昨年11月からブログを始めて、初めて私のブログに対する批判のコメントをいただいた。
昨日、帰り際にこのコメントを読み、1日考えた末に、このコメントと共に、私の考えを述べることとした。
ブログを公にしている以上、そこに書かれていることに対する内容に、私は責任を持とうと思う。
無論、わたしのブログを真剣に読んだ結果としての反論・批判なら、やはりわたしも真剣に考えねばならないだろう。
今日は、ブログを書く曜日ではないが、
そういった意味で、今回来た《コメント》と、
それについての私の考えたこと、
そして今回の本来のテーマの《自分が自分でなくなる》について、
様々な方の言葉を載せておきたい。
老木と桜
《今回のコメント内容》
失礼ですが、このブログ自体も「未熟だ」と思いました。
伊藤さんの作品をなぜ奥様と比べていられるのかわかりませんし(そもそもYAとして書かれたものですよね)、生徒さんが選んだ本は読んでもいないというのは(たしか芥川賞のものですね)、ただの勉強不足ではないですか。
わからない状態のままで何かを言うという、一番不真面目な姿勢を、はからずも生徒さんにさらしてしまっているのは、大人としてどうだろうかと危惧した次第です。
勉学を教える者が、それでよろしいのでしょうか。
《今回のわたしのブログの趣旨》
何度も読み返して、このコメントの一行目の助詞の「も」が、どうしても気になった。
もしかしたら、この方は、私が今回の生徒を「未熟」だと考えて、この文を書いたと思っているのか?
決してそうではない。この子に対する私の評価は、その反対で、小6ながら、いろいろなことを考えている、物事をしっかり考える生徒であると考えている。
次に、作家の評価について、確かに比較はまずかったかも知れない。どこまで自分の考えをブログで述べることができるのか、考えていきたいと思う。
わたしのブログの最初に指針として、「個人攻撃はしない」と言うことも決めたが、政治家や、自分の考えを世に問う作家などは、批評があっても許されるのではないか。
もちろんそういった意味では、ブログなども、批評・批判の対象になるのであろう。
ただ、ブログに書くと言うことは、ある程度文責が明らかであるが、それに対するコメントは、匿名性の批評・批判であるから、どの程度真剣に対応すべきなのか、やはり考えてしまう。
私の前回のブログを良く読んで頂けば分かることではあるが、私が取り上げたのは、「自分が自分でなくなる」というフレーズについてである。
「自分が自分でなくなる」というフレーズについて、小6の生徒の話からスタートして、私なりの考えを述べたのである。
今回のコメントは、耳には痛いが、厳しい目で見れば当たっているとも言え、ブログを公にするものとして、心して今後に役立てていきたいと思う。感謝!
散り始めた満開の桜
コメントに対する答えを書くのは、少し疲れます。
今回の「自分が自分でなくなる」というフレーズ、多くの人が、そのことについて語っています。
出典は、省略させて頂いて(これもどこまで許されることなのだろう?)、興味を感じた部分だけ、掲載します。お読み下さい。
芝桜も満開です
(その1)
解離とは、体験したことが記憶となるプロセスがまとまりを失い、
自己の意識、自我、記憶に混乱する現象です。
極端な場合は、重い精神疾患となり、解離性障害と呼ばれます。
その中には、記憶喪失、自分が自分と感じられなくなる離人症、
多重人格などがあります。
(その2)
「自分が自分でなくなる。まるでもうひとりの自分が、
自分から分離して、自分に指令をだしているような感覚。
まったく別個の自我、資質をもったもうひとりの自分が、
明らかにそこに存在している」
この症状が激化すれば、精神科ではまちがいなく解離性同一障害、
いわゆる多重人格と診断される。
軽度で離人症、分裂症との診断であろうか。
私はこれをあえて、多重感覚とよびたい。
感覚は病でも、心の病気でもない。
人間に本来備わっている本能、
鋭敏にとぎすまされた感覚脳、生物脳なのである。
動物的であればあるほど、この感覚はとぎすまされていく。
とぎすまされた感覚は五感以上の超力を発揮していく。
(その3)
私が一番嫌なこと。
自分が自分でなくなること。
自分の頭で考えなくなること。
Tea break
講習が終わって、木々の芽吹きに気づきました
(その4)
『生物都市』という作品自体が一面的に描いていないように、
自分が自分でなくなること個人の自立性を否定されること自体を
プラスかマイナスのいずれかに評価するのは難しいです。
束縛されるのはいやだなんけど、
あやつられるのはゾクゾクするほど魅力的でもあります。
(その5)
以前の私は、クリスチャンになると
自分が自分でなくなるのではないかと心配していました。
でもそうではなかったのです。
神様は、それぞれの素材を生かして下さる方です。
ちょうど、真っ黒なススが特別の状況におかれて、
神様の御手の中で、輝くダイヤモンドに変わるように、
神様は私達一人一人の素材を生かして、
それをすばらしいものに造り変えて下さるのです。
(その6)
アルツハイマーという病におかされ始めた人は
その初期にどのような恐怖を味わうのだろうか。
今こうしてある自分が、時間とともに知能が退化して
自分でなくなってしまうという事実を知った時の恐怖は
どのようなものなのだろうか。
知能を失っていくということは、
自分が自分でなくなるということなのだろうか。
また、自分が自分でなくなるということは
肉体的な死の恐怖とどのように違うのだろうか。
Tea break
桜の季節も過ぎようとしています
(その7)
自分が自分でなくなる。自分は今何をやっているんだ?
プライドなんて持っていない。
だが実は人一倍プライドを持っていたりする。
だから自分に「劣等感」を感じる。自分が低く惨めに見えていく。
こんな何も出来ない奴は世の中には「不必要」である。
自分を壊したくなる。人と接触したくない。
部屋で独りになると放心状態になり、何も覚えていない。意識が飛ぶ。
人前でペルソナの被る。偽りの自分を作る。本来の自分が消していく。
ギャップが激しくなる。反動が辛い。
布団という殻にこもる。部屋を暗くする。起きると物に八つ当たりする。
壁が傷だらけだ。頭に瘤ができている。
自分には取り柄はない。
自分より上の実力を持っている人がゴマンといる。
人は死ぬのなら、早めに死にたい。
これから起こる苦痛に遭いたくない。
同じ苦痛なら死の苦しみのみに遭いたい。
(その8)
世の中には、「私が感じたようにあなたも感じろ」と強制する人達がいる。
自分が思ったように行動しなければならない、
自分が感じたように感じなければならない、
自分の分身的な役割を相手にも要求する。
つまり、相手には「ありのままの自分でいてはいけない」と
暗黙的に要求する人達が、世の中に存在するのである。
こうした人に捕まった人達はまさに悲劇である。
自分が自分でなくなる、
自分は相手の思うままに行動しなければ受け入れられない、
こうした状況が、下手すれば永遠に続いてしまうのである。
興味のある方は、クリックをお願いします
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昨日、帰り際にこのコメントを読み、1日考えた末に、このコメントと共に、私の考えを述べることとした。
ブログを公にしている以上、そこに書かれていることに対する内容に、私は責任を持とうと思う。
無論、わたしのブログを真剣に読んだ結果としての反論・批判なら、やはりわたしも真剣に考えねばならないだろう。
今日は、ブログを書く曜日ではないが、
そういった意味で、今回来た《コメント》と、
それについての私の考えたこと、
そして今回の本来のテーマの《自分が自分でなくなる》について、
様々な方の言葉を載せておきたい。
老木と桜
《今回のコメント内容》
失礼ですが、このブログ自体も「未熟だ」と思いました。
伊藤さんの作品をなぜ奥様と比べていられるのかわかりませんし(そもそもYAとして書かれたものですよね)、生徒さんが選んだ本は読んでもいないというのは(たしか芥川賞のものですね)、ただの勉強不足ではないですか。
わからない状態のままで何かを言うという、一番不真面目な姿勢を、はからずも生徒さんにさらしてしまっているのは、大人としてどうだろうかと危惧した次第です。
勉学を教える者が、それでよろしいのでしょうか。
《今回のわたしのブログの趣旨》
何度も読み返して、このコメントの一行目の助詞の「も」が、どうしても気になった。
もしかしたら、この方は、私が今回の生徒を「未熟」だと考えて、この文を書いたと思っているのか?
決してそうではない。この子に対する私の評価は、その反対で、小6ながら、いろいろなことを考えている、物事をしっかり考える生徒であると考えている。
次に、作家の評価について、確かに比較はまずかったかも知れない。どこまで自分の考えをブログで述べることができるのか、考えていきたいと思う。
わたしのブログの最初に指針として、「個人攻撃はしない」と言うことも決めたが、政治家や、自分の考えを世に問う作家などは、批評があっても許されるのではないか。
もちろんそういった意味では、ブログなども、批評・批判の対象になるのであろう。
ただ、ブログに書くと言うことは、ある程度文責が明らかであるが、それに対するコメントは、匿名性の批評・批判であるから、どの程度真剣に対応すべきなのか、やはり考えてしまう。
私の前回のブログを良く読んで頂けば分かることではあるが、私が取り上げたのは、「自分が自分でなくなる」というフレーズについてである。
「自分が自分でなくなる」というフレーズについて、小6の生徒の話からスタートして、私なりの考えを述べたのである。
今回のコメントは、耳には痛いが、厳しい目で見れば当たっているとも言え、ブログを公にするものとして、心して今後に役立てていきたいと思う。感謝!
散り始めた満開の桜
コメントに対する答えを書くのは、少し疲れます。
今回の「自分が自分でなくなる」というフレーズ、多くの人が、そのことについて語っています。
出典は、省略させて頂いて(これもどこまで許されることなのだろう?)、興味を感じた部分だけ、掲載します。お読み下さい。
芝桜も満開です
(その1)
解離とは、体験したことが記憶となるプロセスがまとまりを失い、
自己の意識、自我、記憶に混乱する現象です。
極端な場合は、重い精神疾患となり、解離性障害と呼ばれます。
その中には、記憶喪失、自分が自分と感じられなくなる離人症、
多重人格などがあります。
(その2)
「自分が自分でなくなる。まるでもうひとりの自分が、
自分から分離して、自分に指令をだしているような感覚。
まったく別個の自我、資質をもったもうひとりの自分が、
明らかにそこに存在している」
この症状が激化すれば、精神科ではまちがいなく解離性同一障害、
いわゆる多重人格と診断される。
軽度で離人症、分裂症との診断であろうか。
私はこれをあえて、多重感覚とよびたい。
感覚は病でも、心の病気でもない。
人間に本来備わっている本能、
鋭敏にとぎすまされた感覚脳、生物脳なのである。
動物的であればあるほど、この感覚はとぎすまされていく。
とぎすまされた感覚は五感以上の超力を発揮していく。
(その3)
私が一番嫌なこと。
自分が自分でなくなること。
自分の頭で考えなくなること。
Tea break
講習が終わって、木々の芽吹きに気づきました
(その4)
『生物都市』という作品自体が一面的に描いていないように、
自分が自分でなくなること個人の自立性を否定されること自体を
プラスかマイナスのいずれかに評価するのは難しいです。
束縛されるのはいやだなんけど、
あやつられるのはゾクゾクするほど魅力的でもあります。
(その5)
以前の私は、クリスチャンになると
自分が自分でなくなるのではないかと心配していました。
でもそうではなかったのです。
神様は、それぞれの素材を生かして下さる方です。
ちょうど、真っ黒なススが特別の状況におかれて、
神様の御手の中で、輝くダイヤモンドに変わるように、
神様は私達一人一人の素材を生かして、
それをすばらしいものに造り変えて下さるのです。
(その6)
アルツハイマーという病におかされ始めた人は
その初期にどのような恐怖を味わうのだろうか。
今こうしてある自分が、時間とともに知能が退化して
自分でなくなってしまうという事実を知った時の恐怖は
どのようなものなのだろうか。
知能を失っていくということは、
自分が自分でなくなるということなのだろうか。
また、自分が自分でなくなるということは
肉体的な死の恐怖とどのように違うのだろうか。
Tea break
桜の季節も過ぎようとしています
(その7)
自分が自分でなくなる。自分は今何をやっているんだ?
プライドなんて持っていない。
だが実は人一倍プライドを持っていたりする。
だから自分に「劣等感」を感じる。自分が低く惨めに見えていく。
こんな何も出来ない奴は世の中には「不必要」である。
自分を壊したくなる。人と接触したくない。
部屋で独りになると放心状態になり、何も覚えていない。意識が飛ぶ。
人前でペルソナの被る。偽りの自分を作る。本来の自分が消していく。
ギャップが激しくなる。反動が辛い。
布団という殻にこもる。部屋を暗くする。起きると物に八つ当たりする。
壁が傷だらけだ。頭に瘤ができている。
自分には取り柄はない。
自分より上の実力を持っている人がゴマンといる。
人は死ぬのなら、早めに死にたい。
これから起こる苦痛に遭いたくない。
同じ苦痛なら死の苦しみのみに遭いたい。
(その8)
世の中には、「私が感じたようにあなたも感じろ」と強制する人達がいる。
自分が思ったように行動しなければならない、
自分が感じたように感じなければならない、
自分の分身的な役割を相手にも要求する。
つまり、相手には「ありのままの自分でいてはいけない」と
暗黙的に要求する人達が、世の中に存在するのである。
こうした人に捕まった人達はまさに悲劇である。
自分が自分でなくなる、
自分は相手の思うままに行動しなければ受け入れられない、
こうした状況が、下手すれば永遠に続いてしまうのである。
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