今日で、春期講習が終わります。朝7時半に教室に出て、帰りは10時過ぎ。
生徒もかなりハードな授業でしたが、私にとってもハードな授業でした。
授業風景
ところで、昨年小学6年生に、今まで読んだ本の中から、心に残った本を選び、その理由を書かせる課題を出しました。
その課題を書いた一人の生徒の文が、印象的だったので皆さんと共に考えたいと思います。
その生徒は、読書量は多い方で、芥川賞や直木賞・本屋大賞などの最近流行した本は、ほとんど読んでいるようでした。
そのような生徒は例外的ではなく、小学生でも、話題の本を読んでいる生徒は多く、そうした本を親子間で読み回しをしているようです。
平均して女子の読書量は男子に比べ多く、また大人が読むような本も、かなり読んでいます。
男子は、ゲームに時間を取られている分、読書に当てる時間が少なくなっていると思います。
ゲームに狂っている子供のほとんどは男子で、そういった面では明らかに性差が認められます。
一部の男の子に見られる、「発達の未熟さ」や「社会性の欠如」、そして「攻撃性」は、テレビゲームが大きく影響していると、私は考えています。
この話は、またの機会に取り上げるとして、先の生徒の話に戻ります。
その生徒が取り上げた本は、伊藤たかみの「八月の路上に捨てる」でした。
私は、この作者の「ぎぶそん」を読んで、その「軽いのり」がどうも好きになれなくて、あまり良い印象を持っていない作家の一人でした。
奥さんの、直木賞作家の角田光代さんの方が、数段力量が上なのではないかと、私は思います。
その生徒は、この本の中に出てくる、「自分が自分でなくなる」と言う言葉が印象的だったと書いています。
また、「この言葉から、豊かな感情を持つがゆえの人間のおろかさを感じた。この作品は、人間のそういうおろかな部分を良く著していると思う。」と書いています。
残念ながら、私はこの本を読んでいないので、本の内容を論評できる立場では無いのですが、この本は、ある男性の主人公が、結婚した女性と次第に思いがすれ違い始め、離婚に至る、そうしたストーリーのようです。
私がなぜ、ここでこの生徒の書いた文について、書こうと思ったか。
それは、小学生が、「自分が自分で無くなる」という、どちらかというと陳腐な言葉を、印象に残った言葉として、挙げているからです。
私は、この言葉からは、負の側面を強く感じます。
この言葉は、ある悪い行為をしてしまった後、その時の自分を弁護するために使う言葉として、あるいは、願望または逃避として、今の自己を否定してみせる言葉として使うことができます。
自分の人格の変質を、理由にしたり、また願望したりするときの言葉。
私が学生時代に読んだ本の中に、「オオカミは、人の中で育てられても人になることはできない。しかし、人間はオオカミに育てられれば、オオカミのように四つ足で歩き、オオカミのように吠え、オオカミとして生きる。人間性を、何か素晴らしいことのように語るけれど、実は、人間性とは、そうした多様性に他ならない。」と言ったような意味の内容が書かれていました。
動物に対して人間。その人間のすばらしさの象徴としての人間性。
しかしその言葉は、悪魔的にもなり、天使のようにもなれる、そうした人間の持つ可能性の大きさとして考えた方がよいでしょう。
だから、人間はある時は他の動物よりも遙かに劣悪な生き物にもなるし、ある時は他の動物には無い崇高な生き物にもなれるのだと思います。
すると、「自分が自分でなくなる」、仮にそんなことがあっても、実は、お釈迦様の手のひらの上を、転がり回っている、滑稽な自分なのかも知れません。
授業風景
ところで、この文を書いた生徒は、受験勉強をしながら、将来音楽の道に進みたくて、ピアノのレッスンも同時並行でやっていました。
傍目にも、大変だなと感じていましたが、そんな時期、「自分が自分でなくなる」と言う言葉に惹かれたのは、何か分かるような気がします。
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生徒もかなりハードな授業でしたが、私にとってもハードな授業でした。
授業風景
ところで、昨年小学6年生に、今まで読んだ本の中から、心に残った本を選び、その理由を書かせる課題を出しました。
その課題を書いた一人の生徒の文が、印象的だったので皆さんと共に考えたいと思います。
その生徒は、読書量は多い方で、芥川賞や直木賞・本屋大賞などの最近流行した本は、ほとんど読んでいるようでした。
そのような生徒は例外的ではなく、小学生でも、話題の本を読んでいる生徒は多く、そうした本を親子間で読み回しをしているようです。
平均して女子の読書量は男子に比べ多く、また大人が読むような本も、かなり読んでいます。
男子は、ゲームに時間を取られている分、読書に当てる時間が少なくなっていると思います。
ゲームに狂っている子供のほとんどは男子で、そういった面では明らかに性差が認められます。
一部の男の子に見られる、「発達の未熟さ」や「社会性の欠如」、そして「攻撃性」は、テレビゲームが大きく影響していると、私は考えています。
この話は、またの機会に取り上げるとして、先の生徒の話に戻ります。
その生徒が取り上げた本は、伊藤たかみの「八月の路上に捨てる」でした。
私は、この作者の「ぎぶそん」を読んで、その「軽いのり」がどうも好きになれなくて、あまり良い印象を持っていない作家の一人でした。
奥さんの、直木賞作家の角田光代さんの方が、数段力量が上なのではないかと、私は思います。
その生徒は、この本の中に出てくる、「自分が自分でなくなる」と言う言葉が印象的だったと書いています。
また、「この言葉から、豊かな感情を持つがゆえの人間のおろかさを感じた。この作品は、人間のそういうおろかな部分を良く著していると思う。」と書いています。
残念ながら、私はこの本を読んでいないので、本の内容を論評できる立場では無いのですが、この本は、ある男性の主人公が、結婚した女性と次第に思いがすれ違い始め、離婚に至る、そうしたストーリーのようです。
私がなぜ、ここでこの生徒の書いた文について、書こうと思ったか。
それは、小学生が、「自分が自分で無くなる」という、どちらかというと陳腐な言葉を、印象に残った言葉として、挙げているからです。
私は、この言葉からは、負の側面を強く感じます。
この言葉は、ある悪い行為をしてしまった後、その時の自分を弁護するために使う言葉として、あるいは、願望または逃避として、今の自己を否定してみせる言葉として使うことができます。
自分の人格の変質を、理由にしたり、また願望したりするときの言葉。
私が学生時代に読んだ本の中に、「オオカミは、人の中で育てられても人になることはできない。しかし、人間はオオカミに育てられれば、オオカミのように四つ足で歩き、オオカミのように吠え、オオカミとして生きる。人間性を、何か素晴らしいことのように語るけれど、実は、人間性とは、そうした多様性に他ならない。」と言ったような意味の内容が書かれていました。
動物に対して人間。その人間のすばらしさの象徴としての人間性。
しかしその言葉は、悪魔的にもなり、天使のようにもなれる、そうした人間の持つ可能性の大きさとして考えた方がよいでしょう。
だから、人間はある時は他の動物よりも遙かに劣悪な生き物にもなるし、ある時は他の動物には無い崇高な生き物にもなれるのだと思います。
すると、「自分が自分でなくなる」、仮にそんなことがあっても、実は、お釈迦様の手のひらの上を、転がり回っている、滑稽な自分なのかも知れません。
授業風景
ところで、この文を書いた生徒は、受験勉強をしながら、将来音楽の道に進みたくて、ピアノのレッスンも同時並行でやっていました。
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