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夢を生きる方々に学生がインタビュー

株式会社エイチーム   林 高生 社長

2007-12-25 08:50:08 | インタビュー記事

●日時 2007年11月14日 14:00~16:00 
●場所 株式会社エイチーム本社会議室
●株式会社エイチームについての詳細は こちら
●インタビュアー 塾長 三潴 克彦
   
●林高生氏 プロフィール

岐阜県生まれ。小学5年生からプログラミングを始める。
高校、大学へは進学せず、アルバイトの日々を送る。
16歳の頃に新聞配達。19歳で学習塾を作り、
23歳でプログラマーとして独立。
1997年、25歳でエイチーム設立。
2007年、本社オフィスを名古屋ルーセントタワーに移転。
現在はモバイル向け公式サイトを約160サイト運営。
モバイル向けとして国内唯一の多人数参加型
リアルタイムオンラインRPG「エターナルゾーン」もリリース。 
  
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◆お仕事を始めるきっかけは何だったのですか
 
20代前半まではたくさんのアルバイトをしました。 
23才の時に小学生からの趣味であったプログラミングを
活かしてソフトウェアのアルバイトを始めました。その時に
出会った仲間と初めてシステム開発の会社を立ち上げました。
 
それまで私は普通に就職したことがなかったため、請求書や
見積書などの書き方がよく分からず取引先の企業に迷惑を
かけたこともありました。また一般常識やビジネスマナー
なども本屋で立ち読みをしたり、仕事をしていく中で
だんだんと覚えていきました。経営の面でもあまり学ぶ
という感覚はなく、実践の中で覚えていったように思います。
  
経営方針の違いなどがあったため、この会社は2年ほどで辞め、
1997年にエイチームという名前で新たに事業を始めました。
実はこの時お金が全然なかったので、20万円を借りて大須で
コンピュータを買い、場所は自宅で企業向けのシステム開発を
していました。月に100万~200万ほど儲かることもあり、
嬉しかったのを覚えています。
  
しかし、その年の夏、山でマムシに足を噛まれて入院することに
なってしまいました(笑)。ただ、納品先の企業に迷惑をかけては
いけないと思って病院でも作業を行い、抜け出して納品しました。
患者が行方不明になったと言ってかなり大騒ぎにもなりました。
  
この時の経験から一人で事業をしているとトラブルが起こった
ときに困るな、と思い、友達を数名集めて一緒に仕事を
することにしました。最初はエイチームという社名をみんな
受け入れてくれず、たまに私が外から電話をかけると
「エイチームです」と言って出ずに、普通に「もしもし」と
言って出ることもありました(笑)。
 
2000年に「もっと会社を大きくしたい」という気持ちが
強くなり、有限会社エイチームとして法人化し、本社オフィスを
名古屋に移転しました。でも実はこの時、私はソフトウェアを
作ることは好きでしたが、これを一生の仕事にしようとは
思っていませんでした。人に頼まれて作ることがあまり好きでは
なかったんですね。結局やりませんでしたが、飲食店を
やってみようとか、マンガ喫茶を経営しようとか思っていました。
 
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名古屋ルーセントタワー32F 本社オフィス
 
   
◆学生時代の考え方や行動の仕方を教えてください
 
出身は岐阜で小学校の5年生からプログラミングを
していました。そして、高校は行っていません。
もちろん大学も。中学校卒業です。みんなが高校や大学に
行っている間に私はアルバイト三昧の日々を送っていました。
  
16歳の時には名古屋の覚王山付近で新聞配達をしていました。
その後、ビルの窓掃除のバイトや喫茶店でのバイトなど様々な
バイトを経験しました。ある時、学習塾を作ろうと思い立ち、
友人を集めて立ち上げました。理由は特に無かったのですが、
チラシをまけば簡単に人がきて塾ならできるかな、
と思ってやったわけです。それは、19歳の時でしたね。
 
しかし、さんざんチラシをまいたのにも関わらず、なんと最初に
来た生徒は1人。しかも、その当時、すでに先生を6人雇って
いました。そのため最初から大赤字でした。赤字分を補填する
ために昼夜アルバイトの日々でした。引越しやソフトウェア
開発のアルバイトをして先生に渡す給料を稼いでいました。
 
次第に口コミで生徒が集まるようになってきました。
といっても「あそこは生徒数が少なくてやりやすいぞ」
みたいな感じでしたが・・・(笑) 最終的には、家庭の事情で
塾は友人に委譲することになりましたが、最後の方は
アルバイトをしなくても回る程度にはなりました。
 
その後、先述のコンピュータのソフトハウスでアルバイト
として働くことにしました。食べていくことがやっとの
状況でしたが、何とか頑張って働きました。そこで様々な
経験をし、出会いもありました。
 
  
◆自分に最も影響のあったことなどお聞かせください
 
エイチームを創業して数年くらい苦しい時期がありました。
仕事はたくさんあったのですが、それをこなすことが
非常にハードで、しかもあまり儲からないのです。
 
インターネットビジネスはスピードが命で、納期がかなり
短いのです。企画してすぐにサービスインするために動くので、
開発者にとってはとてもハードで辛い仕事だと思います。
そのため、やめていってしまう人もいました。
 
そうすると会社自体のモチベーションも低下し、前向きな発言を
する人間がいなくなりました。この時は辛かったですね。
 
また、社員と経営者の価値観が違うことにも戸惑いました。
経営者は会社のために仕事を取ってくるのに、社員はそれを
わかってくれない。この価値観の違いはかなり困りました。 
  
私は会社を創業してからとにかく走ってきましたが、ある時
会社に明確な夢や目標が無いことに気づきました。
そこで、みんなが楽しんで働いてくれような会社にするため、
会社に夢や目標を創ることにしました。
  
ある経営コンサルタントの方が書かれた本との出会いが
きっかけでした。
 
まずは、目標を紙に書き、なりたい自分、そして会社の
あるべき姿を明確にし、社員の前で発表しました。
その目標は、2年以内に売上げを10倍にするというような
想像もつかないほど大きなものだったので、正直、最初は
みんなポカーンとしていましたね(笑)。
  
また各人の仕事、役割などを明確化し、開発の下請けの仕事は
副社長に任せて、私はオリジナルのサービスやサイトを
開発することに専念しました。
  
エイチームがオリジナルで開発したサイトはヒットしたものも
しないものもありましたが、携帯の公式コンテンツを共同で
やろうという方々との出会いがきっかけで劇的に飛躍して
いくことになります。サイトの集客数や売上げを見て、どれだけ
やれば目標を達成できるかを考えながら仕事を進めてきました。
  
そして2004年11月に株式会社にしました。
成長の要因はとにかくオリジナルのコンテンツを作ったことだと
思います。今では160サイトほど運営し、カバーするジャンルも
多岐に渡ります。ゲーム、着うた、待ちうけ、電子書籍等
ほぼ全てのジャンルを網羅しています。
   
2003年当初、月間で1億円の売上げを目標にしていましたが、
現在ではそれを上回り、事業は好調です。
 
社員全員で夢を共有し、目標に向かってエイチームとして
一つにまとまれたことが今のエイチームになれた大きな要因の
一つだと思います。
 
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◆理想の人生と将来の夢について教えてください
 
将来の夢ですが、エイチームを日本中の誰もが知っている会社に
したいと思っています。メジャーなゲーム会社のように誰もが
知っている会社にしたいです。
 
また、今よりももっと働く社員や入社希望の人々にとって
魅力的な会社にしたいと思います。光り輝いて楽しそうな
エンターテイメント企業にするのが夢です。
 
今後はモバイルコンテンツ事業のみならず他の事業も拡大し、
さらに上を目指していきたいですね。
 
 
◆夢や目標に向かって頑張っている人達に一言お願いします
 
もともと私には夢や目標はありませんでした。ただ、その時々に
遭遇する壁を「絶対にやり遂げる」という気持ちで乗り越えることで
見えてくるものがたくさんあると思います。
 
今では何かを成し遂げる上で“決意の固さ”が一番大切なことでは
ないかと思っています。なんとか必ずやろうと思い、そして明るく
前向きにやることが大事ではないでしょうか。
皆さんも頑張ってください。
 
 
 
◆本日は大変お忙しい中、本当にありがとうございました
 

 
 


  
  
今回インタビューにお答えいただいた林社長は、大変落ち着いた
雰囲気を出されていましたが、秘められているものはとても情熱的で
確たる芯をお持ちの方だと感じました。
それは若い時からの類稀な経験と様々な困難に打ち勝ってきた
ことが林社長をそのように感じさせるのかな、と思いました。
  
「絶対やるんだ」という強い意志はインタビュー中も感じることが
できました。経営のやり方の時にお話されましたが、
現実に起こることから感じて学んでこられたんだな、
と本当に思いました。
 
困難にぶつかった時に乗り越えていくことが今の自分にできる
だろうか、と後で考えましたが、いろんな面を見直して
まだまだ未熟だな、と感じます。
 
今回のお話の内容を感じただけで、後で忘れてしまうことは
とてももったいないことだと思います。
今からどう動くかが大切で、自分なりに行動して行きたいと
思います。
 
社長のお話を今後に生かしていけるように頑張って取り組みます。
インタビューにお答えいただき本当にありがとうございました。
 
インタビュー記事 法人部代表 水谷翔
  
  
“絶対にできるんだ!”と思う気持ち。
林社長様は、最も大切なことであると教えて下さいました。
学生には類を見ない人生を歩まれてきた社長様に、圧倒されて
いたものの、私自身も、決して二人としていない存在であるのだと
ふと気づくことができました。
  
自分を信じて、責任を持った人生を送っていくということ。
就職活動の前にすべきこととは、自分の個性を見出し、
磨き上げておくことだと感じました。
そして大学生活の経験を通し、社長様が話して下さった
“明るさと前向きさ”を手に入れておきたいと思います。
   
インタビューを通して、自分自身を振り返らせてくれた、
また熱いエールを頂いた気が致します。
とても開放感のあるオフィスで、何よりも、社員の方々が活き活き
と働いている様子がとても印象的でした。
エイチーム様は私にとって、憧れの企業です。
この度は本当にありがとうございました。
  
代表 鎌田有紀
  
  
ルーセントタワーの32階、名古屋を一望できる素敵なオフィス。
メンバー皆でドキドキしながら待合い室に座っていました。
「ガチャン」ドアがあき、入ってこられた林社長は、
にっこりと優しい笑顔の方でした。
 
火傷しそうなほど熱いお話を、涼しくさらりと話してくださる社長
の横顔は、様々な経験を積まれたからこその貫禄さえ感じました。
やろう!と決めたことを実行し続けてきたからこその「今」、
私も、今を大切に生きたいと思います。
  
お忙しいなか御時間を割いて、どんな質問にも気さくに
答えてくださった林社長、本当にありがとうございました。
 
塾生 國井美佐 
  
  



中国料理かっぱ園菜館  伊藤理夫 社長

2007-12-03 10:22:48 | インタビュー記事
●日時 2007年10月9日 14:00~15:30 
●場所 かっぱ園菜館本社
●かっぱ園菜館についての詳細は こちら
●インタビュアー 塾生 國井 美佐

   
●伊藤理夫氏 プロフィール
愛知県出身。
大学卒業後、父の始めた事業を受け継ぐため
東京で中華料理の修業を積む。
中華料理と共に43年を歩み、
2007年5月に黄綬褒章を受章。
現在は愛知県調理師会会長や
日本調理師会理事など多数の役員も務める。
 
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「鯨の尻尾よりもメダカの頭になりなさい」
小さい頃より聞かされた父親のこの言葉が人生の指針に
なったそうです。料理人として40年以上歩んできた名人に
トップインタビューに答えていただきました。

 
 
◆この度は黄綬褒章受章、本当におめでとうございます。
 
ありがとうございます。
正直言いまして最初「私でいいの?」という気持ちでした。
しかし、お世話になっていた方々や先輩の後押しを受けて
黄綬褒章をいただくことになりました。
 
賞の受章の際には多くの方にお世話になりました。
知事や市長、あるいは議員の方々にお礼を申し上げたいと
思います。そして、なんといってもここまで共に歩んで
くれた妻の存在が大きいです。妻がいてくれなかった
ら、ここまでやってこれなかったかもしれません。
また、一緒に働いてくれているスタッフにも感謝しています。
      
私は料理を作る時に特に気をつけていることは、
カロリー計算や塩分濃度などについてです。
現代の食生活を見るとだんだん味覚が麻痺してきている
のではないかと感じています。
もともとの日本食の良さが現代の人々が食べる料理に
生かされていないのではないかと思います。
 
そういった点で私は常に気にしてきました。
健康で美味しい料理をお客様に提供したいという思いのもと
今まで頑張ってきました。
その思いが今回の受章に繋がったのだと思い、
本当に感謝しています。
 
 
◆この受章は、伊藤社長の料理への想いと、奥様と
二人三脚で築かれた結果の賜なんですね。
料理人になろうと思ったきっかけは何でしたか。
     
私の父親が昔、縫製業を営んでいました。
当時は珍しく、オーダーメイドで行っていました。
また、中国でも事業を行っておりまして、
その時、中華料理に毎日身近に触れていました。
 
それから、事業がうまくいかなくなり、苦し紛れに
父が始めたのが、中国で出会った中華料理だったんです。
最初は本当に小さなお店だったんですよ(苦笑)
  
     
現在ではリフォームもされて大変立派なお店に
なられていますよね。
  
おかげさまで、私の息子も店を引き継いでくれて、
親子三代続けさせていただいています。
   
    
学生の頃から家業を継ごうと考えてらしたのでしょうか。
   
母親はとても教育熱心な人だったということもあり、
その当時いろいろ進路に迷ったあげく私は大学に
進学することになりました。それが、今の中京大学です。
    
大学を卒業すると、また私は迷いました。
サラリーマンになるか、父の事業を受け継ぐか。
結局、事業を受け継ぐ決意をして、三年間東京へ料理人の
修行に行きました。
当時は飲食店は今とは違い「水商売」と言って蔑まれていた
風潮がありましたから、苦労もしました。
   
このように父が行う事業を近くで見ていましたので、
知らず知らずのうちに事業の雰囲気が身に付いていたの
だと思います。
   
実は私は三人兄弟の長男なのですが、次男は現在、
会計士事務所を行っています。
三男は留学経験を生かして英会話教室を開いています。
やはりこのように父の影響がとても大きく、
小さい頃より、独立志向が強い家系だったのだと思います。
     
そして、私は夢を実現するためには独立する方が
良いと考えています。
独立して軌道に乗ることは難しいですが、それを超えてこそ
成功を掴むことができると思います。
   
人は一人ではできることはしれていると思います。
なので、人を管理する能力を身につけ、好きなことに
打ち込むことが大切だと思います。
そして、常にお客様志向であることも重要です。
これが、またなかなか難しいのです。
   
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◆幼少時はどのように過ごされたのですか。
  
そうですね、母からこのように言われて育ちました。
   
「妻が寝込んでも大丈夫なようにしておきなさい」
   
つまり、料理から家事に至るまで、一通りは自分でできる
ようになっておきなさいと教わりました。
料理についても母の影響で小さい頃から好きでした。
イロハのイの字を母から教わりました。
    
また、この私達の幼少時代は食べていくことも困難な
時代でした。映画の「蛍の墓」って知っていますか。
本当にあの映画で描かれているような食べていくことも
大変困難な時代だったのです。
    
学校に行くよりも、とにかく食っていくために
今を頑張らなければいけない。そう思って生きていました。
   
   
◆働き始めた頃はどのような目標や夢をお考えでしたか。
   
事業を本気でやろうと思った時、本場で修行したいと
思いました。ちょうど大学で学んでいたことが中国語
だったので、好都合でした。
しかし、さぁいよいよ中国にいくぞ。というときに、
家の都合で行けなくなってしまったんです。
しかたなく東京に中国料理の修行に行くことになります。      
今考えれば、中国に行かなくてよかったかなと思っています。
  
私は日本人の食の原点はもちろん日本食にあると
考えています。日本は四季がありますから、四季折々の
料理もあります。季節感がある料理ということです。
そして、日本は水がとても綺麗で、香辛料などが
無くても食材の本来の味を堪能することができるのです。
   
一方、本場中国の料理は匂いが本当にキツイのです。
スパイスも結構キツイので、そのまま日本に持ってくると
日本人はなかなか受け入れられないのではないかと
思いました。
   
そこで私は、料理のスタイルを日本の中国料理を目指すことに
しました。日本で中国料理を食べるお客様の立場に立ってみて
どんな料理がいいか、どんな味がいいかを考えました。
それを追求することが何よりも楽しかったです。
     
   
◆日本人に合った独自の中国料理を追求するのは、容易
ではなかったと思います。どういったことに力を入れられ
ましたか。
    
昔から名古屋で店を出していたものですから、
名古屋の人々が好きな味はどういう味かということを
若い時、特に研究しましたね。
   
まず、名古屋の飲食店を食べ歩きました。
そうすると、わかってきたことがあります。
名古屋の味は「甘辛い」ということでした。
  
それを自分の料理に生かしたら、ヒットしました。
それからさらに、なぜ甘辛い料理が名古屋人が好き
なのだろうということも研究しました。
また、流行の味を研究したりもしましたね。
   
その当時の料理仲間と一緒になって研究に明け暮れて
いた時もありました。
営業が終わるとみんなで集まって深夜もずっと
研究するわけです。
とにかく、やってみて改善を続けていました。
  
立地条件上、私達のお店は固定顧客が多かったので、
そういった理由を踏まえてのメニューも考えねば
いけませんでした。
7~8割は固定メニューにして、残りの2割は
変動メニューにする、というように工夫しました。
   
また、女性が好きな料理やメニューについても
考え、工夫しました。
女性の「太りたくないけど、たくさん食べたい」という
ニーズに答えるためにどのようなメニューにすればいいか、
研究しましたね。
   
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◆地道な研究と行動と情熱によって、今のかっぱ園菜館
があるのですね。
伊藤社長の、これからの夢や目標を教えてください。
   
実は少し前まで中華とウェディングをマッチングさせた
事業を名古屋でしようと思っていました。
しかし、その事業を行った方がいたのですが、
名古屋という土地に合わなかったようで、
なかなか上手くいかなかったようです。
   
だから今はまたこれからの具体的なビジョンに
ついては模索中ということです。
 
でも、現在は専門学校で料理を教えたりしながら
若い人々を育てています。
これからの人達をもっと育成していくことにも
力を入れたいと思っています。
  
  
◆伊藤社長にとっての理想の人生とは何でしょうか。
   
自分が他界する時に「あぁ、良かった」と思える
人生にしたいと思います。
 
ます、素晴らしいパートナーにめぐり合えました。
今まで頑張ってきたことを認められて、
多くの社団法人や協会などから肩書きをいただきました。
   
それらに感謝し、これからも頑張っていきたいと思います。
  
  
◆夢や目標に向かって頑張っている学生に一言お願いします。
  
まず、夢を大きく持ってほしいと思います。
必ず、壁はやってきます。そんな時でも夢を大きく持ち続け
乗り越えてください。
 
そして、起業を志す人は、ストレスを溜め込まないこと、
上手く付き合う方法を身に付けてください。
自分なりの発散方法があることが大切だと思います。
  
最後に、きちんと食事をとることをお薦めします。
最適な朝昼夜の三食のリズムを取るといいでしょう。
健全な身体で体力と精神力を持って頑張って行って
ほしいと思います。
  
 
ありがとうございました。 

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最後にかっぱ園菜館の本店の前で写真を取らせていただきました。
   
 
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大変温かくエネルギッシュお方で、聞いている私達も
元気になってきました。
 
事業を始めたエピソード、幼少時代の経験を聞いていると
今の時代に生きる私達は見直さなければいけないことが
たくさんあるのではないかと思いました。
 
また、お客様の立場に立って料理について考えられている
姿勢は大変参考になりました。
私のような素人にとって、料理の世界はわかっているようで
わかっていないことばかりです。 
研究に明け暮れた日々のお話はその瞬間をとても
真剣に生きてこられたということが伝わってきました。
 
そのようなお話は目指すところが違う自分にとっても
勉強になることばかりでした。 
 
まだまだ、元気で笑顔が素敵な伊藤社長のように
自分も頑張っていきたいと思いました。
 
本当にありがとうございました。 
 
インタビュー記事作成 法人部代表 水谷翔
 
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