永井君が、宣誓に答えることなく沈黙を続けていたので、牧師は優しく諭す様に
「永井さんには、私の言葉が聞こえましたか?」
と聞くと、彼は「ハイ」と、か細い声で素直に返事したので、牧師は親切に、再度「貴方は、新婦を生命のかぎり愛し・・」と、繰り返して告げると、彼は暫し間を置いて、参列者にも明瞭に判る様に、はっきりとした言葉で
「僕は、誓うことができません!」
と、自信たっぷりな口調で、牧師の顔を見て答えた。
珠子は、永井君らしい聞きなれた何時もの元気のある声で、はっきりと答えたので、、瞬間、目前でおきた突発的で奇妙な現実を理解出来ず、訳もわからずに心の中で、アッ!救われた。と、思った。
それは、今のいままで、官能小説の主人公とダブって連想していた屈序と羞恥に対する嫌悪感。
重苦しく息の詰まるような思いで、今夜からの猥らな行為を、耐えて受け入れるのが、妻となる以上夫に対する義務と考え、恐怖と悲壮な思いでいただけに、彼の言葉を素直に聞きとれず、自分の耳を疑った。
突発的な出来事に、彼の言葉が何かの間違いではないかと疑心暗鬼な思いにかられて不安感は拭えず、間違いであったとしたら、やはり、今夜からは、彼の気持ちに逆らわず、彼の求める行為を嫌々ながらも受け入れることも致しかたないと改めて覚悟を決めていた矢先だけに・・。
その反面、若し、彼が自己に忠実に答えたとしたならば。と、思うと全身から力が抜けて、不安な気持ちでいたことが急に萎えて、不思議にも永井君に、かぎりない好意が湧くのを覚えた。
式場内は、参列者の声を殺した小さなドヨメキがおきたが直ぐに静まり、一瞬、凍りついた様な不気味な雰囲気が漂ったが、彼は微動だもせず、平然と構えていた。
牧師も、これまでに数多くの結婚式に司祭に招かれたが、誓いの言葉を宣誓する最も重要な段階で、新郎に明瞭に否定されたのは、これが初めてで、永井君の自然な態度と返事が間違いないと確認し、小首をかしげて苦渋の表情で、次の式次第をどの様に進めたら良いのかと戸惑ってしまった。
少し間をおいて、永井君の母親が、顔色を変えて晴れ着の裾を押さえながら彼の傍に駆け寄り
「勝則!。いまになって、なんてことを言うの!」
「お前だけでなく、永井家の恥ですよ」「誓います。と、はっきりと言いなさい!」
と叱りつけて彼に翻意を促し、牧師に縋りつく様に
「この子に、もう一度尋ねてやってください。気が小さいだけに式の雰囲気に呑まれて上がってしまい、うっかり返事を取り違えた様ですので・・」
と、泣き入る様な顔で懇願すると、牧師は気が進まない様子だったが、高額な謝礼金を受け取っている手前懇願を断ることも出来ず、妻の智代も牧師の傍らに寄り「貴方、願いを聞き入れて・・」と助言するので、牧師は、渋々と永井君に向かい、再度、重々しい口調で
「それでは、もう一度、新郎の勝則さんに誓いの言葉を確かめます」
「・・・・貴方はこの女性と結婚し・・・かたく節操を守ることを誓いますか」
と尋ねたが、彼は答えることなく俯いて頑なに沈黙を守っていた。
珠子は、彼の真意が理解出来ずにオロオロとして心が動揺し、牧師同様に、この先どうなるのかと心配で胸が張り裂けそうに動転した。
すると、少しざわついいた会場内の一瞬の間隙を突くように、式場の後方の席にいた健ちゃんが立ち上がり、雰囲気を変えるよに大声で「ハ~イッ!」と叫ぶと、それは沈黙した異様な会場の空気を稲妻のように突き破るように響きわたった。
健ちゃんは、周囲を見渡したあと
「ここに、長い間、新婦に切ないほどの片思いを抱いて来た、今にもこの世から消えいりそうな男がおります。彼ならその誓いを7~80%位守れると、親友の立場で確信します」
と告げ、続けて
「どうか、この哀れな羊に牧師さんの暖かい心で神のお恵みを与えてください」
と、優等生らしい言葉で話したあと、彼の天性のユウーモア精神がでてしまい
「牧師さんも、神様のお言葉は厳しすぎて100%は守れないでしょう?」
「私も、自信がありません。然し、私は最高の幸せを感じて、妻と楽しく暮らしております」
と、早口で一気に話したあと
会場内の小さな苦笑と、苦渋する牧師を見る智代夫人の目に<よくぞ言ってくれたわ>と微笑む表情を察するや、シマッタと気ずき、少し間を置いてゴホンと空咳をし、今度は落ち着いた声で、参列者に明瞭に判るように
「永井君が、最後の瞬間に誓いを拒んだのは、彼の良心の現れだと思います」
「私の友人に、是非、その誓いを立てさせてください」
「彼は、珠子さんと5年越しの恋人同志で、町内の商店街や周囲の人達もそれを公然と認めています」
と発言すると、誰もが予期しない展開に会場内が静まりかえった。
智代夫人は、その場を千載一遇の好機と捉え、牧師の顔に眼鏡の奥くから冷たい視線を投げかけてチラット覗き見て顔を寄せ、耳元で
「あなたは、どうなの?。」「神の教え通り、節操を守っていらっしゃるでしょうね」
と、囁く様に耳うちすると、牧師は渋い顔で妻の智代を腕でこずき睨んだが、彼女は涼しい顔をして離れると、口に手を当てて可愛らしくクスット笑い、一瞬の間でも会場内を和ませた。
それは、あたかも、彼女が事前に健ちゃんと打ち合わせしていたかのようにグット・タイミングであり、絶好の機会とばかりに、夫にクギをさしたのかも知れない。
牧師は眉間に皺を寄せて、困惑の表情を浮かべていた。
健ちゃんは、突然の出来事にキョトンとしている昭二の手を無理矢理に引いて「レッ・ゴ゛~」と気合をこめて式壇に向かうと、六助が「突撃!。健ちゃん!。頑張って~」と囃し立てた。
少し間を置いて、健ちゃんの言葉を奇妙に理解したのか、そのとっぴも無い発言と素早い行動に、沈黙を続けていた参列者の中の若いカップルから拍手が起こると他の参列者からも、まるで漣が打ち寄せるように拍手がいっせに湧きおこった。
健ちゃんが、昭二を連れて式壇に上がると、永井君はホッとした安堵の表情を浮かべて両手を広げて
「健太さん。昭二君。よく名乗り出てくれた」「僕はこの様になることを心から望んでいたのです」
と言って二人に軽く会釈し、自信に漲った声で
「珠子さんを、本当に幸せにできるのは、昭二君しかいない。と、ず~と前から思っていました」
「これで、僕は君達や家族それに世間の人達に対して、僕が甘ったれの一人っ子でなく、自立した人間であることを、考えていた通りに宣言できて良かったです」
「助けてくれて有難う!。人生の崖ぷちで助けてくれた、素晴らしい友情に感謝します」
と言って深々と頭を下げたあと、珠子に対し微笑みながら、優しく
「貴女も、式場に入ったときから、今日の結婚式が間違っていたと、自己反省の思いで悩んでいたことは、今迄に見たこともない君の表情を見て判っていましたよ」
「どうか、昭二さんと幸せな生活を築いてください」「及ばずながら応援させていただきますので・・」
と言って笑ったあと、昭二と珠子の手を重ねさせて、健ちゃんにも重ねる様に催促し、自分も重ねた。
異様な雰囲気の中、意外な方向に展開した会場内の空気を素早くかぎとった彼の母親は、そこは社交術に長けた熟年の人だけに、その場の空気を自分に向かわせようと瞬時に思いつき
「皆さん、私の子供は最後の瞬間において、神様の前に正直であったことは褒められるべきことだと思います」
「名乗りを上げて此処に出られた人も、神様の御心にかなった人と思いますので、私は、折角、設けたこの式場で、お二方に式を挙げて頂きたいと思いますが、お二方も参列者の方々も異存は御座いませんね」
と、落ち着いた態度で話かけると、昭二と珠子は、嬉しそうにうなずき、参列者も拍手して異存のないことを示した。
永井君は、昭二を控え室に連れて行き大急ぎで、自分の礼服を着せるると、彼の背丈が高く細身の礼服は、やや小太りで彼より背丈の低い昭二には合わず、困惑する昭二を励ましながらワイシャツだけを着せて蝶ネクタイを緩く締め、上着を手に持たせ長いズボンを引きずるようにして、再び、式壇に現れた。
会場内は拍手で歓迎したが、その滑稽な姿を見た珠子が、微笑みながら、早くも新婦らしい振る舞いでズボンの裾を折り返してやった。
健ちゃんは、してやったりとした顔つきで、牧師に
「指輪は至急用意せますので、今日のところは交換を省略させてください」
と言って、最初から式を始めて欲しいと頼むと、牧師も事の成り行きを漸く理解して納得し、自分こそこの急場を救われたと、健ちゃんに笑みで答え頷いたあと、真面目な顔に戻り、珠子と昭二を前に立たせて、厳かに
「それでは、式のはじめの部分は省略させていただいて、大切な誓約から行うことに致します」
と告げて、今度は式もスムースに進行し目出度く終了すると、あっけにとられていた牧師の智代夫人も精気を取り戻して、ウエデング・マーチを演奏するなか、珠子は晴れがましい微笑を浮かべて、ヴァージン・ロードを昭二に手を取られて、祝福の紙吹雪の舞う中を歩きだした。
若い女の子の中には感激して涙声を出す人もいた。
興奮した六助がマリーの制止を振り切るように、智代婦人に
「奥さ~ん。 威勢よく祝典行進曲か、それとも”夢をあきらめないで”を演奏してくれませんかぁ~」
と絶叫すると、智代夫人は「楽譜が無いの・・」と答えると、すかさず、健ちゃんは音楽教室を開いている妻の愛子を手招きして呼び寄せた。
彼女は、時折、奈緒の母が経営する居酒屋で、健ちゃん達に催促されて演奏する曲なので、楽譜なしで岡本孝子のヒット曲をピアノで演奏するや、式場では若い人達が中心になって
♪ いつかは 皆 旅立つ それぞれの道を歩いていく
あなたの夢を あきらめなで 熱く生きる瞳が好きだわ
負けないように 悔やまぬように あなたらしく輝いてね・・・
と、歌声喫茶のように明るい声で歌い出だして、皆の手拍子が会場に響き渡り、牧師夫妻も、初めて経験する若々しい雰囲気に満足そうに笑みを零して、参列者に伍して手をうって祝福していた。