残雪に映える飯豊連峰を遠くに望み、ゆるやかな傾斜に棚田が連なる小高い山並みに囲まれた農村は、昼の陽気も余熱を残すことなく夕方は冷え込む。
この村の、古い家は、たいてい座敷が広く天井も高いので朝夕は部屋も冷えて、この時期、夕方になると部屋の中央に作られた大きい囲炉裏に炭火を赤々と燃やし薪ストーブで暖をとることが慣習となっている。
夕暮れも迫った頃。 健太郎は、母親に連れられてピアノの練習に来ていた理恵ちゃんを相手に話を交しながら囲炉裏火を用意しているところに、突然、なんの前振れもなく節子さんが訪ねて来てたので二人はビックリし、秋子さんも台所から顔を出して機嫌よく出迎えた。
節子さんは新潟大学に用事に行き、その帰りに寄ってみたと話していた。
健太郎と理恵ちゃんは、挨拶もそこそこに大急ぎで拭き掃除をして部屋を整え、秋子さんは家の隅々まで知り尽くしているので、夕食の段取りも手早く、彼の家にしては久し振りに賑やかな夕食となった。
節子さんがいるためか、今夜の理恵ちゃんは四方に気をくばり、秋子さんが
「いつもこんなに手伝いをしてくれたら、助かるのだがな~」
と漏らすと、理恵子は持ち前の母親譲りの強気で
「そんなこと言はないでよ~。母さんの意地悪ぅ~。節子小母さんがいる前で・・」
と、照れ隠しともつかぬ返事をしながら、やがて用意された飯台の前に座るなり
「今晩は、ご馳走が沢山あるはね~。私、幸せだわ」
と、満足感を顔一面に漂わせていた。
それにつられて、皆んなも異口同音に
「食事は大勢のほうが楽しいはね」
と、互いにあいずちをかわし、誰もが日頃、夫々に、侘びしい思をしているのか、それを晴らすかの様に笑顔が絶えなかった。
その様子を見ていて、健太郎は、フト、理恵ちゃんは、おそらく顔もよく覚えていないであろう実父と、何処かで食事をしたことがあるのだろうか。と、いらぬことが頭をよぎった。
まさか、秋子さんに聞くわけにもいかないし、歳ころの娘さんだし、きっと彼女も心の片隅に寂しい思いを抱いているであろうが、それをおくびにも出さず、けなげに日々を過ごしているのだろうと思うと、健太郎は大人の判断の結果とはいえ、片親のやるせない生活を余儀なくさせられている彼女が可哀想に思えた。
そのせいか、賑やかに話しながら食事する姿がことのほか、あどけなく可愛らしく見えた。
食事が終わると、後始末は秋子さん達に任せて、健太郎と理恵ちゃんは囲炉裏の部屋に場所を移し炭火を手入れしていると、あと片付けを終えた二人も囲炉裏を囲んで輪になり、理恵ちゃんが慣れた手つきで用意してくれた紅茶を飲みながら、例により、秋子さんが店に来るお客さんからの耳学問で、最近の村の話題や人物講評を面白おかしく話し出したが、節子さんは彼女の独演会を、なにかを勉強するかのように静かに聴きいっていた。
理恵ちゃんは、母親の話に聞き飽きたのか、隣の部屋から座椅子を持ち出してきて、背もたれに寄りかかり、惜しげもなく素足を長がながと投げ出し、愛犬のポチもなれているのか、その脛の上に首を乗せて気持ちよさそうに目を閉じていた。
そんな理恵ちゃんが、突然、
「あっ!そうだ~。明日、学校で衛生検査があるんだ~」
と、声を上げて健太郎から爪切りを貸してもらい手指から丹念に切りはじめたが、足の親指を切ったあと、秋子さんの目を盗むかのように、健太郎の前に足を差し出し、甘えた声で
「ね~、小父さん、足の爪を切って~。わたし、さっき沢山御馳走になり、前にかがむとお腹が苦しいの~」
と、爪切りを彼に渡しニヤッと、いたずらっぽく笑い
「足首を無理に横にすると、膝が開くことがあるかもょ・・。きをつけてよねょ。フフッ」
「わたし今日は、水色のパンティーをはいているが、若しかすると、小父さん今晩は~。と、挨拶するかも知れないゎ。だから余り足首を広げないでょ」
と、母親達に聞こえないように囁いたが、秋子さんがその様子を見て
「まあ~、この子ったら、あきれた。自分でやりなさい!」
と注意すると、理恵ちゃんも、すかさず
「いいの、小父さんも母さんの話し癖に飽きて退屈でしょうから・・」
と、口答えしていた。
親子の会話を横取りする様に、節子さんが
「秋子さん、いいじゃないの。この年頃の子は、たまに甘えたいのよ」
「理恵ちゃん、私がしてあげるから、そばに来なさい」「春の宵は、誰しも人恋しくなるのよねぇ~」
と、理恵ちゃんに肩入れして、爪を切りながら、看護師さんは、時々、入院患者さんの爪を切ってあげることも大事なお仕事なのよ。と、話すと、理恵ちゃんは
「わ~、嬉しい。小母さんに、お願いできるなんて、私、感激だわ~」
と、節子さんのそばに寄ってゆき、彼女に忠実なポチも理恵ちゃんについてゆくと「あんたは、いいの」と、鼻ずらを軽く押して突き放し、自分だけ節子さんを一人じめしていた。
秋子さんは、そんな娘の我が儘な甘えた姿を見ながら、節子さんがいるのも意に介せず、数日前に話したことを、改めてこの機会にとばかり念を押す様に、健太郎に対し囲炉裏の炭火をいじりながら、彼女が熟慮し心に留めておいたことを、半ば説得口調で自信たっぷりに話始めた。
それは、彼女達の間で交わした話の内容で
節子さんが来春から、大学付属病院に請われて、若い看護師さんの指導看護師として勤めることになったが、自宅からの通勤は遠くてとても無理で、大学で宿舎を用意してくれるが、彼女は勤めはともかく、今更、一人暮らしも侘しくて嫌だし。と、悩んでいたので、わたしが
「それなら、先生(健太郎)の所に住んだら?。私が一人なら、そうするわ」
「貴女の心の中は鏡を見るように判っているつもりなのよ」
「客商売をしていると、自分のことは、まるっきり駄目だが、貴女と先生の心のうちは、誰よりも理解しているつもりよ」
「正直、すこしばかり悔しい思いもあるが、わたしには娘もいて生き甲斐もあるが、そんなわたし自身の感情的なことより、皆が、老後のことも真剣に考えなければねぇ~。親しい人達が固まればお互いに心強いゎ」
「私、貴女が先生と枝折峠に遊びに行ったときに、ピーンと六勘に感じて、そのときから、いつか機会があったら、貴女に言おうと思っていたの」
と、これまでに、節子さんの両親からも了承を得ていること等をまじえて説明したあと
「狭い村のことですので、変に話が伝わってもお互いに困るので、その辺は、わたしが時間をかけて周囲を説得しますから、余計な心配はしないでよ」
「勿論、私も、今まで通りに娘と共に、お邪魔させてもらいますわ」
と、彼女特有の説得力のある話し方で、健太郎と節子さんが一緒になることを勧め、尚もご丁寧に
「今はね、何も入籍を急がなくても、都会では事実婚とゆうのが流行ょ。皆が、日々、安心して暮らすことが大事だゎ」
と、段取りをも付け加えて、健太郎に対し自説に同意する様半ば強引に返事を催促した。
健太郎は聞き終えると
「う~ん、老後か」「確かに考えるべき問題だね」
「君にも、大分お世話になっているしね。こんなこと何時までも続く訳もないし」
と、それこそ、心のなかを見透かされているようで、一寸、困惑し、節子さんもそばにいることだし返事を躊躇った。
節子さんは、理恵ちゃんの爪を切りながら黙って聞いていたが、枝折峠のことに話がおよんだとき、心なしに顔が少し赤らんだのが、健太郎の目に妙に印象的に写った。
健太郎は、彼女達は果たして枝折峠のことを、何処まで話しあぁつているのか。と、思いつつ、秋子さんの話を聞いていた。
理恵ちゃんは、母親の話を神妙な顔つきで聞いていたが、爪切りと母親の話が終わるや、なかば驚いた様に、フッ~と、ため息を付いたあと、節子さんの手を両手で握り締めて母親に向かい、目を輝かせて
「今晩のお母さん素敵だゎ。月よりの使者に見えるゎ~」
と呟いたあと、節子さんに向かい
「ね~。小母さん、母さんの言う通りにすればぁ~。皆が、幸せになれるし、絶対にグーよ」
と、理恵ちゃんも天使になったかの様に喜んで賛成していた。 理恵ちゃんは、彼女なりに、夢を描いて・・。
雑談が飛躍して、それぞれの人生に真剣に向き合う話に発展してしまったが、時間も大分過ぎ帰るとゆうことになったので、健太郎が秋子さんの話に心が弾んだのか
「それでは、鎮守様のところまで送りましょう」
と言って、皆で外にでたが、外気はそれほど冷えておらず、朧月夜で薄明るい春の宵の道を、皆が並んで美容院に向かって歩んだ。
健太郎は、何時の日か節子さんと二人で、この道を二人で歩くことになることを、心の中で描きつつ言葉を交すこともなく彼女等について行った。
道ぎわを流れる小川のせせらぎと下駄の音だけが静かに響き、ポチも外に出られたのが嬉しいのか、理恵ちゃんにじゃれつき尾をしきりに振っていた。