤立者は、たいていの場合不幸であり、自分を生みだした世界を恨んでいる---もしくは、実存的な対立関係にある。
あからさまな反逆の棘こそ作品内には描かれていないものの、アリスという作品内に、そのようなほのかな敵意の兆候は、いくらでも見つけだすことができます。
時間と喧嘩したおかげで時間にそっぽをむかれ、時間を6時にとめられたままお茶会をつづけるしかない、気狂い帽子屋---。
空中で笑いながら徐々に透明化していき、実体が完全に消失したあとでも笑いだけが残る、チェシャー猫---。
あるゆる問題に対して、「その者の首をはねよ!」と叫ぶよりほかの解決法を知らない、権威の権化・ハートの女王---。
彼らの存在がかもしだしている「棘」の気配は、そのままキャロルが世界に対して抱いていた「棘」の心理の表象だ、と読んでもあながちまちがいではないと僕は思います。
しかし、そのような世界に対する強硬な「否-ノン-」の姿勢が、最期の最後にくるりと反転するのです。
「不思議の国のアリス」のラストは、いわゆる夢オチパターンで仕上げられてます。
アリスのいた不思議の国は、実は、草原で昼寝していたアリスが見ていた夢だった、という例の種明かしです。
ここで思いもかけぬエンディングがふいに訪れるのですよ---それは、世界と現実とを厭い、架空の数学の国を長らく漂泊していた、稀代のすねものであるルイス・キャロルが、突然、世界と和解するのです。恐らく自分でも直前になるまでこんな事態になるとは予測していなかったんじゃないかな。
アリスを見守るお姉さんの目線を借りてささやかれるその「告白」は、非常に優しく、真情のこもった感動的なものです。
それは、本当にふしぎな、どこか恩寵めいた凪ぎの訪れなのです。
ここでキャロルは、数学者キャロルとしてのひねこびた眼鏡を捨てて、ごくありきたりの、素朴な一生活者としての目線の高さで、柔和に現実を見守っています。
そこのところのラスト文だけ書きぬいておきませうか。
----最後に、お姉さんは、このおなじ小さな妹が、やがていつの日にか、一人前の女になったところを想像してみました。アリスは、だんだん成熟していくでしょうが、それでも少女時代の素朴で優しい心を失わず、ほかの小さな子どもたちをまわりに集めては、いろいろな不思議なお話をして---おそらくは、はるか昔の不思議の国の夢の話もしてやって、子どもたちの目を輝かせるだろう。そして、子どもたちの素朴な悲しみをよくわかってやり、子どもたちの素朴な喜びに共に喜びを見いだし、自分自身の少女時代と、幸福だった夏の日々を思いだすだろう---お姉さんは、そんなことを空想したのでした。
こんな素晴らしいエンディングをもちだされちゃあ、こりゃあ、もうなにもいうことはないですね…。
ちなみに僕は、ここの部分を個人的に「キャロルの里帰り」と呼んでます。ここのところを読んでいると、どこからか肉じゃがの香りがしてくる少年時の夕暮れのことが、いつもなぜだか連想されるんですね。
どうしてこんなエンディングになったのか、作者のキャロルに聴いてみたい気もしますけど、恐らく当のキャロルにしても、自分がこんなエンディイグを書いた理由は、うまく説明できないんじゃないでせうか。
でも、それは、それでいいんじゃないかな---。
小学年の低学年にここの部分をはじめて読んだときから、僕は、このラストが大好きでした。
いまだってむろんおなじ---もし、この物語に魔法があるとすれば、恐らくその魔法の鍵は、このラストの部分にこそ隠されているにちがいないと思います…。
2011-02-06 21:18:57 |
彼女のおかげで、この物語は物語として成立していられるのです。
僕は、この物語の作者であるキャロルは、心に非常に深い闇を抱えた人間であったと見ますね。あなただってその気になれば、アリスの物語のあちこちの隙間から、なにか「無明」の闇のけむりがもくもくとあがっているのが見分けられると思う。この不思議の国全体がキャロル内面のデッサンだとするなら、このひと、恐らくこの世でなんにも信じてないですよ…。
かろうじて少女であるアリスと、彼女の健康な肉体だけを信じてるような顔はしてますが、それは、通常にいうところの「信じる」という単語とはだいぶレベルの異なる感じです。
信じるというより、内面いっぱいに広がった、キャロル内部の暗いカオス的情熱が、エントロピーの増大で崩壊しきってしまうまえに、アリスという少女の肉体にすがりつき、ぶら下がって、落ちまいと必死にもがいている、といったほうがむしろ実情に近いでせうか。
ちょろっとまとめてみませうか---。
えーと、作者であるキャロルはね、僕にいわせれば、明らかに影の国の住人であり、徹底して非存在のひとなんですよ。
アリスはその真逆---れっきとして存在してる、触ることのできる、あくまで健康な一少女です。
で、そのルイス・キャロル教授が、ある日の午後、影の国から光の国のアリスにむかって手紙を書いたわけ。
年齢、ずいぶん離れてますけど、まあ、これは求愛の手紙として解釈すべきなんでせうね。
無意味の国の影法師が、分不相応な光の国の少女に恋しちゃったんですよ---切ないなあ…。
恋をしたら、まず相手の気を惹きたくなりますよね? 自分のなしうるあらゆる手練手管を使って、綺麗な花束をいっぱい相手に捧げなくっちゃ、です! この花束が、アリス内に登場するあらゆるナンセンスであり、また、不条理であったというのが僕の持論です。
影が実在に接近しようとしたら、影なりの手練手管を使うしかない---それが、ナンセンスであり、あるゆる不条理であったというわけです。皮肉といえばまあ皮肉なんでせうけど、キャロル的には、もうそれしかなかったんですよ。
アリス世界のなかに満ち満ちている、あらゆるナンセンス・ギャグのヴァラエティーは、あれは、キャロルなりの精一杯の「遊戯」であり「社交」であり、さらにいうなら彼流の「エンゲージ・リング」でもあったんですよ。
ええ、「不思議の国のアリス」という作品は、根本にそのような構造を隠しもっている童話なんじゃないか、なんて僕は思います。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4d/a0/136dc6b4db84cd0d9995a39d0ec1b3e4.jpg)
上にUPしたのが、ルイス・キャロル氏の生前のフォトです。
ねっ、キャロルさん、ナイーヴすぎる、いくらか過敏症チックな人相されてるでせう?
これが、あの歴史的なキテレツ物語を生みだした顔なんですよね。
ちょっと見だけでも詩人肌の顔ですよねえ、これは?
ただ、詩人顔というだけじゃ収まりきれないものもけっこうある、思索するひと独自の石みたいな頑固さ、そんな独自の兆候がこめかみのあたりに兆してますね。それに、頭蓋のでかいこと! この顔はやっぱり詩人じゃなくて、数学者の顔なんでせうね。
うーむ、アリスを語ろうと思ったら、やはりそちら側からのアプローチも試みなければ片手落ちになる気がします。
というわけで数学者としてのルイス・キャロルについていきませう。
ただ、学生時代まったく数学がダメだった僕にとって、数学についての発言権はほとんどありません。
こんな文系かつ体育会系男に数学を語らせちゃイカンと思いもします。けれど、そんなむかしむかしの中学少年だった僕の目に、ある日、たまたまとまった数学者についての見解があったんです。
出典は---なんと、探偵小説!---それ、アメリカの古典探偵小説作家ヴァン・ダインの著作なのでありました。
創元推理文庫からでてた「僧正殺人事件」っていうの---これ、犯人が数学者なのでありまして、インテリ探偵のファイロ・ヴァンスっていうのが、数学者の精神的生活というものにウンチクを傾けるくだりがあるんです。
その部分をちょっとだけ書きぬいてみませうか。
----空間と物質---これが数学者の思索の領域だ。ウイレム・デ・ジッターの空間の形についての考えは球状、あるいは球面形である。アインシュタインの空間は円筒形で、その周線あるいは、『境界線の状態』といってもよいが、そこでは物質は零に近づく……さて。このような概念を片方において計算したとき、自然とか、われわれの住む世界とか、人間の存在とかいったものはどうなるというのか。エディントンは、自然の法則などというものは存在しない---ということは、自然は充分に合理性をもった法則では律し得ないという結論を出している。そしてバートランド・ラッセルは現代物理学が必然的にたどり着く結論を要約して、物質は単に出来事の集団であり、物質自体はなにも存在する必要は持たないと解釈すべきだと述べている……その理論を押しすすめていくと、どういうことになるかね。世界が非原因的で、無存在だとすれば、単なる人間の生命などは、何ものかね……人間社会の個人などというものはその中におくと、無限小なものにすぎない、このように巨大な、ふつうの標準ではとうてい計り切れないような概念と取り組んでいる人間が、やがて、地上のいっさいの相対的価値の観念をなくして、人間に対して、限りない軽蔑心を持つようになっても、べつにふしぎはあるまいじゃないか……そういった人間の態度は不可避的に皮肉になる。心中では、いっさいの人間的価値を笑いものにし、自分の周囲に見えるものすべてのけち臭さをあざ笑うことになる。たぶん、その態度のなかには嗜虐的な要素もふくまれていよう。冷笑癖というものは嗜虐性のひとつの形式だものね……。 (ヴァン・ダイン「僧正殺人事件」創元推理文庫より)
僕は初めてこのくだりの部分を読んだとき、あれ、この感覚どっかで感じた覚えがあるぞ、と思ったんですね。
最初は分からなかった。
でも、考えているうちに思いだしてきた…。そう、それって当時から愛読していた「不思議の国のアリス」のなかで感じた、体感温度の奇妙なひんやり感と酷似してたんですよ。
特に、アリスの流した涙の海で濡れまくったアリスと動物たちが、自分たちの身体を乾かすために開催した、あのふしぎなコーカス・レース!
僕が、「僧正」のこのくだりを読んで最終的に辿りついたのは---ええ---実は、アリスの物語のなかの、このコーカス・レースのイメージだったんですよ…。
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では、そのコーカス・レースとは、いったいどのようなものなのでせうか?
てっとりばやいとこで原作から引用いきませう---それほど長くもないんで。はい。
----「コーカス・レースってなあに?」とアリスはききました。べつだん、それほど知りたかったわけではないのですが、ドードー鳥が、だれかが質問するはずだというように間を置いたのに、だれも何も聞こうとしないようだからです。
「いや、やってみるのが何よりの説明になるんだ」とドードー鳥はいいました。
ドードー鳥はまず、レースのためのコース線をまるく書きました。(正確な円でなくてもいいのだとドードー鳥はいいました)そして、一同は、そのコースのあちこちに位置を定めました。「一、二、三、ゴー!」というような出発の合図もなく、みんな、好きなときに走りだして、好きなときにやめればいいのです。だから、レースがいつ終ったかを知るのは、必ずしもやさしくありません。とにかくみんなが三〇分も走って、すっかり乾いた頃に、ドードー鳥がとつぜん「競争おわり!」と大声でどなりました。一同は輪になって集まると、息をはあはあ切らせながらききました。「でも、誰が勝ったんだ?」
(ルイス・キャロル「不思議の国のアリス」講談社文庫より)
と、まあこのような塩梅---すなわち、コーカス・レースとは、以下のようなレースであったのです。
1.スタート・ラインがない。誰が、いつ、走りだしてもかまわない。
2.ゴール・ラインもない。誰が、いつやめてもかまわない。
むーっ、なんという自由なレースなんでせう! というより通常の視点からいくと、これはもはやどう見てもレースじゃありませんよね。
はじめのうち、僕は、それをルールに厳しい英国社会で育ったキャロル少年の、押しつけられたルールというものに対する本能的な反発の表現じゃないか、みたいなラインで捉えようとしてたんですが、どうやら、そうではないようです。
反発、というような気構えの気配は、文中にはありません。
それよりも濃く漂っているのは、「ルール」という存在そのものに対する、先験的な疑惑であり不信です。
キャロルさん、ここで、非常に無邪気に、ふだんはしかめっつらをしている「ルール」というモノを、縦に置きなおしたり横に倒したりして、もう玩具扱いしてらっしゃいます。
あえて学術的な言葉を弄するなら、これは、いわゆる思考実験という範疇に属するものと思います。
それを、こんなささやかな空想童話のなかで、見事に物語中にはめこんじゃった手腕には敬服しますが、それよりも僕が感じ入るのは、キャロル氏がふだんから使っている目線のなかにある、なにか非常に相対的な、場合によっては虚無的にすら見えるくらいの、一種独特な、暗いまなざしの翳りなんですね。
ええ、前ページの末尾のヴァン・ダインからの引用のなかにあった、あの数学者の病についての検証です。
あのなかで語られていた数学者の病についての症例に、僕は、キャロルが創造したこのコーカス・レースは、見事にかっちり当てはまると思います。
コーカス・レースには、勝者も敗者もない。
コーカス・レースには、スタートもゴールもない。
さらには、もしかすると参加者がいてもいなくてもいいのかもしれない…。
これは、童話のメルヘンの衣で上手にくるまれてはいますが、よくよく見るなら非常に虚無的な発想ですよ。
物語から「絶対」の秤が取りのけられて、「相対性」のほうに傾くと、物語は限りなくナンセンスの谷にずり落ちていくのです。
やっぱり、人間が人間として生きていくためには、絶対的な何者かに対する帰依の心が必要ですよ。
偏見でも執着でもなんでもいいの、憎悪でも金儲けでも---何者かに対する強力無比なこだわりってやつは、絶対要る!
これがなかったら、大事なものがなにもない人生は、ただのまったいらな、茫漠たる無価値の砂漠でしかないんですから。
あらゆるものの価値が等価であるという相対論的な世界は、僕には、非常に非人間的な、虚無的なざらざら地点として感じられます。
しかし、僕は、キャロル氏が生涯を通じて間借りしていたのは、このような部屋にちがいなかった、と思いますよ。
というより数学者って人種全般が、そもそもそういうキャラなのかもしれませんね。学のない僕としては数学という学問の深遠は推し量ることしかできないんですが、そのような危険な存在の根源領域に接近するには、日常の場合とは逆に、むしろ存在係数の低い人間でないといけないのかもしれません。
非常に特殊な世界ですよね---そこで遊戯するということは、ある意味、飛行機乗りみたいに危険と隣りあわせになるっていうことなのかもしれない。
けれど、どんな優秀な曲乗りパイロットにしても、地上というものがあるから飛べるんですよね。
地面がなければ、そもそも平衡感覚自体の意味がない、どんな曲芸飛行もただの無意味なきりもみ状態でしかなくなっちゃう---それを見て感嘆してくれる人も、心配してくれるひともいない孤独な曲乗り飛行に、いったいなんの意味があるでせう?
だからこそ、キャロルは、この茫漠たる手狭な思索部屋に居住している息苦しさと虚脱感をひとときでも忘れるために、アリス・リデルという一少女が必要だったのです。
生きるために---あるいは、呼吸するために。
主人公のアリスが生き生きと笑うから、不思議の国のもののけたちもヘンチクリンな言葉遊びに嬉々として熱中できたのです。
主人公のアリスむきになって怒るから、不思議の国のトランプの兵隊たちも最後にあんな風にそろって天空を飛翔できたのです。
結局、アリスがすべての蝶番だったのですよ。
彼女がいなけりゃ、キャロル世界はなんにも廻らぬ、というわけです。
さて、そのような処々の事情をつらつらと考えますと、「不思議の国のアリス」という作品世界の全体が、我々の暮らす実在世界に対しての反証の意志をこめて創造された、一種の逆ユートピアとしての世界なのだ、というようなことがいえるかと思います。
ユートピアはいつでも孤立者の夢想から生じます。
そして、孤立者は、たいていの場合不幸であり、自分を生みだした世界を恨んでいる---もしくは、実存的な対立関係にある。
あからさまな反逆の棘こそ作品内には描かれていないものの、アリスという作品内に、そのようなほのかな敵意の兆候は、いくらでも見つけだすことができます。
時間と喧嘩したおかげで時間にそっぽをむかれ、時間を6時にとめられたままお茶会をつづけるしかない、気狂い帽子屋---。
空中で笑いながら徐々に透明化していき、実体が完全に消失したあとでも笑いだけが残る、チェシャー猫---。
あるゆる問題に対して、「その者の首をはねよ!」と叫ぶよりほかの解決法を知らない、権威の権化・ハートの女王---。
彼らの存在がかもしだしている「棘」の気配は、そのままキャロルが世界に対して抱いていた「棘」の心理の表象だ、と読んでもあながちまちがいではないと僕は思います。
しかし、そのような世界に対する強硬な「否-ノン-」の姿勢が、最期の最後にくるりと反転するのです。
「不思議の国のアリス」のラストは、いわゆる夢オチパターンで仕上げられてます。
アリスのいた不思議の国は、実は、草原で昼寝していたアリスが見ていた夢だった、という例の種明かしです。
ここで思いもかけぬエンディングがふいに訪れるのですよ---それは、世界と現実とを厭い、架空の数学の国を長らく漂泊していた、稀代のすねものであるルイス・キャロルが、突然、世界と和解するのです。恐らく自分でも直前になるまでこんな事態になるとは予測していなかったんじゃないかな。
アリスを見守るお姉さんの目線を借りてささやかれるその「告白」は、非常に優しく、真情のこもった感動的なものです。
それは、本当にふしぎな、どこか恩寵めいた凪ぎの訪れなのです。
ここでキャロルは、数学者キャロルとしてのひねこびた眼鏡を捨てて、ごくありきたりの、素朴な一生活者としての目線の高さで、柔和に現実を見守っています。
そこのところのラスト文だけ書きぬいておきませうか。
----最後に、お姉さんは、このおなじ小さな妹が、やがていつの日にか、一人前の女になったところを想像してみました。アリスは、だんだん成熟していくでしょうが、それでも少女時代の素朴で優しい心を失わず、ほかの小さな子どもたちをまわりに集めては、いろいろな不思議なお話をして---おそらくは、はるか昔の不思議の国の夢の話もしてやって、子どもたちの目を輝かせるだろう。そして、子どもたちの素朴な悲しみをよくわかってやり、子どもたちの素朴な喜びに共に喜びを見いだし、自分自身の少女時代と、幸福だった夏の日々を思いだすだろう---お姉さんは、そんなことを空想したのでした。
こんな素晴らしいエンディングをもちだされちゃあ、こりゃあ、もうなにもいうことはないですね…。
ちなみに僕は、ここの部分を個人的に「キャロルの里帰り」と呼んでます。ここのところを読んでいると、どこからか肉じゃがの香りがしてくる少年時の夕暮れのことが、いつもなぜだか連想されるんですね。
どうしてこんなエンディングになったのか、作者のキャロルに聴いてみたい気もしますけど、恐らく当のキャロルにしても、自分がこんなエンディイグを書いた理由は、うまく説明できないんじゃないでせうか。
でも、それは、それでいいんじゃないかな---。
小学年の低学年にここの部分をはじめて読んだときから、僕は、このラストが大好きでした。
いまだってむろんおなじ---もし、この物語に魔法があるとすれば、恐らくその魔法の鍵は、このラストの部分にこそ隠されているにちがいないと思います…。
2011-02-06 21:18:57 |
純粋に嬉しいっス。これ、別ブログにて書いたもので20年くらいむかしのもんなんですけどね。
いやー、名作ってやっぱいい。
どのような関わりであったにしても、その出会いの時をポジティブ色に染めてくれるのが本当の名作ってやつなんでしょうねえ、たぶん。
ひとと同じなんですよ、きっと(笑)