あ~ら、カミキリムシ!
今日は、6年生キャリア教育講演会第1弾・・・蔵園さん・・・
バイク事故で意識不明、半身不随になったこと、友、親、先生の支えで退院を果たしたこと、懸命なリハビリの末、ダンスができるようになるまでになったこと、障がいを持つことになって初めて気づいた日々の生活の大切さ、障がい者差別のおかしさ、昔と同じように付き合ってくれる友だちの大切さを丁寧に語ってくれました・・・
お話の後、質問コーナー・・・たくさんの質問がでましたが、これも丁寧に答えてくださいました・・・
たっぷりお話をうかがい、さまざまな気づきをいただいた講演会になりました・・・
その後、藏薗さんは給食もいっしょに
食べていただき・・・・
その後、腕相撲対決・・・つ、強い・・・腕には自信がある藏薗さんでした・・・・
今日の出会いを大切に・・・・6年生は、大人の階段をのぼっていきます・・・
<藏薗さんのお話>
みなさん、こんにちは。藏園大樹です。
今日は、ぼくが体験した話をさせていただきます。
【心こそ大切なれ、心は無限大】これが、ぼくの人生のテーマです。「途中、何があっても絶対に乗りこえられる。」という経験をしました。
ぼくも、みなさんと同じ年代のころは、友だちといっしょに山や川で遊んだり、小学校ではソフトボール部、中学ではサッカー部として学校生活をエンジョイしていました。
平成20年1月、ぼくの人生は大きく変わりました。いつも通っていた道で、事故にあうなんて思いもしなかった。
ぼくは、救急救命センターに運ばれ、「両足大たい骨骨折」と「脳神経損傷」としんだんされ、「死をかくごして下さい。」と告知を受けたようですが、救命医のけん命な処置のおかげで、一命をとりとめることができました。
しかし、意識は戻ることなく、寝たきりの状態で一ヵ月が過ぎようとしたころ、転院の話が出て、受け入れ先の病院を探しましたが、意識不明で回復の見こみもないぼくを、地元の病院や他市に問い合わせてみても全て断られる状態でした。
そんな中、茨木市にある『北大阪けいさつ病院リハビリセンター』が、「このまま回復せず、植物人間になっても苦情は申し立てない。」との条件つきで、受け入れを承だくしてくれました。
転院してからも意識は回復せず、いつ行っても気持ちよさそうに寝ていたと、後日、母から聞きました。
約2カ月後、目が開くようになりましたが、全身がマヒし、動くこともできない、声を出すことも、自分の力で食事もできない状態が続きました。体重も元気なころの半分まで落ちてしまいました。寝たきりの状態のぼくを、リハビリの先生は回復に向かわせようと、けん命に刺激をあたえ続けてくれました。
事故から半年が過ぎたころ、消えいりそうな声で「あ ・ り ・ が ・ と ・ う」と、言えたそうです。
それからは、じょじょに片言で話せるようになり、マヒの残る左手で食事も自分でできるようになりました。
そして、事故から8カ月目に退院し、自宅にもどりました。自宅にもどっても、右手は固まったまま、右足は体重をかけることができず、座ることも、寝返りもできない状態だったようです。
ぼくは事故前後1年間くらいの記憶が失われ、以上は母から聞いた話です。
自分の体を自由に動かすことができないもどかしさから、両親や兄弟に当たり散らす日々を繰り返していました。
そんな喜怒哀楽の激しい中にあっても、友人や学校の先生が家まで来て、はげましてくれました。
現在は、事故前の記憶は少しずつもどって来ていますが、後遺症で右半身マヒ・記憶障害が残ってしまいました。
その時に、ぼくが人生の師としてあおぎ、尊敬する先生の言葉を用いて、
【冬は必ず春となる】
【小事をもって 大事をなす】
【一つ一つの課題を確実に勝ち取れ】
【人の前を灯せば、我が前も明るくなる】
と語り、「大樹が後ろ向きのことばかり言うのを聞くとおれもつらいし、遊びに来てくれる友人もつらいと思う。大樹が「こうなりたい、こうしたい」ということを、具体的に紙に書いて、毎日、声に出して言い続ければ、絶対にできるようになるし、みんなが協力してくれる。」と言ってくれ、【不可能を可能に】していく大事さを教えてくれました。
ぼくは、《この体でできること》は何かを考え、母に押してもらっていた車イスから、電動車イスへ変えることに挑戦しました。
自分で車イスを操作して出かけてみると、外は危険だらけでした。歩道を走ると、傾斜(けいしゃ)のあるところでは、ハンドルをとられ、まっすぐ進めないし、段差があると大きくゆれてすごくこわいです。
ある時、池田駅のところで、車イスの前輪が歩道の段差にひっかかり、転倒し、車道に放り出されたことがありました。その時、近くにいた外国人の方数名がかけ寄り、助けてくれ、「大丈夫?けがはない?」と片言の日本語で話しかけてくれました。すばやい行動がすごくうれしくて、10分前のことも覚えているのが難しいのに、その優しさがうれしくて、今でも鮮明(せんめい)に覚えています。
また、見舞いに来てくれた友人宅に、お礼と元気な姿を見てもらうために動いていた時ですが、橋を渡り切ろうとしたところ、最後が階段になっていて、車道に出るにも改修工事のため、出ることができずにいたら、前から来られた方が、車イスを持ち降ろしてくれました。
成人式の時には、同級生が車イスを押したり、トイレ介助をしてくれました。
次は、立つことに挑戦しました。右足に力が入らないので、何度も転倒しましたが、最初は10分、20分と時間をじょじょに長くしていき、最終目標とした3時間まで、つえを使い、立つことができるようになりました。
今は、室内はつえを使い移動しています。外でも約30分歩くリハビリをしています。障がい者という身になってから、ちょっとした人の優しさがとてもうれしく思います。
障がい者となったことで、一部の人たちは、汚いものをさわるような行動、見下すような言動で接してくる人もありましたが、どん底に落ちた時に立ち直るきっかけを与えてくれたのは友だちでした。
・事故前と同じように接してくれる人がいた事。
・自分の話をちゃんと聞いてくれる信頼できる人がいた事。
・自分の目標を的確に表してくれる人がいた事。
・達成するまではげまし続けてくれる人がいた事。
・目標に向かう上でどうすれば良いか相談できる人がいた事。
そういった人が最初は一人から始まり、今では多くの友人・知人がはげましてくれ、僕の目標達成を一緒に喜んでくれています。
昨年、某団体で「ダンスの演目に参加してみないか」とさそいがありました。
「こんな身体ですけど」と答えたら、「自分の気持ちに“負けたらあかん”挑戦する事が大事なんだ」と激れいされ、参加する事を決めました。
練習は、夜8時から10時まで、週3日を3か月休むことなく参加しました。
他のメンバーの上達のすごさに、自信そうしつする事も多々ありましたが、参加メンバー、スタッフの激れいもあり、僕は、まずかべつたいに歩く練習、大会一週間前からは、何も持たず歩く練習を繰り返して行いました。本番では、メンバー全員の心が一つとなり大成功で終えることができました。今は、何事への挑戦も“負けたらあかん”をつき通して行おうと思っています。
ぼくの今の夢は、誰が見ても幸せな家庭を持つことです。がんばれば、幸せな未来が待っているのはまちがいないと信じています。
人は、なんでも自分1人でやっているという思いがあるけど、実はたくさんの人が助けてくれている、とぼくは思っています。
最後に、ぼくからみなさんにお願いがあります。
●障がい者の人に会ったら、健常者の人と同じように 接してあげてほしい。
●障がい者の人が困っていたら、見て見ぬふりをしないで 少しの勇気を出して、何をしたらよいのか具体的に聞いて、 手を差しのべてあげてください。
●障がい者だから区別されても当然だと思うが、 差別はしないでほしい。
ぼくは、勉強が嫌いだったけど、親身になって接してくれる先生、なんでも話ができ、自分のことを一番わかってくれる友だちがいる学校に行くことが、楽しくて仕方がありませんでした。
みなさんも、つらいこと、楽しいことなど、たくさん経験すると思いますが、相手のことをわかってあげられる自分に、自分のことをわかってくれる友だちを、一人でも多くつくってください。
今日は、ぼくの話を聞いていただき、本当にありがとうございました。