へびのように賢く、はとのように素直であれ

いつの頃か、偽善が世の中に満ちている。偽善は見破らなければならない。へびのように賢く、はとのように素直でありたい。

滝行、その危険性。触らぬ神には祟りなし!!

2009-08-03 13:36:26 | Weblog

意外と、軽視されるスピリチュアリズムの危険性!!
目で確認できる世界と、
感覚が主体の精神世界。
独断と自己満足に陥りがちな精神世界!!
いつの間にか、悪鬼に憑依されているなんてことが......。



 精神世界は目に見えない世界である。一体全体、何を基準に判断すればよいのか。下手をすれば、いつの間にかマインドコントロールに嵌っている場合も、少なくない。


 神懸かり(降霊現象)には、欠かせないものに審神(さにわ)がある。審神(さにわ)とは、神懸かっている霊が、正伸か邪神かを見極めることである。これなくして神懸かりを実施することは危険とされている。

090706_180800


<別に意味はない>


  ところが、案外そのことを度外視して、有頂天になっているケースが多い。スピチュアリズム、チャネリングはこうした警戒心をもって臨む必要がある。偉そう なことを言うチャネリングは、大体怪しい。予言めいた話もおかしい。脅しや恐怖心を煽るのは絶対におかしい。もの当てや、運命・家相・宿命をとやかく言うのは、レベルが低いと同時に、マインドコントロールされる虞が高い。


 本来、人間は肉体(魂)を持った霊であるから、霊だけしかない、精神世界の居住者に頼る必要はない。自らの精神世界は、心の内に備わっている。


 精神世界は、霊と無関係と思っている人も多いが、それはその人の考え方で、だからと言って、容赦はしてくれないので、一応、注意はして置くに越したことはない。その意味で転載記事は、まことに時期を得た内容である。


  投稿者は、霊性を信じている者ではあるが、神社、仏閣、墓苑を一概に清浄なエリアとは思わない。彷徨える霊も集中するところであるから、導通しないように 注意をする必要があると考えている。導通しないと言うことは、波長を合わさないことである。NHKに同調するとNHKが聴かれるが、平壌放送に同調すると平壌放送が入ってくる。悪鬼に同調するから、悪鬼が憑依するものであると考えている。


 波長を良からぬものに同調するのは、心で思う念であることは間違いないが、最近は『クスリ』が多く関係していると思う。すなわち、向精神薬である。これが自殺の直接の原因であるし、残虐事件、通り魔事件にはこのことを検証する必要が第一義にある。と、思っている。


 だから、『触らぬ神』に、『触らぬクスリ』も付け加えなくてはならない。そうすれば、『祟り』もずいぶんと減ることだろう。


 

【転載開始】”『浅川嘉富の世界へ』ようこそ”より転載


Chosyaphot01


精神世界の落とし穴


 『内在神への道』の著者、伊勢白山道氏のHPの記事が知人から送られてきたので拝読したところ、そこには滝行などの精神修行に対する警告が記されていた。その記事は、私が普段講演会などでお話ししていることが、霊眼をもった専門的な立場から裏づけられたものであったので、転載させて頂くことにした。


 近年、精神世界を目指す人が増えてきているが、こうした人の中には、滝行に限らず、聖地の巡礼や神社仏閣などを回られることを、ご自分の霊格を高めたり予知能力を 向上させる上で 、重要なことだと考えている人が多いようである。


 そのせいか、滝に打たれたいとか、久高島の聖地や神社仏閣を巡礼したいとおっしゃられる方が最近多くなってき ており、講演会に参加された方からその種の相談を受けることが増えてきている。私はその都度、あまり賛成できませんね、と答えるようにしている。


 それは、 伊勢白山道氏が語っているように、得るものがあるないだけでなく、そうした行為は危険が伴うからである。


 有名な滝行の地を訪ねてみると、周辺の宿泊所には団体で修行に来られた老若男女が、行を終えた後、グループごとに集まって会食をしている姿を良く見かける。そこにはリーダー格の方がいて 、朗々とご自分の滝行の経験を語って聞かせている。


 その中には、アルコールを口にされてほろ酔い気分の団体もある。これでは霊格を高めたり精神力を鍛えるというより、自己満足の体験ツアーに参加し
ているようなものである。それはそれで良いにしても、恐ろしいのは その種の体験は、悪霊に憑依される危険性が大きいことである。


 もし滝に打たれて俗世で背負い込んだ邪霊を追い出すことができたとしても、追い出された霊は人に取り憑くことに必死であるため、同じ行に来ている
別人に憑(つ)く ことになる。だから全てとは言わないが、一部の滝行の場の中にはまるで「邪霊の交換の場」と化している所もあるようだ。


 滝壺から発散するマイナスイオンが体に良いことは確かであるが、寒さや足場の悪さで体調を壊したり、よからぬ霊に憑依される危険性を考えたら、八ヶ岳山麓でも散策して景色を楽しみながら、樹木が発散する良質のマイナスイオンを取り込んだ方が安全で効果的 かもしれない。


 同じ事が、聖地巡りや神社巡りでも言える。かって聖地と言われた場所や神社仏閣の中には、神々が霊的世界に引き上げてしまって、 本来おるはずの神がそこに留まっていないケースも発生しているようである。


 それゆえ、訪ねる先をしっかり選別しないと、むやみに訪ねてみたところで、祈願が叶(かな)えられないだけでなく、元の主に変わってその地に集まった おかしな霊に憑依され ることになりかねない。それゆえ十分な注意が肝心なのである。


 修行や徳積みには、人それぞれにさまざまな方法があるので、一概に滝行や神社参りを間違いと言うつもりは毛頭ないが、精神世界へ顔を突っ込むのには、 修業先を見極める感性と、それなりの覚悟や強い気構えが必要であることだけは忘れないでおいて欲しいものである。


もっとできるのに(伊勢ー白山道より)

昔から滝行をする修行者が多いです。滝に打たれると、自分の悪い物が落ちると錯覚しています。
心身共に凍る様な低温と水圧による苦痛が、憑き物を落とす様なスッキリ感を事後に錯覚させます。
苦しい状態から解放される爽快感を感じているだけの事です。

霊的には、苦痛から来る意識の集中状態において、憑き物の交代が発生しています。苦痛により心の余裕が無くなる隙に、その滝場に居る霊が交代しています。憑依物が変わった違和感を、自分が少し改善したと毎回思う訳です。

同じ滝場に出入りする人達は、同じ様な雰囲気の色に染まって行きます。滝場に集まる霊を憑けたり離したりと、集まる人達の間でキャッチボールをしているからです。滝行を始めると定期的に行くハメに成るものです。憑依した存在が戻りたがるからです。

滝場には、幽界の天狗霊が仕切っている事が多いです。集まる人が多い滝ほど、霊的垢が蓄積しています。中には霊的商売で蓄えた大きな悪い垢を滝場に残し、違う垢を憑けて帰る行者もいます。知らずに軽い気持ちで滝に入る人は、大きな負のハンディを憑けます。

先祖の守護が薄い人は、滝場に近づくだけで憑依状態に成る人もいます。水による浄化は、温かい御風呂が一番です。りラックスした状態が、深からの癒しをもたらします。衣類の洗濯も、低温水よりも御湯の方が汚れが良く落ちる事と同じ事です。 

滝行などの人工的な苦痛感と平常時の感覚の差を修行としては生けません。なんの霊性の向上も本人にもたらしません。50年間、滝に打たれても心境は同じです。

わざわざ滝に打たれなくても、日常生活には修行の場面が沢山有ります。 自分で意識すれば、生活全てが霊性を向上させる場面です。生きる上で自分の心を痛める場面が訪れたならば、心の神様と共に「明るく」受け止める気持ちが大事です。

沢山の苦労を明るく受け止めた人ほど、良い顔に成って行きます。 苦労を苦痛と受け止める人ほど、寂しい顔に成ります。苦労を明るく受け止めたところで、結果には関係ありません。
現実界での良い結果も、悪い結果も有るでしょう。

結果よりも、その過程で自分が何を思い、どんな行動をしたのかが大事なのです。結果が重要では無い事の証明は簡単です。どんな結果も、あの世には持参できないからです。悪い結果も良い結果も、この世に必ず置いて行く事に成ります。 心だけが移動して行くのです。

心さえ健康ならば、この世の出来事の全てが大成功の結果であり、成長の為の神様からのプレゼントなのです。あの世に帰ると、全員が後悔する事が1つだけあります。「もっと頑張れたのに・・・」と思う事です。

生かして頂いて ありがとう御座位ます 【転載終了】