Houzenji Alley, Chuo Ward, Osaka City
さてさて、大阪を代表する繁華街である難波の町を、ワタクシは北に向かって歩いていました
。

商店街になんとも不思議な、いや、奇妙奇天烈な自転車が停まっていました。
誰かが乗ってきて、この場所に停めたと思われるのですが、どうしてこんなデコレーションをしているのでしょうか。
そう思ってこの自転車を眺めていたら、ワタクシよりも年上で薄汚い格好をしたオッサンが自転車に乗って去って行きました
。

こういうオバハンがよくテレビなどで紹介されますが、実際に大阪にいるんですよ。
生息しているのは大阪の下町。商店街などでこういう人に出会うことはよくあります
。

「法善寺横丁」へとやって来ました。「法善寺横丁」と書かれた看板がありますが、この看板の文字は藤山寛美さんが書いたものです。
藤山寛美というと昭和を代表する喜劇役者であり、ミナミの飲み屋街の帝王のような存在だったんですよ。
彼の豪快な逸話は山ほど残っていますが、今の時代ならテレビからも舞台からも追放されていたでしょうな
。

法善寺横丁の歴史は江戸時代までさかのぼります。この時代は法善寺の境内に寄席が2軒あっただけといわれています。
法善寺の境内が栄えてきたのは、明治の終わりから大正・昭和にかけてです。
当時のなんば・道頓堀は、歌舞伎や人形劇などの文楽が盛んで船場の旦那衆の娯楽の場所、商談や社交の場所として栄えていました。
なんば・道頓堀に向かう途中で法善寺に参拝に来る人や芝居小屋に向かう芸能の人を対象に、
また芝居小屋へ向かう旦那衆を乗せた車引きの休憩所として、茶店や屋台、露店といったお店が集まりだしたのが横丁の始まりだそうです。
そんな歴史を調べるのはワタクシにとって実に楽しいことなのです
。

法善寺にある水掛不動尊は念ずることでご利益を与えてくださり、どんな願いごとでも手助けをしてくださると信じられています。
人々はお不動さんに水を掛け、手を合わせて願いごとをします。ですので、お不動さんは常に苔で覆われているんです
。

こんな場所もガイドブックで紹介されたり、SNSに載ったりするのでしょうね。
ワタクシの横には東南アジアから来たと思われるグループが、楽しそうに写真を撮っていました
。

法善寺横丁は石畳が美しいのですが、元々は石畳ではなく普通のアスファルト通りだったんです。
昭和55年(1982年)に、古くなった排水本管の工事によって横丁内の路地が壊される時に、
元々アスファルト舗装だった路地を「石畳にしよう」という案がでました。
この時に提案してくれたのが、法善寺横丁内のお店を良く利用していた、当時南海電鉄(南海電車)に務めていた方々です
。

南海電鉄の協力のもと、大阪と堺を結ぶ阪堺電車の路面の敷石に使っていた石を譲り受けて石畳にしました。
なお、阪堺電車というのは南海電鉄の子会社なんです。
こうして、現在の風情ある法善寺横丁の雰囲気を生み出す石畳は完成しました。
今では風情ある石畳の風景は、すっかり法善寺横丁に馴染んでいますね
。
使用したカメラ:FUJIFILM X-Pro2
藤山寛美が現役の頃、当時は豪快な遊びで知られる芸人さんも多く大阪にはこんな言葉があったそうです。
「キタの雄二にミナミのまこと、東西南北藤山寛美!」
雄二とはミヤコ蝶々さんと夫婦漫才で一世を風靡した南都雄二。まことは「てなもんや三度笠」で人気絶頂だった藤田まこと。
共に遊び人で有名でしたがその遥か上を行くのが藤山寛美だということです。
芸人の藤山寛美、俳優の勝新太郎。こんな人たちが活躍した時代というのは今の価値観からすればダメなことだらけでしょうが、
私は芸人なんて破天荒だからこそ面白いのだと思うんですがねぇ。
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さてさて、大阪を代表する繁華街である難波の町を、ワタクシは北に向かって歩いていました



商店街になんとも不思議な、いや、奇妙奇天烈な自転車が停まっていました。
誰かが乗ってきて、この場所に停めたと思われるのですが、どうしてこんなデコレーションをしているのでしょうか。
そう思ってこの自転車を眺めていたら、ワタクシよりも年上で薄汚い格好をしたオッサンが自転車に乗って去って行きました



こういうオバハンがよくテレビなどで紹介されますが、実際に大阪にいるんですよ。
生息しているのは大阪の下町。商店街などでこういう人に出会うことはよくあります



「法善寺横丁」へとやって来ました。「法善寺横丁」と書かれた看板がありますが、この看板の文字は藤山寛美さんが書いたものです。
藤山寛美というと昭和を代表する喜劇役者であり、ミナミの飲み屋街の帝王のような存在だったんですよ。
彼の豪快な逸話は山ほど残っていますが、今の時代ならテレビからも舞台からも追放されていたでしょうな



法善寺横丁の歴史は江戸時代までさかのぼります。この時代は法善寺の境内に寄席が2軒あっただけといわれています。
法善寺の境内が栄えてきたのは、明治の終わりから大正・昭和にかけてです。
当時のなんば・道頓堀は、歌舞伎や人形劇などの文楽が盛んで船場の旦那衆の娯楽の場所、商談や社交の場所として栄えていました。
なんば・道頓堀に向かう途中で法善寺に参拝に来る人や芝居小屋に向かう芸能の人を対象に、
また芝居小屋へ向かう旦那衆を乗せた車引きの休憩所として、茶店や屋台、露店といったお店が集まりだしたのが横丁の始まりだそうです。
そんな歴史を調べるのはワタクシにとって実に楽しいことなのです



法善寺にある水掛不動尊は念ずることでご利益を与えてくださり、どんな願いごとでも手助けをしてくださると信じられています。
人々はお不動さんに水を掛け、手を合わせて願いごとをします。ですので、お不動さんは常に苔で覆われているんです



こんな場所もガイドブックで紹介されたり、SNSに載ったりするのでしょうね。
ワタクシの横には東南アジアから来たと思われるグループが、楽しそうに写真を撮っていました



法善寺横丁は石畳が美しいのですが、元々は石畳ではなく普通のアスファルト通りだったんです。
昭和55年(1982年)に、古くなった排水本管の工事によって横丁内の路地が壊される時に、
元々アスファルト舗装だった路地を「石畳にしよう」という案がでました。
この時に提案してくれたのが、法善寺横丁内のお店を良く利用していた、当時南海電鉄(南海電車)に務めていた方々です



南海電鉄の協力のもと、大阪と堺を結ぶ阪堺電車の路面の敷石に使っていた石を譲り受けて石畳にしました。
なお、阪堺電車というのは南海電鉄の子会社なんです。
こうして、現在の風情ある法善寺横丁の雰囲気を生み出す石畳は完成しました。
今では風情ある石畳の風景は、すっかり法善寺横丁に馴染んでいますね


使用したカメラ:FUJIFILM X-Pro2
藤山寛美が現役の頃、当時は豪快な遊びで知られる芸人さんも多く大阪にはこんな言葉があったそうです。
「キタの雄二にミナミのまこと、東西南北藤山寛美!」
雄二とはミヤコ蝶々さんと夫婦漫才で一世を風靡した南都雄二。まことは「てなもんや三度笠」で人気絶頂だった藤田まこと。
共に遊び人で有名でしたがその遥か上を行くのが藤山寛美だということです。
芸人の藤山寛美、俳優の勝新太郎。こんな人たちが活躍した時代というのは今の価値観からすればダメなことだらけでしょうが、
私は芸人なんて破天荒だからこそ面白いのだと思うんですがねぇ。