母親の母国であるイギリスから帰国して間もない美代子は、前日の校内マラソン大会の疲労で熟睡していたが、大助が沿道でニッコリ微笑んで手を振っている夢を見てハッと目を覚ました。
この夢は果たして良い知らせなのか、或いは怪我や病気の不幸な暗示なのかと、しばしベットの中で思い巡らせていたが、思案するほどに胸が締め付けられる様に息苦しくなり、起き上がって出窓のガラス窓をあけて大きく息を吸い込んだ。
飯豊山麓の晩秋の冷えた柔らかい風が頬をなで、空を見上げると、十三夜の月が煌々と夜空を明るく照らし、そのため他の星は、遥か遠くの方に離れて霞みチラチラと瞬いていた。
俗に”西郷星”と呼ばれる火星だが,月とほどよい距離を保ってポッンと妖しげな光を放って瞬いていた。
眺めているうちに、神々しさを感じて冷静さを取り戻した。
彼女は妖しげに瞬く火星を茫然として眺めているうちに、大助君の勉強に差し障りの無い様にとの祖父の気配りと忠告に従い、彼と春に別れて以来、文通をかわすこともなく過ごしていたが、あの西郷星は静かに彼に寄り添う自分に似ている様にも思えた。
美代子は、過ぎ去ったことだが、北国に漸く訪れた萌える春に、義父正雄の不適切な生活態度が発端で家庭が崩壊し、それを契機に、お爺さんの老医師も診療所の経営に意欲を失い、診療所を閉鎖する覚悟をしたことを知らされた。
母親のキャサリンも、正雄との結婚生活に絶望して、母国のイギリスに帰国し、一人で暮らす老母の面倒をみたいと考え、老医師も賛成してくれて、それに伴い老医師の勧めもあって、彼女も大助と離れることに、後ろ髪を引かれる思いでキャサリンと連れ立って故郷を離れていた。
その際、老医師は自分の孫の様に可愛いがっていた大助の勉学に、恋愛感情が支障とならない様にとの考えから、彼の将来を慮って、暫くの間、文通をしないことを、彼女に厳しく言い渡しておいた。
彼女も、老医師の大助に対する深い愛情を理解しており、自分達の唯一の理解者である老医師が健在であるかぎり、しばしの別離の試練に耐え忍ぶことにより、何時の日かは、お互いに成長した大人として再会できる日が必ず訪れると堅く信じて、老医師の忠告を忠実に守り、ロンドン郊外にある地元の大学に通っていた。
彼女は、その間、彼が恋しくなると、地元の風景写真の裏や花模様入りの便箋に思いのたけを書いて気持ちを晴らし、出すあてもないレターを、机の脇の書棚に積み重ねていた。
何時の日か、彼に読んんで貰い、別離していても、その間のいちずな愛情を理解して欲しいとの願望を込めて書きつずり、切ない恋心を紛らわせて時の流れをすごしていた。
ロンドンの晩秋の風は、故郷の飯豊の風と違い肌を刺し寒く感じるが、晴れた日の朝、庭の薔薇の花を眺めては、今頃は、懐かしい飯豊の町にある診療所の片隅にある柿の老木に、例年の様に、重そうに釣るさがっている柿の実が橙色に色ずいていることだろう。と、懐かしく思い浮かべてた。
そんな秋の夕暮れに、キャサリンは老医師からの思いがけぬ便りを受け取った。
それは、一旦は閉鎖を決断した診療所だが、地域の中核病院として施設を拡充して存続して欲しいとの、県や地元周辺の自冶体の度重なる要請を受けて継続することに翻意し、再開することになったので、そのため薬剤師で診療所の業務に精通している彼女に帰国する様にとの指示であった。
キャサリンも手紙を何度も読む返えして、老医師の健康を気ずかい、また、診療所の再開への強い意欲に促されて、僅か半年でイギリスを離れる決意をし美代子を連れて秘かに帰国していた。
美代子は、母親から話を聞かされたときは、舞い上がらんばかりに嬉しさで胸が一杯になった。
キャサリンにとっては彼女以上に、心が通い合う山上節子と、また、一緒に日々を過ごすことが出来ることが何より嬉しかった。
山上節子は、兄弟のないキャサリンにとっては、年齢も近く、診療所の看護師長として日常の業務について若い看護師を指導してくれるばかりか、夫正雄と離婚して以来、院内業務は勿論のこと、日常生活の中で主婦としての悩み事や娘の教育などについて、まるで、姉妹の様に最も心おきなく話し合える人であり、彼女にとっては異国の地である飯豊の町で過ごす身の上では、唯一心から尊敬し信頼していたからである。
診療所が地域の要望で拡充し病院として格上されて再開するについては、大学医局に勤める長男で元夫である正雄医師が、その裏で、父親である老医師のこれまでの業績や名誉を立派に残してやりたいとゆう思いと、自己の犯した失敗を償う気持ちから、大学医局や地方自冶体それに地元の有力者との折衝に奔走し、綿密に練り上げた計画を秘かに進めた結果てある。
正雄は、軍医上がりで厳格な性格の老医師の逆鱗に触れない様にと、自分は極力身を隠し、地元有力者を表に立てていた。
それに、別れて以来一層愛しさが募る美代子について、将来、病院の継承問題とは関係なく、例え、どの様な型になるにせよ、彼女が幸せになれる様にと願う親心からでもあった。
そのような背景を露ほども知らない美代子は、帰国後、新潟市内の看護大学に編入試験を受けて通学し、大助と過ごした過ぎし日の数々を思い出しては、落ち着かない気分でいた土曜日の昼下がり。
地元の山崎商店に勤めている同級生の寅太が、いつもの様に入院中の患者の日用品や介護品を配達にやって来た。
寅太は、中学生時代担任教師であった山崎社長に無理難題を言っては授業をサボリ校外の裏庭で喫煙したり、他の生徒に乱暴したりして校内の問題児であったが、大助がことあるごとに助言をうけている町内の先輩である健太から冬山で厳しくしごかれた事を契機に卒業後は一転して心を入れ替え、今では山崎先生が退職して開業した雑貨店の営業マンとして活躍しており、時折、彼女のために影で力になってくれている同級生である。
彼は、体格も良く根が正直で義侠心旺盛で機知に富んでおり、得意先には人気者で、店の営業を一手に引き受けて、山崎社長の信任も厚い。
寅太は病院の入り口で美代子を見つけると、親指を立てて「爺さんいるか」と声を潜めて聞き、彼女が「座敷で休んでいるゎ」と答えると、ニコット笑って
「いま、暇か」「時間があったら裏山に散歩に行こうゃ。内緒話があるんだ」
と誘い、退屈していた彼女が
「そうネ お天気も良いし、久し振りにデートしましょうか」
と機嫌よく返事をしたので、彼は
「大事な話で、爺さんには内緒だぜ。約束してくれよ」
「俺一人では君と一緒にいるところを、村の人達に見られたとき変な目で見られても困るので、相棒の三郎も一緒に行くが、校舎裏の入り口前で待っているよ」
「じゃなぁ。自転車で来いよ」
と言い残して用事を終えるとさっさと出ていった。
三郎は、村の駐在所の三男坊で、小柄で気性が強く中学時代は寅太と仲が良く、端で見ていて寅太の子分のようで、寅太と一緒に厳しい試練をうけたあと改心して、今では山崎先生の推薦で街の老人施設に臨時職員として勤めており、愛嬌があり入居者の老人からは可愛がられ、他の職員が嫌がる汚物の処理や車椅子での散歩を積極的に引き受け、施設では重宝がられ人気者になっていた。
美代子は、長い金髪を後ろに束ねて、首には紫色のネッカチーフを巻いて横で結び、紺色のカーデガンに黒のスラックスを履き、自転車を引いて校舎裏にやって来た。
寅太は、その容姿を見るや、服装を変えただけで随分綺麗になり、チョッピリ大人の色気を含んだ雰囲気を漂わせている彼女が、これが自分の同級生かと思うと一瞬ドキッとしたが、直ぐに我にかえり、三郎に対し
「オイッ! 昼飯の弁当と飲み物を買って来い」
と言いつけ、寅太が気前良くお金を渡すと、彼は
「今日は仕事をサボッテお前の応援をするのだから、少し値が張るが俺の好きなカツ弁を買って来るぞ」
と言って、喜んでスーパーに行ってしまった。
彼女は、二人の様子を見ていて、お爺さんに隠れて大事な話しって、一体なんだろうかしら。と、不思議に思いながらも、彼等を信頼しているので心配することなく、寅太の後について自転車で校舎の裏山に向かった。
裏山の原っぱの道は、ススキの茎が背丈を越えて高くなり、途中から坂道になったので、彼女は
「寅太く~ん、歩いて行きましょうょ。そんなに早くては、わたし君についてゆけないゎ」
と声をかけると、彼も自転車を降りて
「ここまで来れば人に見られることもないしな」
と妙な一人語とを言って、なおも、奥山の方に自転車を引いて歩いていった。
美代子は道すがら思いをめぐらせ、春、東京に帰る列車に乗った大助を、この裏山で寅太と二人で手旗や傘を振りながら泣いて見送った時には、野イチゴが赤く実を結んでいた草原は、いれ代わるように紫色のリンドウの花がポツン・ポツンと咲いており、秋の深まりを感じさせた。