はたしょう日誌

しぶたに学園 池田市立秦野小学校の
“今”をお伝えしています。

渋中文化祭での感動をお伝えしたいです

2017年11月03日 | 日記
今日、渋谷中学校の文化祭に行ってきました。午前中、世界的なジャグリングのパフォーマーちゃんへんさんの公演がありました。1時間半の公演は、ジャグリング、講演、ラップの三部構成でした。ジャグリングの腕前はさすが世界大会で何度も優勝されただけあって、絶妙なものでした。中学生も手に汗を握るという表現が大げさでないほど、目を皿にしてして集中していました。その後の講演では、在日コリアンである、ちゃんへんさんの生い立ちが語られました。私はたいへん胸をうたれました。その中の一節がちゃへんさんの公式HPにも記されていますので、ここに紹介したいと思います。そして、子供たちにこのような素敵な出会いを作った渋中に心から敬意を表したいと思います。
 
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ちゃんへん公式ホームページ<https://www.thepanicart.com>より
 
【この日本の片隅に】
 

1月26日、おばあちゃんが亡くなった。
昨日はお通夜やったけど、いまいち実感がない。
今日はお昼から葬儀から骨上げまである。

突然ではあるが俺には怒ってることがある。

この内容は、全てが終わってからアップしようと思ったけど、最後のお別れをする前にどうしてもばあちゃんの生きた証を残したい気分になったので、先にアップしようと思う。

人によってはつまらない話かもしれませんが、この話はできるだけ多くの方に読んでもらいたい気持ちがありますので、気が向いたらシェアでもして下さると大変嬉しく思います。

結構長いですよ。

さて、詳しい経緯は分からないのだが、母子家庭だった僕のおばあちゃんは、太平洋戦争の真っ最中に朝鮮半島で母親から「後でオモニ(母)も行くからね」てな感じで、それがほんまに後から行くつもりやったのか、何か事情があって行くことができなくなったのかは謎なんやけど、とにかく訳も分からず10代前半で日本に渡り、結局、戦後もそのまま母と再会することはなく身寄りのないまま朝鮮人のみのコミュニティで生きてきた。

まあガンダムで言うところの、アルテイシアが『100回満月になる頃には会いに行くからね』という母の約束を信じて旅立ったようなものだ。

ほんまに想像を絶するほど孤独やったと思う。

そう思うと余計に最後の方に触れることに対して強い怒りがこみ上げてくるが、とりあえず話を進めようと思う。

後に日本で同じ朝鮮人である僕のおじいちゃんと結ばれ、僕のおじいちゃんおばあちゃんは、男3人女2人の計5人の子供に恵まれた。その末っ子が僕の父だ。

ちなみに、父は僕が4歳の時に亡くなっていて、おじいちゃんは2007年に亡くなっている。

で、長男は子供3人に恵まれたが、いずれも女の子。次男は若くして交通事故で亡くなっている。そして三男である父は、男1人、つまり僕が生まれた。

バリバリの在日コリアン家庭の方なら特に分かる話なのかもしれないが、僕は一人っ子やったので、息子(僕の父)が亡くなったのもあってか、おばあちゃんは孫の中でも息子の男孫である僕を我が子の様に可愛がったのだ。ただ、その可愛がってくれたというのは、アメとムチで言うならば、圧倒的にムチの方が多かった。

僕のおばあちゃんは、身内の中では最も民族意識の高い人だった。それはそれは僕も驚くくらいで、僕は全くそんなこと思わないのだが

『朝鮮民族はこの世で一番優れている民族なんや』

と豪語するくらい誇りを持っていて、それくらい意識が高くなる何かきっかけがあったのかは知らないが、生きてきた時代と経験からおおよそ想像するに、息子の孫の中では唯一の男の僕に対しては特に強く生きていけるように、小学校卒業までは僕にはほんまに厳しかったし、でも、やはりそれは今思えば愛があって優しかったのだと思う。

まあ、そもそもそうしなければいけないっていう考えになってるおばあちゃんを思うとやはり切ないのだが・・・

小学生になるまでは京都府宇治市にある朝鮮人のみが暮らすウトロ地区で暮らしていた。

当時、家に朝鮮半島が北と南に分断する前の地図が貼ってあり、僕は当時、朝鮮人とか、在日とか、それこそ外国人という認識すらなかったので全く意味が分からなかったのだが、毎朝その朝鮮半島の地図に向かって礼をさせられたし、ご飯も孫の中では一番多く与えられ、無理矢理にでもキムチやチヂミを口に突っ込まれ、ご飯一粒でも残そうもんならぶん殴られたし、洗濯物を畳む時も、少しでもズレてたらまたぶん殴られ、運動会の競走で一位以外になったら飛び膝蹴りを喰らわされ、とにかくそういう事に関しては僕にとっておばあちゃんはほんまに怖い存在だった。

まあそれだけ当時の食糧難を経験し、戦後間もない日本で朝鮮人として堂々と生きてきたおばあちゃんにとっては、これからの日本でも朝鮮人として胸を張って生きていける人間にしっかり育て上げたかったのだろう。

でも、そんなおばあちゃんを僕は嫌いではなかった。

と言うのも、買い物に行く時は自転車の後ろに乗せるのは必ずと言っていいほど僕を乗せるし、お散歩に行く時も、必ず僕を連れて行った。二人でいるときは、他の孫たちには内緒でアイスクリームを買ってくれたり、とにかくその一時だけはおばあちゃんの顔は仏になる。

まあ厳しい時と優しい時のメリハリはあったんかな。

そんなおばあちゃんとのエピソードで人生で最も忘れられないのが、なんといっても僕が韓国国籍を取得する時の話だ。

あれは忘れもしない1999年10月のことだった。

僕は中学2年生になる前の春休みにジャグリングを始めるのだが、中学2年生の秋、ふとアメリカに行きたいなと思い、母に相談した。

すると母は凄い真剣な顔になって
「そこに座りなさい」
と強い口調で僕に言った。

母の目が少し潤んでいる。
そして第一声が
「私たち、なに人?」
だった。

変なこと聞くんやな〜と心の中で思いつつ

「朝鮮人」

と僕が言うと、母は眉をピクッとさせ

「そんなこと分かってる!私たちは、北朝鮮の人間なのか、韓国の人間なのかどっち!!」

と、さらに強い口調で僕にもう一度問いかけたのだ。

僕は心の中で
『ん〜ハラボジ(祖父)達は北と南に分断する前に日本にきてたしな〜』

と思い、僕は母に曖昧な感じで
「どっちでもないかな・・・」
と言った。

この瞬間、母の目から涙が流れた。
でも僕の目は離さない。しっかりとした眼差しで続けた。

「私たち在日コリアンというのは、この国では国籍を取らない限りは国籍を持たない存在なんや。お前の夢を叶えるためには、まずパスポートが必要なんや。お前の夢はアメリカにあるんやろ。アメリカは資本主義国家。日本も資本主義国家。祖国は韓国が資本主義国家。できれば韓国の国籍を取りなさい。この話はおじいちゃんおじいちゃん達にも相談しよう」

そう言っておじいちゃんおばあちゃんに会いに行くことなった。

正直、当時僕はイライラしていた。

これが思春期なのか反抗期なのか、とにかく『国籍』なんか選ぶくらいで大げさやなと思ってて、不機嫌のままおじいちゃんおばあちゃんの元へ向かったのであった。

ウトロに着くと、おばあちゃんが留守やったから部屋で待つことにした。母はしっかりとした姿勢で正座で待ってるのに対し、僕はイライラしてたからふてくされながら壁にもたれてじっと待っていた。

数分後、おばあちゃんが帰ってきた。
もうここからのことは一生忘れない。

ガラガラと戸がスライドし、おばあちゃんが部屋に一歩踏み入れたその瞬間

母は大号泣しながらおばあちゃんに土下座し、おでこを床に思いっきり擦り付けながら

「韓国国籍と取らせて下さい!!!!!」

と叫んだのだった。
一瞬時が止まった。

ただ僕はまだこの時、国籍を取るだけでほんまに大げさなんやな〜って心の中では鼻で笑ってたんやけど

おばあちゃんはそのまま部屋から出て行った。
僕はあれ?と思い、徐々に重い空気になっていくのを感じた。

母は一切頭を上げようとしない。

そしておばあちゃんが戻ってきた。右手にマッコリが満タンに入ったやかんを持っていて、蓋を後ろに勢いよく投げ捨て、そのマッコリを目の前で勢いよくゴクゴク飲み始めた。

母は一切頭を上げようとしない。

普段お酒をあまり飲まないおばあちゃんが、ほとんどマッコリを飲み干し、やかんをそのまま母に向かって思いっきり投げつけた。

母の左肩あたりに思いっきり直撃した。

母は一切頭を上げようとしない。

そしておばあちゃんは怒りをあらわにした

「お前!!!今自分の言ってる言葉の意味を分かってこの私に言ってんのか!!!!!」

そう言っておばあちゃんは、目の前で僕の母を蹴り飛ばした。

衝撃すぎて僕は全く動くことができず、母はボコボコにされながらも一生懸命おばあちゃんにしがみつきながら

「お願いします!お願いします!」

と、ひたすら泣きながら繰り返すのだった。

数分が経ち、さすがに疲れた様で、おばあちゃんが少し冷静になった。

沈黙した後、おばあちゃんは息を整え、再び立ち上がり、僕の方へ向かってゆっくり歩いてきて、僕の目の前に静かに座った。

僕は心の中では

『何を言われるんやろ。もしかしたら殴られるんかな』

ビビりながらも殴られることも覚悟し、恐る恐るおばあちゃんの顔を見た。

すると、おばあちゃんの目から今にも涙が溢れでようとしていた。でも一生懸命に涙を流さない様に堪えている。そして、僕が見て分かるくらい、この人は今、感情を最小限に抑えようとしているな。顔全体の筋肉に凄い力が入ってるのが分かる。体は小刻みに震えている。

そして僕に

「お前!!!韓国国籍を取るとかぬかしてんのか!!!!!」

と、僕にもの凄いボリュームで声をぶつけた。
こんな怒り方をするおばあちゃんは初めてや。
ただ僕は、このほんの一瞬、こう考えたのだ。

『分かった。おばあちゃんはきっと、北朝鮮を支持してるんやな。だから、敵国である韓国の国籍を取ることが気に入らんのやな』

と思った。

でも違った。

そんな単純ではなかった。

当事者ならではの考えやなって思った。

さっきよりもさらにもの凄いボリュームで

「お前は南北分断を認めるのか!!!!!!!」

この一言で、僕はおばあちゃんが何を訴えたいのかが分かった。

おばあちゃんは続ける

「お前!50年前!アメリカとソ連が私たちの国にやってしまったあの大犯罪!朝鮮戦争を認めるんか!お前がどちらかの国を選ぶということは!私たちの国は戦争によって分断したことを認めることになるんや!!!お前は!戦争という手段を使って一部の人間だけが幸せになろうとする奴らを許すのか!!!!!」

そういえば今まで一度も見たことがなかった。
おばあちゃんが涙する姿。

よっぽど悔しいのだろう。
僕は恥ずかしい人間やわ。

僕はなんて『国籍なんか』という軽い一言で、この人たちの尊厳と想いを踏みにじってたのだろうか。日本は戦後、朝鮮半島は休戦状態、しかし、無関心はいつでも戦前になりえる。

僕は、この夢を潔く諦めようと思った。
まあある種の挫折ってやつや。

すると、この部屋でもう一人、隣でこんな大騒ぎをしているのにおじいちゃんは部屋の端っこでテレビを観ていた。

まあテレビなんて観てなくて、この会話や喧嘩をずっと静かに聞いてたのだろう。

おじいちゃんが急に立ち上がって僕たちの方に近寄ってきた。

一応言っておくと、僕のおじいちゃんは『朝鮮人とは』とか『祖国がどうのこうの』とか、そういう民族的な事や思想めいたことを一切言わない人だ。

むしろ口数の少ない無口な人。

なので僕は、おじいちゃんはそういう民族意識とか、そういうのをあまり持ってない人なんやなってずっと思ってたんやけど、そんなおじいちゃんが、その日、唯一そういうことを言ったのだ。

「俺たちの国は、50年前戦争が始まって、国も二つに分かれて、兄弟や家族ともバラバラになってしまった」

僕のおじいちゃんは、南北が分断した時、北に兄、南に弟と両親がいる状態で国が分かれた人だ。

そしておじいちゃんは深呼吸をし

「俺の夢は!祖国が統一した時に、生きてるかも分からんバラバラになった兄弟や親とまた一緒に暮らすことや!」

そう高らかに叫んだ。
なんかかっこよかった。

そして

「でも俺の夢は叶わへんかもしれん。でも、こいつの夢は国籍を変えるだけでチャレンジできるんや!」

そういっておじいちゃんは僕に

「お前、国籍なんか変えてきなさい。国籍は変わっても中身は変わらんねん。書類上だけでも韓国人になって、色んな国に行って、色んな人に出会って、色んな文化に出会って、たまに土産話でも聞かしてくれ」

そういっておじいちゃんは、次おばあちゃんの目の前に行って、眉間にしわを寄せながら少し怖い顔になって

「今日は怒る日じゃないんや。今日はな、孫が夢を持ったことを祝福する日なんや。今すぐお祝いするから、美味い飯作ってこい!!!はい、この話これで終わり!!!!!」

そう言っておじいちゃんはまた元の位置に座ってテレビを観はじめ、おばあちゃんはそのまま台所へ行ったのだった。

数分後、僕は台所を覗き込んだ。
おばあちゃんが、大号泣しながら一生懸命料理を作っていた。

僕には、あの時おばあちゃんがどういう気持ちで料理を作ったのかは分からない。いつか聞こうと思ったけど、もう聞くことはできなくなってしまった。

それ以来、おばあちゃんの口から朝鮮民族に関する言葉を聞かなくなったと思う。

それからのおばあちゃんが発する言葉と言えば

『仕事はうまくいってるか』
『彼女はできたか』
『結婚はまだか』
『曾孫を早く見せろ』

と、そんな感じのがほとんど。

とまあこんな感じで、おじいちゃんおばあちゃん、もちろん母のおかげもあって、僕は韓国国籍となり、後にプロパフォーマーとなり、これまで65を数える国や地域にも訪問することができた。おじいちゃんおばあちゃん達が祖国の地に足をつけることができなかった南北両方のコリアでもパフォーマンスをすることができた。できることならば、南北が一つになることがあれば、ワンコリアの地でパフォーマンスをしたいと思う。

さて、ここまで読んでいただいた方に一つだけ、自分に置き換えて想像してみてほしいことがある。

僕のおじいちゃんおばあちゃんの場合、13,14歳くらいに、当時、色々な理由で日本に行き着いた。そして、日本で終戦を迎える。

そして当事、16,17歳くらいだっただろう僕のおじいちゃんおばあちゃんは、さあ国へ帰ろうと思った矢先、次は自分の国で戦争が始まるのだ。

朝鮮戦争勃発。

でもおじいちゃん達は当時きっとこう想っただろう。

『この戦争も前の戦争みたいにすぐに終わるだろう』
『近々祖国へ帰って、兄弟や両親とまた一緒に暮らせるだろう』

しかし、そう想い続けて約70年が経ってしまった・・・。

正直、僕はほんまにアホやから北と南が一つになることで本当に平和になるのか、不幸な想いをする人が今よりも減るのかは全く分からへんし想像もつかへん。

でも一つ確かなことはある。

おじいちゃんやおばあちゃんが、祖国に残してきた痛烈な想いと、この国、日本で残した未来への希望は、残された特に若い世代の人たちにとっては何かしら明るい方向へ導くヒントとなり、そして前へ進める道標になることは間違いないだろう

と・・・

てなわけで、そろそろ最初の方で言ってたことに触れるが、俺には前からムカついてることがある。この件に関しては心の中では色々思うことはあるものの、特に言わないようにしてきたが、今回おばあちゃんが亡くなったことで冷静に色々と考えていたら心の底から怒りが込み上げてきた。だから今回ははっきり言わせてほしい。

数年前のことだ。別にそれに限ったことではないから誰がとかどの団体とかは言わないが、俺の目の前でおばあちゃんに言い放ったのさ。

『キムチくせーんだよ!さっさと国に帰れよこのクソ朝鮮人が!』

すまない。
もしかして俺がおかしいのだろうか。

分かる人がいたら俺に教えてくれないか。
俺には全く分からない。

俺のおじいちゃんやおばあちゃん達は、何か悪いことをしたのだろうか。

聞くところによるとおばあちゃんが朝鮮半島から出る時、持ち物はポケットに家の鍵と飴玉数個だったそうだ。家の鍵を持って出たのは、きっとまたいつか家に帰る日が来ると信じて疑わなかったからなのだろう。おばあちゃんは後からくるはずの母と一緒に飴を食べようと思い、しばらくの間、来る日も来る日も空腹を我慢して食べずに大切に持っていたらしい。家族はおろか、最愛の母の写真すらなく、終戦後、母を尋ねてアリラン峠を三千里どころか、朝鮮戦争やら南北分断やらで次々と悲劇の現実を思い知り、しばらくの間はという気持ちでこの国で一生懸命に雨風をしのぎながら日々を過ごし、やがて働き暮らし、結婚し、出産し、そしてこの日本で生きていくこととなった。

憶測だが、自分が母になったことで、この国で『子供達のために生きるんだ』という強い覚悟があったのかもしれない。『帰れない』から『帰らない』と遂に割り切ったのだろう。そうじゃないと、孫である俺に対してもあんなに厳しくはしないはずだから。

そんな母を探すことすらできない時代と環境と状況だったあの女性は、自分の持ってる飴を後から来る母にも分けてあげようと心弾ませて待っていた心優しいあの女性は、朝鮮から出る時に持って出た家の鍵を死ぬまでずっと首にかけ、来なかった母のことを恨みもせずにいつまでも忘れないようにしたあの女性は、なんであんなこと言われなあかんかった?

キムチ臭い?母の写真すら持っておらず、逢うことができない母の存在を身近に感じるために、せめて母がかつて自分に作ってくれたキムチの味だけでもと一生懸命再現して、子供達や孫達に「これオモニ(母)の味と一緒やねん」と顔からはみ出るくらいに幸せそうに笑うあの女性は、なんであんなこと言われなあかんかった?

分かる人がいたら俺に教えてくれないか。
俺には全く分からない。

俺のおじいちゃんやおばあちゃん達は、何か悪いことをしたのだろうか。

なあ教えてくれよ。
もしそうなら俺が謝るからさ。

朝鮮人死ねだ?
朝鮮人を殺せだ?
ウジ虫だ?
ゴキブリだ?
国へ帰れだ?
キムチ臭いだ?

言葉でも文字でも、殴られるよりも痛さを感じることってあるさ。

もうこれ以上、現在に立ち止まるような訳の分からんヘイトスピーチや朝鮮人に対してのネットでの心無い誹謗中傷の書き込みや運動云々はどうかやめてくれないか。それをやってるお前達のデモ行進なんて、むしろ日本の明るい未来から後退している。なぜそれに気づけない。

そして、この国に本当に人間がいるならば、勇気を持ってそれらを許さないでくれないか。何も朝鮮人だけに限ったことではないんだ。全ての人に関わる話で、人が一生懸命に生きた想いや尊厳を粗末にされることは許してはならない。決して人のためでなくてもいい。自分の明るい未来のために重い腰をほんの少しだけ上げてくれるだけでいいんだ。

そして、国籍とか、性別とかなんやらかんやら関係なく、どんなに辛くても勇敢に前に進もうと一生懸命に生きている生き証人達の生の声という貴重な歴史資料にしっかりと触れてほしい。

そして、あなたの目で見たこと、耳で聞いたこと、頭で考えたこと、そして体で感じたこと、それらをあなたの口からしっかり相手の目を見て喋ってくれないか。

大切な声ってのは案外小さくて聞こえにくいもんなんや。
側に歩み寄れない者は、やはり遠くに歩んでいくことは難しい。

おばあちゃんにとってこの日本で生きて死ぬということが、おばあちゃん自身にとってどうなのかは当事者ではない俺には分からない。

祖国に帰ることができず、母に逢うこともできず、それでも強くあろうとしたあの女性も、もしかしたら皆の見えないところでは孤独を噛み締め、声を殺して密かに泣いていたのかもしれないし、この日本という異国の地で新しく家族を持てたことに心から幸せを感じていたのかもしれない。

死ぬ間際、僕が愛するこの日本の風景がおばあちゃんの目にはとても美しく見えて、心から幸せな人生だったと思って眼を閉じててほしいと願うのみだ。

俺は今日、最後におばあちゃんの聞けなくなった声を、心でしっかりと感じようと思う。

以上です。
そしてありがとうございました。