今日、面白い記事を読みました。現在、ノリにノッテいる映画監督のひとり、三池崇史監督へのインタビュー記事です。まさに「映画小僧」な監督の魅力が詰まった内容となっています。これはインタビュアーの勝利かな?
インタビューの出来の良し悪しは、インタビュアーの入念な下準備に基づく、的を射た質問の投げかけで決まるのではないでしょうか?単なる「ヨイショ」ではなく、受け手の心の琴線に触れるような真摯な問いかけこそが、その内面奥深くに迫ることができる。受け手本人の内でさえ曖昧模糊としていた思い・考えが、優れたインタビュアーのひと言によってクッキリとした輪郭を顕す奇跡が起きるのも、インタビューの醍醐味なのかも。
逆に最近、酷いなと思ったのは、東京MX『5時に夢中サタデー』内での逸見太郎による、向井理へのインタビュー。太郎クンは事前にちゃんと質問内容について考えていたのかな?インタビュー中、要領を得ない、的外れな逸見太郎の質問に、(利発で、少々短気なところがある)向井理がイライラしているのが見てとれたほどでした(特に今回は自身の主演映画の宣伝で、何十社からもインタビューを受けていたので、向井理はかなり疲れていたはずです)。
太郎クンは人生初のインタビューで舞い上がってしまったのかもしれませんが、次回はもっと"考えた"インタビューをすべきでしょう。インタビューにも"戦略"が必要だと思います。
あと5~6年で時代劇(映画・テレビ)の黄金期を支えた、時代劇のすべてを知る裏方スタッフが引退の時期を迎えてしまう。そのことに危機感を覚えた監督は京都に赴き、彼らの全面的サポートを得て、最新作『一命』を撮ったそうです。インタビュー中、監督の彼らに対する敬意が言葉の端々に顕れていて、読んでいるこちらも胸が熱くなりました。
このところ、テレビからは次々と「時代劇」が消えていますが(あの長寿番組『水戸黄門』でさえ消え去ろうとしています)、そうこうしているうちに、作り手さえ現場からいなくなってしまう。この事態に、テレビ業界は何の危機感も覚えないのでしょうか?ケーブルテレビでは「時代劇チャンネル」で、過去の作品を見ることはできますが、作り続けることを現場が放棄してしまったら、その時点で制作ノウハウの継承は絶たれてしまいます。それはひとつの文化を失うことに等しい。失ってから、その損失の大きさを嘆いても遅いのに…
その作品の持つ剛胆なイメージと、その風貌のワイルドさとは裏腹に、インタビューから見えて来る、監督の映画の作り手としての謙虚さ、繊細さが、私には新鮮な驚きでした。全編から、映画を愛して止まない監督の情熱がストレートに伝わって来ました。馴れ合いを嫌い、プライベートではスタッフや出演陣と一線を画す監督のクールな一面も。だからこそ、現場ではその一瞬一瞬が、プロとプロの真剣勝負たり得るのでしょう。「すべては最高の映画を世に送り出すために」~この心意気が素敵です!
また、プライベートと仕事を明確に区別している監督の目から見た、『一命』主演の市川海老蔵評も興味深い。昨年末プライベートで問題を起こしたがために仕事に穴を空け、一時謹慎していた海老蔵。その彼を、役者として高く評価している点が注目されます。
インタビューの最後では3月11日の震災に触れて、「クリエイターとして、時代とどう向き合うのか」と言う命題に、監督なりの考えを述べていますが、常に奢ることなく、自らを省みる姿勢が素晴らしいと思いました。
久々に読み応えのある記事でした。
◆計算ずくで撮ったものが、果たして「映画」と言えるのか?(『VOICE』2011年11月号より) 聞き手:五十川晶子氏
当ブログ内「三池崇史監督関連」記事:映画レビュー『十三人の刺客』
インタビューの出来の良し悪しは、インタビュアーの入念な下準備に基づく、的を射た質問の投げかけで決まるのではないでしょうか?単なる「ヨイショ」ではなく、受け手の心の琴線に触れるような真摯な問いかけこそが、その内面奥深くに迫ることができる。受け手本人の内でさえ曖昧模糊としていた思い・考えが、優れたインタビュアーのひと言によってクッキリとした輪郭を顕す奇跡が起きるのも、インタビューの醍醐味なのかも。
逆に最近、酷いなと思ったのは、東京MX『5時に夢中サタデー』内での逸見太郎による、向井理へのインタビュー。太郎クンは事前にちゃんと質問内容について考えていたのかな?インタビュー中、要領を得ない、的外れな逸見太郎の質問に、(利発で、少々短気なところがある)向井理がイライラしているのが見てとれたほどでした(特に今回は自身の主演映画の宣伝で、何十社からもインタビューを受けていたので、向井理はかなり疲れていたはずです)。
太郎クンは人生初のインタビューで舞い上がってしまったのかもしれませんが、次回はもっと"考えた"インタビューをすべきでしょう。インタビューにも"戦略"が必要だと思います。
あと5~6年で時代劇(映画・テレビ)の黄金期を支えた、時代劇のすべてを知る裏方スタッフが引退の時期を迎えてしまう。そのことに危機感を覚えた監督は京都に赴き、彼らの全面的サポートを得て、最新作『一命』を撮ったそうです。インタビュー中、監督の彼らに対する敬意が言葉の端々に顕れていて、読んでいるこちらも胸が熱くなりました。
このところ、テレビからは次々と「時代劇」が消えていますが(あの長寿番組『水戸黄門』でさえ消え去ろうとしています)、そうこうしているうちに、作り手さえ現場からいなくなってしまう。この事態に、テレビ業界は何の危機感も覚えないのでしょうか?ケーブルテレビでは「時代劇チャンネル」で、過去の作品を見ることはできますが、作り続けることを現場が放棄してしまったら、その時点で制作ノウハウの継承は絶たれてしまいます。それはひとつの文化を失うことに等しい。失ってから、その損失の大きさを嘆いても遅いのに…
その作品の持つ剛胆なイメージと、その風貌のワイルドさとは裏腹に、インタビューから見えて来る、監督の映画の作り手としての謙虚さ、繊細さが、私には新鮮な驚きでした。全編から、映画を愛して止まない監督の情熱がストレートに伝わって来ました。馴れ合いを嫌い、プライベートではスタッフや出演陣と一線を画す監督のクールな一面も。だからこそ、現場ではその一瞬一瞬が、プロとプロの真剣勝負たり得るのでしょう。「すべては最高の映画を世に送り出すために」~この心意気が素敵です!
また、プライベートと仕事を明確に区別している監督の目から見た、『一命』主演の市川海老蔵評も興味深い。昨年末プライベートで問題を起こしたがために仕事に穴を空け、一時謹慎していた海老蔵。その彼を、役者として高く評価している点が注目されます。
インタビューの最後では3月11日の震災に触れて、「クリエイターとして、時代とどう向き合うのか」と言う命題に、監督なりの考えを述べていますが、常に奢ることなく、自らを省みる姿勢が素晴らしいと思いました。
久々に読み応えのある記事でした。
◆計算ずくで撮ったものが、果たして「映画」と言えるのか?(『VOICE』2011年11月号より) 聞き手:五十川晶子氏
当ブログ内「三池崇史監督関連」記事:映画レビュー『十三人の刺客』