はなこのアンテナ@無知の知

たびたび映画、ときどき美術館、たまに旅行の私的記録

皆で子ども達を守り、育てよう

2016年11月01日 | はなこ的考察―良いこと探し
 自分の生きている社会が、その未来を担う子ども達に果たして優しいのか?日々、自問自答している。


 今朝、雨でバスの到着が遅れに遅れて、通勤ラッシュの時間帯を過ぎているのに、先頭に立つ私の後ろにはいつの間にか10人以上の人が並んでいた。その中には幼い子ども連れでベビーカーも携えた若いお母さんもいた。

 イマドキのバスは前方の一人用座席にベビーカーを固定する為のストラップが付いている。ベビーカーの安全を図る為の措置だ。

 列の後方に並んでいた親子連れが乗車した時には、ストラップが付いている席がひとつしか空いておらず、母親は手をひいていた男の子をその席に座らせ、ベビーカーをストラップで固定して席に横付けにし、自分は立ったままの状態だった。

 よく見ると、ベビーカーと抱っこひもにそれぞれ幼児がいた。つまり母親は3人の幼子を連れていたのだ。

 バスが遅れたせいで、行く先々のバス停で行列が出来ていて、車内は次第に込み合って来た。仕方なしに母親はベビーカーに乗せていた幼子を男の子と一緒に座らせ、ベビーカーを畳んだ。

 座席に座らせた幼い兄弟に目を配りながら、片手でバーに掴まり、片手でベビーカーを持っている母親。その肩には抱っこひもで抱えた、もうひとりの幼子の重みがかかっている。

 大変だなあ。私がすぐ近くにいれば、せめてベビーカーを持ってあげるのに、と思った。すぐ後方の席に座っている若い女性は、親子連れに一瞥することもなくスマホをいじっているばかりだ。

 とにかく車内は混雑していて、私と親子連れの間には人だかりがあり、その状況が気にはなっても、私にはどうすることも出来なかった。

 そうこうしているうちに、漸くバスがバスターミナルに到着。

 母親は幼子2人の手を引き、ベビーカー以外にも大きめのマザーズバッグを抱え、バスから降りるのも一苦労だろう。降りる段になって、ベビーカーをバスから下ろすのだけでも手伝おうと、私は若い母親に声をかけた。

 持ってみると、A型ベビーカーは予想以上に重かった。その華奢な手で、こんな重い物をずっと動かないよう押さえていたのか。

 「母は強し」と感心すると同時に、もう少し周りの人間が気遣ってあげるべきではないかと思った。


 駅前のショッピングモールでエレベーターに乗った時のこと。

 私は最上階から乗ったのだが、途中階で親子連れが乗って来た。赤ちゃんを抱っこひもで抱えた若い母親と、父親と、3~4歳くらいの動きの活発そうな女の子。

 そこで気になったのは父親の行動だ。エレベーターに乗り込む時、母親に続いて自分ひとりさっさと乗り込み、まだ外にいる幼い娘を大声で呼び寄せた。

 その間、エレベーターの操作盤の前の女性は、その親子の為に、ずっと「開」のボタンを押し続けていた。

 エレベーターに乗り込む時、父親はなぜ、幼子の手を繋がないんだろう?

 最近は、人ごみの中でも幼子の手を引かない親が少なくない。心配ではないのだろうか?実際、人にぶつかってよろけたり、転ぶ子どもを、私は何度も目撃している。

 さっさと前を歩いていて、子どもが泣いて初めて、我が子が転んだことに気づく親もいる。

 また、スマホに夢中で、我が子の動静をちゃんと見ていない親もいる。

 あまりにも無防備ではないか?

 それとも、幼い頃から子どもの自主性を尊重し、親があまり口出しや手出しをしない教育方法でも流行っているのだろうか?子どもの思うがままにさまざまな経験をさせ、敢えて痛い思いもさせる"経験主義"とでも言おうか?

 仮にそうだとしても、その実践は子どもの年齢や、時と場所によるのではないか?


 件の女の子はエレベーターに乗ると、扉の真ん前に立った。エレベーターの中でも手を繋ごうとしない父親。女の子が嫌がっても、言い聞かせて手を繋ぐべきではないか?

 大丈夫なのかと心配していたら、案の定、次の階で扉が開くと、女の子は勢いよく外へ飛び出した。

 「ここじゃないよ」と声をかけるだけの父親。その間、新たに乗り込もうとした人々は、この親子に待たされた形。

 堪らず私は「お父さん、お子さんと手を繋いだ方が良いんじゃないですか?」と、父親に向かって言った。父親は一瞬振り返ったが、私の言ったことが聞こえなかったのか、子どもと手を繋ぐことはなかった。

 周知のことだと思うが、エレベーターや電車のドア付近は幼子には危険な場所である。ドアで指や身体を挟まれる事故が後を絶たないと言う。特にドアと戸袋の間に、幼子の小さな指は入り込みやすい。

 私の夫は、子どもの安全を考えない親を目の当たりにしても、注意せずに冷たい視線を送るだけだ。そういう親の元に生まれた子どもが、親の不注意のせいで怪我をしたり、最悪死んでしまっても、それは親の責任で自業自得だと言う。

 しかし、そもそも私は、自分の目の前で、子どもが事故に遭うのを見たくない。


 私は、人間の人生は、いつ、どこで、どんな親の元に生まれたかで決まる部分が少なからずあると思っている。

 若いうちにしかるべき教育を受け、着々とキャリアを積んだ友人達を見るにつけ、もし、自分の親が教育熱心な親であったなら、私には今とは違った人生が開けていたのではないかと、時々思うことがある。

 与えられた環境の中で、自分なりに頑張って生きて来た自負があってもだ。「鉄は熱いうちに打て」という言葉は真実である。

 私が6才の時、4才になったばかりの妹は、一人で近所の商店へ行って、店の出入り業者のトラックに轢かれて死んだ。

 何も知らずに学校から下校途中だった私が目にした道路のおびただしい血は、私の妹の血だったのだ。火葬直前に見た、頭部を包帯でぐるぐる巻きにされた妹の姿は、50年近く経った今も脳裏に焼きついて離れない。

 以上のような私自身の個人的体験からも、「その生い立ちに関係なく、全ての子ども達が等しく守られ、育てられる社会」であって欲しいと思う。

 子育てに頑張る親に対しては、社会全体で積極的にサポートする。

 親がふがいないのであれば、社会全体で、せめて周りの大人が親の足りない部分を補い、身近な子ども達を守り、育てて行かなければいけないと思う。


 ひとりでも多くの人が、子ども達を守り、育てることに関して、ほんの些細なことでも躊躇うことなく行動に移すことが、少しずつ社会を変えて行くのではないかと、私は信じている。
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