焼け跡のイチジク、夏の朝の楽しみでした
終戦の時、私は3歳だったので戦争の記憶はありません。
あるのは戦後の空腹で貧しかったこと、家と疎開先を同時に空襲で焼け出され母が
愚痴ばかりこぼしていたことくらいです。
夫が定年後ボランティアで中国へ日本語教師として大勢の仲間と赴任しました。
南京の南にある学校に赴任した日本人は3名、そのうちの女の方は終戦前は重慶に暮らして
おられたと、もう1人の男性はとても快活な方で会食の時などに満州の暮らしなどを話されました。
しばらくして何かの折にぽつりと「引き上げの時に別れた妹の行方がまだ分からない・・・」と。
それぞれ何処かに戦争の影がありました。
中国で夫の生徒だった何人かが日本に留学して来て、2005年愛知万博の時、我が家に泊まりました。
20歳前後の彼女たちは「奥さんの結婚式の写真見せて」とか「赤ちゃんの時の写真は?」とか
キャァキャァ大騒ぎ。
「赤ちゃんの写真は空襲で焼けてしまって何にもないの」と私。
話しても彼女たちにはよくわからない風でした。
その前に留学中の男子学生を名古屋城に案内した時にも、天守閣が炎上する写真を見て
「戦争ですか・・・」と驚いていました。
広島、長崎は知っていても日本は中国にとって侵略者であって、空襲の被害があったこと等
知らないようでした。
平和な時に普通の人達の交流こそが少しずつでも本当のことを伝えることになるのだと思います
終戦の日が近づくとテレビは沢山の特集を組みます。
日本の若い方達はどう見ているのでしょうか、大河ドラマと同じ単に歴史の一コマと思うのでは・・・
中国の学生たちのように「日本に空襲があったのですか・・・」などという時代になるのでしょうか。
明治生まれの父が良く言っていた「10年ごとに戦争はあるでな・・・」
父の言葉があたらずに戦後半世紀以上続いた平和な時代、でも、このところ世界は不穏な空気が流れて
この先が不安に思われます。なんとしても平和が続くように祈るばかりです。
戦争はその後の生活にさえ大きな影響を与えています
満州 朝鮮からの引き揚げの混乱と苦境 シベリアへ抑留されて現地で亡くなって行った夥しい日本人 大地の子のように 中国残留孤児になって行った人々 引き揚げてきた後の女性の歌 星の流れに のような哀しさもいっぱいですね
とりあえず私たちは良い時代に生きています
この平和を守るために あらゆる語り部となって次代に引き継いでいくしかありませんね
今日は久しぶりにお日さまが...
戦争の本当に悲惨さを知っている人
たちが少なくなって。私は1歳で
終戦を。私の次兄は戦時中、3歳
で亡くなりました。疎開先でお腹
がすいていたのでしょう、青い
梅干しを食べて。母は亡くなった6月
がくるといつも塞ぎこんでいました。
母は次兄に招かれるように6月に
亡くなって。
中國残留孤児..「大地の子」で初めて
知りました。主人公はあれでも幸せな
人だと聞いたことがあります。
TVでのインタビューで8月15日が
何の日なのか知らない若者が...
平和である今こそ、教育の現場でも
私たちを含めて語っていかなければ。
初孫です。
うれしくてたまらないのですが、
ふと
思います。
この子が大きくなって
また、子ができ、その子が成長して
・・・
ずっと、ずっと
先の世の中って、
どうなってるんだろう。
不安でたまりません。
・・はなこころ
もう、昔話になってしまいそうです。
昔話や歴史の中からは本当の痛みはわからないでしょう。
今のうちに、少しでも伝えたいですね。
また、その話・・・と言われても・・・。
お母様には辛い記憶でしたね。
夫を訪ねて中国へ向かう飛行機で 日本に帰国された残留孤児や家族の方が
はじめて中国を訪ねるグループと一緒になったことがありました。
片言の日本語で「友達がいない。寂しい。」と話されました。
私はいつも窓際に座るのですが、この時は席をゆずると
見え始めた陸地を指さしながら大騒ぎになりました。
残された中国はもちろん、帰ってきた日本も心休まる故郷では
なかったのだろうなと・・・忘れられない想い出です。
現実に「大地の子」は続いているのです。
お孫さんが おばあさんになって また
赤ちゃんを抱っこする時も 安心して
暮らせる世界であって欲しいと思います。
ただただ 祈るしかないのでしょうか。