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おもちゃか凶器か、車社会の限界と可能性

2008年11月12日 | 車社会を考える
中3生、無免許で逮捕=数キロ走行「父の運転見て」-埼玉県警(時事通信) - goo ニュース
父親の乗用車を無免許で数キロ運転したとして、埼玉県警浦和東署は10日、道交法違反(無免許運転)の疑いで、同県川口市の中学3年の男子生徒(14)を逮捕した。「運転に興味があった。父親の運転を見ていた」と容疑を認めている。
調べによると、生徒は10日午前11時5分ごろ、自宅から自動変速機(AT)の乗用車を無免許で運転し、さいたま市緑区で信号待ちのトラックに追突。5分後には、約800メートル離れた所で信号待ちしていた軽自動車に追突した疑い。


今年になって、中学生や小学生まで、無免許運転のニュースが続いていましたが、またまた、こんなニュース。重大な事故にならなかったからよかったものの、ついに車が子どもにとって動くおもちゃのような対象になったのかと言いたくなります。

19歳「誰でもいいから殺す」 車で通行人はね死なす(朝日新聞) - goo ニュース

その上今年になって、秋葉原の事件を持ち出すまでもなく、このような事件が続発しています。
現代社会は、競争社会。数々の人為的・精神的ストレスが、人々を圧迫します。加えて、電磁波無法地帯。人工の電磁波が脳内の精神安定物質セレトニンを阻害してキレやすくなった脳に、車という凶器はあまりに身近にありすぎる、二重の不幸。
ダガーナイフは規制できても、車の規制はできないのですよ。


 車社会で失ったもの

子どもたちは、物心つく前から、どこに行くにも荷物のように車に乗せられてはいませんでしたか。
他者との共有の場である公共交通を使う際の、マナーもルールも教えられず知らされずに、育てられなかったでしょうか。
誰かと手をつないで歩き、道端の草花を眺めながら、季節の移り変わりを肌で感じることはできたでしょうか。
公共交通の完璧に整っていた日本が、政府の国策で車社会に移行させられ、失ってしまったもの…。
それは、日本中の廃線になったしまった電車やバスのローカル線だけではないのでは?



過去の日本においては、車はステータスシンボルであり、車を愛する運転者はそれなりの心構えやプライドを持って運転してたような気がします。
私が子供のころの昭和30年代後半から40年代は、たとえ信号のない道でも、横断歩道に立って手を挙げれば、静かに止まってくれた乗用車。私たちは、運転しているおじさんに頭を下げて、横断歩道を渡ったものです。
今や車は、家電同様の生活必需品として、一家に数台保有の時代でもあります。道端で見ていると、目を吊り上げてハンドルを握っている運転手の顔。彼らも目いっぱいなんだと同情しつつ、次々と通り過ぎる車のすきを狙って、大急ぎで向こうの道まで渡る日々。歩行者にはストレスの連続。

  車社会脱却への道は…

車が売れなくなってきているそうです。若者の車離れも加速しています。
都会に限っていうなら、公共交通が充実しているうえ、駐車場の確保や維持費のコストや渋滞のストレス、交通事故などのリスクを考えれば、病気の人や荷物の運搬以外には、それほど必要性もないということでしょう。


山中に放置された廃車


経済の面からみれば、どうしたものかというのでしょうが、環境面から考えれば次々と作っては売り、捨てさせては、また売って、資源も有限なら、地球環境もSOSを出している今、そんな右肩上がりの成長が行き詰ってきていること、そんな環境を犠牲にした成長は、もはやあり得ないことを、業界はどうして認めようとしないのでしょう。みんな心の中では、もうわかってるのでしょう?

…とはいえ、日本の就労人口の、10人に一人が、車の製造・販売に何らかの形で、かかわっているのだそうです。
であるなら、なおのこと、もう限界を超えた車製造から潔く方向を変えて、その技術を生かしつつ、今、本当に必要とされるものへの転換を図ったほうが、いいのではないかと思うのです。


背もたれが手すりになっているバス


車メーカーには、地域コミュニティと連携して、バスよりさらにフットワークの軽い「手軽で安い小さい規模の公共交通」という方向で、一役、担ってもらえないかとお願いしたいです。カーシェアリングの普及・貢献にも、期待しています。
また、近未来のトヨタや日産が「災害時にも有用な低コストでコンパクトな家」を造っていると、マクモニーグルがリモートビューイングによって、透視していましたが、案外そんなところにも、復活の糸口もあるんじゃないかと思ったりします。
…中国で起きた四川大地震の被災者たちは、この冬を乗り切ることが急務だそうです。断熱効率のよい省エネルギーで、快適な居住空間を提供できる技術は日本にすでにあるのではないかと思うのです。

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3 コメント

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Yuri Kageyama様 (金木犀)
2008-11-13 00:28:21
コメント、ありがとうございます。
お仕事先かもしれませんが、お電話番号が書かれていたので、表に出さないようにしました。
AP通信の記事も参考にさせていただくことがありますので、書き込み、とても光栄に思いました。
ありがとうございます。

私の意見は、このブログ上に書いていることがすべてです。これからも、このブログでのみ、書いていくつもりです。
素人ですから、むしろ、こちらが教えていただきたいのですよ。
また、記事に対して、気になることがおありでしたら、コメント欄にご記入くだされば、お答えできる範囲で、私の考えを書かせていただきます。
すべて素人の個人的な考えですので、それ以上の責任は、負えません。
あしからず、ごめんなさい。
返信する
変化しています (カヲル)
2008-11-13 20:56:33
自動車は刃物と同様、使い方を誤ると、誰かを傷付ける道具です。
そして、その存在意義が変わりつつあります。

企業も、司法も、行政も、そして個人も、
その変化に気付き、自らも変わらなければ、
いずれは“破滅”することになります。
返信する
カヲルさん (金木犀)
2008-11-14 09:00:43
こんにちは。

>自動車は刃物と同様、使い方を誤ると、誰かを傷付ける道具です。

そうですね。
私たちは、道路では、いわずもがなの運転者の良心に任せて移動しているわけですが、それでも事故は起こります。
そこに「故意」という意識が働くと、刃物より怖い道具になってしまいます。

>そして、その存在意義が変わりつつあります。

車に乗ること自体に楽しみやゆとりがあった時代から、今は単なる移動の道具に変わってしまいましたね。
さらに、環境汚染や温暖化の原因にもなっていますから、環境意識の高い人たちには、むしろマイナスイメージが・・・。
車自体には、すべてを否定するつもりもありませんし、今のところ社会にとって必要なものでもあります。
しかし、人の命を奪う可能性がある道具であることを、どれだけの運転者が自覚しているのかと思います。
もしそのことが、自覚できているなら、飲酒運転なんてあり得ないですものね。

>企業も、司法も、行政も、そして個人も、
 その変化に気付き、自らも変わらなければ

車がなくても何とかなる町づくり、それは、企業や行政など、すべてが統一見解を持って一体化してなくては、できないものです。
日本もチェンジ!
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