虹色オリハルコン

人工的でお金を目標にした人生ではなく

自然と生命を豊かにすることを目標にした生き方を選ぶ

誰かを犠牲にして少数の者だけが裕福になるべきではない

2017年06月10日 | 心に残る言葉

10日の東京新聞筆洗にハッとした。
イギリスで行われた9日の総選挙。与党保守党が番狂わせの過半数割れしたことを伝えて曰く。

その背景にあったのは何か。ドキュメンタリー映画『1945年の精神』をつくった名匠ケン・ローチ監督は、それは「誰かを犠牲にして少数の者だけが裕福になるべきではないという考え方」だったと指摘している。


福祉先進国「ゆりかごから墓場まで」が揺らぎはじめ、「英国は先進国の中で最も不平等な国の一つ」になったという。
野党労働党は、「ごく少数の人のためではなく、多くの人のために」と訴え福祉政策の充実や鉄道の国有化などを公約にしたことで、大きく議席を伸ばした。

日本でも、アベノミクスの高揚感?に期待した向きにとっても、3本の矢がどこに飛んでいったのか、今となってはさっぱりわからないのではないか?
たしかに、少数は裕福になったらしい。その少数の中には、総理のお友達や仲良しの経済人たちもいるのだろう。
でも、実質賃金は、この26年で最低だという。
雇用は増えた。しかし、その裏で、非正規、残業代ゼロ、パワハラ、過労死など水面下で起こっている悲惨な現実。
つまるところ、「誰かを犠牲にして少数の者だけが裕福になっている」ということではないだろうか。

当初は人間の欲が邪魔をして、ちゃんと見えなかったけれど、安倍政権の魔法がとけたら、全ては幻だった・・・と気づくことも必要なことだったのだろうか。


筆洗 2017年6月10日
 一九四五年の夏、英国で大番狂わせが起きた。十年ぶりに行われた総選挙で、保守党がまさかの敗北を喫したのだ▼保守党を率いていたのは、第二次大戦で卓越した指導力を発揮した名宰相チャーチル。彼の名声をもってすれば、愛国心で高揚した国民の支持は固いはず、との予想を覆し、野党・労働党が大勝したのだ▼その背景にあったのは何か。ドキュメンタリー映画『1945年の精神』をつくった名匠ケン・ローチ監督は、それは「誰かを犠牲にして少数の者だけが裕福になるべきではないという考え方」だったと指摘している▼労働党政権は貧困のため病院に行けなかった多くの国民のため、「ゆりかごから墓場まで」と言われる福祉国家を築き、基幹産業の国有化などで労働条件の改善を行った▼そんな歴史を持つ英国の総選挙でまた、番狂わせが起きた。保守党の圧勝かと思われていたが、過半数割れ。「ごく少数の人のためではなく、多くの人のために」と訴え福祉政策の充実や鉄道の国有化などを公約にした労働党が、大きく議席を伸ばしたのだ▼英国を拠点に世界の貧困問題に取り組む「オックスファム」によると、「英国は先進国の中で最も不平等な国の一つ」になったという。そんな状況が生む憤懣(ふんまん)が、EU離脱をめぐる国民投票、そして総選挙で噴出したのか。「1945年の精神」が甦(よみがえ)りつつあるのか。



★参考サイト
 実質賃金、26年間で最低にしたアベノミクス・・・どうしてくれるの?・・・毎月勤労統計調査の実質賃金指数(厚生労働省)

★関連記事
 アベノミクスはまやかし、国民よ失敗に気づけ by伊東光晴・京大名誉教授
 OECDはトリクルダウン(したたりおちる)という考え方を捨て去った
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正々堂々

2017年06月01日 | 心に残る言葉

高安が信条とする「正々堂々」過去の口上で武双山も

高安関が大関昇進の口上に選んだ「正々堂々」

目が覚める思いだった。

「正々堂々」

なんと清々しい言葉だろう。

久しく忘れていた言葉。



理不尽や不条理に とまどい傷つくこともある。

でも自分は恥じることをしていない。

ならば 正々堂々としていればいい。



勇気を出して正々堂々と声を上げた人達がいる。

前川喜平氏や詩織さんのように。


そう

間違ったことをしていないなら正々堂々としていいのだ。



人を強くするのは真実。弱くするのは嘘。

それは宇宙の真理でもある。

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和解する力

2017年04月16日 | 心に残る言葉
「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」戦国時代のような反知性と暴力を肯定する昔に逆行させてはならないと、強く思います。
今こそ、内山節先生(今では「先生」とお呼びしたい)のコラムを読みたい、ご紹介したい。
東京新聞2月12日の「時代を読む」、2ヶ月ほど前の記事ですが、ご紹介します。





和を以て貴しとなす



「他者と和解できる」価値観
内山 節 (哲学者)      

 群馬県上野村にある私の家の天井裏に、ムササビがすみついたときがあった。ドタバタとうるさいだけでなく、たまっていた塵を集めて、天井板の隙間から私めがけて落としたりするから、結構たちの悪いいたずらをする。
 杉の葉などを集めてきて大きな巣をつくり、子どもを育てていたときもあった。これでは追い出すわけにもいかない。山のなかの家は、いろいろな生き物たちが忍び込んでくる場所でもあるのだから、それはそれでよいのである。

 村の暮らしで大事なことは何かと聞かれたら、私は「和解すること」と答えるだろう。自然とも、人々とも和解しながら暮らす。それが村の流儀だ。我慢して和解するのではなく、和解できる世界で生きていることを楽しむのである。

 そんな村で暮らしていると、いま私たちはいろいろなものと和解しなければならないときに、さしかかっていると思えてくる。自然を征服しようとした時代から、自然と和解する時代へ。人間同士も、対立ではなく和解が必要になっている。いろいろな考え方をもっている人たちが対立するのではなく、和解しながら世界を作っていくことが本当は必要だ。

 だが現在の世界は、対立を深める方向に向かっている。トランプ政権の成立は、その象徴だった。ヨーロッパでも国家主義政党が力を増し、アジアでも国々の対立が高まっている。

 なぜそういうことが起こってしまうのだろうか。その一番の理由は、現代世界が自分たちの利益に基づいて展開していることにある。経済活動は自分たちの利益を追求し、国家は自国の利益を拡大しようとする。経済活動も国家も、求めているのは自分たちの利益の最大化であり、他者との和解も、和解することによって自分たちに利益がもたらされるかぎりでしか成立しない。

 企業は自分たちの利益を最大化しようとして非正規雇用を増やし、ときには市場の拡大を狙って貿易戦争を仕掛けたりする。そして国もまた、つねに自国の利益の拡大をはかっている。現代世界は、そういう構造の下で展開している。

 だからトランプ大統領のいう米国ファースト、米国第一主義は、現代の世界のあり方を正直に表明したものにほかならない。ただし、それをむき出しのかたちで言わなければならないほどに、米国の凋落(ちょうらく)がすすんでいることの証明でもあるのだが。

 私たちはこれから、さまざまなものと和解できる暮らし方、和解できる経済活動のかたち、和解できる国のあり方を探っていかなければならないのである。その出発点には、自然との和解やコミュニティーや地域との和解がある。

 そして、経済活動は自分たちの利益のためにではなく、よりよき社会をつくるための道具であるということを再認識するところから、他者と和解できる経済のかたちを見つけ出していかなければならないだろう。もっともそれはソーシャルビジネスとして、すでに芽生え始めているものでもあるのだが。

 他者と和解できる国のかたちを含めて、そういうものを見つけ出していかないと、私たちはますます対立の中に投げ込まれてしまうだろう。現在の世界の動きは、不気味さを示している。つくり出さなければいけないのは、他者と和解できる社会のかたちである。
 
 


壊れつつあるもの、すでに壊れているのにごまかしているもの、そして次に生まれてくるもの、すでに次の時代のために芽生え育ち始めているもの。
私たちは、どちらの方向を目指すのか、どこを頼りにするのか、気づいて新しい船を作るのも、対立の中に流されていくのも、自分次第なのかもしれません。





★内山節氏の「時代を読む」

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落書き画家バンクシー氏からのメッセージ

2017年02月18日 | 心に残る言葉
17日の東京新聞筆洗を読むまで、「落書き画家」バンクシー氏のことは、まったく知らなかったのですが。

イギリスの覆面画家、バンクシーの絵は、ただの落書きじゃなくて、風刺のきいたメッセージ性が、高く評価されているそうで、落書きの描かれた壁を壊して競売にかければ数千万で落札されるほどの人気なのですって。




戦火で破壊されたガザの壁に描かれた子猫
http://gigazine.net/news/20150227-banksy-gaza-strip/


丸くなった鉄くずを毛糸玉に見立てて今にもじゃれそうな・・・この絵はここにあるからこそ、強いメッセージがあると思います。

ネット検索すると、いろいろな絵が出てきました。


   


上の絵は、下の筆洗氏が紹介した 「パレスチナの人々の絶望感が染み込んだような壁」に描かれた「風船につかまって飛ぶ少女の姿」


 朝起きたら、わが家の外壁にペンキで絵が落書きされていた…という災難は、ご免こうむりたいが、それが英国の「落書き画家」バンクシー氏の仕業であれば、話は別である▼街角の壁に風刺の効いた絵を人知れず描き上げるこの人の落書きは、大変な人気がある。壁ごと切り取られた作品が競売にかけられれば、数千万円で落札されるほどなのだ▼正体は決して明かさず、世界各地に出没するこの人が、繰り返し創作の舞台に選んでいるのが、中東パレスチナだ。そこには、イスラエルが建設した巨大な分離壁がある。砲弾で穴だらけになった家の壁もある▼パレスチナの人々の絶望感が染み込んだような壁に、バンクシー氏はそこから逃れるためのはしごを描き、風船につかまって飛ぶ少女の姿を描いた。落書きで壁を壊そうとしたのだ▼だが今、その壁はますます高くなりつつあるようだ。パレスチナ国家を樹立し、イスラエルと平和的に共存させる「二国家共存」は中東和平への大切な道なのに、トランプ米大統領は「どちらでもいい」と言い放った。パレスチナに新たな絶望の壁をつくるような米政府の変身である▼バンクシー氏はかつて、パレスチナの壁に、こんな言葉を書き付けた。「強者と弱者の紛争から手を引けば、私たちは強者の側に立つことになる。中立になるわけではないのだ」。値千金の警句ではないか。



壁を壊そうとする人、新たな壁を作ろうとする人。

ニュースでは、トランプ氏が、「エルサレムが一国主義でも二国共存でもどっちでもいい」と言った、その隣、ご危険 ごきげんな笑い顔のイスラエル・ネタニヤフ首相がいた。
「アメリカはイスラムの敵ではない」と語ったオバマ前大統領時代は、中東の和平と安定を最優先したから、イスラエルにとっては面白くなかったのだろう。
トランプ氏の愛娘イヴァンカさんの夫ジャレッド・クシュナー氏は、ユダヤ教徒、結婚の際は、イヴァンカさんもユダヤ教に改宗したという。イスラエルはトランプ政権に、強い絆を感じていることだろう。


「強者と弱者の紛争から手を引けば、
 私たちは強者の側に立つことになる。
 中立になるわけではないのだ」



本当にそうだなと思う。そう思う人が増えてほしい。


★バンクシーHP http://banksy.co.uk
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不法移民を助けた理由「私はフランス人だからだ」

2017年01月17日 | 心に残る言葉
東京新聞「本音のコラム」新しい筆者、アナウンサーの師岡カリーマさんの1月14日のコラムが心に残ったので。

戦争難民を助けたために、不法移民ほう助の罪で裁かれようとしていた容疑者セドリック・エルーの言葉。
なぜ、法を破ったのか、と理由を聞かれ、述べた言葉です。

「私はフランス人だからだ」
「自由・平等・友愛を掲げる共和国の市民が、目の前で困窮する人間を助けないほうがおかしい」


オバマ大統領の最後の演説では民主主義について時間をさいた。
合衆国憲法については、以下のように述べた。

アメリカ合衆国憲法は、驚嘆すべき、すばらしい贈り物です。しかし、一束の証書にすぎません。それ自体に力はないのです。力を与えるのは、我々市民であり、参加し、選択することによりそうなるのです。


まさに、エルー氏は、フランスの理念が生きたものであることを身をもって示してくれたのだと思います。

師岡カリーマさんは、日本では、時の政治権力に左右されない国家理念は、「非戦主義」と思う、と書いています。それは、平和憲法の理念です。
その意見に同意しますが、オバマ大統領の言われるように、私たちがそれを選択、実行しなければ、絵に描いた餅になってしまいます。

これからトランプ氏の登場で、日本を含めて主要世界で反面教師がそろってきました。

私たちは、どんな未来を選びたいのか。どんな人類、に進化したいのか。

エルー氏は、フランスの理念を誇りに思い、矛盾する法律を否定しました。
日本では、自民党政権下において、政権批判をすると「反日的」などとネット界隈では言われたりしますが、そうじゃない。
「平和国家の理念を忘れずに、その理念を遂行する」こと、それこそが、わが国を愛するということではないでしょうか。



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軍犬像と小鳥

2016年12月06日 | 心に残る言葉
 
 還らざる軍犬像に小鳥来る



東京新聞1面には、毎日、読者の平和の俳句が1句掲載されている。
この句は、それではなく、今週の俳句のコーナー『俳壇』に掲載されていたもの。
作者は、東京小平市の鈴木さん。

普通の俳句を読む(詠むではない)のが好きで、最初から普通に読んでいたのに、この句で、いきなり胸が詰まった。

ふと、30年ほど前に家にいた犬を思い出したので。
今でこそ、犬は大型犬でも、家の中で家族と暮らしている家庭も多いのだろうけれど、昔は犬は、外で飼うものだった。
庭の犬小屋が、彼らの住まいだった。
うちにいた犬も、外の小屋にいた。
しかし家の前を通る人にもフレンドリーで、私の知らないおじさんや子どもなど、たくさん友達がいて、猫にも、庭に来るスズメたちにも優しくて、とても番犬にはならないような犬だった。
ご飯の食べ残しを、野良猫に、平気で分け与えていた。


 


戦時中、軍用犬として、殺されるとも知らず、連れて行かれた犬たちは、一頭も帰ってこなかったという。
その犬たちを、供養・追悼したのだろう、軍犬像。
平和な時代だったら、小鳥と戯れていたかもしれない。

作者の思いが「小鳥来る」の言葉に凝縮されているようで、涙がでてきた。
人も動物も理不尽に殺された、そんな時代を二度と繰り返してはならない。


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 戦時中の犬、猫
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ゆがんだ関係が蔓延する社会に気づく力と、戻す努力

2016年06月13日 | 心に残る言葉



雨降りの月曜日。関東の水瓶、利根川水系ダムも一息ついたでしょうか。
(6月16日追記:本日より10%の取水制限。一息ぜんぜんついてません



6月5日の東京新聞「時代を読む」哲学者内山節氏のコラムより。写真など少し編集しましたが、原文はそのままです。


「ゆがんだ関係」正す努力を
内山 節  

 古代の日本の人々を恐れさせたものに、怨霊があった。謀略などによって無実の罪を着せられて死んだ人の霊が、怨霊となって崇(たた)るという考え方である。もっとも有名なのは菅原道真の怨霊だが、人々は怒れる霊を鎮めるために、さまざまなことをしている。



 菅原道真を祀る北野天満宮


 その怨霊は、関係のゆがみが生みだしたものだった。ゆがんだ関係のなかで死を迎えたために成仏できず、怨霊になったと考えられていたのである。だから怨霊を鎮めるためには、ゆがんだ関係を自然な関係に戻さなければならなかった。怨霊を神として祀(まつ)ったり、官位を授けなおしたりしたのは、ゆがんだ関係を修復し、自然な関係に戻すための努力だった。


 古代の人たちは、関係のゆがみを何よりも気にしていたのである。もしも関係のゆがみが怨霊を生みだすのであれば、今日の社会は、怨霊だらけになってしまうだろう。自然と人間の関係もゆがんでいるし、非正規雇用が4割に近づいている雇用関係もゆがんでいる。人間同士の関係も、地域社会の関係も。自然な関係を探す方が難しいくらいだ。そしてこのゆがみが、ときに自然や人間を追い詰める。


 日本の伝統的な道徳観や倫理観は、ゆがんだ関係を自然な関係に戻そうとする意志とともにあったのである。
そのことをとおして、自然と人間の関係のあり方や、人間同士の関係、一人一人と社会の関係のあり方をみつけだそうとしてきた。
 とすると、私たちは問わなければならない。今日の企業や労働の世界に、ゆがんだ関係は発生していないだろうか。最近では企業のデータ偽造や、実質的な粉飾決算が問題になったりしているが、そういうことが生じてしまうのは、企業組織のなかに、ゆがんだ関係が定着してしまっているからではなかったか。





 日本の米軍基地の大半を沖縄に押しつけている現実は、ゆがんだ関係がつくりだしたものとはいえないだろうか。そもそも日米地位協定自身が、ゆがんだ日米関係の産物ではないのだろうか。後世の人たちに国の借金を押しつけている現状も、ゆがんだ世代間関係をあらわしてはいないだろうか。


 いま私たちに求められているものは、ゆがんだ関係を自然な関係に戻す努力なのである。それが政治の課題であり、経済や経営の課題でもあるはずだ。とともにそれは私たちの課題でもある。そのためには、ゆがんだ関係に気づく力と、自然な関係をみつけだす構想力が求められている。


 戦後の日本は、ひたすら経済発展を追い求めてきた。経済が発展すれば誰もが豊かになり、日本も大国になっていくと考えてきたといってもよい。だが現在では、さまざまなゆがんだ関係が社会のなかに堆積し、それが人々に不安や苦痛を与えるようになってしまった。





 子どもを育てられない社会はどこかがゆがんでいる。年をとることに不安を覚えなければならない社会もどこかおかしい。社会をつくりだしている関係のどこかがゆがんでいるから、そういう問題が起こるのである。

 もしかすると、ゆがんだ関係が怨霊を生みだすということに怯(おび)えていた古代の人たちの方が、正常な精神をもっていたのかもしれない。いま私たちに必要なことは、ゆがんだ関係を正していく精神をもちながら、政治や経済、社会と向き合うことである。
(哲学者)



ちょっと違うかもしれませんが、私どもに関して言うなら、体のメンテナンスに、日々、自力整体で「ゆがみを正していく」ことは、必須です、それによって体のめぐりが良くなり、長く整体ができていないと、どうも体がおかしいと感じます。骨盤調整というやり方で、体のゆがみを取ることで、息子のアトピーも改善しましたし。

社会や政治経済の問題も、そういう視点があると、わかりやすいと思いました。
そういえば、「ゆがむ」という字を漢字にすると「歪む」・・・不正と書くのも象徴的です。


★京都・北野天満宮の写真は、京都フリー写真素材様からお借りしました。

★内山節氏の「時代を読む」
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小国寡民・人々の無事を守る政治

2016年04月01日 | 心に残る言葉
東京新聞「時代を読む」内山節氏のコラム・・・私にとっては、いわゆる「読むサプリ」みたいです。

3月27日の「人々の無事を守る政治」も共感しきり。

そういえば、昨年来より、スポーツの世界から、「ルーティーン」という言葉を知りました。
イチロー選手の日常や五郎丸選手のあのポーズのように、「日常的に繰り返される生活様式」「一定の手順で行われる仕事」を意味するそうです。
なるほどなあと思います。
彼らの偉大な仕事の裏にあるもの・・それは、突拍子もない変化や、瞬間的な爆発ではなく、静かに当たり前に淡々と繰り返す日常や、身体の準備、それがあるからこそのものなのですね。
駅員さんの指差し安全確認、職人さんたちの道具の手入れと管理、1年間の農作業。みんな淡々と繰り返される日常のルーティーン。

自然界も同じで、春夏秋冬が滞りなく繰り返されるから、動植物は、その流れに沿って、次の世代をつなげていくことができる。
そして、「淡々と繰り返す自然と人々の日常を守ること」それこそが、政治の役割であり、それらをないがしろにした平和などありえないのだ・・・と、内山氏のコラムを読みながら、改めて思いました。




春、カエデの葉の芽吹き



人々の無事を守る政治
内山 節    

 私の山里がある群馬県上野村では、山の落葉広葉樹の木々が赤みを帯びはじめると、村人は春が近づいてきたと感じる。2月半ばから、木は大地から水をくみ上げ、その水のなかに糖分をためて、芽吹きの準備に入る。次第に冬芽がふくらみ、赤みをましてくる。イタヤカエデがくみ上げた水をもらい煮詰めたものが、メープルシロップである。

 上野村では桜が咲くのは4月20日ごろ。3月中はまだ梅の季節である。
 そんな自然の様子を見ていると、今年も無事に春を迎えてほしいという気持ちになってくる。自然にとっては、無事であることが最良だ。無事に春をむかえ、無事に夏や秋、冬を迎える。それができれば、去年と同じように、10年前とも100年前とも同じように、自然はその生命の世界を守り続けるだろう。自然は平和を求めている。

 それは人間でも同じことだ。無事に仕事をし、無事に暮らすことが、社会の基盤でなければならないのである。
 もちろん一人一人は、色々な生き方をしてもかまわない。あえて無事な生き方を捨てることも、人間にとっては一つの選択である。だが、社会全体の役割も、社会を守るための政治の役割もそこにはない。政治は一人一人の行動に対応するのではなく、誰もが無事に生きる社会をつくり、守ることにある。平和を守るといってもよい。

 自然の無事がこれからも続くようにするのと同じように、人間社会の無事を守るのが、政治の役割だ。
 政治の目的は、国を守ることでも、日本の国内総生産を増やすことでもないのである。国の政治では、国民の無事を守ること、地方や地域の政治では底に暮らす人々の無事を守ること。それが目的でなければならない。国の防衛やGDPの増加は、その結果でしかない。

 なぜこのような言い方をするのかといえば、国の防衛や経済発展は、しばしば私たちの生きる世界の無事と一致しないからである。
 たとえば第二次世界大戦をみても、国を守るための戦争が戦場や空襲による多くの死者を出し、国民の無事を破壊してしまった。さらに今では多くの人たちが気づいているように、経済成長だけを目的とした社会は、格差社会やつながりのない、幸せ感の薄い社会をつくり出してしまった。

 国家の防衛や経済成長は目的ではないのである。目的は人びとが無事に働き、無事に暮らす社会を作りつづけることの方にある。そのことを見誤ると、人間が国家や経済の道具として使われるという転倒がおこってしまう。
 そしてそれは、偏狭なナショナリズムと、とげとげしい国家間対立のなかに引きずり込んでいきかねない。実際、偉大な米国の復活とか、強大な中国の建設などというスローガンが叫ばれ、日本もまたその一角に食い込もうとする対立の構図のなかに、今世界は向かいつつあるかのようである。  

 自然は無事に生きられる世界の持続を求めている。春にはカエルたちが冬眠から覚め、水辺で卵を産む。それが永遠に続けられるような無事な世界の持続を。
 人間社会の原点もそれと変わらないはずだ。みんなが無事に生きていける社会。政治は為政者のゲームではないのである。
(哲学者) 



老子の言葉「小国寡民」を思い出しました。
老子は解釈する人によって違った印象を受けますが、私にとっては、内山節氏のコラムこそが、老子の言葉の意味と重なってくるように感じます。


★内山節氏の「時代を読む」
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小さな哲学者りおくんの「我思うゆえに我あり」

2016年03月05日 | 心に残る言葉
「失敗したと思っても、そこから学ぶならそれは本当の失敗ではない」と言う、りおくんが好きです。

以下、「神様がくれたひとすじの道」(いんやく りお著)より






自分がいるから、生きられる。
自分がいるから、言葉が言える。
自分がいるから、思える。
自分がいるから、いまがある。








人間の宝は、言葉、いのち、心、動き。
人生は、そのすじみちで、決まっている。
だから、後悔しないでいい。
失敗したと思っても、そこから学ぶなら、
それは、ほんとうの失敗ではない。







  人間はみんな幸せになるために、生まれてきた。





社会情勢がきついこともある、家族の問題や仕事の人間関係や、金銭トラブルで悩む時もある。

でもね、この世に生まれて来たことは、幸せになるためだよ、と神様がりおくんが預けてくださったメッセ―ジ。
寒い中、春の花を見つけた時に、心が明るくなる、そんな瞬間にも、幸せになれる。
すれ違った人と笑顔で交わす会釈。それだけで、心があたたかくなる。

禍福はあざなえる縄のごとし・・・先人の言葉も、人生の経験値が少し増えてくると、昔よりも身にしみますわ(笑)
そんな経験も、うつろう感情も、みんな自分が生きていてこそのもの。
この世に生きていられること、それがとても幸せだと思います。

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成熟した社会とは、数字で表せないものを大事にする社会by内山節

2016年01月18日 | 心に残る言葉
東京新聞「時代を読む」哲学者・内山節氏の書かれた17日のコラム、今年も無事に読めました。

株価を中心とした経済は、数字によって一喜一憂し、暴落すれば世界が滅ぶような大きな騒ぎにもなります。
そんな経済が今の世界を牛耳っており、「安い」「儲かる」「お得」がキーワード。お金のためなら、すべてが優先されます。
持つものと持たざるものの格差が広がり、多くの人々は「お金」を目的とした労働の中で疲弊していく。
でも、もしかしたら、そんなのは虚構だ、生きることも幸せになることも、数字に振り回されることではない、と気づいた人たちがあちこちで増えてきているのだと思います。

成熟した社会とは、数字で表せないものを大事にする社会・・・ということに目からウロコ、というか、そのとおりだなと思います。




寒さの中に咲く花をみつけた幸せ、とか



数字で表せない幸せ感
内山 節     

 数字は具体的な一面と抽象的な性格とを併せ持っている。
 たとえば「ご家族は何人ですか」と聞かれた時に答える数字は具体的な数字だ。ところが日本の人口についての数字は抽象的である。何人いるのが好ましいのか誰にもわからない。スウェーデンやフィンランドのように広い自然を享受しながら暮らすのが理想なら、人口はもっともっと少なくてもいいような気がするし、増えていかないと市場が拡大しないと焦る人達もいるだろう。この場合でも何人まで増えたり減ったりするのが理想なのかは、よくわからない。
 お金もそうで、日々の生活の中で使われるのは、具体的な数字だ。ところが「いくらあったら人間は幸せになれるのか」などと聞かれたら、たちまち数字は具体性を失う

 私の新年は、毎年群馬県の上野村で迎えられる。山から朝日がさして正月がはじまり、年末についた餅が食卓に上がる。庭に冬の鳥たちが姿をみせ、葉を落とした山の木々が私の暮らす里を包んでいる。昼過ぎには私も近所に新年の挨拶にでかけ、逆に村人が訪ねてきたりする。自然も人間も、さらに昔からこの村に祀られている神々も、ともに新年を迎える。
 毎年繰り返される何ということもない時間なのに、共に新年を迎えることができたという安堵感があり、今年の村の無事を祈る気持ちが村の中には広がっている。

 そこにあるのは数字ではとらえられない世界だ。その代わり、どんな結び合いの中に村の暮らしがあるのかは、はっきりと見えている。自然との結びつき、村人や村の伝統文化との結びつき。そういうなかに、自分たちの暮らす世界のあることが。

 考えてみれば、人間の幸せや充実感といったものは、すべて数字では表せないものだ。数字は相対的なものだが、幸せや充実感は、それぞれの人々にとって絶対的なものだからである。だから高尚なものはすべて数字では表せない。美は数字ではないし、音楽や文学からえた感動も数字ではない。

 とすると成熟した社会とは、数字を追いかける社会から、数字では表せないものを大事にする社会への転換によって、生まれるのではないだろうか。幸せ感や生の充実感の高い社会が、成熟した社会のはずだからである。

 こんな視点からみていくと、今の政治の主張は情けない。数字ばかりなのである。GDP600兆円とか、2%のインフレとか、1億総活躍とか。それが幸せな社会をつくるのかも、幸せな社会とは何もかも考察されることなく、数字だけが花火のように打ち上げられていく。

 今年は、数字では表せないものを大事にする社会をつくりたいものだ。どんな結び合いが幸せをつくっていくのか。自然が支えてくれていると感じるような社会は、どうやったらつくれるのか。どんな働き方ができたら、充実感を手に入れることができるのか。


 それは広い意味でのコミュニティーの課題である。家族というコミュニティー、友人や仲間たちというコミュニティー、働く仲間のコミュニティー、自然を含めた地域のコミュニティー、そういうものが人々に幸せをもたらすとするなら、結び合いやコミュニティーを大事にする社会を、私たちは作っていかなければならないのだろう。



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 「貧乏とは無限の欲がある人のこと」byムヒカ前大統領
 はたを楽にするから、はたらく


★内山節氏の「時代を読む」


 
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牛の詩2題と原発の詩

2015年12月28日 | 心に残る言葉
久しぶりに開いた本に、小さな新聞の切り抜きが挟まっていた。
これは・・

ドリアン助川氏のコラム「詞から詩へ」。朝日新聞の夕刊らしい。今の新聞活字より一回り小さい字。
働く牛をうたった「村の英雄」という西条八十の詩を紹介していた。詩人の言葉に心をつかまれて、思わず切り抜いてしまった記憶がある。
日付はわからない。本が1998年の版だから、もしかしたら、もう17年も前のものだろうか?



かつての日本人と牛との関わり。牛はとても身近にいた。
画像:牛のはくぶつかん


詞から詩へ       ドリアン助川   
      
-----------------

村の英雄         西条八十

村の大きな 黒牛が
春の夕ぐれ 死にました
永年住んだ 牛小舎の
寝藁(ねわら)の上で 死にました

女やもめの ご主人に
いつも仕えた 忠義もの
朝晩 重い荷を曳(ひ)いて
くろは すなおな牛でした

お寺の鐘は 鳴りません
けれども 花は散ってます
村の優しい 英雄が
春の夕ぐれ 死にました

-----------------


昔の人は優しかった。なんて僕は言いません。昔は昔で、冷酷なことはたくさんあったのだから。けれども昔は、村にも町にも愚痴をこぼさない牛がいて、懸命に耐える牛がいて、切なくなるような牛がいて、詩人はそれを見過ごすことができなかった。書かずにいられなかった。今の人は冷たいね、なんて僕は言いません。人の温かさは、そう変わらないものです。けれども今は、もうどこにも牛が見当たらないから、本当はいたるところに隠れているのに外見だけの町並みに消されてしまっているから、誰も牛の詩など書こうとしないのです。こうやって優しさは難しい言葉になりました。



西条八十の書いた牛は、けなげで辛いことに耐えながらも、苦楽をともにした女主人のもとで静かに天寿を全うできた。
しかし、21世紀にもなって、2011年に、飢えて飢えて柱をかじりながら死んでいった牛がいた。壮絶で悲しい福島の牛の詩を見つけた。

「本当はいたるところに隠れているのに」という、ドリアンさんの言葉は、2015年の今は、心に突き刺さる。
見えないふり、見ないふりをしていても、福島の牛に象徴される悲しみはいたるところに隠れている。


以下は、12月25日東京新聞の筆洗より、文は変えておりませんが、改行などすこし編集しました。

 
その人はどうしようもなくて
牛を餓死させてきた
と 言った。
可哀想なことをしたが
仕方がない
とも言った。
そして一枚の写真を取り出して見せた。
それは牛が柱を食った写真だった


そんな詩を、詩人で出版社コールサック社代表の鈴木比佐雄さんの新著『福島・東北の詩的想像力』で知った。福島原発事故で故郷の町を奪われ、避難生活を強いられる根本昌幸さんの「柱を食う」である。
詩は続く。


この写真は自分を戒めるために
離さずに持っているのだ
とも言った。
これはどういうことなのだ。
牛よ
恨め恨め
憎き者を恨め
お前を飼っていた者ではない。
こういうふうにした者たちを



その写真の持ち主はいま、どんな思いで原発再稼働の報を聞いていようか。九州電力の川内(せんだい)原発に続いて、関西電力の高浜原発も再び動く見通しとなった。
福井県知事は、「政府が責任を持つ」との首相の発言を重くとらえて再稼働に同意したそうだが、本当の「責任」の重さはいかほどのものか。


『福島・東北の詩的想像力』で、こういう詩も知った。福島県いわき市の芳賀稔幸さんの「もう止まらなくなった原発」だ。


失ったものは永遠に帰っては来ない
元通りに出来ないはずだのに
責任をはたすって?
何の責任をだ
一体責任って何だ?


この「?」に首相らは、どう答えうるのか。

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かつて牛は、日本の農業の担い手だった。人と牛は心を通わせることもできた。

「人を人とも思わなくなった時、堕落が始まるのね」と、詩人の茨木のり子さんは「汲む」という詩の中で書いている。
同様に、すべての命を命とも思わなくなった時、自分を支えてくれる命への感謝や同情を忘れてしまった時、万物の霊長を自負した人間の堕落が始まっているのではないか・・と、よく思います。

原発は、事故が起こったとき真っ先に被害にあうのは、人間だけじゃない、逃げることの出来ない動物たちです。
再稼働を望む人たちには、そのことに、どうか思いをはせていただきたいのです。


 


ところで、気がつけば、今年もあと数日。
書きたいことは山ほどあるのに、自分の力不足から、記事にもできず、消えていく事もありました。
2006年からブログをはじめて、来年で10年になります。
今年も牛の歩みのような1年でしたが、西条八十の「村の英雄」を再読して、それでも続けていくこと、牛の歩みでもそれが誇りに思えるようになりました。

この記事で、年内の更新は終わりにします。

今年も1年、見てくださった皆様には感謝の気持ちでいっぱいです。
どうぞ穏やかな良いお年をお迎えください。


★関連記事
 まど・みちおさんの詩「虹」
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「あさが来た」旦那様の言葉

2015年11月16日 | 心に残る言葉
「あさが来た」第7週平均は自己最高24・0%!7週連続大台超え

久しぶりに、NHKの朝ドラがまた楽しみになってきました。
たくましくも素直で、かいらしい、ヒロインのあさちゃんが好きすぎて、恋してるかも(笑)
日曜日がお休みだったので、月曜日に、あさちゃんにときめいて気づいた(爆)

ツイッターのハッシュタグ「あさが来た」も、毎朝チェックかかせなくて、無駄に忙しいですがな(汗)

実在の人物がモデルだから、どうやら、史実では旦那様の新次郎さんに側室ができて子どもも生まれるようなのですが、いよいよドラマもその時が少しずつ近づいてきたようで、せつないなあ。





旧家は「家」を守るために子どもを増やす、そういう時代だったから、今とは価値観が違うもので、現実の広岡浅子さんは、ネット情報によると、側室に子どもが生まれて一家繁栄を喜んでいたというようなこともに書かれていたそうですが。←どこまで調べてるんだ私。

これからドラマはどんな展開になるかわかりませんが、現代の視聴者が見ても、そうなることが不自然でなく納得できるストーリーにしてほしいなあと・・・難しいと思うけど。





でも現代の脚本家が新次郎さんに言わしたセリフは、良かったなあ。


「相手まかしたろとおもて、武器持つやろ?
 そしたら相手はそれに負けんように
 もっと強い武器持って。
 そしたらこっちはもっともっと強い武器を。
 太古の昔からアホな男の考える事や」


なあ!ほんまやで。
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わたしたちは、忘れない、あきらめない、屈しない

2015年09月27日 | 心に残る言葉






政権は、安保法制を通し時が来れば、いずれきっとみんな忘れてくれる
いつもの日常に戻るはず、と思っていることだろう

たしかに日常は一見何も変わらず、いつもの人たちといつもの笑顔、そして挨拶

しかし見えない部分にこそ、大切な変化はある
心のなかで、日常の中で、芽生えた変化は、決して消えない

そして、いつもの日常と笑顔と挨拶


以下、京大有志の会の声明文より


わたしたちは、忘れない。
人びとの声に耳をふさぎ、まともに答弁もせず法案を通した首相の厚顔を。
戦争に行きたくないと叫ぶ若者を「利己的」と罵った議員の無恥を。
強行採決も連休を過ぎれば忘れると言い放った官房長官の傲慢を。

わたしたちは、忘れない。
マスコミを懲らしめる、と恫喝した議員の思い上がりを。
権力に媚び、おもねるだけの報道人と言論人の醜さを。
居眠りに耽る議員たちの弛緩を。

わたしたちは、忘れない。
声を上げた若者たちの美しさを。
街頭に立ったお年寄りたちの威厳を。
内部からの告発に踏み切った人びとの勇気を。

わたしたちは、忘れない。
戦争の体験者が学生のデモに加わっていた姿を。
路上で、職場で、田んぼで、プラカードを掲げた人びとの決意を。
聞き届けられない声を、それでも上げつづけてきた人びとの苦しく切ない歴史を。

きょうは、はじまりの日。
憲法を貶めた法律を葬り去る作業のはじまり。
賛成票を投じたツケを議員たちが苦々しく噛みしめる日々のはじまり。
人の生命を軽んじ、人の尊厳を踏みにじる独裁政治の終わりのはじまり。
自由と平和への願いをさらに深く、さらに広く共有するための、あらゆる試みのはじまり。

わたしたちは、忘れない、あきらめない、屈しない。

自由と平和のための京大有志の会



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再掲:愛川欽也さんが靖国神社に奉納した言葉

2015年04月17日 | 心に残る言葉
昨年、7月の記事ですが、再掲します・・・以下。

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ツイッターで話題になっているらしいけど。


私たちは憲法を守る
憲法が私たちを守る
愛川欽也


立憲国家なら、当然のことなんだけれど、この文が、靖国神社にあったということが、素晴らしい。
ぜひ、実際の写真を見てください。
 https://twitter.com/itten10/status/489745567111577600

思えば、わだつみの遺書の、削除された部分で、ものすごく軍の中枢を批判していたことが判明した。
(参照:わだつみの遺書、削除された部分
無念のうちに処刑された若い兵士たちの思いに報いるなら、二度と同じ過ちを繰り返してはならない。

時の一政権の解釈で、国の憲法を勝手に変えてもいいなんて、許されない。
愛川欽也さんの、このメッセージは、輝いてみえる。

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愛川欽也さん、お疲れ様でした。大きな大切なメッセージをありがとうございました。
良き人生だったとお察し申し上げます。
謹んでご冥福をお祈りします。

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人はみな平和を背負う旅人なり

2015年04月11日 | 心に残る言葉



ペリリュー島で天皇皇后両陛下が祈りを捧げるこの写真は、こちらより

天皇陛下は、パラオ訪問の際、羽田空港でこのように述べた

「日本軍は約一万人、米軍は約千七百人の戦死者を出しています。太平洋に浮かぶ美しい島々で、このような悲しい歴史があったことを、私どもは決して忘れてはならないと思います」


2005年のサイパン島への慰霊の旅の際もこのように述べられた。

「先の大戦によって命を失ったすべての人々を追悼し、遺族の歩んできた苦難の道をしのび、世界の平和を祈りたいと思います」



東京新聞の1面には、毎日、読者の平和の俳句一句が掲げられているのだけれど、4月9日天皇皇后両陛下がパラオを訪問した日の一句

人はみな平和を背負う旅人なり
松井定子(64) 金沢市


・・・そうだなあとしみじみと思ったので、この記事のタイトルにしてご紹介させていただきました。

両陛下の背を見ながら、まさにお二人は戦後ずっとこの「平和」を背負って生きてこられたのだなあと。
戦争で亡くなったすべての命と引き換えに生まれた「平和の重さ」をずっと背負っていらっしゃるのだろうと。
80歳を過ぎてもなお、ご自分の使命であるかのように果敢に平和の大切さを後ろ姿で示されていることに、胸が熱くなりました。


人はみな平和を背負う旅人なり


もちろんその荷を両陛下だけに背負わせてはならないことは、作者の上の句「人はみな」に表されている。
戦後、天皇は神様ではなく、人間に戻られた。天皇を神と崇め、政治利用され、天皇のために死ねと言われたあの時代。誰よりも天皇家が、もう二度とあの誤った時代を繰り返してはならないと、強く感じられているのだと思います。
主権在民。この国は生まれ変わった。
私たち一人一人が、「平和」を背負って生きてゆく。それは後に続く者の役割なのだと、その覚悟をつきつけられたような気もした。

二人の選者の言葉も、どちらもとてもいい

金子兜太
 だから穏やかに笑って過ごせばよい。「背負う」が上手い言い方。
いとうせいこう
 戦いを背負うより困難で勇敢で知性的で優しく長く意義のある旅。


穏やかな笑顔を忘れず、戦いよりも勇敢で知的で優しい「平和」を背負いながら、この世の旅を続けたい。
天皇皇后両陛下のように。
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