昨日、駅ビルに入ろうと(自動ドアではなく)観音開きのガラスドアを通過する時、気の毒な場面に遭遇しました。
通常はドアの左右のどちらかが「入る人」、「出る人」という形で人々は通り抜けるのですが、その時はたまたま出る人がおらず、左右両方から人が入る形になりました。私は習慣としてドアを押さえたまま振り返って後方を確認してからドアから手を離します。
ところが昨日は私と同時に右側から入った中年男性が思いっ切りドアを押して入り、後方を確認もせずにドアから手を離してしまったのです。すると右側のドアは反動で勢いをつけて閉まってしまいました。運の悪いことに私の後方には幼い(3~4歳位?)お孫さんの手をひいたおばあちゃんが続いていたので、私のすぐ後方のおばあちゃんはともかく、その右側にいたお孫さんの頭部をドアが直撃してしまいました。
それを目の当たりにした私はびっくりして咄嗟に「大丈夫ですか?」と声をかけたのですが、おばあちゃんも「大丈夫?大丈夫?」とお孫さんに声をかけています。すると幼い男の子は健気にも「ちょっと痛かったけど、大丈夫だよ」と答えています。でもその言葉を何度も繰り返しすので、おそらく本当はとても痛いのを我慢して答えていたのではないでしょうか?あの小さな身体への衝撃は相当なものだったはずです。それでもおばあちゃんのことを気遣って強がるお孫さん。それを思うと気の毒でならず、胸が痛みました。
言うまでもなく街の雑踏にはさまざまな人がいます。だからこそ、特に大人は、猫のように前だけを見るのではなく(そう、私達は猫ではなく人間なのです!)、周囲への気遣いを忘れないで行動して欲しいと思います。
以前千葉県では、男性の歩きたばこの灰がすれ違った幼子のまぶたに触れて大やけどを負った事故もありましたね。昨日のドアの一件も、原因は同じことだと思います。街中にいるのに自分のことしか考えていないから、周囲の人にとんでもない迷惑をかける事態に発展することがある。少なくとも「動いている時」は、”精神的ひきこもり”を避けて、「多くの人々が暮す人間社会の中にいる自分」を自覚すべきです。自分の軽率な行動が、どんな事態を招くやもしれないのだから。
通常はドアの左右のどちらかが「入る人」、「出る人」という形で人々は通り抜けるのですが、その時はたまたま出る人がおらず、左右両方から人が入る形になりました。私は習慣としてドアを押さえたまま振り返って後方を確認してからドアから手を離します。
ところが昨日は私と同時に右側から入った中年男性が思いっ切りドアを押して入り、後方を確認もせずにドアから手を離してしまったのです。すると右側のドアは反動で勢いをつけて閉まってしまいました。運の悪いことに私の後方には幼い(3~4歳位?)お孫さんの手をひいたおばあちゃんが続いていたので、私のすぐ後方のおばあちゃんはともかく、その右側にいたお孫さんの頭部をドアが直撃してしまいました。
それを目の当たりにした私はびっくりして咄嗟に「大丈夫ですか?」と声をかけたのですが、おばあちゃんも「大丈夫?大丈夫?」とお孫さんに声をかけています。すると幼い男の子は健気にも「ちょっと痛かったけど、大丈夫だよ」と答えています。でもその言葉を何度も繰り返しすので、おそらく本当はとても痛いのを我慢して答えていたのではないでしょうか?あの小さな身体への衝撃は相当なものだったはずです。それでもおばあちゃんのことを気遣って強がるお孫さん。それを思うと気の毒でならず、胸が痛みました。
言うまでもなく街の雑踏にはさまざまな人がいます。だからこそ、特に大人は、猫のように前だけを見るのではなく(そう、私達は猫ではなく人間なのです!)、周囲への気遣いを忘れないで行動して欲しいと思います。
以前千葉県では、男性の歩きたばこの灰がすれ違った幼子のまぶたに触れて大やけどを負った事故もありましたね。昨日のドアの一件も、原因は同じことだと思います。街中にいるのに自分のことしか考えていないから、周囲の人にとんでもない迷惑をかける事態に発展することがある。少なくとも「動いている時」は、”精神的ひきこもり”を避けて、「多くの人々が暮す人間社会の中にいる自分」を自覚すべきです。自分の軽率な行動が、どんな事態を招くやもしれないのだから。