ブラジルに行かなくなったのは、このためだったんだねえ。
ご存知の方も多いでしょうが、私は長らく、おじいちゃん子で。
じいコンの私は、生まれてから中学生くらいまで同じ家計で一緒に住んでいたり、大学生・社会人になっても、お互いの誕生日やクリスマス、新年には押しかけてみたり、旅先で見つけたふくろうの小物をお土産に届けたり、(小遣いをいまだにせびる孫を演じてみたり、と)いわゆるじいさんと可愛い初孫だったわけで。
本人はどう思っているかわからないけれど、私が工芸(漆芸や陶芸)やヌードデッサンや日本画に触れたこと、美術大学に誤って入学したことも、すべてじいちゃんの影響。本当は染色も習いたかったのだけれど。それから、アートを買い集めるという散財癖も、Herb&Dorothyももちろんあるけれど、元はといえば、じいちゃんの所縁なんだろうな。
12年前に脳梗塞になり、辛いであろうリハビリで病気を克服し、日展やこの春の光風会展まで出品を続けたじいちゃん。
この3月に一度入院し、退院後は私の持ち帰った家庭画報を眺めながら、あれ食べたいこれ美味しそうと食事を楽しみにしていたのに。再度の脳梗塞で5月3日に再入院したきり、意識の戻らないじいちゃん。
個人的には、12年前から、そして、特に2011年に母が他界してからは、もう逢えるのは最期かもしれない、と覚悟するようになっていたように思う。
何度となく訪れたお見舞いでは、大学の助手さんやお弟子さん、親族たちからも挙って「綾ちゃん(=私、初孫)が生まれたのを本当に喜んでいたよ」と聞かされて涙腺崩壊したけど、感覚としてはいつも愛されているなあと感じていたよ。
確かに、弟と違って、初孫である私は、やりたい放題やっても怒られることなく、のびのびと、そして、自由に、共働きの両親に代わって、自宅勤務の自由業の祖父に育てられた。夏休み(自由研究の油絵は、勝手に手を入れられて学校で選ばれてしまった)や冬休み(書初めも張り切って
、勝手に「有終の美」と楷書でなく行書で半紙を使い切っているので、やむなく提出。春先まで掲示され恥ずかしかった)の宿題の想い出は苦いけれど、いまだに、自由に生きているのよ。
母さんが61歳で死んでしまった時には、もう後悔なく、やりたいことは今日やろうと思って、つめこみぎみの毎日を、たぶん、母の分も勝手に背負って生きてきたんだと思う。
そして、母亡きいま、一番尊敬しているじいちゃんが今朝亡くなってしまった。
祖父孝行は、親孝行よりは多少できたと思うけれど、美大に入学したことや、入学したばかりの大学の留年が既に決定したこと、じいちゃんが借りた画廊を経営している出版社への転職が決まったこと、意識のあるうちに直接伝えられなかったこと、たくさん後悔は残してしまっているのに。
でも、これから道に迷ったとき、これまでの母に加えてじいちゃんの知恵、声が、私にこれから指針として授けてくれるんだろうな。
苦しんだぶん、安らかなお顔に安堵したり。
寂しいぶん、たのしかった想い出を振り返ったり。
最期の12年半、ことばにならなかったじいちゃんのきもちを全部理解できていたのかどうか。
文字や描写もたくさん見せたけど、かたちにならない想いは伝わっていたのかどうか。
辛い別れだけど、本当に心底堪え難い別れになるけれど、またね、と笑っていつものように。
大正の最後の年のバレンタインデーに生まれ、今日、七夕の日に亡くなるなんて、ロマンチストなじいさんだったよね。
じいちゃんを知ってる方へ。
9日18:00 お通夜
10日10:00 告別式
どちらも京王井の頭線「永福町」駅 大圓寺にて執り行います。
今朝方5:08に亡くなり、7時頃に対面できました。
まだ胸のあたりは暖かくて、「まだ生きてるよ!」と、生き返りそうなじいちゃん。
それから、式の執り行いについて葬儀会社やお寺との打ち合わせを一日掛かりで。
お昼には打ち合わせの合間に懐かしい永福町モスで。
トイレの言葉が、ちょっと泣かせる。
夕ごはん。
よし、明日も頑張ろう。