江梨子達が、なんとか採用の返事を貰い、気分が楽になって会社を立ち去ろうとしたとき、後を追い駆けてきた案内係の阿部さんが
「いやぁ~ おめでとう御座います。 入社が決って良かったですね」
と笑いながら声をかけてきて、二人の肩をポンと叩き、さも嬉しそうに
「今、専務からあなた方をホテルに送り、夕食の接待を準備しなさい。と、指示を受けたので僕の咄嗟の判断で、昨晩の会話の内容から、どうやら和食が好きな様ですよ。と進言したら、専務はそれなら駅前の寿司屋に案内しなさいと言はれ、専務も仕事を済ませてすぐ伺うので、それまで君がお相手をしていなさい」
と、、会社の考えと併せて接待の趣旨を正直に説明したあと「これから御案内いたします」と言ったので、江梨子は堅苦しい雰囲気を好まない小林君の内心を慮って遠慮したが、阿部さんの再三にわたる丁寧な誘いを断りきれずに、会社の馴染みらしい寿司屋に連れて行かれた。
阿部さんは、座敷に通されると畳に手をついて丁寧に頭を下げて改めて挨拶したあと、お茶を一口飲むと
「昨晩はワイフも非常に喜んで、お二人さんが合格すると良いわネ」
「私達も地方の出身であり、ワイフもお友達も少ないので、是非、お付き合いさせてほしいわ」
と喜んでいたと言って、お土産に渡したワインのお礼を言ったあと、雰囲気を和ませるかの様に、自分の仕事の内容について、時々、ミスして上司から叱られるが、近頃は慣れっこになり、そんな時は下を向いて「済みませんでした、今後、注意致します」と返事をしながらも、頭の中では、これも給料のうちで百円玉が何枚になったかな?、なんて思いながら不謹慎だが、その場を軽い気持ちで凌いでいたり、或いは今頃、ワイフは何をしているのかなぁ~。と思い巡らせていますが、サラリーマンは、辛いことがあったとき、自分で自分の心を癒す方法を見つけ出すことも大事なことですよ」
と、彼らしく明るく屈托のないユーモアを交えた語り口で、社員の心構えを教えてくれた。
江梨子も達夫も、なるほどなぁ~。と感心して聞いていたが、江梨子が
「奥様は、どちらにお勤めなのですか?」
と聞くと、彼は
「証券会社ですよ」「会社の用事で何度か証券会社に行っているうちに、僕の方から上手く誘い出して口説き落として、やっとの思いで結婚しましたが、僕は高卒、彼女は大卒で歳も2歳上ですが、諺に”姉さん女房は草鞋を履いても探せ”と聞いたことがありますが、事実、日々の暮らしの中で生活の知恵が旺盛で安心感があって良いものですよ」
と尋ねないことまで進んで卒直に話してくれた。
暫くすると、専務さんが現れ、阿部さんは入れ替わりに座敷から出て行った。
阿部さんが帰り際に話してくれたのか、お寿司とお酒が運ばれてきたが、江梨子が未成年でお酒は飲めませんと言うや、専務さんは「そうか、そうか。それではお寿司を食べなさい」と言いつつ自分は美味しそうにチビチビと手酌で飲み始めた。
専務さんは、金子勝と自己紹介をしたが、痩身で身の丈が高く、白髪交じりで面長に黒縁の眼鏡が良く似合う、優しい話し方をする人で、江梨子は、どこかこの人は自分の父親に似たタイプの感じがして、さして緊張することもなく話を聞くことができた。
その専務さんが、お酒を飲みながら語るには
自分も、東北の出身で大学卒業後、社長や営業部長と一緒に親会社に入社して、精密機械の製造に従事したが、入社後、15年位した時、親会社の社長の勧めで、組み立て部の一部が子会社として今の会社を設立したが、その時、仲間の誰もが充分な資金の用意ができず、仲間の一人であった社長の姉さんが地方の資産家であったところから、社長が懇願して大金を出して貰ったのです。 その関係で社長の姉つまり小林江梨子さんのお母さんが、この会社の大株主なんですよ。
余計なことかも知れませんが、本来は、貴女のお母さんが社長になり、社長は長男として田舎の田畑や山林を守るべきであったのですが、社長は無理やり姉さんを田舎に帰し、その時、これは確かでありませんが、姉さんには将来を誓いあった恋人がいたらしいのですが、生木を裂かれる思いで別れて田舎に帰られたと聞いておりますが、まぁ~お互い若い時のことですから、色々あった訳ですわ。
ところが男とゆうものは悲しい性があり、会社の業績が伸びると、悪るいことに社長は2~3人の女性に手を出し、その都度、姉さんが上京して苦労して問題を解決し、遂には離婚を経験して今の奥さんと結ばれましたが、この奥さんは銀座のクラブのママサンをしていた関係で、世の中の裏表や人の苦労を知り尽くしていて、我々に対しても思いやりがあり、あの頑固一徹な社長でも頭があがらないくらい良い人なのです。
と、簡潔に話をしたあと
「まぁ~ 参考までにお喋り致しましたが、ところで本題に戻りますが、社長の命令で、江梨子さんは私の家の離れの居間に住み、食事は私らと一緒にすること。小島君は会社の寮に入ることになりますが、私は妻を亡くし会社から派遣の賄いさんに家事一切を任せておりますが、寮の方は舎監が自衛隊上がりの厳しい人で、女性の立ち入りは禁止されています」
「うちの会社は、社長や私達創業者の功罪織り交ぜた豊富な人生経験を土台にして、良い品物は良い人間が作ると言うことを社是にしており、普段の生活は勿論のこと勤務を通じても、人間教育を大切にしておりますので、承知しておいてください」
と、酒の勢いもあってか、また、社長の身内とゆう安心感からか、小声でボソボソと口説き話の様に、会社の沿革や入社条件を話していた。
江梨子は、これまでに母親から断片的ではあるが薄々聞かされていたことなので、時折、母親が父に対して不満を漏らしているのは、若い時のそんなエピソードも影響していたのかと内心思ったりもした。
実際、父親は無口で暇さえあれば、勤務先に関係する機械関係の本を読んでいる姿を見ていたので、父親もどこか寂しい影をやどしている人だなぁ~と、しばしば思ったりしたこともあった。
専務の話を聞いて、一見平穏に見える夫婦であっても、それぞれに色々な想いがあり、難しいもんだなと考えると共に、自分達は叔父さんや両親の様な影を潜めた夫婦には絶対になりたくないと、小島君の横顔をチラッと見ながら心の中で誓った。
小島君は、専務の話をお寿司を美味しそうに食べながら聞いていたが、腹が満ち足りると箸を置くや、まるで別世界のことと思う様に、テーブルに右手の肘を突いて顎を乗せて、週刊誌の記事を聞かされているかのように興味なさそうな顔をしていたが、左側に足を崩して出している江梨子の脹脛や足首あたりを、座布団のへりと思ってか或いは無意識にか撫でていたが、江梨子は専務の目が気になり、止めようとしない彼の手を軽く叩くと、彼は江梨子の顔を見てニヤッと笑い手を引き込めたが、退屈なのか、何時の間にかまた同じことをするので、江梨子も少しくすぐったいが手が膝にまで伸びる気配はなさそうなので、これも彼の悠長でお茶目な性格がもたらす、異性に対する本能的な一種の癖なのかなと思い好きな様にさせていた。