はなこのアンテナ@無知の知

たびたび映画、ときどき美術館、たまに旅行の私的記録

『マダム・マロリーと魔法のスパイス』(原題:THE HUNDRED-FOOT JOURNEY、印/UAE/米、2014)

2014年11月03日 | 映画(今年公開の映画を中心に)
         大女優ヘレン・ミレンの女っぷりは相変わらず…


 とあるフランスの田舎町で、
 通りを挟んで繰り広げられるフランスとインドの料理対決。

 異文化のぶつかり合いの先には、
 意外にも、
 「普遍的な価値観の共有」と言う、
 不和を解く鍵があった。
 

 
 期待した以上に素晴らしい作品で、胸を打たれた。「料理をいただく」と言うことの意味や、「家族の絆」と「志を同じくする人々との繋がり」について、そして異文化とどう向き合うべきなのか、改めて考えさせられた。

  
 さて、世界各地で必ずと言って良いほど目にするのは、中華料理店とインド料理店である。

 私がかつて駐在した中東の都市でも、残念ながら日本料理店はひとつもなかったのだが、インド料理店は確かにあったし、中華料理店に至っては、さほど大きくない街に北京、広東、四川、(台湾)等、中国各地の味を供する店が7つもあった。

 かつて母国に見切りをつけて新天地を求めた中国人は、何はなくとも中華鍋だけは携えて国を離れ、移住先では、現地の食材を使って中華料理店(それから派生して食料品店)を開くか、多額の資本と熟練の技術を必要としないクリーニング店を営んで、強かに現地社会に定着して行った、と聞いたことがある。

 今回、フランスの田舎町で、(地元民から見れば)唐突にインド料理店(元よりフランスと関わりの深かったヴェトナムでも中国でもなく、インドであるところがミソ?)を始めた一家も、同様に新天地を求めてインドからヨーロッパへと向かい、ロンドンを経て、当地へと辿り着いたのだった。山間の、異国からの移住者も殆どいない(であろう?)静かな街の外れに、突如として大音量で響き渡る異国の音楽。これには誰であろうと最初は驚き、違和感を覚えるだろう。

 迎え撃つ地元のミシュラン一つ星を誇る老舗レストランも黙ってはいない。オーナー自ら嫌がらせにも近い対抗策に打って出る。道路を挟んで向かい合う両者の対立は、一部で人種偏見も相俟って次第にエスカレートして行く(傍から見れば、本当に大人げない)

 しかし、国は違えど、そこは同業者。"舌をうならせる美味しさ"を求める気持ちは同じである。頭より先に、その舌は相手を受け入れるのだった…


 
 かつて、キーラ・ナイトレイ出演で『ベッカムに恋して(原題:Bend it like Beckham)』 と言う映画があった。この作品も、移民家族の間に横たわる年配層と若年層のジェネレーション・ギャップを描いて、印象的であった。

 本作でも、頑迷な親世代の葛藤をよそに、若者世代はその柔らかな感性で、人種間、国家間の垣根を軽々と乗り越えて行く。

 ただし、同業者同士の恋はそう簡単には成就せず、最後まで見る者をヤキモキさせる。老舗レストランでひたすら上を目指して努力して来た女性シェフ、マルグリットの抑えきれない対抗心は、密かに好意を抱くインド人青年ハッサンの類い希なる才能への嫉妬も孕んで、恋の妨げとなっているようだ。

 "GIFT"の才能は、血の滲むような努力の上に築かれた成果を易々と越えてしまうのだ(『アマデウス』然り)。マルグリットがしばしば見せる、ひとりの女性としての喜びとプロのシェフとしての悔しさがない交ぜになった複雑な表情は、凡庸な(とは言え、彼女もかなり優秀なシェフのはず)人間の悲哀を痛切に表現して、見る者の胸を衝く。



 その恋と仕事の間で揺れる繊細な女心を、カナダ・モントリオール出身の女優シャルロット・ルボンが、その円らな瞳の魅力を最大限に利用して表現しているのが印象的だwink (彼女は、『イブ・サンローラン』でサンローラン最初のミューズとしてモデル役で出演していたのが初見)

 そして、英国が誇る大女優ヘレン・ミレンは言うに及ばず、初見が殆どのインド人主要キャストも、それぞれが魅力的だ。

 ヘレン・ミレンは日本の吉永小百合とほぼ同世代。面立ちは、その特徴的な高い鼻から、岩下志麻に似ていると個人的には思っている。カトリーヌ・ドヌーヴほどの美女ではないが、年齢相応の役柄を堂々と演じて、年齢に抗うばかりが女優の生き方ではないと自ら体現している希有な女優とお見受けする(同様に、英国はジュディ・ディンチと言い、エマ・トンプソンと言い、お国柄だろうか?)

 そう言えば、主演のマダム・マロリー役は、フランスが舞台の作品で、年齢的にもドヌーヴが演じでもおかしくない役柄なのに、そこを敢えて英国人であるヘレン・ミレンが演じたのはどうしてだろう?単に舞台設定をフランスにしただけで、基本的に英語圏の映画会社制作だからだろうか?それだけが理由でもないような気がする。もちろん、彼女が演じて大正解!である。

 インド人一家の次男で天才シェフ、ハッサンを演じるマニシュ・ダヤルは、浅黒い肌に端正な顔立ち。面差しが角度によっては日本の山田孝之を彷彿とさせる。資料を見てもこれといった代表作は見あたらず、本作が本格的な海外作品デビューなのだろうか?今後も目が離せない俳優になりそうだ。

 パパ役のオム・プリはインド映画界で長年活躍したベテラン俳優で、彼の出演作リストを見る限り、私は過去に何度も彼を目にして来たはずなのだが、申し訳ないことに全然記憶になかった。

 アバタ肌に大きな鼻が特徴的で、けっして美男とは言えないが、今回は威厳あるインド人一家の家長を表情豊かに、時にはユーモラスに演じて、存在感を見せつけている。彼が演じるパパの人間的魅力で、当初対立していたヘレン・ミレン演じるマダム・マロリーとの心の距離を徐々に縮めて行く様子も、本作の見どころのひとつだろうか。

 他にも本作では印象に残ることが幾つかあった。

 まず、レストラン経営者(シェフも含む)の、神への信仰にも似た「ミシュラン信仰」。傍らに未開封のシャンパン一本を用意し、電話機の前でミシュランからの星評価の報を固唾を飲んで待つ、上品なスーツに身を包んだマダム・マロリー。その仰々しさにまず驚いた。一レストラン・ガイドブックが付ける星の数に、老舗の一流レストランがそこまで一喜一憂するさまが理解できず、些か滑稽にさえ思えた。しかし、そもそも人生でそのような場に立ち会ったことのない人間には、そこに身を置いた人間の思いなど分かるはずもないし、何も言う資格などないのかもしれない。

 次いで、フランスの「地産地消を尊ぶ精神」に、何もかもが東京に一極集中する日本に暮らす私はハッとさせられた。日本では産地最高の食材は、その殆どが東京の築地市場に集まるようになっているのではないか?今や、産地にわざわざ足を運ばなければ口にできない食材の方が少ないのではないだろうか?東京の「一都市におけるミシュラン星獲得レストラン」の尋常ない多さも、一極集中のなせる業なのだろう。

 一方、本作では当然のように、時の大臣が山間のレストランまで足を運び、一流のシェフが地元で採れたばかりの新鮮な食材を使って作った料理を食べていた。このことは、作品の冒頭で、ハッサンに料理を指南する母親の「料理とは、食材の命をいただくこと」と言う言葉を思い起こさせた。これはハッサンの胸に深く刻まれた、料理に対する思いそのものでもある。

 さらに、少し気になったのは、両者が対抗心剥きだしで調理に励んでいた時の料理は、果たして本当に美味しかったのだろうか、と言うことである。料理は、作り手の気持ちがそのまま味に反映されるものであると、私は思う。

 そして、インド人の海外進出を後押ししているのが、彼らの英語力であること。インドは連邦制で、州ごとに定めた公用語だけでも22もある多言語国家であり、連邦制国家の成立時、多数派言語であるヒンディー語のみを連邦全体の公用語とすることに反対する声も大きかった国内事情から、英語も公用語として認められた歴史的経緯がある。

 その為、インド人はある程度の教育を受けた層ならば、英語が当たり前のようにしゃべれる。それが海外進出において、彼らの強みになっている。最近はIT技術者としての来日が増えているらしく、私の地元でも日常的にインド人を見かけるようになった。比較的英語が苦手だと言われる日本人も英語力が身につけば、日本を離れて海外に活路を求めて行くケースが、今後は増えて行くのではないだろうか?たかが英語、されど英語である。

 最後に、本作はインド映画と紛うばかりに、全編を通して流れるのはインド人作曲家によるインド・テイストな音楽であった。しかし、本作はあくまでもインド・UAE・米国資本で制作され、スウェーデン人のラッセ・ハルストレム監督が演出を手がけ、あのスティーブ・スピルバーグや有名女性司会者オプラ・ウィンフリーが制作に関与した、ハリウッド発の"多国籍連合"映画なのだ。

 私も別記事で言及しているように、今年はインド映画が熱い。それは、インド映画がハリウッドナイズされて、海外にも受け入れられ易くなったと言うのが、その理由のひとつである。今回はネタ切れにほとほと困り果てたハリウッドが、まだまだ未開拓のインドに目を付けたとも言える。かくして、インド風味のハリウッド映画が出来上がったわけである。おそらく、これからも暫くは、インド映画人の快進撃が続くことだろう。

(敬称略)

【追記 2014.11.10】

 映画批評家、前田有一氏のサイト『超映画批評』では、観客をミスリードしそうな邦題のおかしさについての言及があったが、かといって原題をそのまま使用しても、おそらく多くの人には意味が伝わりづらいのかもしれない。

 直訳すれば「100foot(メートル換算で約30m)の旅」?通りを隔てて対立するふたつの文化のビミョーな距離感を表しているのだろう。物理的には百歩程度で行き来できる距離にありながら、その文化的隔たりが大きいさまを皮肉っているとも言える。それはそのまま、移民社会の現状(移民受け入れによる社会的混乱。特に移民立国である北米・中南米よりも、成熟社会に移民が入り込んだことによる深刻な軋轢や混乱を生んでいるヨーロッパ社会)を言い当てているとは言えないだろうか?


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