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脱・車社会を待っている

2016年12月21日 | 車社会を考える
今年もいろいろなことがありましたね。とにかく世界が騒然としている、というのがそのままの感想ですが、日本でも、ネットやマスコミの、悪いもの叩き(本当に悪いのかどうかわかりませんが、「悪い」と認定したものへのバッシングは、すごかった)
社会全般見ても、福島いじめ、貧困いじめ、生活保護いじめ、沖縄いじめ、不倫芸能人いじめ…

今年の漢字は、「叩」だと思った。

いじめている加害者だって、立場が変われば自分も被害者にもなっていくのではないかと思ったり、下の方で、いじめあって、本当に悪い人は知らん顔してるのじゃないの?って思ったり。


 


まあ、そのようなことも考えつつ、今年印象に残ったことをもう一つ。

交通事故に関してです。かつては、交通事故で亡くなる人は、年間1万人以上いました。これが公共交通機関だったら、とっくに営業停止だろうと思うほどの数です。そしてその数の向こうには、取り返しのつかない後遺症などで、苦しんでいる人、事故が元で、寿命を縮めてしまった方たちもいるでしょう。
今は、5000人代とだいぶ、死者数も減ってきたそうです。
http://www8.cao.go.jp/koutu/taisaku/h21kou_haku/zenbun/genkyo/h1/h1b1s1_1.html


そのせいかどうかわかりませんが、昔は多すぎてニュースにもならなかったような事故も、ニュースの話題になるようになってきました。
そして、今年、とくに印象に残ったのは、高齢者の運転ミスや、認知症による事故。
いつかこういう時が来るのではないかと、思ってはいましたが、今年はついに、加速がかかった感じ。


私は、このブログを立ち上げたときから、ずっと言い続けてきたのは、交通事故への警鐘というよりかは、車社会への警鐘です。
なぜって、車は、人間が使いこなすのに、まだ不完全な乗り物だって思っていたから。
でも、当然のことながら、車の批判は、原発の批判より風当たりが強く、誰にも言えないで我慢していました(汗)。
かつて、地球温暖化防止のために私は車に乗らないよ、といったら、「馬鹿じゃないの」と笑われました。
ずっと疎外感ばかりで生きてきました。だから少しひねくれてしまったかもしれませんけどね。


高齢者のアクセルとブレーキの踏み間違えの事故や、認知症による無謀運転の事故が、今年はやけにクローズアップされました。
自動停止機能の付いた車がでてきたから、交通事故のニュースを報道しても、スポンサーに怒られないので、オッケーになったんじゃないかって、偏見的な見方もしています。
・・すみません、少しひねくれてますから。


11月の東京新聞の投書欄に、車の理不尽性を指摘した投書を見つけ、切り抜いていました。

 


写真、少しわかりにくいですが、車と人間が、同じ道路に存在したら、車にかなうわけがない。同じ土俵にいるのが、「理不尽」なんですよね。
そこのけそこのけ、車が通る、じゃなくて、運転者はもう少し歩行者に遠慮と配慮と恐縮を持って運転してほしい、というのがずっとずっと思っている、切なる願いです。

スマホに夢中だったり、認知症の人の運転する車だったり、歩行者は、運転者への区別はつきませんから、ガードレールのない道路では、四六時中緊張を強いられます。
車が、突然襲ってくる猛獣と同じなら、檻の向こうに行ってほしいです。
小さなガードレールでも、それがあるのとないのでは大違い、命を守る歩行者の檻です。

車の運転はどうせ一生できるわけではないのだから、車に依存しなくてもいい社会、いい街になって欲しい。
人や動物にもやさしい移動手段に、そろそろ変わっていくべき時が来たのではないかと思います。



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 車依存社会からの脱却を


 この記事を持ちまして、年内のブログ納めとさせていただきます。
(コメント欄では、お答えします)

今年も1年、ご訪問下さいまして、ありがとうございました。
来年が皆様にとりましてより良き年でありますよう、お祈りしています。



追記(名無しさんへのお返事に変えて)

介護や子育てに追われて、日々、車を利用して忙しく暮らしている方にはご不快に思われた表現があったかもしれません。その点はお詫びします。
「カテゴリー車社会を考える」を全部目を通していただければわかると思いますが、「車=悪」とは表記していませんし、必要な方には必需品であることも理解できます。
しかし、車に頼らないと介護も子育てもできない、病院にもいけない、親の面倒も見られない、という社会構造全体がおかしいんのではないか、という提言をしています。
公共交通も必要ですが、むしろ自分の徒歩圏内で、全てが解決できる街、というのが理想です。
都会ではそれができますが、地方では無理です。

社会のコミュニティの復活。私の子どもの頃は、病気になると街のお医者さんが往診に来てくれました。
熱の出た子どもを抱いて、電車に乗って病院に行くなんて無理です。しかし地元の町の小児科は、次々と廃院に追い込まれています。
私も、子育ても同居の家族の介護も経験しました。
幸い、病院も幼稚園も徒歩圏内にありました。必要なときは、必ずお世話になるタクシー会社もありました。愚痴を聞いてくれる人もいました。

社会全体としての助け合いが、希薄になっているから、全部一人で背負い込んで、全部自分でしなければならない。
疲れ果てて、ついつい、目を三角にして怒りながら運転していないでしょうか。
今すぐにどうこう解決できる問題ではないかもしれませんが、自分のブログで「こんな社会、おかしいよね」と言うことくらいはお許しいただけたら幸いです。


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