羽黒蛇、大相撲について語るブログ

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2014年10月12日 | 歴史
和歌森太郎の本より引用(羽黒蛇)



和歌森太郎著作集、15相撲の歴史と民俗

弘文堂

昭和57年

面白かった箇所を引用。一部要約している。



137頁

大正12年1月大錦は引退したから、東西を通じ、横綱は栃木山一人となった。

協会は、これに張り合うだけの横綱を、相手の片屋に据えたいと思った。となれば、源氏山の昇格よりほかにない。

私(和歌森)自身、後年栃木山の春日野から聞いたことだが、この一月の成績で源氏山を横綱にさせたいので、勝負はお手やわらかにと、出羽海勢に、協会首脳から働きかけがあったという。「冗談じゃない。八百長で横綱が出来たら、わしの横綱の権威まで消し飛んでしまう」とおとなしい栃木山だが、カーッと怒った。

だがそんなことを耳にしただけに、千秋楽での対源氏山戦にファイトが燃えず、勝ち切ることをせず、引分けに終わった。



211頁

昭和6年の二回目の天覧相撲にさいし、土俵の直径を、十三尺から十五尺に大きくした。

小さい土俵では早く勝敗がきまりがちである。それで少しでも見物の興をひくように、一まわり大きくということで、まず天覧相撲で試みたのだが、早速そのあとの五月場所から、本場所にも改革実現させた。



212頁

昭和6年5月、径十五尺、かつ二重土俵を一重にした土俵上に横綱はなく、・・・

どうも魅力の薄い相撲が多く・・・

長い相撲を三たび取った天龍対能代潟の取組が世間を沸かせた。

この勝負について、当時の私は、どちらも下手な人じゃないかと思ったものだ。相撲内容に面白みはなかった。

惰弱な若者にたいする士気の作興の範に相撲が利用される向きでもあった。そういう点でこの一番は模範的だとの評があった。



146頁

武蔵山が戦後協会を去り不動産屋に転じていたころ、彼とたびたび会食した。いったいよく「こぼす男」で、若いころの颯爽たる男前の相撲ぶちと、余に違うジメジメした態度に私はあわれを催した。「贔屓、後援者にだまされ続けましてね」としきりにボヤいていた。



横綱になるような星でもない武蔵山を、横綱に推挙した熱心な親方は高砂(大正の朝潮)だった。彼は自分のところの男女ノ川を横綱としやすいよう、前提条件をこうしてつくったのである。「武蔵山だって・・・」という言い方で男女ノ川を推そうと思ったのだ。



395頁

相撲協会が、まだ東京大角力協会とよんでいたところ、大正14年に協会は財団法人になった。そのときの「寄附行為」つまり規則に、事業の筆頭に、相撲専修学校を設置するようにうたわれていた。

ところが昭和32年までそれは無視されて来た。

いや、各力士の部屋、あれが学校だという苦しい弁明をしたりして、すませて来た。そんな解釈が通らない世の中になって、俄然これをどうするかが問題になったわけである。

一般見物人やファンからみれば、どうということもない、無関係でいられることだが、財団法人としての性格論をやる国会として無視できなかったことは当然である。文部省も、これは是非寄附行為にうたう通りに近づかねばと指導してきた。

その成果として、相撲教習所なるものも誕生したのである。



214頁

昭和6年の暮、協会は相撲専修学校と称する付属機関を設立。前々から学生相撲の指導に尽力してきた千賀浦監事(元綾川五郎次)を管理者とした。

これは財団法人たる協会の「寄附行為」にある事業目的の第一項に掲げられたものを実現させたつもりだったようだが、附属の施設では、協会の事業そのものには認められないものだった。

それにしても、この年6月に小田急沿線南林間に力士養成所を設け、・・・国民の体育、精神訓練に、これを活用させようとしてきた。

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