皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

第二回講義

2017-05-18 20:24:09 | 生涯学習
行田市民大学9期生第二回講義でした。キャンパスは行田市にあるものつくり大学三階教室です。市民大学は行政指導ではなく、市民有志の自主運営を理念とし、生徒にも役割があります。グループ学習に入る前の仮のグループとして、今回は講座進行担当となりました。開始一時間前に集合し、当日の資料を配布、そして受講生の受付をします。今回の講義は「郷土の歴史と地形の成り立ち」講師は行田市教育委員会文化財保護課長中島洋一先生でした。中島先生は入庁以来30年以上文化財行政に携われ、多くの著書に寄稿されるなど、行田市における歴史研究の第一人者です。本題に入る前に、今回の和装文化の足元を支え続ける足袋蔵のまち行田が、日本遺産に認定されたことを経緯も含めて説明してくださいました。日本遺産の良いところは資産構成に対する規制の縛りがない点で、地域振興と結びつける未来へのまちづくりがストーリーとして評価されたと話しておられました。また認定されたことで一気に観光客が押し寄せるのではなく、少しずつ認知度が上がり、地元のひとにももっと知ってもらいたいとおっしゃていました。観光客には大きく分けて二種類のひとがいて、単に物見遊山のかたがいれば、真によいところを取り入れようとする人がいるそうです。観光とは字の通り光を見る、よいところを学ぶことにある。そういう人の意見を真摯に拾って行きたいと話しておられました。
講義の本題は行田の古代史です。荒川、利根川の河川の変遷により地形が大きく変わったこと、また北関東最古の農耕集落の話など、地域の古代史について詳しく解説いただきました。古墳時代後半聖徳太子の側近物部連兄麻呂が八幡山古墳に埋葬された説など、歴史の教科書を思い出しながら、古墳時代には大和政権の支配が武蔵の国まで及んでいたことを実感しました。弥生時代、北九州から広がった稲作は関西、中部へと伝わるなかで、関東には一番遅れて伝わったこと。そのなかで星宮地区の小敷田遺跡が関東最古の稲作遺跡であることなど、身近なことまで歴史を感じることができた貴重な講義でした。担当グループの仕事として、資料やパソコンを教育委員会事務所まで帰しにいきました。やはり受講生は年配のかたがほとんどで、生涯学習としての位置付けですが、若い世代の部類として、かえってたくさんの人に声を書けていただきました。
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竹林に浮かぶ地蔵塚

2017-05-17 22:17:46 | 神社と歴史
国道125号を行田市街地から羽生方面に走り、武蔵水路を渡って500メートルほどの住宅地の中に、埼玉県指定史跡である地蔵塚古墳があります。地区は藤原町。何度も通る道ですが、この古墳がどこにあるのか分かりませんでした。まさしく、住宅地に埋もれるように静かにたたずんでいます。
古墳の高さは4.5メートル。30メートル四方の小さな古墳です。墳頂には地蔵堂があり、中のお地蔵様を拝むことができます。脇の公園と合わせよく整備されていて、山全体が竹林となっています。
県の指定史跡になった理由は、古墳の石室に残る線刻画です。装飾古墳としての価値が認められているようです。昭和に入っての石室の修復工事の際、水鳥や、人物画が発見されたようです。普段は石室は非公開のため、実際に現地で見ることはできませんが、銀色の扉の向こうに、古代史に残る画が残っていると思うと、やはりロマンを感じることができます。こうした古代史や郷土歴史に興味を持つようになったのも「歴史周訪ヒストリア」(まつやま書房)の著者高鳥邦仁先生のおかげですが、こうして調べていくうちに、様々な縁が繋がります。地蔵塚古墳のすぐ近くのお店のご主人は私の会社に勤めていました。かれこれ四年以上、同じ店で働いて射ます。地蔵塚について聞くと、やはり地区の年番が毎年ごとに交代で管理し、近くのお寺の住職に法要も頼んでいるとのことでした。この辺りは各地の神社や小寺と同じいわゆる村持ちという感じでした。また美しく管理された竹林に、筍泥棒が入り警察を呼ぶ騒ぎも起きるそうです。我が家の裏も竹林で今年もすでに筍がとれています。郷土歴史を調べるほど人の繋がりが広がるようで、不思議な縁を感じます。
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聖天様をいぶりだして

2017-05-15 20:03:18 | 神社と歴史 忍領行田
昨日の日曜日に熊谷に住む姉が、母の日のプレゼントを渡しに実家である我が家に帰ってきました。お土産に妻沼の聖天寿司を持って来てくれました。聖天様と言えば、昨年国宝にしてされ熊谷の史跡として大変有名ですね。お寿司も美味しくいただきましたが、あの大きないなり寿司はなかなか独特のものです。
市内北部の須加、熊野神社です。須加の地名の由来は、川州に形成された土地にあります。御祭神は家都御子神、即ちスサノオノミコトとされます。また、熊野夫須美命(イザナミ)速玉男命(イザナギ)をあわせて熊野信仰とされます。境内地裏は利根川土手となっており、地名の由来そのものの景色です。また宮司の書による石碑が数多く見られます。地域の信仰を守るため、長い間ご尽力された様子がわかります。社殿東側には石宮の八幡社と道祖神が祭られます。八幡様はお産の神として信仰があり、道祖神は足の神様として足の痛みのある人が、願をかけていくと言われました。私の本務社である久伊豆大雷神社にも、一の鳥居前に道祖神が祭られています。こどもの頃に父や叔母が「足の神様」と言って拝んでいたことを覚えていています。何故足の神様と言うのか分かりませんでした。古くは参拝者は信仰心から遠路はるばる歩いて各地の神社を巡ったことでしょう。脚を痛めてはお参りすることも困難なことから、本宮の回りに道祖神が足の神様として祭られたことは、容易に想像できます。
埼玉の神社によれば、古くは神社境内地に聖天様があり、縁結びのご利益があるとされ大いに賑わったそうです。そのために熊野神社の信仰が薄くなり、氏子が聖天様を追放しようと考え、松葉いぶしかけたと言われています。このためやむなく移転したのが今の妻沼の聖天様だと言われています。
今の妻沼の賑わい方を、当時の氏子が見たらどう感じるものかと思ったりもいたします。境内地前に作られた太陽光発電です。
神社の佇まいにはややそぐわないと感じますが、時代の流れには逆らえないことでしょう。
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一番のイベント

2017-05-13 20:06:53 | 物と人の流れ
明日は母の日。小売り業界にとって、大イベントです。自分は外食出身ですので、当日の忙しさは身に染みています。今は食品販売ですので、少しは気が楽になりましたが。外食業界ではおそらく年間で一番忙しい日ではないでしょうか。
子供達が母親にプレゼントを買いたいとのことで、ショッピングセンターに出かけました。普段土日に来ることはありませんので、駐車場のこみ方に驚きました。屋上まで満車で場内を右往左往してしまいました。
やはり人と同じように動くことはあまり効率的なことではないと感じます。
博物館や展示場などは明らかに平日の方がゆっくりと見られます。
明日は自分の売り場をしっかり作らなければなりません。混むと知ってもご来店下さるお客様の期待に応えてことが小売り業の使命でしょう。
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真新しい下駄を履いて

2017-05-11 22:49:27 | 神社と歴史
五日のこどもの日は皿尾の疫神祭でした。毎年この時期に行われる祭事で、300年以上続く伝統行事となっています。起源についての文献は見られませんが、江戸期間に疫病が流行り、その祓いをして廻ったことが始まりのようです。農業期の始め、苗代の頃に行われるため、苗代祭りとも呼ばれます。私が小学校の頃までは、神輿も担いで廻りましたが、氏子の減少と高齢化のため、軽トラックに乗せて廻ります。久伊豆神社、大雷神社二柱の御神体を移し(御霊移)、各年番の家々を廻っていきます。また村の入り口三ヵ所に疫神除け神札を差した竹笹に注連縄をしてお祓いをします。中里境、皿尾橋、二つ目(谷郷境)の三ヵ所です。神社の資料によれば、こうした村境に注連縄を張り、神札を立てることは各地で行われいたようですが、車社会の到来とともに、土地改良整備がすすむにつれ行われなくなったようです。当地はこうした祭事が今なお残っています。また皿尾橋は映画のぼうの城のエンディングでも出ていました。皿尾区域は自治会内で10番組までありますが、農家主体であった5番組までで行われています。また年番さんは各家庭を御神酒と厄除けとして神垂のついた樫の枝葉をもって廻ります。また厄除けの意味合いも込めて毎年真新しい下駄を奉納しているいただき、神主として私が履いて祓いをしています。総代さんの話によれば、昔は氏子も皆新しい履き物を用意して履いたようです。こうしたところに祭事としての伝統や意味合いを感じます。すでに私の代になって九年の月日が待ちました。神輿殿を整理したさい、明治から大正期にかけて奉納された額が数多く出てきました。現在の社殿の完成が昭和六年ですので、以前の社殿にて行われていた祭祀の様子がわかる貴重な資料です。神輿殿への収納は氏子総出で行われ、行田締めで手締めがされます。直会は個別の料理ではなく、必ず大皿でいただきます。この辺りは苗代の労を皆でねぎらいつつ、豊作を願ったことが引き継がれています。実際の農家の数は減りましたが、こうした地域のつながりが延々とつながっています。
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