「これがなくなったら、人間が生きていけない」というものは何かと問われたら、あなたは何と答えるだろうか? 空気、水、塩、糖分など、山での遭難から生還した人が携行していたものを思い浮かべる人もいるだろう。
だが、どんなに想像力の豊かな人でも、「ミツバチ」という解を挙げる人はそうはいないはずだ。かのアインシュタインは、「もし、ハチが地球上からいなくなると、人間は4年以上生きられない」と予言した。
なぜならば、ハチがいなくなると、受粉ができなくなり、植物がいなくなる。そうなると、植物の光合成によって酸素が供給されず、人間は野菜から必要な栄養分を摂取することもできなくなる。その結果、人間も地球上からいなくならざるを得ないということだ。この「風が吹けば桶屋がもうかる」式の論法には賛否両論があるが、この予言の真偽に判定が下される日もそう遠くはないのかもしれない。
●世界中でミツバチが失踪
2006年秋、米国で数人の養蜂家が、セイヨウミツバチが巣箱からすっかり消えているのを発見した。その後全米の35州、180億匹のセイヨウミツバチが短期間に巣から失踪(そう)していることが確認された。
今でこそ「蜂群崩壊症候群」(以下、CCD:Colony Collapse Disorder)という名前が付けられるほど知られるようになった現象だが、女王バチや生まれて間もないハチを置き去りにして働きバチがこつぜんと姿を消すという状況に、何十年もハチとともに生きてきた養蜂家も事態の掌握に随分時間がかかったという。ミツバチの死体もないのだから、原因の特定すら困難なのだ。
最新の技術を取り入れて集中管理を行ってきた自負のある養蜂家のショックは計り知れないが、その影響は養蜂家の収益悪化にとどまらない。現在米国では、アーモンドやズッキーニなど100以上の農作物の商業的生産がミツバチの媒介に依存している。ミツバチの不足はこれらの商品供給の停止を意味するといっても過言ではないのだ。
そして、同様の現象が日本でも確認され始めた。2009年4月に行われた農林水産省の調査では、山形県、栃木県、静岡県、岡山県、鹿児島県など計21都県で、いちご・メロンなどの果物やすいか・なす・かぼちゃなどの野菜を育てる上での受粉に必要なミツバチが不足していることが明らかになった。
本来日本に生息するニホンミツバチや、花粉を運ぶそのほかの虫の数に変化は見られないが、受粉用に飼育されたセイヨウミツバチは減少が確認されている。これによって、ミツバチの売買価格やレンタル料金が4割~5割値上がり、人手で受粉する農家も増えており、生産コストは上昇傾向にある。
当然これらのコスト増大は、消費者価格に転嫁せざるをえなくなる。これまでも低収益に悩まされていた農家では、廃業に追い込まれるケースも出てくるだろう。また、こうした経済面での影響だけでなく、十分な受粉がされず、でこぼことした形で緑色のまま成長が止まる「奇形いちご」も生まれている。
この状況を見て、農林水産省は大きく2つの対策に着手した。1つは各県や関係団体と連携した、ミツバチの需給調整システムの構築である。県単位で園芸農家から、不足蜂群数の申告を受け、養蜂家からの調達を仲介するとともに、 日本養蜂はちみつ協会や専門共有業者を介して県を超えてミツバチの供給を行うものだ。
もう1つは、園芸農家への経営支援である。一定の自助努力を前提に、政策金融公庫や農林漁業セーフティーネット資金の活用をしやすくする。これらの対策は、経済的な観点で市場の安定化に短期的には寄与すると考えられる。初期調査から2週間で対応策を発出した初動の速さも非難には当たらない。
しかし、構造的に需給バランスを調整するような効果が期待できないことは誰の目にも明らかである。同時に、農林水産省はアルゼンチンからミツバチを生む女王バチの輸入の検討も行っていくと発表した。しかし、「アフリカ化」と呼ばれる気性が荒くて攻撃性の強いハチが日本の養蜂家の手に負えるのか懸念する農家も多い。
さらに、日本の生態系に適応し、病原菌に侵されていないかを検閲できたと言い切ることは難しいと指摘する専門家もいる。動植物の移動に伴う影響は必ずしも、人間の予想や想定の範囲に収まるものではなく、日本の養蜂に適したハチを特定することもそれを正しく選出することも難しいということだ。ハチは、機械の部品と同様に規格検査することはできないのである。
●ミツバチ失踪の原因は?
では、このミツバチ不足にどう向き合えばよいのだろうか? 日本でのミツバチ不足がCCDであるとの確証はないが、CCDの原因仮説を見ていくと我々が対峙(たいじ)すべき問題の本質が見えてくる。
CCDの原因としては、「(1)ミツバチの栄養失調説」「(2)遺伝子組み換え作物説」「(3)新型ダニ説」「(4)電磁波説」「(5)農薬説」などが挙げられる。ただし、いずれも断定できるほど強力な根拠とはなっておらず、10年以上前から指摘されていた言説であることから、ここ数年での急速な減少の説明になっているとは言えない。
そこで注目されているのが、上記の(1)~(5)のような複数の要因が絡み合って、ミツバチの免疫力が慢性的にかつ世代を超えて低下したとする「ストレスによる衰退説」である。免疫系の異常は、崩壊していた巣に残っていたハチを調べたところ、15種もの病原が体内に保持されていたという調査結果から明らかにされており、何かしらの原因でハチの免疫系が異常な状態にあることは確認できている。そして、その原因とは人間世界の資本主義経済に組み込まれたことによるストレスだと言うのだ。
象徴的な例で言うと2000年代、カリフォルニアでは、アーモンド栽培が成功し「アーモンドゴールドラッシュ」とも呼ばれる状況となった。そしてより生産量を高めるために、アーモンド農家は、商業養蜂家からミツバチの巣箱を借り、畑から畑へとミツバチを移動させ、受粉させた。そのためには、ミツバチ用のたんぱく質サプリメントを投入するなど「ミツバチを働かせるための」投資も惜しみなく行われた。
しかし、エネルギー分を投入したらその分だけ働くほどハチは合理的にも単純にも生きていない。受粉昆虫は、2種類以上の花や花粉から総合的なエネルギーを調達するのを好むと言われているが、偏重な栄養分を強制的に摂取させられ過重にアーモンドの受粉を担わされた結果、ミツバチはその役務も生きることも放棄したのだ。
ミツバチは卵を産み落とされた場所によって、繁殖が許される女王バチと働きバチに自然と役割分担がなされる。そして、働きバチも幼虫を育てるハチと花粉やみつを幼虫のエサに変える貯蔵ハチ、外部から花粉やみつを調達するハチの大きく3つに分けられる。働きバチはこの3段階を誰の指図を受けるまでもなく、自ら気付いてその役割を引き受けるようになり、最終的には、調達ハチとしてその生涯を終える。
1つの巣で5万匹のハチがそれぞれ1ミリグラムと言われる脳で個別の決断を下しながらも、群れ全体では調和と知恵が保たれ1つの生命体「超個体」として機能してきた。特定の個体の意志決定や指示を受けずとも、精妙な自己組織化力を発揮してきたハチが、巣を放棄し、失踪するということはこの超個体の死、すなわちハチ一家の死を意味するのだ。
ミツバチたちをそこまで追い詰めた原因を探るには、最初の問題設定が重要であることは言うまでもない。もし、本当にCCDの原因がストレスによる衰退であり、その結果、ハチが巣の放棄を起こしているとしたら、短期的な人間都合の需給バランスの調整といった視点ではこの問題に対処できているとは言えない。
仮に健全なミツバチを調達してきたとしても、人間世界の経済理論に組み込まれれば、過労によるストレスを抱えることは時間の問題である。ハチと人間との共存の歴史は、紀元前6000年前にまでさかのぼると言われるが、ついに我々人間はハチから三行半を突き付けられたのだ。人間にとって必要な商業農産物の量から逆算した勝手都合な理論通りには、ハチは働いてくれない。この兆しを真摯に受け止めハチとの共存を望むのであれば、私たちは「経済合理性や収益の最大化」という大名目を放棄しないといけないのだろう。
サステナビリティという言葉が注目され、エコブーム・環境意識の高まりを日常生活の中でも実感する機会が増えている昨今ではある。しかし、人間世界の合理性や都合を前提とした自己満足な取り組みをしているようでは、我々人間こそがその種の存続が危ぶまれることになる。人間たちの「問題設定」能力に、ミツバチが命をかけて疑問を呈しているのではないだろうか。(井上卓哉)