ずーっと前になりますが早島町にある戸川家の資料館を訪ねたのが契機と
なり、そこから宇喜多氏に関して非常に興味を持つようになりました。宇喜多氏
重臣の中でも英傑である戸川氏に対しても大変関心を持っています。
その戸川氏がかって居城にした庭瀬城に来る事が出来感慨もひとしおです。
室町時代の末ごろ(約400年前)に備中松山の三村元親が備前の固めとして
この地に庭瀬城を築きました。付近の地名から別名を芝揚(こうげ)城とも呼称
されています。一体は泥沼地で大変な難工事であったと伝えられています。
上方写真にはそのことを証明するように城跡は泥水の堀で囲まれています。
堀の中には沢山の蓮の群落があるのがお分かりでしょうか。
この蓮は大賀ハス(2千年ハス)と呼ばれ、庭瀬から近くの川入(かわいり)
出身で植物学者の大賀一郎博士が千葉県検見川の泥炭層から約二千年前の
古蓮実を発掘しその発芽に成功しました。先生の名前を冠して「大賀ハス」と
命名されています。
地域の人々が連携して先生の故郷であるこの濠堀に大賀ハスを開花させる
ことになりました。花の咲く季節には淡紅色の花弁が、揺らぐ緑の葉蔭からその
神秘的で蠱惑的な姿を垣間見せるでしょう。
さて庭瀬城についての続きですが、関ヶ原合戦の武功によって戸川達安が
二万九千石で入封し、西にある古城の撫川城を西の丸として取り込みました。
戸川氏は元々宇喜多氏の重臣であったのですが、お家騒動に嫌気が差して
主家を離れて徳川家康の配下となり武勲を上げました。戸川氏は嫡子が無く
4代で改易となりました。その後2代に渡り城主の変遷がありましたが、最後に
板倉重高が元禄12年(1699)上総の国高滝から2万石で入封して、明治に
至るまでその子孫がこの地を統治しました。
上方写真の神社は清山神社で寛政5年(1793年)に板倉勝喜氏が建てた
そうです。その神社の境内に巨木が2本立っていました。その根元付近には
「保存樹」と書かれた看板があり、岡山市が大切に将来の人々に受け継いで
行くという堅い意思表示なのではないかと思いました。
因みにこの境内地の一部は児童が遊べる小さい公園になっていて子供達の
歓声がこだましていました。
以上庭瀬城跡のリポートでした。