部屋の蛍光管が切れかかっていて、そこから出る電磁パルスがルータに影響を与えているのが障害の原因だった。
蛍光管を外してみると確かにネットにつながるのでそう思っているのだが、因果関係が無線の電磁波であると妄想と呼んでいるものと同じにしか見えない。
統合失調症の症状に電磁波攻撃を恐れたりする描写があったが、毒を恐れたり、地雷を恐れたりするのとそんなに変わっていないのではないかと思われるがそんなことで精神科に連れ込まれて人生を終了する人間もいくらかいるらしい。
昨日、「灼眼のシャナ」の最新刊の話題を持ち出したのだが、途中で読み始めると一つも解らないし、ノートを取らないと読み進められないという感じであって、そこで学習したことは実際の役に何にも立たないというので、苦痛な気がしたことを話してしまった。
消費者が現実から離れて生産者になれないという構図を作れば利益が上がるという職能の有用性の話をする昔のヤクザ的なものがいたが、この職業は極端に読者と著者が離れていないというので逆にそこを持ち上げて消費を生み出そうとするあまり、ただでさえない現実世界での関係を想定以上に壊してしまったというヤクザもいないでもないかもしれない。
著者は真言宗を設定に組み込んでいるが本当にかなり信用している許永中と同じ西日本の人であるようにも感じられ、東日本で仏教用語や三種の神器の名前を家庭内で用いないことを戒めとする天台宗の摩多羅や真言立川流を本当に行っていたと思われる家のことなどを「紅世の徒」の負の側面の設定に思わず入れてしまわれることを想定しなければならないと思っているわけだが、それは私が言ったときで、他の人が言うと味方になれるのかもしれなかった。
虚構でも敵の設定に被った人物というのは現実世界でも同じに感じてしまわれるので描写するとかえって都合が良くないように感じるわけで敵味方がいるノベルというのは書いたり読んだりするとどうも変な感じがして自分としてはやめてしまうし、読者としてはたぶん代替物であってもコミュニケーションが取れた方が面白いのではないかと思っているが状況的に書きづらかったり、発言しづらかったりしそうではある。
「コミュ力」という言葉が横行しているが、コミュニケーションをするだけのアドバンテージを持っていることを測っているのだというのが見えているわけで、正直、各種メディアにある、まずどうしてアンケートに答えるのかも解らない一般市民から少し離れたような素性の知れない人物のありそうでない体験談を書くヤクザ的なものがそのネタとなっていて、実際にはコミュ力のある人間というのは、卒業文集をやめたり、年賀状をやめたり、お見合いのダイレクトメールを無くしたり、友人でもメールを送らないのが礼儀にのようにコミュニケーションの方法を変えても事前打ち合わせがあるかのように即座に方法を変えたりできる仕組みを持つ作為的に利益を囲い込むネットを有している可能性が頻度的には疑惑が持てる(暴力団と宗教団体と政治組織を合計すると日本人の20人に一人はそういったネットワークに関与している可能性がある)状況で間口がないとあっては自分には虚ろな言葉にに聞こえる。
蛍光管を外してみると確かにネットにつながるのでそう思っているのだが、因果関係が無線の電磁波であると妄想と呼んでいるものと同じにしか見えない。
統合失調症の症状に電磁波攻撃を恐れたりする描写があったが、毒を恐れたり、地雷を恐れたりするのとそんなに変わっていないのではないかと思われるがそんなことで精神科に連れ込まれて人生を終了する人間もいくらかいるらしい。
昨日、「灼眼のシャナ」の最新刊の話題を持ち出したのだが、途中で読み始めると一つも解らないし、ノートを取らないと読み進められないという感じであって、そこで学習したことは実際の役に何にも立たないというので、苦痛な気がしたことを話してしまった。
消費者が現実から離れて生産者になれないという構図を作れば利益が上がるという職能の有用性の話をする昔のヤクザ的なものがいたが、この職業は極端に読者と著者が離れていないというので逆にそこを持ち上げて消費を生み出そうとするあまり、ただでさえない現実世界での関係を想定以上に壊してしまったというヤクザもいないでもないかもしれない。
著者は真言宗を設定に組み込んでいるが本当にかなり信用している許永中と同じ西日本の人であるようにも感じられ、東日本で仏教用語や三種の神器の名前を家庭内で用いないことを戒めとする天台宗の摩多羅や真言立川流を本当に行っていたと思われる家のことなどを「紅世の徒」の負の側面の設定に思わず入れてしまわれることを想定しなければならないと思っているわけだが、それは私が言ったときで、他の人が言うと味方になれるのかもしれなかった。
虚構でも敵の設定に被った人物というのは現実世界でも同じに感じてしまわれるので描写するとかえって都合が良くないように感じるわけで敵味方がいるノベルというのは書いたり読んだりするとどうも変な感じがして自分としてはやめてしまうし、読者としてはたぶん代替物であってもコミュニケーションが取れた方が面白いのではないかと思っているが状況的に書きづらかったり、発言しづらかったりしそうではある。
「コミュ力」という言葉が横行しているが、コミュニケーションをするだけのアドバンテージを持っていることを測っているのだというのが見えているわけで、正直、各種メディアにある、まずどうしてアンケートに答えるのかも解らない一般市民から少し離れたような素性の知れない人物のありそうでない体験談を書くヤクザ的なものがそのネタとなっていて、実際にはコミュ力のある人間というのは、卒業文集をやめたり、年賀状をやめたり、お見合いのダイレクトメールを無くしたり、友人でもメールを送らないのが礼儀にのようにコミュニケーションの方法を変えても事前打ち合わせがあるかのように即座に方法を変えたりできる仕組みを持つ作為的に利益を囲い込むネットを有している可能性が頻度的には疑惑が持てる(暴力団と宗教団体と政治組織を合計すると日本人の20人に一人はそういったネットワークに関与している可能性がある)状況で間口がないとあっては自分には虚ろな言葉にに聞こえる。