相場奥の細道 ~ 為替比較サイトもお勧めの本「先物罫線」「相場の張り方」の筆者、鏑木繁先生の連載コラム~

著者なりの相場観を綴ったもので、実際の投資および取引に関する最終決定は、お客様ご自身の判断で行われるようお願い致します。

金相場の話

2006-02-27 | Weblog
この原稿は、筆者の計算では 2 月 27 日付けになる。書いているのは 2 月 8 日で、金の相場はストップ安している。

 しかし、このあたりは買っておくところだ。

12 月限で 2175 円。為替は 117 円 55 銭と少し円高だ。

 この原稿が出る時の金の相場は、上がっていると思う。

 東京金は、 1 枚が 1000 グラム( 1 K)。 1000 倍だ。

 証拠金が 1 枚 10 万円。

 金が 100 円上がると、 1 枚で 10 万円の差金である。

100 万円入れて、 10 枚買って 100 円上がれば、 100 万円の利益である。

 小生の知りあいは、 1500 円時分から買って、 50 枚、 100 枚と玉が大きいから、今では( 2 月 8 日) 1 枚で 70 万円の利益。

 ストップ安が来ても、買い値が安いから、なんともない。

100 枚の買いで、 7 千万円の利益が乗っている。

りあいで、 1 億円、 3 億円と儲けた人もいる。

死ぬのを待つのが人間か

2006-02-24 | Weblog
 相場の世界で、待つは仁という。待つという本当の字は「儒」である。
 儒教の儒。儒者の儒。
  この字は、雨が降る。而して雨の止むのを待つ人。

 人と約束して駅などで待つが、なかなか来ない。
  いまはポケットに電話があるから、少し遅れるというメールが入る。
  だから、宵待草のやるせなさという情感も無い。

 待てば海路の日和かな。
  病院で、待っても、待ってもなかなか順番が来ない。  

その時は、人は、なにを考えているのだろう。

 無念無想もよし。口の中で色不異空、空不異色、色即是空、空即是色と、となえるもよろしかろう。

 筆者は、待つことも修行だと思っている。
  人生、死ぬまで修行。人間は、死ぬのを待っているようなものかもしれない。

待てるか、待てないか

2006-02-22 | Weblog
 天外伺朗さんの書いた『運命の法則』(飛鳥新社・¥1400)に、女運の女神と、
付き合うための15章というのがある。
  また「強運の法則」という項目がある。

  運・不運の法則を書いた本は書店に沢山並んでいる。
  筆者はこの天外さんの書いた本が一番判りやすいと思った。
  好運と不運は表裏一体の関係にある。
  そのことは人間を76年もやってきて、その通りだと感じる。

  悪いことばかり、続かないものである。

  もとより、ある時は、つらなって悪いことばかり起こる時もある。
  しかし、そのあとに好い事ばかり、つらなって来るから、不思議、
不思議、また不思議。

  だから、世の中とは、実にうまく出来ているものだと感心するのである。

  困った時や、どうにもならない時は、努力はするが、待つだけである。

もったいない

2006-02-20 | Weblog
 いまの世の中は、豊かな日本であるが、豊かさの中に、ドップリつかっていると、豊かさを感じなくなる。
 最近「もったいない」という言葉が、注目されだした。

 モノの無い時の事を知らない世界の中で、昔の人が見たら、もったいない、ことばかりであるが、これでもか、これでもか、と贅沢になる。
  モノの無い時代(戦争中)から、敗戦後、ようやくモノが出回り出したころ、本物のコーヒーに、砂糖もついている喫茶店が出現して、感激したことがある。

 モノが無い世界なんて、考えたこともないと思う。
  だから、感謝する気持ちが無いのも当然である。

 戦時中は缶詰でも、サビのきた 10 年も前のものでも、貴重品だった。今は缶詰でも賞味期限と印され、少し古いとすぐに捨ててしまう。

ずれ、モノの無い時代がまた来るであろう。

インディアンの教え

2006-02-17 | Weblog
  アメリカ・インディアンには様々な生き方がある。

  『イーグルに訊け』というインディアンに人生哲学を学ぶ本(天外伺朗・飛鳥新社・¥1800) も出ていた。
  他力にゆだねる。イーグルに訊けといわれる。なるようになってしまうのだ。

  次に「感謝」。ありとあらゆるものに感謝する。それも徹底的に感謝の言葉をのべること。

  第三は「受容」。なにもかも受け入れる。そして「平等」であり、「尊重」である。

  分かちあう。平和主義。そして世の中は循環であることを知る。

  インディアンの世界は老人を大切にする。長老は、困った時の助けになるし、
困ることが起きないよう、常に見守ってくれる。

  われわれの社会は老人を馬鹿にしている。だから変なことや困ったことが日常茶飯事 のように発生する。

『なんとかなる』

2006-02-15 | Weblog
  行くもならず、戻るもならず、立ち止まることも出来ないという、
本当に困ってしまうような時が、人生には、よくあることだ。
  このような時は、どのようにすればよいのか。

  理屈では、一番行きたくない道を行けといわれる。
  それだけは、やはり嫌だという苦しい中の苦しい道を突き進めーと。
  それが出来るくらいなら、悩んだりしない。

  しかし、困るべくして困り悩むべくして、悩んでいるのだ。
  死ぬ思いで、決断して、やってみたらどうか。

  案外、やってみると、これで道が開けることが多い。
  あとは、淡々と、むしろ、順調になるから不思議だ。

  『なんとかなる』。なんとも、ならない問題なんか、この世にありはしない。

  苦労してきた人は、それがいつの間にか、身についている。やってみなされ。

困った時の事

2006-02-13 | Weblog
困るという事は、困るのである。困った、困った。参った参ったと、口から出るにまかせて参っても、困ったことは直らないから参る。
という事はある。こんな時に、どうしたらいいのかは、判らない。

しかし、 76 歳にもなって、これまでの人生に、どれほど行き詰って困ったことがあったか判らないが、いま思うと困ったことは、直るのである。
どのようにしたら直るのかは判らないが、直ってしまう。
そうすると、もう困って行き場のない時のことなど、ケロッと忘れている。

だから人間、生きていけるのかもしれないが、困ったことの無い人などというものは一人もいなかろう。

困るという事は、小さく幾つも幾つも重なったり、ドカドカと大きく困ったり色々あるが、どうにもならない時は 2 ~ 3 日、放っておくしかない。これが解消方である。

大嫌いが大好きに

2006-02-10 | Weblog
 筆者は、奈良西の京の薬師寺のお写経に、かれこれ 10 年も通っただろうか。

  当時、管主の高田好胤さんとも親しくさせていただいた。
 はじめ、薬師寺というのはあんなケバケバしたお寺は嫌いだと思っていた。

 京都から近鉄線で八木に出る途中で車窓から見た薬師寺は派手な色彩である。

 また、当時は夜毎、キタの新地や、ミナミは宗衛門町を、ネオン焼けするほど俳徊していたので、好胤さんが沢山の中年の女性方と料亭から出てくるところも見て、なんと、生ぐさ坊主が、など思っていた。

 しかし、写経に通って、段々接していくうちに、好胤さんが好きになった。

 出会うと、両手をあわせて深々と頭を下げられる。こちらもあわてて両手をあわせて頭を下げる。自分が変わらないと相手は変わらない。好胤さんに無言で、この事を教えていただいた。

相場の神様

2006-02-08 | Weblog
 筆者が、昔、小豆の相場で 1 億円ほど儲かった時がある。

   阪神電車の杭瀬というところに相場の神様がいるというのを聞いておたずねした。
 真夜中に、生駒の聖天さんの上のほうの山の高いところにお酒 2 本と、ばなな、りんご、みかんを持って、それぞれ大きなローソクを買い、お参りする。

 多い時は(たいがい心配ごとや病気のことのお願いの人)が 20 人ほど同行する。

 テープレコーダーを各人が持参して神様のお告げを入れる。

 小生は相場である。奈良から来たお人に告ぐ。小豆相場はまだまだ上がるぞーと、おっしゃる。月に二、三度、寒中の瀧に打たれたり、甲山(かぶとやま)に行ったり、行く場所は変わるが、神様のおっしゃる通りに相場が動いた。

かし、みんなが税金の事を心配しだしてからは、神様は相場と反対のことばかり言うので大損してしまった 。

稲荷山の眼力様

2006-02-06 | Weblog
2 月 10 日が「初午」である。新暦 2 月の最初の午(うま)の日を初午とする。この日( 771 年・和同四年)京都伏見の稲荷神社で祭礼が行われたのがはじめ。

 相場する人は、お稲荷様を信仰する。

 筆者の知人で、北浜の証券会社の人が、筆者のため京都市伏見区稲荷山の「眼力大神様」に赤い鳥居を、お供えしてくれた。

 それからというものは、なんでこんなに調子がいいのか不思議なほど順調である。

 眼力大神には服部頼子さんというお方がお店を守っている。

 お参りにいって、ローソクをお供えして眼力がつくようお願いする人は多いそうだ。

者はまだお参りには行っていないが、服部様が、ちゃんとお供えしてくれて、感謝している。「初午」の日には是非とも御礼にあがろうと思っている。相場の眼力がつくようにと、願うのは欲ばりだろうか。

若い女性で、むんむん

2006-02-03 | Weblog
 「なに物かにつまづく辻や厄落し・虚子」。

 節分の夜、豆を齢の数だけ食べたり、煎った大豆を半紙に包んで、躯の部分をさすって一年、無事でありますように願う。 その包んだ豆を、人に見られないように四ツ辻の、まん中に置いてくる、という風習があって、子供のころ、豆を置きにいかされた。

 節分の次の日が「立春大吉」。「立春に、はげまされたる心かな・賢治」。

 春は、あけぼの。立春と聞くだけで、体がシャンとする。

8 日が針供養だが、いまの若い女性は 14 日のバレンタインの日のチョコレートのほうが気になる。 デパートのチョコレート売り場は、若い女性の、むんむんするにぎわい。

 商売は、道によって、なんだ、かんだと人の気を掴むことに熱心である。相場も、人の気の寄り所である。

転落の方程式

2006-02-01 | Weblog
なんでそんなに苦労して生きていかなければならないのか。
と、苦労ばかりしている人を見ると思う。

  ものごとの考えようで、世の中は、うまくいくようになっているのに。

  「ありがたい、ありがたい」と毎日感謝していたら、必ずありがたい事が起る。
  「おかげ様で、おかげ様で」と感謝していく。なんでもないようだが、
これが出来ないうちは、なに事も、うまくいかない。なぜだろうと考える。

  相場記者を50年もやっていると、一時的に天下を取った人を沢山見てきた。
  そして、たいがい転げ落ちていった。60万円のお金を100億円にした相場師も見てきた。
  落ちていく道には道理があって、きちんとした方程式に乗っている。

  謙虚さが無くなる。ゴウマンになっている。だから、いま天下を取っていても、
その気配が見えたら絶対、絶対、落ちるのである。