KISSYのひとりごと

日々感じたこと、ドライブ日記やDVDのレビューなど…徒然なるままに綴っています。

上田原古戦場(上田市)

2014-01-31 22:33:00 | ぶらり旅

 今日は午前と夕方にはずせない用事があったのですが、午前中の用事が思ったより早く済んでしまい、5時間ちかく時間が空いてしまいました。ちょうど仕事が休みだったことと、この時期にしては暖かかったので、以前から行ってみたいと思っていた上田原古戦場へ行ってきました。ドライブのお供は、NHK大河ドラマ「風林火山」のサントラ!!

 上田原合戦(1548年)は、「武田信玄が敗れた2つの合戦のうちのひとつ」と言われる合戦(もうひとつは砥石城攻め、いわゆる砥石くずれ)で、北信濃侵攻を企てた武田晴信(信玄)が、葛尾城に本拠を置き上田・小県方面に勢力をのばしていた村上義清と刃を交えた合戦です。かなりの激戦だったようで、武田方は板垣信方、甘利虎泰といった宿将が討ち死に、晴信自身も傷を負ったといいます。

 

 現在は県営上田野球場がある場所が「上田古戦場公園」になっているので、まずはそこへ向います。古戦場といえば、長野市では上杉謙信と武田信玄の一騎打ちの像がある八幡原の川中島古戦場が有名ですが、こちらは県営球場がドッシリ腰をおろしており、古戦場の佇まいが感じられません。公園北側には直角に切り立った「岩鼻」と、葛尾城につづく斜面をのぞむことができます。両者の中間の開けたところを千曲川が流れています。

 

 この上田古戦場公園付近には、上田原合戦にちなむ史跡が点在していますが、公園直近にあるのは上田原の合戦で戦死した村上氏の重臣・雨宮刑部の墓のみ。観音寺の墓地(県営上田野球場の南東側)の脇をすすむと、一段下ったところに刑部の墓があります(写真左)。後で訪問する同じく村上氏の重臣、屋代源吾、小島権兵衛の墓とくらべると、きれいに整備されています。

 

 実は、雨宮刑部の墓に行く前には気づかなかった案内板が、野球場の北側にありました。「真田三代ゆかりの地 信州上田」と書かれた案内板には、旧真田町方面まで掲載されています。今日はそこまで行く時間的余裕がないので、上田原古戦場の拡大地図をもとに公園周辺のみの散策となりました。

 

 

【左上】屋代源吾の墓 【右上】板垣信方の墓への入口にある鳥居
【左下】板垣信方の墓。脇には「もののふの夢覚ましなよ鉦叩(鐘叩)」の碑。
【右下】小島権兵衛の墓

 案内板の拡大図とカーナビを照らし合わせながら、屋代源吾、武田氏の重臣・板垣信方の墓の順に回ります。車一台分くらいの狭い道ですが、上田球場から出発して下之条の信号を右折して最初のT字路を左折すればよいので、迷わず目的地に到着しました。小島権兵衛の墓だけは案内板でも道路に面していないので、「当たり」をつけて探してみると、築地バイパスに平行して伸びている畦のような道の道端に権兵衛の墓はありました(写真の左手に農業用のハウスがあります)。

 しかし、どうして板垣信方の墓だけあんなに立派なのだろうか。屋代源吾の墓の前の説明書きによると、源吾は、あそこで討ち死にしたらしい。ほかの諸将もそうなのだろうか? だとすると、最初は地元の人たちが「名のある」諸将が討ち死にした場所に塚をつくり、後にこの地を治めた武田氏が重臣の板垣信方を手厚く葬ったとも考えられるのですが・・・。そのあたりは宿題ですね。

 

 

 次に向ったのが石久摩神社。私はバイパスから入りましたが、いったん古戦場公園にもどったほうがアクセスがよさそうです。この神社の境内に「上田原古戦場の碑」(写真右上)があります。左上の写真の奥が川辺小学校。川辺小学校の西側に「信玄道」(写真右下)があるので、そこまで行ってみます。途中、右手の田んぼの畦に「無名戦士の墓」がありました(写真左下)。こちらは先に訪問した諸将の墓とちがい、上田原合戦で亡くなった「名もない」足軽たちの亡骸を地元の人が集めて葬ったとあります。

 

 「信玄道」に掲示されていた「上田原古戦場地図」絵地図。それをもとに、現在の地図上に武田、村上両軍の布陣を再現しました。左の絵地図でほぼ中央の「お墓」みたいな絵が「上田原古戦場の碑」、左の「小さいお墓」の絵が、これまで紹介した4人の墓です。刀が交差しているところ(×にみえるところ)が主戦場ですから、村上軍が武田軍を圧倒していたことが伺えます。

  さて、車にもどり次の目的地へ出発です。「武田軍もこの道を敗走したのかなぁ」などと考えながら中山道をとおり下諏訪町へ向いました(調べてみたら武田軍は大門峠を通って諏訪へ抜けたようです)。。。。つづく 

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