新年というのは初日の出からが古来より新年である。だから昨年から起きていて、12時回って新年というのは理屈では正しくとも新年というわけにはいかない。だが、明けましておめでとうございます。
固いことは言わない。
スーパーに真鱈の卵が大量に出ていた。これは必ず売れ残る、そう思って閉店直前に行くと半額になっていた。早速大量に買い込む。
青森出身者としては考えられない、g128円。生だぞ、生の真鱈子がだぞ。これが地域差というもの。青森だとこの5倍はする。ただ青森のは流石に大きい。盛岡あたりで出回るのは二つで400g程度の小さいもの。青森だと二つで1キロ級の巨大なものだ。その差があるにしても安い。それを半額で買ってしまった。ちょっと醤油漬けにして置いて、一部は生貴子でご飯へ、一部は焼いてタラコのふりかけに、一部は子和えという料理にする。
その近所のスーパーには身長が少し残念なドマッチョが警備員だ。外をパトロールして戻ってきた。半袖の制服だ。寒くないのかと聞くと「暑いです」という。さすがマッチョ。しかし警備員で格闘技経験者でない人はかなりいる。その中でもビルダーというのはどうかとも思うが、見た目だけでもそれらしいというのは、やっぱりいいことだ。
「鶏のササミがいっぱい半額で出ているよ!」「え、ほんとですか?」、かなり嬉しそうだった。
今年は厨川稲荷に初詣にゆくことにする。それを人に話をすると、「あそこに神社あったっけか?」「稲荷神社でおいなりさんがあるの?」とか訳のわからない反応だ。要は全く誰も知らない神社が、この時間に開けているというのが信じられないようなのだ。
だがね、南部家が築城する遥か前からある神社なのだよ。前9年の役にその存在が知られる神社なのだよ。盛岡近郊では紫波稲荷という別格はともかくとして、あといくつかここは南部城以前からの信仰の対象だろうという場所以外では、確実に古い場所なのだ。知られていないというのは寂しいことだ。
今年はなんとかなったが、来年はなんともならない可能性が出てきた。そのあたりを商売繁盛とお祈りしたいところだ。
参拝を待つ間に、町おこしで天文台というのはできないのかという話が出ていた。子供に何を与えるのか、感動と夢だろう。土星の輪っかがはっきり見える50センチ以上の天体望遠鏡があればいのだが、そういった話だった。「だが冷却CCDが必要ですよね」そう口を挟んでみた。すると一番熱心だった人たちが一気に消えて、天文マニアとだけになってしまった。そう、政治なのだよ。
だがマニアはその問題を深く分かっているようだった。「管理しきれる人がいないんですよね」。たとえ50センチ以上の口径の優秀な望遠鏡があったとしても、様々な人に見てもらうためには画像化しなければいけない。そして天体観測としての、できないにしてもできるだけの実績を作るためにも精度の高い撮像素子が必要になる。ここで両者が一致するのだが、撮像素子も安くなったしそれを冷却するシステムも安くなった。だがそれを維持管理しさらに発展させるとなれば、確実に人材がいないのだ。画像処理技術ももち、精密機材の管理ができる人がいないと、たとえ区界高原に施設を作ったとしても宝の持ち腐れになる。そこが問題なのだ。
そういえば、大晦日にお米をいただいた。高知県産だと思う。そうするとヒノヒカリだろうか。新年のお米にしようかと思って見たら、玄米だった。
とても綺麗な玄米なのだが、近所の自家精米のコメ屋は休みだし、少し離れた所にあるお米自販機の精米機を使う気にはならない。
ということで、近所のコメ屋の新ブランド「わざしこみ」が新年のお米になった。各地のブレンド米なのだが、信用できる店なのでかなりいいブレンドであろう。多分ヒトメとコシのブレンド。
とにかく単純に集中して、祈願した。とにかく何もなく。
年明けからあるトランプ関連だけでもううんざりするニュースが入り続けるのは間違いがなく、世界平和を祈願しても意味がない。
歳を取るのは嫌なものだな。それでも暦が続いたというのは祝わなければいけない。アレッポでも暦は続いているのだろうか。
まあ深刻に考えても仕方がない。新年はおせちは用意できなかったが、クロソイの煮魚と、鶏と野菜の汁とご飯は用意できた。えらく格安にご馳走ができたものだ。
地域価格差に感謝しよう。