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★星空日記コリメート風goo★

星や旅などの話題を「ひらい」が札幌から発信。2010年開設。2022年7月にteacupからgooへ引越しました。

2025青森の旅その3(70年前の撮影場所を探す)

2025-05-15 06:00:00 | 家族の記事
 前回のブログ記事 【 2025青森の旅その2 】からの続きです。

 日本では民間向けの国産カラーポジフィルム(外型反転方式カラーフィルム)が現像料込みで1948年(昭和23年)に販売開始されました。撮影済みフィルムを製造元メーカーまで郵送しメーカーが現像する仕組みです。
 なお、民間向け国産カラーネガフィルムの販売はポジフィルムの販売開始から10年遅れの1958年(昭和33年)だったそうです。以上、富士フイルム株式会社の企業情報から引用。


 父は写真が趣味でした。
 カラー写真が珍しい1955年(昭和30年)4月に父はカラーのポジフィルム撮影にも挑戦。新発売されたブローニー版6枚撮りのフィルムで観桜会を撮影したと思われるカラーポジフィルム(カラースライド)を母の遺品整理中に見つけました。
 当時の富士フイルムだと、カラーポジフィルムの現像は神奈川県南足柄町のフジカラー現像所だけで行っていたようで、現像所から父宛に返送されてきた書留の封書が残されています。昭和30年5月13日の消印です。

 違う原板には海辺も写っていることから、観桜会の撮影場所は桜の名所の弘前公園ではなく青森市の合浦(がっぽ)公園と推察。撮影場所の特定をする目的もあって今回の青森訪問となりました。

 調査要因になった70年前のカラーポジフィルムです。

 撮影は恐らく1955年4月ごろ。母に抱かれているのが私。右端の学生服姿は同じ市営アパートに住む大村さんのお兄ちゃんです。

 津軽海峡フェリーを下船した直後に合浦公園へ向かいました。広い合浦公園を歩き回り、ついに見つけました。

 70年前に撮影された場所はここです!
 70年前に三脚が置かれたと思われる場所からスマホで2025年5月9日(金)16時に撮影。長い歳月が流れ、台座上の支柱が新しくなっていました。


 これは父の遺品です。カラーポジフィルムには大村さんのお兄ちゃんが三脚ケースを持って写っているので、70年前の撮影にはこの三脚が使われたはず。


 撮影場所の特定が無事できたことで、車中泊先として予定していた浅虫温泉へと車を走らせました。

 浅虫温泉の沖合に浮かぶ「湯ノ島」に沈む夕日です。
 浅虫温泉の道の駅には「展望浴場はだか湯」が併設されていて、公衆浴場よりも安い360円が湯浴み代でした。ゆっくり入浴し車中泊。おやすみなさい。

 ところで、「会社名」としての富士フイルムの「イ」は大文字です。小文字ではありません。同様にキユーピーの会社名は小文字の「ュ」ではなく大文字の「ユ」。会社名のキヤノンも小文字の「ャ」ではなく大文字の「ヤ」です。どうしてなんでしょうね。

 次回のブログ記事 【 2025青森の旅その4 】に続きます。
コメント (2)
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昭和の4人家族が1人に

2025-05-12 06:00:00 | 家族の記事
 母の遺品を整理していたところ、古い昭和の家族写真が出てきました。


 父、母、兄、そして母の背中にいるのが生後7か月の私です。
 この写真は小型三脚に載せたマミヤ6というブローニー版カメラを使いセルフタイマーで1954年(昭和29年)の春に撮影されました。
 撮影場所は当時住んでいた青森市筒井町奥野の市営アパート玄関前。現在、アパートは取り壊され小さな公園になっています。

 父は釣り・バイク・写真などの道楽三昧で、母が内職して生計をやりくりしていました。


 1958年(昭和33年)ごろの食事風景です。恐らく朝食です。セルフタイマー作動中に兄はカメラ目線で、父と母は私が食べ物をこぼさないよう私を注視中。(笑)
 写真が趣味だった父のお陰で、我が家にはたくさんの写真が残っています。私たち兄弟を育ててくれた両親に感謝。


 父は2002年(平成14年)に満80歳で、兄は2007年(平成19年)に満56歳で、母は2025年(令和7年)に満99歳で永眠し、写真に写っていた家族は私1人になってしまいました。


 写真に写っていた家族が私1人になったという寂しさを感じていたところ、星仲間さんが私を飲み会に誘ってくれました。ありがとうございます。1人暮らしに慣れるまで半年ぐらいかかるみたいですよと星仲間さんが言っていました。また飲み会に誘ってねー!


 違う日に別の星仲間さんが「昭和の歌コンサート」に誘ってくれました。休憩を挟み全15曲。プロの生バンドで昭和の歌を素人が唄います。まるで大人の学芸会の雰囲気でした。会場は大盛り上がり。各人が青春を過ごした時代の歌を熱唱。

 今回誘ってくれた星仲間の1人が唄う「カナダからの手紙」は1978年(昭和53年)の流行歌です。
 その頃、私は運輸省(現在は国土交通省)まで何度も公務出張を命ぜられ、「カナダからの手紙」は新千歳空港から飛び立つ飛行機の旅情を感じた楽曲として思い出深いものがあります。昭和の時代にスリップした気分で唄を聴かせてもらいました。

 音楽はタイムマシンですね。私も生バンドで唄ってみようかな。(笑)
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母が星になりました

2025-03-31 06:00:00 | 家族の記事
 3月10日(月)に入院した母の容態が安定してきたため、3月27日(木)の16時に入院先のソーシャルワーカーさんと面談し、ワーカーさんから転院についての打診がありました。転院先の病院候補をいくつか決めて帰宅。
 帰宅して7時間ほど後のことです。病院から容態急変の電話連絡があったため急ぎ病院へ駆けつけました。

 2025年3月28日(金)の深夜1時過ぎ、私が付き添う中で静かに息が止まり母は永眠しました。晩年は「生きてるのに疲れたー」と言っていた母です。99年の人生でした。




 皆さん、さようならーと母が言っているかのようです。家族葬を終え、母は自宅に戻りました。

 多くの人に支えられ大正・昭和・平成・令和を生き抜き、優しかった母でした。多くの知人からも「可愛いお母さんだねー」と言われた自慢の母でした。これまでのご厚誼、誠にありがとうございました。
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介護タクシーを利用してみて(2025年3月)

2025-03-13 06:00:00 | 家族の記事
 前回のブログ記事で介護タクシーを利用したことを書きました。今回は介護タクシーの体験記事です。

 3月10日(月)10時に介護タクシーが自宅玄関前に到着。タクシーの手配をしていただいたのはケアマネジャーさんです。この日は、9時からホームヘルパーさんとご近所の民生委員さんが自宅に来てくれ、母の緊張をほぐしてくれました。ありがとうございます。


 2階の居間からハンモックスタイルの布を使いスタッフさん2人が母を階下に降ろしています。ベテランさんにはみえない若いスタッフさんなので最初は心配したものの、とても丁寧な対応に感心しました。見かけで判断してはいけないですね。


 玄関でストレッチャー車椅子に乗り換え、玄関から外に出ます。母が戸外に出るのは1年ぶりぐらいです。民生委員さんが付き添ってくれました。


 専用車両にリフターを使い載せています。なお、スタッフさんの撮影・車両の撮影・ブログ掲載はスタッフさんから了承をいただいています。

 私も同乗させてもらい病院に到着。私が入院受付けをしている間、介護タクシーのスタッフさん2人で母を病室まで連れて行ってくれるなど、本当にお世話になりました。
 病院内で使うマスクの持参をウッカリ忘れたのですが、介護タクシーのスタッフさんから母と私の分2枚を頂きました。ありがとうございます。

 介護タクシーで今回対応してくださったのは代表取締役のSさんとその弟さんとのこと。救急救命士や心理カウンセラーの資格をお持ちで、株式会社 民間救急RUNという2023年8月に開業した新しい会社だそうです。とても丁寧な対応と予想よりも安価(全て込みで7,980円)だったので、また利用させてもらいますね。

 病院到着後、母は少し混乱したようですが、優しい看護師さんの対応で落ち着いたようです。

 入院2日目の3月11日(火)、病室の母と面会。両下肢への処置で痛みは軽減してきたとのこと。精神的にも落ち着いているようです。安堵しました。ナースセンターで担当看護師さんと情報の共有を図ってから帰宅。

 入院3日目の3月12日(水)、担当医師から病状の説明がありました。各種検査の結果、重篤な心臓弁膜症と肺炎で何があってもおかしくない危険な状態とのこと。延命治療の可否について聞かれました。

 次回のブログ記事は3月10日に見た惑星の記事です。
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ブログの投稿を再開します(2025年3月)

2025-03-11 06:00:00 | 家族の記事
 2025年2月28日のブログ記事 【 ブログの投稿をしばらくお休みします 】を見た複数の知人から「どうしましたか?」という心配メールや電話を頂戴し、それぞれ個別に返答させていただきました。今回のお休みは家族と私自身に生じた二つのことが偶然にも重なってしまい、ブログ記事を書く余裕がなくなったことが原因です。しかし、3月10日(月)になって解決に向けた一定の方向性が得られたことからブログの投稿を再開します。

 今回の記事は星や旅のことではなく母の介護と私の個人的なことです。このブログは私の日記代わりのブログを兼ねていますので何卒ご容赦ください。介護について悩んでいるかたには参考になるかもしれませんが、興味のないかたはどうぞ読み飛ばしをお願いします。



 99歳になる母はこれまで要介護1でしたが、2月26日(水)の夜に激変。自力歩行はおろか、自分で立ち上がることもままならなくなりました。2月26日の午前中までなら母は室内をゆっくり歩くこともでき、簡単な調理作業も可能でした。日常生活のほぼ全てのことに介助がいきなり必要になってしまったことに驚きました。それまで使っていた歩行器も全く役に立たなくなり、車椅子が必要です。

 母の様子が激変した翌日の2月27日(木)にケアマネージャーさんへ連絡し、室内用車椅子のレンタル、要介護認定区分の変更申請、介護訪問員(ヘルパーさん)派遣について相談。
 3月4日(火)から毎週1回のヘルパーさん派遣が始まり、少しだけ私がホッとできる時間ができました。ケアマネさんからも私1人で抱え込まないようアドバイスを頂戴しています。寄り添ってくれるケアマネさんとヘルパーさんに感謝です。

 母は、これまでの穏やかな表情が急に険しくなり認知機能も急激に低下。3月5日(水)には私のことを他人と認識することがありました。2月中旬から続いている両下肢皮膚の痛みが時々激痛になる影響のためか、幻覚・被害妄想などの錯乱や興奮も少しずつ発出。スタッフへの不信感、服薬拒否、私への攻撃行動も増えてきました。母に寄り添い日常生活のほぼ全てを介助しているつもりですが、被害妄想からくる曲解や非難の言動が常時あって私の気がなかなか休まりません。
 また、3月6日(木)に緊急往診してくれた在宅訪問診療の医師に対し、興奮のあまり手を上げたり不信感マックス状態。医師も対応が難しい状況でした。


 また、詳しいことは省きますが、私の思い違いで数年間にわたり知人に迷惑をかけていたことが最近になって判明。自己嫌悪感で凹んでいる最中に起きた母の急変でした。

 以上のダブルパンチの影響で私が寝られなくなったことや、母の幻覚妄想状態・精神運動興奮状態などの対応を相談しようと3月6日(木)の夕方、母が寝ている間にメンタルクリニックを受診。
 精神科医が時間をかけて聞いてくれた結果、やはり私のことよりも母への対応を最優先し精神科への早急な入院を勧められました。

 以上のことをケアマネさんと在宅訪問診療の医師と共有したところ、早急に母の受け入れ先を検討してもらえることになりました。この日の深夜から明け方にかけ母が壁や家具を叩く騒音がお隣さんにまで聞こえていたことを近くに住む民生委員さんから教えてもらいました。

 3月7日(金)10時に母の知り合いでもある民生委員さんが心配して来宅。4時間も母に寄り添ってもらった結果、ようやく母は服薬を再開。
 両下肢皮膚疾患の激痛が精神疾患的な言動を招いている可能性があるため両下肢の治療を優先することとし、在宅訪問診療の医師とケアマネさんの奔走で総合病院への入院が決定。3月10日(月)10時に介護タクシーで病院へ到着し無事入院となりました。

 2週間続いた自宅内での全介助がようやく一段落です。
 入院先の看護師さんや地域連携室のスタッフさん達から私へ「大変でしたね。しっかり休んでください」とねぎらいの言葉を個別にかけていただきました。病院スタッフの皆さん、私がどんな状況だったのかが想像できるのですね。入院手続きをし帰宅後に体重を測ると2週間で6kg減っていました。ダイエット成功です。(笑)


 2月26日(水)の午前中に皇居の庭園で撮影した寒椿?の一種です。

 今回、初めて介護タクシーを利用した体験を3月13日(木)のブログ記事で紹介しようと思います。その次の3月15日(土)のブログ記事から通常通り「星と旅の記事」に戻ります。ご心配をおかけしました。m(_ _)m
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