羽黒蛇、大相撲について語るブログ

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四神会する場所 第二部 中村淳一著

2017年08月25日 | 小説
四神会する場所 第二部

泡だらけの純情

 羽黒蛇は思う。相撲とは、こんなにも面白いものだったのかと。
羽黒蛇は、今、相撲の歴史が生んだ過去の名力士たちの。そして、現役力士たちのその取組の映像を、連日、むさぼるように見続けた。
 今までも、ボリュームとしては、AKB48をはじめとする、アイドルたちの映像を見る、その合間にではあったが、羽黒蛇は、そういった映像は見ていた。だがそれは、彼が目指していた理想の相撲、理想の力士。そのあるべき姿を求めて、という大きな目的があった。
 今の彼は、もう、それを目指してはいない。
 心にこだわりを持たずに見る相撲。それは楽しかった。その気持ちは心に余裕を生み、これまで気づかなかったような多くの発見があった。
 日々の稽古についても。
 羽黒蛇の基調となる相撲の取り口に大きな変化があったわけではない。だが、その相撲は、これまでの彼の相撲とは、やはりどこかが違っていた。
張り詰めた、見るものが思わず襟を正してしまうような典雅なる均衡は、失われてしまったのかもしれない。その代わりにやってきたもの。それは、見るものが心躍らせる、伸びやかな破却だった。


 メールが届く。毎日何度も。電話も架かってくる。毎日一回。
メールに対して返信することはほとんどない。一度、ごく短く返信したら、ご返信ありがとうございます、という喜びに溢れた、いつも以上に長文のメールが返ってきた。それ以来、返信するのはやめた。
 だが、架かってきた電話には出ない訳にはいかない。
「利菜さん」
荒岩亀之助は、遠慮がちな声で話し始める。亀之助は本名ではないそうで、本名も教えられたのだが、よく覚えていない。興味がないから覚える気にもなれない。
「こちらは、少し雲が出ていますが、良い天気です。東京はどうですか」
 いつも同じ話だ。
 
 名古屋と東京の、今日の天候がどうなのか。そんなことは、ネットで調べれば、すぐ分かるのに。
利菜が、普通な感じで。ましてや明るい口調で返事をしようものなら大変だ。
 荒岩は、本人は面白いと思っているようだが、少しも面白くない話を、どんどん続ける。
 だから、電話に対しても、利菜は、必要最小限の答えをぶっきらぼうに、答えるだけだ。
 話の接ぎ穂をなくしてか、あるいは、早く電話を切ってほしい、という利菜の気持ちをそれなりに察してか、荒岩は長電話というほどではない時間で電話を切る。
 荒岩からのメールも、電話も、利菜には気が重い。ひとこと、迷惑です。と言えば、彼はもうメールも電話も、ぴたりと寄こさなくなるだろう。
相手が嫌がっている、ということがはっきりと分かって、そういったことを続けるようなひとではない。そういうひとだということは、利菜にも分かる。
だが、利菜は、そのひとことが言えない。
それを言ってしまったら、利菜は、大相撲という世界とは何の縁も持たない、ただの人になってしまう。

こんな形であっても、利菜は、大相撲の世界と繋がりを持っていたかった。
利菜が好きで好きでたまらなかった人。いや今でも好きで好きでたまらない人。
力士、豊後富士。新谷照也と、また再び、繋がりを持つために。

利菜は、自分が類稀な美少女だということは充分に自覚していた。ごく幼い少女だった頃から、利菜に思いを寄せる少年はひきもきらなかった。
その中で、レベルが高いと思える、まあ付き合ってあげてもいいかな、と思える少年は何人かいたし、実際付き合ってもみた。
だが、どの少年もどこか物足りなかった。
利菜のほうが、本気で好きになった少年は、いなかった。

豊後富士を初めて見たのは、利菜の父が経営する企業が関係する、何か大掛かりなパーティーの会場だった。
父にとって、利菜は言うまでもなく、自慢この上ない娘であり、この種のパーティーに連れ出したがった。利菜も気が向いたときは付き合った。
豊後富士は後援者からの立っての依頼。それは、アイドル顔負けの美少年、超人気力士である豊後富士を同行者として参加したら、鼻高々になれるという思惑があっての依頼であったが、父である照富士親方の、部屋の経営のためにも、ちょっと顔を出してやってくれ、との口添えもあり、参加したのだった。

豊後富士を初めて見た時、利菜は、その美少年ぶりに心を奪われた。そんなことは初めてだった。今までも、メディアの映像として、豊後富士を見たことはあったが、自分に関係がある人物とは思わなかったし、お相撲さんにも、ずいぶんかっこいい人がいるんだなという感想を持っただけだった。

その美少年は。パーティーの席上で利菜に声をかけてきた。そして、今度、別の場所でも会おうよ、と言って、すぐに利菜の連絡先を訊いてきた。
こんなかっこいい人でも、やっぱり、私を見ると、すぐそういう気持ちになるのね。
利菜は、満足感とともに、連絡先を教え、すぐにかかってきた誘いに、少しだけ、勿体をつけたあと、応じた。

さほど、長くもない月日が経過した。
利菜は、自分が初めて本当に好きになった男に、あっさりと捨てられてしまった女になっていた。
自分が、そんな女になってしまうなど、利菜は想像したことも無かった。

名古屋場所の初日の数日前。
その日の電話で、荒岩は、
名古屋場所を応援に来てほしい、と告げた。
利菜は、十八歳になっていたが、今、高校三年生である。利菜が、高校生であることを知ったとき、荒岩はずいぶんと驚いていた。
名古屋場所。前半戦は、利菜が通っている、私立の女子高校は、まだ夏休みにはなっていない。が、既に短縮授業にはなっているので、その時期、授業は昼まで。学校が終わって、すぐに東京を発てば、幕内力士の取組の時間には間に合う。
でも、
利菜が黙っていると、荒岩は、来てくれる日を決めてくれたら、その日の桝席を送るという。豊後富士と付き合っている中で、利菜は少し、相撲界のことは勉強したので,桝席が、四人席だということは知っていた。
「桝席を送っていただいても、一緒に行く人はいません」
利菜は結局、行くとも行かないとも答えなかった。

翌々日、利菜のもとへ、荒岩からの郵便が届いた。
中には、初日から千秋楽まで、十五日間すべての、最も土俵に近い椅子席のチケットが入っていた。そして、高級ホテルの一泊分プラス新幹線の往復代、そう考えても、多すぎると思われる現金も、別に送られてきた。
精一杯の愛嬌のつもりなのだろう。似ているとはとても思えない、本人の似顔絵が描かれた、来名をお願いする手紙も同封されていた。


弘子が考えた四人の新弟子の四股名は、
 玉の輿乗造。
 お金持成造。
 金大事耕助。
 玉玉田又造
だった。

武庫川親方は、深くため息をついた。
四人の新弟子も、深くため息をついた。
四人の新弟子は、揃って、すがるような眼で、武庫川の方を見た。
弟子たちが何を言いたいのか、武庫川にはよく分かった。
親方の力で、何とか、違う四股名にできないんですか。
四人は黙って、そう訴えていた。
武庫川は、軽く頭を振った。

四人の弟子たちは、それ以上、何も訴えなかった。
どうやら、親方は、おかみさんに対しては何も言えないらしい。一緒に暮らした日は、まださして長くはない。
だが、その短い日々で、弟子たちは、既にそのことが、もう分かっていた。

武庫川親方は思った。十四年経っても、弘子の、このセンスは変わらないか。
それにしても、四人の内、三人は、金銭関係の四股名か。
十四年間、弘子が、どんな暮らしをしてきたのか。
まあ、わが女房ながら、かなりの美人だ。出奔したときは、まだ三十歳にもなっていなかったのだから、何か、それなりの関係があった男性がいたのかもしれない。
弘子は詳しくは語らないし、武庫川も訊いてはいない。
だが、我が女房は、どうやら、金には、結構苦労したようだ。

武庫川は、それでも何とか、弟子たちの気持ちを引き立ててやりたかった。金銭には関係のない、唯一の四股名を付けられた、四人の中では最年少の自分の甥、好造に声をかけた。
「好造」
「はい」
「玉玉田か。兄弟横綱の、若乃花関と貴乃花関の元々の四股名は、若花田、貴花田だったんだぞ。似ていなくもないな。頑張れ」
「親方」
「ん」
「本当にそう思われているのでしょうか」
言葉に詰まった。どう言ったらよいのか分からない。
「でも」
「ん」
「おかみさんは、僕に親方のお名前を付けて下さったんですね」
「おお、そうだそうだ。期待しているぞ。頑張れ」
俺の名前か。期待している、か。どうせ四股名とのバランスで付けただけだろう。可哀想に。
うちの部屋に入門したばっかりに、こんな四股名を付けられてしまった弟子たち。不憫だな、と武庫川は思う。
精一杯、可愛がってやろう。


近江富士明は、113kgになった。昨年初場所の初土俵から一年半で、約30kgの増量である。幕内力士の中で最軽量であることに変わりはない。
 近江富士の相撲の基調となっているもの、それはスピードである。立ち合い、相手の当たりを微妙にずらし、その圧力をまともには受けない。以降は、素早い動きで相手を翻弄する。組まれた場合は、がっぷりになることは避け、左四つ半身の姿勢からの右上手投げを炸裂させる。この相撲で、近江富士は、幕内力士になり、先の夏場所でも、初日に金の玉征士郎に敗れたあとは、白星を重ねた。
だが、終盤になって当てられた荒岩、羽黒蛇、玉武蔵には、通用しなかった。
公約の三年以内に横綱になるためには、もちろん、現役最強ランクの力士にも勝っていかなければならない。
自分は、もっともっと強くならなければならない。それも急激に。
スピードだけでは駄目だ。おのれの力士としての地力を、一段も二段もあげていかなければ駄目だ。
過去の力士の中で、自分が目指すべき相撲を取った力士がいるだろうか。
近江富士明は、見つけた。
その力士の名は、千代の富士貢。
立ち合い。120kg代の体で、相手にまともに当たる。相手に押し込まれることはない。
いや、時に当たり勝ち、そのまま相手を一気に寄り切ることさえある。あの体で何故、そんなことが出来るのか。
速く、鋭い立ち合い。その速さ、鋭さで、数10kg 上回る体重をもつ対戦相手であっても互角以上の立ち合いをする。
近江富士明は、おのれの相撲の一大転換を図った。
そして、近江富士は、自分の地力が、一段増したと、日々の稽古ではっきりと感じることが出来た。
申し合い。これまでほとんど勝つことの無かった兄、伯耆富士に、まだ稀ではあるが、時に勝てるようになり、今まで、はっきりと分の悪かった豊後富士に対しては、ほぼ互角の勝負が出来るようになっていた。


 上位力士には、今、各々、定着しつつあるニックネームがあった。
 アキバの御大、羽黒蛇六郎兵衛。
 吉原の大将、あるいはソープの義兄、玉武蔵達夫。
 土俵の名探偵、伯耆富士洋。
 相撲大百科事典、若吹雪光彦。
 緑色の絵画、早蕨守。
 ソープの義弟、荒岩亀之助。
 薩摩の義士、曾木の滝久信。
 若武者、あるいは落武者、緋縅力弥(元々、四股名のイメージから若武者だったが、取組の最中、髷の元結が切れ、ザンバラ髪となったことがあり、以降、特に不調の場所は、落武者とも合わせ呼ばれるようになった)。
 フンドシ王子、あるいは少年美剣士、豊後富士照也。
 疾風、近江富士明。

さくらスポーツの野口記者は、荒岩亀之助には深い恩義を感じていた。ほぼ二ヶ月分の給与にあたる金額を失った自分を救ってくれた人である。その恩人のニックネーム、それは、自分にとってもぴったりのものではあったが、このニックネームでは申し訳ないではないか。
野口は、しばし考えた末、好漢、というニックネームを思いつき、自らが執筆する相撲記事に、その名称を頻出させた。
荒岩が、好人物であることは、関係者の間ではよく知られていたので、このニックネームは、徐々に定着していった。


ニッポン新聞の清水記者とその上司の笠間は、今日は珍しく、揃って内勤だった。
昨夜は、横綱玉武蔵と、関脇荒岩の接待。思惑通り、笠間も清水も、西尾社長の陪席を仰せつかった。
豪華な会食のあと、これまた思惑通り、揃って、吉原の超高級ソープ、ベルサイユへ。
清水にとっては、短期間で二度目。笠間にとっては、実に久し振りのベルサイユだった。

笠間は、椅子に座っていても、ついつい、昨夜のことを思い出し、頬が緩む。
やっぱり、ベルサイユはいいなあ。
清水が、昨夜の玉武蔵と荒岩のことを話題に出す。ベルサイユに行くことが決まった時のあの表情。実に素直な二人だ。

「荒岩関、好漢というニックネームが定着してきていますね。昨夜の関取を見ていると、ソープの方も残していおきたいですけどね」
「そうだなあ」
 笠間は、しばし考えた。
「ふたつを融合させたらいいな。よし、うちは、これでいこう。「泡だらけの純情」でどうだ」
「映画のタイトルみたいですね」
「まあ、私は、元々は、作家志望だったしな」
笠間佳之。慶應義塾大学文学部卒。その気品に満ちた容姿から、学生時代は、ノーブル笠間と呼ばれていた。


名古屋場所が始まった。
初日、新横綱、伯耆富士洋の本場所最初の土俵入りは、大歓声を浴びた。
露払い、近江富士明。太刀持ち、豊後富士照也。
照富士三兄弟による横綱土俵入りである。

近江富士の、初日の対戦相手は神剣(みつるぎ)。小柄な三十四歳のベテラン力士だが、かつて、三役に定着していた時期もある。今は、横綱、大関の対戦圏内では負け越すが、幕内中位に落ちれば、勝ち越す。幕内中堅の大きな顔となっている力士だ。
立ち合い。ぶつかるやいなや、右で前みつを引き、一気に寄り立て、そのまま寄り切った。
今、転換を図っている、その相撲が取れた。

新横綱としての緊張があったとは思えない。だが、新横綱の初日は鬼門だ。名横綱と呼ばれる多くの力士が星を落としている。
伯耆富士も、初日に土がついた。

初日の取組結果(数字は、幕内での対戦成績)
  勝                負
近江富士(1勝) 寄り切り (1敗)神剣
曾木の滝(1勝) 寄り切り (1敗)若飛燕
荒岩(1勝) 押し出し (1敗)神翔
早蕨(1勝) 叩き込み (1敗)安曇野
豊後富士(1勝)1 上手出し投げ 1(1敗)若吹雪
松ノ花(1勝) 寄り切り (1敗)伯耆富士
玉武蔵(1勝) 突き出し (1敗)緋縅
羽黒蛇(1勝) 寄り切り (1敗)早桜舞


二日目の取組結果(数字は、幕内での対戦成績)
  勝                負            
近江富士(2勝) 上手投げ (2敗)神天勝
荒岩(2勝) 寄り切り (2敗)安曇野
曾木の滝(2勝) 寄り切り (2敗)光翔
若吹雪(1勝1敗) 叩き込み (2敗)緋縅
早蕨(2勝) 押し出し (2敗)神翔
羽黒蛇(2勝) 引き落とし (1勝1敗)松ノ花
伯耆富士(1勝1敗) 送り出し (2敗)早桜舞
玉武蔵(2勝)1 突き出し 1(1勝1敗)豊後富士


今日も来ていないのか。
荒岩は、眼は良い。
西の椅子席の最前列。
土俵に上がり、仕切りの間、その空席は眼に入る。
確かに昨夜の電話でも、利菜は、行くとは言わなかった。でも、日が変われば気が変わるかもしれない。
はかない期待は、今日も叶わなかった。
この日、関脇荒岩に初黒星がついた。

何故、僕はあの女の子のことが、こんなにも気になるのだろう。荒岩亀之助は、時々、自分に問うてみる。たしかに尋常ではない可愛らしさだ。一目惚れもした。
でもあの子以上に可愛い子というのは、想像しにくいが、同じレベルで可愛いという子であれば、世間に全くいない訳ではないだろう。例えば芸能界であれば、凄く可愛い、と言い得る子はたくさんいる。
でも、今の僕は、あの子以外は眼に入らない。

泣き顔なのかな、と荒岩は思う。女の子があんなに泣く姿、というのを荒岩は初めて見た。それは、失恋の涙。言うまでも無く自分ではない、別の男に拒絶された涙なのだ。
あの子の本当の笑顔を見たいと思う。でも、その本当の笑顔は、結局のところ、あの男、豊後富士照也しか、生み出すことはできないのだろう。
自分が、今、置かれている立場を思うと、荒岩は切なかった。

三日目の取組結果(数字は、幕内での対戦成績)
  勝                負
近江富士(3勝) 押し出し (2勝1敗)竹ノ花
曾木の滝(3勝) 小手投げ (1勝2敗)萌黄野
緋縅(1勝2敗) 引き落とし (2勝1敗)荒岩
早蕨(3勝) 押し出し (3敗)早桜舞
若吹雪(2勝1敗) 浴びせ倒し (3敗)神翔
玉武蔵(3勝) 突き落とし (1勝2敗)松ノ花
羽黒蛇(3勝)2 寄り切り 0 (1勝2敗)豊後富士
伯耆富士(2勝1敗) 上手出し投げ (3敗)安曇野


四日目の取組結果(数字は、幕内での対戦結果)
  勝                負
近江富士(4勝) 上手投げ (1勝3敗)神王
荒岩(3勝1敗) 寄り倒し (4敗)早桜舞
緋縅(2勝2敗) 押し出し (3勝1敗)曾木の滝
若吹雪(3勝1敗) 寄り切り (1勝3敗)松ノ花
早蕨(4勝) 2 突き落とし 0(1勝3敗)豊後富士
伯耆富士(3勝1敗)押し出し (2勝2敗)若飛燕
玉武蔵(4勝) 突き出し (4敗)神翔
羽黒蛇(4勝)  寄り切り (4敗)安曇野


五日目の取組結果(数字は、幕内での対戦結果)
  勝              負
近江富士(5勝) 寄り切り (4勝1敗)芙蓉峯
豊後富士(2勝3敗) 寄り切り (1勝4敗)萌黄野
曾木の滝(4勝1敗) 押し倒し (5敗)早桜舞
荒岩(4勝1敗) 寄り切り (1勝4敗)松ノ花
早蕨(5勝) とったり (2勝3敗)緋縅
若飛燕(3勝2敗) 叩き込み (3勝2敗)若吹雪
羽黒蛇(5勝)  下手投げ (5敗)神翔
伯耆富士(4勝1敗)  内掛け (1勝4敗)光翔
玉武蔵(5勝) 突き出し (5敗)安曇野


 明日の取組は、豊後富士 対 荒岩。

名古屋に行こう。照くんに会いに行こう。
利菜はそう思った。でも何故、明日なのだろう。荒岩から送られてきたチケットは、初日から千秋楽までのすべて。照也に会うのなら、いつでもよかったはずだ。
日を重ねるにつれ、利菜は、ひたすら豊後富士照也のことばかりを思い続ける自分のことを、情けない、と思う気持ちも芽生えてきていた。
自分は、もっと誇り高い女の子だったはずだ。自分をあっさり捨てていった男に、取りすがる。なんてみじめなんだろう。
忘れよう、照也のことは。もう一度、あの誇り高かった女の子を取り戻そう。
明日、自分にとっては初めての本場所。土俵に立つ、豊後富士照也の姿を見よう。そして、それを最後にしよう。
では、亀之助さんは。あのひとはすごくいい人だ。私と照くんとの間にどんな関係があったのか。あの人は充分に察しがついているはずだ。それでも、あの人は私にひたすらな、好意を寄せてくれる。でも、どうしてもあのひとに恋愛感情はわかない。それなのにこれ以上、あのひとの好意には甘えられない。
最後に、豊後富士照也とともに、土俵の上に立つ荒岩亀之助の姿も見よう。そして、それきりにしよう。もうそれ以降は、電話もメールも断ろう。
そして、私は。
もう二度と相撲は見ない。

その日の夜の荒岩亀之助からの電話に、利菜は「明日見に行きます」と告げた。
そして、今日を最後に、もう電話もメールも最後にしてほしい、とも。
「亀之助さん」
「はい」
「今日まで色々とありがとうございました。どうかお元気で」
「利菜・・・さん」
「頑張って、横綱さんになって下さいね」
「はい、頑張ります。・・・利菜さん、利菜さん」
「素敵なお嫁さんを見つけて下さいね」
利菜の電話が切られた。

 大相撲の本場所を初めて観る、その利菜にも、その取組が大熱戦だったことは分かった。
取組の長さが違った。館内の歓声の大きさが違った。
 一分を超える、その間も、両者が止まっている時間はほとんどない。そんな相撲だった。
その相撲に勝ったのは、豊後富士照也。

 利菜は、西の花道を引き上げる荒岩と眼があった。
 亀之助さんは、別に泣いてはいなかった。
でも、利菜は、若い男性の、これほどに悲しい顔を初めて見た。
 あんなに一生懸命になって、あんなに一生懸命になってくれて。
初めて会った時の、亀之助さんの顔。それから先の、彼のメール、電話。とっても下手な似顔絵。
 私は、私は。
 別の男の子のことが大好きだった女の子だったんだよ。それでもいいの。

勝ち残りのあと、東の花道を意気揚々と引き上げる豊後富士照也の背中が眼に入った。
利菜は、じっと、その背を見つめた。ひとりの男性にあれほど激しい恋心を抱くことはもうないだろう。

 利菜は席を立った。

 愛知体育会館を出る。支度部屋からここまで、荒岩亀之助は、自分に対する情けなさでいっぱいだった。外見のかっこよさでは、はるかに敵わない。その俺が相撲まで負けてどうするんだ。番付は俺の方が上なのに。これであいつに二連敗じゃないか。しかも、一番好きな女の子の目の前で、その女の子が一番好きな男にぶん投げられたんだ。こんなかっこ悪い話があるか。
 体育館の前には力士の出待ちをする、ファンで溢れていた。
 そのファンの中に、荒岩が、この世で一番好きな女の子がいた。
 何故ここに、吃驚したが、すぐに気付いた。そうか、豊後富士を待っているのか、ここでまた声をかけるのか。
 あの悲しい場面が繰り返されるのだろうか。
 だが、その女の子は、荒岩亀之助の目の前に立ち、荒岩に呼び掛けた。
「敏昭さん」
 利菜が、荒岩の本名を呼んだ。

 利菜がじっと荒岩の顔を見つめる。
 太陽の光が、一度の二十分の一だけ向きを変える時が経過した。
「利菜は、敏昭さんのお嫁さんになります」

 利菜は、思った。この人を本名で呼ぶのは、今だけかもしれない。この人は、やっぱり亀之助さんだ。これからもそう呼ぼう。

  

六日目の取組結果(数字は、幕内での対戦結果)
  勝              負
近江富士(6勝) 寄り切り (5勝1敗)若旅人
緋縅(3勝3敗) 押し出し (6敗)安曇野
豊後富士(3勝3敗)2 下手投げ 0(4勝2敗)荒岩
若吹雪(4勝2敗) 寄り切り (4勝2敗)曾木の滝
早蕨(6勝) 肩透かし (1勝5敗)松ノ花
玉武蔵(6勝) 寄り切り (1勝5敗)光翔
羽黒蛇(6勝)  押し出し (3勝3敗)若飛燕
伯耆富士(5勝1敗) 上手投げ (2勝4敗)緋縅


七日目の取組結果(数字は、幕内での対戦結果)
  勝              負
近江富士(7勝) 上手投げ (4勝3敗)青翔
曾木の滝(5勝2敗) 送り出し (3勝4敗)豊後富士
荒岩(5勝2敗) 寄り切り (1勝6敗)光翔
早蕨(7勝) 押し出し (3勝4敗)若飛燕
若吹雪(5勝2敗) 寄り切り (1勝6敗)安曇野
伯耆富士(6勝1敗) 寄り切り (7敗)神翔
玉武蔵(7勝)突き出し (7敗)早桜舞
羽黒蛇(7勝) 上手投げ (3勝4敗)緋縅 


近江富士にとっては、先場所敗れた力士との、今場所初めての対戦。
荒岩に対しても、立ち合いで右前みつを引き、やや押し込んだ。だが、そこまでだった。
荒岩が、寄り返す。されば、と右から上手投げを放つ。荒岩の体が傾いたが、その投げもしのぎ、体を密着させ、そのまま荒岩が寄り切った。
俺の新しい相撲は、まだ発展途上だ。近江富士は自覚した。
それにしても、荒岩関の体の奥底から迸るパワーはすごいな。近江富士明はそのように感じた。

八日目の取組結果(数字は、幕内での対戦結果)

  勝             負
緋縅(4勝4敗) 突き落とし (2勝6敗)松ノ花
豊後富士(4勝4敗)突き落とし (8敗)早桜舞
荒岩(6勝2敗) 2 寄り切り 0(7勝1敗)近江富士
若吹雪(6勝2敗)7 寄り切り 6(7勝1敗)早蕨
羽黒蛇(8勝) 寄り切り (1勝7敗)光翔
伯耆富士(7勝1敗) 上手投げ (2勝6敗)萌黄野
玉武蔵(8勝)寄り倒し (5勝3敗)曾木の滝


九日目の取組結果(数字は、幕内での対戦結果)
   勝             負 
緋縅(5勝4敗) 押し出し (4勝5敗)豊後富士
荒岩(7勝2敗) 突き出し (4勝5敗)若飛燕
早蕨(8勝1敗)1 押し出し 0(7勝2敗)近江富士
若吹雪(7勝2敗)寄り切り (9敗)早桜舞
玉武蔵(9勝) 引き落とし (2勝7敗)萌黄野
羽黒蛇(9勝) 掬い投げ (5勝4敗)曾木の滝
伯耆富士(8勝1敗) 寄り切り (3勝6敗)北斗王


十日目の取組結果(数字は、幕内での対戦結果)
   勝             負 
豊後富士(5勝5敗) 上手投げ (7勝3敗) 若旅人
緋縅(6勝4敗) 寄り切り (2勝8敗)安曇野
松ノ花(4勝6敗) 押し倒し(10敗)早桜舞
近江富士(8勝2敗)1 上手投げ 0(7勝3敗) 若吹雪
早蕨(9勝1敗) 押し出し (2勝8敗)光翔
曾木の滝(6勝4敗) 寄り倒し(8勝2敗)伯耆富士
玉武蔵(10勝)突き出し (2勝8敗)萌黄野
羽黒蛇(10勝)7 打っ棄り 0 (7勝3敗)荒岩
 

十一日目の取組結果(数字は、幕内での対戦結果)
   勝             負 
豊後富士(6勝5敗)送り出し (4勝7敗)若飛燕
早桜舞(1勝10敗)上手出し投げ (2勝9敗)萌黄野
緋縅(7勝4敗) 突き出し (7勝4敗)若旅人
曾木の滝(7勝4敗) 寄り倒し (4勝7敗)松ノ花
若吹雪(8勝3敗)  寄り切り (2勝9敗)光翔
羽黒蛇(11勝)19 押し出し 2(9勝2敗)早蕨
荒岩(8勝3敗) 3 寄り切り 5(8勝3敗)伯耆富士
近江富士(9勝2敗) 1 押し出し 1 (10勝1敗)玉武蔵


近江富士は、横綱玉武蔵を破り、初めての金星をあげた。関脇荒岩には、先場所に続いて敗れ、初顔合わせの大関早蕨にも勝つことは出来なかったが、やはり初顔合わせだった大関若吹雪からは、殊勲の星をあげた。
そして、十二日目、ついに最強者、羽黒蛇と対戦。

土俵にあがり、近江富士と相対した時、羽黒蛇を、不思議な感覚が襲った。それは、先場所十三日目、金の玉征士郎との対戦の時の感覚にも似たものだった。
世界の全てが消失し、おのれと、対戦者の二人だけで別の世界に浮遊したかのような感覚。
たが、……その感覚は、やがて消えた。
それは、近江富士明が金の玉征士郎ではないからなのか。あるいは、おのれが変貌したからなのか。
自分はもう、あの世界に行くことはない。
そして、この近江富士も。
あるいは、この男も、あの世界の一端をうかがうことがあったのかもしれない。
たが、もうそこに行くことはないだろう。
羽黒蛇の心に、かすかな憧憬と、寂寥がよぎった。
羽黒蛇は、四神が会し、見守る、この地上の土俵で、近江富士と相対した。

立ち合い。近江富士は、右で前みつをひいた。右四つが基調である、羽黒蛇に対し、得意の左四つになった。だが、羽黒蛇は差手にはさほどこだわらない。左四つにこだわる相手であれば、相手得意の、差手にも応じる。
だが、それまでだった。羽黒蛇は一歩も下がらない。左で下手をひき、右は抱え、おっつけて、寄り進む。さればと、近江富士は、疾風と形容される俊敏な動きで、右から上手投げを放つ。
が、あっさりと下手投げを打ち返され、勝負がついた。
圧倒的な力量の差。

近江富士は嬉しくなった。
この男を倒す、と思い定めて、角界に入門した、その相手、金の玉は、もう土俵に立つことはない。俺は公約通りの期間で横綱になることを目指すしかない、と思っていたが、ここに俺が倒さなければならない相手がいるではないか。
横綱、羽黒蛇六郎兵衛に勝つ。
今の近江富士明には、それは、公約通りに横綱になることよりも、さらに困難なことのように思えた。
だが、俺は。
近江富士明は、おのれに誓った。
必ず、この男を倒す。

十二日目の取組結果(数字は、幕内での対戦結果)
   勝             負 
松ノ花(5勝7敗) 引き落とし (6勝6敗)豊後富士
早桜舞(2勝10敗) 突き落とし (7勝5敗)緋縅
荒岩(9勝3敗) 上手投げ (7勝5敗)若旅人
曾木の滝(8勝4敗) 吊り出し (3勝9敗) 安曇野
玉武蔵(11勝1敗)7 寄り切り 2(8勝4敗)若吹雪
羽黒蛇(12勝) 2 下手投げ 0 (9勝3敗)近江富士
伯耆富士(9勝3敗)9 寄り倒し 4 (9勝3敗)早蕨


十三日目の取組結果(数字は、幕内での対戦結果)
   勝             負 
豊後富士(7勝6敗) 寄り倒し (3勝10敗)安曇野
松ノ花(6勝7敗) 寄り切り (2勝11敗)早桜舞
近江富士(10勝3敗) 寄り切り (7勝6敗)緋縅
荒岩(10勝3敗) 寄り切り (8勝5敗)曾木の滝
早蕨(10勝3敗) 押し出し (3勝10敗)萌黄野
伯耆富士(10勝3敗)6 上手出し投げ 7 (11勝2敗)玉武蔵
羽黒蛇(13勝)11 寄り切り 1 (8勝5敗)若吹雪


十四日目の取組結果(数字は、幕内での対戦結果)
   勝             負 
近江富士(11勝3敗) 寄り切り (8勝6敗)神天勝
豊後富士(8勝6敗) 上手投げ (9勝5敗)青翔
緋縅(8勝6敗)突き出し (5勝9敗)若飛燕
早桜舞(3勝11敗) 叩き込み (3勝11敗) 神翔
北斗王(7勝7敗) 寄り切り (8勝6敗) 曾木の滝
荒岩(11勝3敗)4 寄り切り 4 (8勝6敗) 若吹雪
羽黒蛇(14勝)  13 寄り切り 3 (10勝4敗) 伯耆富士
玉武蔵(12勝2敗) 14 寄り切り 3 (10勝4敗) 早蕨


千秋楽の取組結果(数字は、幕内での対戦結果)
  勝                負
近江富士(12勝3敗) 寄り切り (10勝5敗)神天剛
豊後富士(9勝6敗) 上手出し投げ (7勝8敗)北斗王
若飛燕(6勝9敗) 突き出し (3勝12敗)早桜舞
緋縅(9勝6敗) 押し出し (4勝11敗)光翔
曾木の滝(9勝6敗) 寄り切り (4勝11敗)萌黄野
荒岩(12勝3敗)3 寄り倒し 5 (10勝5敗)早蕨
伯耆富士(11勝4敗)7 上手投げ 5 (8勝7敗)若吹雪
羽黒蛇(15勝) 13 寄り切り 17 (12勝3敗)玉武蔵


優勝:羽黒蛇 16回目(全勝優勝6回目)
殊勲賞:荒岩(初)、近江富士(初)
敢闘賞:荒岩‘(4回目)
技能賞:近江富士(初)

場所後、荒岩亀之助、大関に昇進。

伝説の終焉

2017年08月25日 | 小説
伝説の終焉

武庫川部屋は、間もなく移転する。今の武庫川部屋は、里井家の自宅に看板を掲げただけであり、金の玉征士郎も普段の稽古は、瀬戸内部屋で行っていた。
新弟子が四人入門し、名古屋場所、全員無事に出世披露を果たした。
秋場所は揃って、序ノ口として、番付に四股名が載る。
親方は自前の稽古土俵を持つことを決意した。今の里井家の敷地にその余地はない。

又造は、久しぶりに征士郎の部屋に入った。雑然としているが、征士郎が再起不能となった、その日のままにしている。征士郎は今も入院中である。症状によっては、自宅療養も検討されている。新しい武庫川部屋では、征士郎の居室も用意することになるだろう。
いずれにしても、この部屋は整理しなければ、ならない。

又造は、征士郎の机の引き出しを開けた。
そこにおびただしい量の薬があった。
 それは、明らかに常用していたことが分かる、使用済の痕跡もった。
 恐ろしい予感を胸に抱いて、又造は、その薬が何なのかを調べた。

予感は当たった。覚醒剤に当たる興奮剤アンフェタミン。さらには、ステロイドもあった。

 金の玉征士郎の常人の常識を超えた集中力。そして人間離れした強さ。それは、元々の本人の性格、激しい稽古の成果であったろう。だが、ここにその秘密の一端が、あるいは大きな原因があったのか。

 又造は、我が子が哀れだった。我が一人息子の現状を思えば、このまま見なかったことにしたかった。
だが、それは許されないことだ。

 又造は、協会に報告した。

 数日後、この事実が公表された。
 同時に金の玉の、入門以来の三十五番の記録もすべて抹消された。
金の玉征士郎の勝利の記録。そして対戦相手の敗北の記録も。
 
輝ける伝説は終わった。賞賛の声は、批判の声に取って代わられたが、金の玉征士郎の現状により、その声は、それほど大きなものとはならなかった。
以降、金の玉征士郎の存在は、相撲史の中で、タブー視されることになった。
もし、薬を常用していなかったとしたら、金の玉は、どの程度の強さの力士だったのだろうか。その疑問は残ったが、それは誰にも分からないことだった。

人々は、金の玉征士郎のことは、もう注釈付きでしか語らず、やがて語られることもなくなっていった。
金の玉征士郎の存在は、大相撲の正史から抹消されたのである。

そのニュースが流れたとき、現役力士の中で、最も大きな衝撃を受けたのは、羽黒蛇と近江富士であった。
金の玉征士郎は、羽黒蛇にとっては、おのれが経験した最高の対戦相手であり、近江富士にとっては、いずれは勝つと心に誓った最高の目標であった。
もう土俵で対戦することは不可能になったが、かつてのその思いは、ふたりにとって、金の玉を心における聖域とも言える存在にしていた。
聖なるものは、汚された。その聖であったはずの本人の過ちによって。
だが、ふたりとも、金の玉を攻める気持ちにはなれなかった。
そこまでして、あの高みに至ろうとしてのか。
そう思うと金の玉が痛ましく、ただ悲しかった。

 ふたりが、そのニュースを知らされたのは、夏巡業の途上だった。
 翌日、期せずして、ふたりは、土俵の上で、それまでに無かったような激しい三番稽古を行った。
 それは、土俵周囲に居並ぶ力士たちが、新たに名乗りを挙げるのを憚らずにはおられないほどの、二人だけの世界があるかのような申し合いだった。
 近江富士の転換を図った新しい相撲も、羽黒蛇には、まだ通用しない。八番立て続けに敗れた。
 だが、その八番の間、羽黒蛇は、近江富士が急激に力を付けているのが、はっきりと分かった。
 九番目、近江富士の立ち合いが決まった。羽黒蛇を押し込んだ。たが、羽黒蛇が土俵際から押し返す、刹那、近江富士は、上手投げを放つ。決まったかに見えたが、羽黒蛇が下手から投げ返す。際どい相撲。
たが、近江富士が勝った。近江富士は、稽古土俵ではあったが、初めて羽黒蛇に勝った。
 この時、近江富士の右肩が破壊した。

 そして、羽黒蛇も数日後の破壊に繋がる、その身体への損傷を受けていたのである。




四神会する場所 第三部 中村淳一著

2017年08月25日 | 小説
四神会する場所 第三部

                 描かれなかった物語

今後、大相撲界が紡ぎ出すであろうストーリーには、いくつかのメインテーマがあった。
ひとつは、横綱、羽黒蛇六郎兵衛。その完成の域に達した円の相撲は、金の玉征士郎の直線の相撲に敗れた。いったんは、引退を決意した羽黒蛇は、人生の師と仰ぐ人物の言により、それまで自分が理想と描いていた相撲を、そして力士像を捨てた。
その彼が得たものは、何物にもこだわらない融通無碍の、そしてこだわらない、ということそのものも捨て去った相撲だった。
先の名古屋場所、彼は、円の相撲の完成により到達した領域さえも超えた、圧倒的な相撲で全勝優勝を果たした。彼はいったいどこまで強くなるのか。古今無双の力士への道をこのまま突き進んでいくのか。

ふたつめは、近江富士明。高校野球のスター。ドラフトで1位指名されながら、三年以内に横綱になるとの公約の元、大相撲界に飛び込んだ男。
この公約については、いかに近江富士が抜群の身体能力、運動能力を持っているにしても、いくらなんでもそれは無理だろう、という意見が大多数であった。
だが、夏場所、新入幕の十一勝。敢闘賞獲得に引き続き、入幕二場所目の名古屋場所、東前頭七枚目で、十二勝。殊勲賞、技能賞を獲得した時点では、公約通り、三年以内に横綱になるのではないか、という意見がむしろ多数を占めるようになった。
近江富士が、新入幕以来喫した黒星は七つ。羽黒蛇、荒岩に各2個。玉武蔵、早蕨、金の玉に各1個。すなわち彼は、現在の大相撲界における最強豪クラス以外の力士には全く負けていないのである。彼のような超軽量力士が、これだけの安定感を持っているというのは特筆されるべきことである。さらには、名古屋場所においては、横綱、玉武蔵。大関、若吹雪から殊勲の星をあげた。
その場所の彼の取り口の変化、実力の向上には目をみはるものがあった。
そして、名古屋場所のあとの夏巡業。それを取材するメディアから、近江富士が更に強くなっているとの記事の見出しが、各紙面を、ネット上をしばしば飾った。
名古屋場所に、それまでの相撲からの転換を図った、近江富士。本場所を経験したこと、日々の稽古により、その立ち合いは、さらに速さ、鋭さを増し、相手がいかなる巨漢であっても、押し込まれることはないし、しばしば、一気に寄り切る。そして、その立ち合いは、彼の元々の、最大の武器であった、右からの上手投げについても、さらに威力を増すという効果をもたらした。一気に寄り切れない場合は、その勢いのままに上手投げを繰り出す。あるいは、増大した立ち合いの威力に対抗し、寄り返そうとする相手のはなに、上手投げを繰り出す。それは面白いように決まった。
来場所、秋場所の番付を予想した時、東横綱、羽黒蛇。そして、近江富士が、新小結として、西小結となることは間違いない。それは、取組編成の慣例として、秋場所初日に、羽黒蛇と近江富士が対戦するということを意味する。
大相撲ファンは、夏場所前、ともに連勝を続けていた、羽黒蛇と金の玉の時と同様、来る秋場所初日の、この両者の対戦に心躍らせていたのである。

もうひとつのメインテーマ、それは、近江富士の実力向上がかくも、著しい、となれば、その弟、豊後富士の実力の伸び次第では、三兄弟同時横綱が、実現するのではないか。そして、そこに至る過程において、三兄弟の内のふたりによる優勝決定戦が、場合によっては、三兄弟による優勝決定戦を観ることができるのではないか。
ファンの中で、そういう声が高まってきたのである。
そんな出来過ぎた、安物のドラマみたいなストーリーなど見たくない。アンチを標榜する一部ファンの声はあったが、近未来予想として、その出来過ぎたストーリーが、様々なメディアで描かれたのであった。

ドラマチックなストーリーは、描かれなかった。

夏巡業の終盤、稽古土俵において、右上手投げを放った近江富士の、右肩が破壊されたのである。腱板断裂。手術を要し、リハビリも含めれば、完治には六ヶ月。但し、手術が成功したとしても、右肩は、日常生活に何とか支障がない、という程度にしか戻らない。それが、医師の診断であった。
その診断は、力士として復帰したとしても、もうあの右上手投げは打てない、ということを意味した。
右上手投げがなくても、近江富士には、今、会得し、完成しつつある、あの立ち合いからの一気の寄りがあるではないか、との声もあがった。
だが、近江富士明には分かっていた。高校時代、150キロを超える速球を投げた、おのれの右肩、そして右腕は、おのれの肉体がもつ、あらゆる力の源泉であったと。この右腕、右肩があったからこそ、あの一気の寄りができた。
あの寄りは、速く、鋭い立ち合いだけではない。前みつをとっての、右での強烈な引付があったからこそ、あの寄りができた。
そして、全治六ケ月。半年後、その番付はどこまで落ちているのか。もう三年以内に横綱になるという公約は、どうあがいても実現不可能になった。いや、期限を区切らなくても、この俺から、あの右肩が失われてしまったとなれば、横綱になることはできない。
三年以内に横綱になり、数場所勤めたら、プロ野球界に転じる。それが、近江富士、新谷明の未来のはずだった。
プロ野球界では、チームのエースとなり、中軸を担うスラッガーとなる。ピッチャーでも、バッターでもタイトルホルダーになる。
それが、新谷明の夢だった。いや、夢ではない。自分ならそれが出来る。明は、そう信じていた。だが、その信念の源となっていたものは、おのれの肉体から失われた。
俺が思い描いていた未来は、もうやってくることはない。
明には、それが分かった。

近江富士の右肩が破壊されたとき、その稽古での対戦相手は、羽黒蛇六郎兵衛だった。

近江富士の右肩が破壊された稽古のあと。
羽黒蛇も、おのれの肉体の変調を感じていた。近年の流行りの言葉でいえば、腰に違和感をおぼえるようになった。今に至るまで、羽黒蛇は、おのれの身体に、そのような不調を感じたことはなかった。
さほど、自覚していたわけでもなかったが、羽黒蛇は、おのれの身体の均衡、頑健さは、所与のものとして、当然のことと思っていたのである。
違和感を感じるまま、稽古を続けた羽黒蛇は、数日後、やはり稽古の最中に、右膝を損傷した。
右膝前十字靭帯断裂。手術後、リハビリを経て、復帰までは六~八ケ月。但し、相撲を続ける限り、再発の恐れは常に伴う。それが医師の診断であった。
近江富士と同様、羽黒蛇も、自らの肉体から、円の相撲を完成させるに至った、そこから先の融通無碍の相撲を完成させるにいたった、その力の源泉が永久に失われてしまったことが分かった。
具体的に言えば、それは、対戦相手のあらゆる攻めを受け、吸収する、その柔軟な下半身だった。かれの持つ精神の力とともに、その下半身こそが、かれの強さの源泉だった。
もう自分は古今無双の力士にはなれない。
羽黒蛇には、そのことがはっきりと分かった。

羽黒蛇が入院する病院に、師がふらりと見舞いにやってきた。
恐縮する羽黒蛇に対して、
師は、そのまま、そのまま、との言葉とともに、ベッドの傍らに座った。
「先生、このようなことになってしまいました」
「この前、横綱が、拙宅に来られてひと場所で、こういうことが起きましたか。なるほどなあ。で、横綱は、どうなさる」
「引退しようと思っております。先生の教えで、私は、また新たな境地で相撲を取ることができました。先日、先生のもとを去ってから、この怪我をするまで。相撲をこれほど面白いと思ったことはありません。」
「うん、名古屋場所の横綱は凄かったですなあ。私は、毎日、横綱の相撲を、見させていただきました」
「先生、あの十五日間、私は、全く負ける気がしませんでした」
「あの相撲であれば、そうでしょうなあ」
「もっと、あの相撲を取り続けたかったと思いますが、これで良かったのかな、とも思います」
「ん」
「先生、私は、ベッドの上で色々と考えました。どんなことにせよ、最高を極めてしまうと、そこから先には、もう行きようがない。なんらかの形で、終焉を迎えるしかないのではないかということです。金の玉関もそうでした。彼は、はるか高みを求めたのでしょう。別の力を借りてでも、その高みを目指してしまったのでしょう。その結果があの破滅に繋がったのだと思います。そして、この私も、金の玉関との相撲を契機とし、先生の教えにより、短期間で、自分として行きつくことの出来る、最高を極めてしまったのでしょう」
師は、黙って聞き続けた。
「少年時代に相撲と出会い、理想の相撲を思い描き、その理想の境地に達したと思ったとき、金の玉征士郎が出現し、その相撲が敗れた。そして一度、引退を決意しましたが、先生の教えを受け、融通無碍の何物にもこだわらない相撲、さらにはこだわらないということ自体も捨て去った境地での相撲。私はこんあところまで来た。そう思っていました。
でも、金の玉が、自分ではない別の力を借りていたということを知ったとき、私の心は乱れました。どう考えたらいいのか分からない。その気持ちのまま、稽古場に立ってしまった。その結果がこれです。」
師はなおも口を開かなかった。
「ここ数ヶ月、色々なことがあり過ぎました。でも、何か大きなものに触れ続けたとも思います。こだわることなく相撲を取るということの楽しさも知りました。自分なりの最高は極めたとも思えます。もう完全な体は望めないとなれば、あの相撲は、もう取れません。もうこれでよいではないかと思います」
「こだわらないこと自体も捨て去った相撲ですか。」
師が言葉を継いだ。
「横綱は、結局、何かの標語を心に刻まねば、相撲は取れないのですな」
羽黒蛇は、思った。おや、また批判されるのか。
「最高の相撲。こわららないことにもこだわらない相撲。つまらんですな」
羽黒蛇は思った。またか。私はもう十分に満足していると言っているのに、それは許されないのか。

「技も、体も何らかのことで制限されることもあるでしょう。そのとき、できる精一杯のことをすれば、それでよいではないですか。心は、そのことだけに使えばよい。それ以上、余計はことを考える必要はない。心に標語を掲示するなど無用。ただ、そのときそのとき感じたことを、受け止めればよい。心に決まった形などないのです」

もし、私が再び土俵に立つとしたら、
その時の私は、・・・最高ならざる力士。
その時の自分が取れる精一杯の相撲を取る。
それが、私か。私は、そんな力士になってしまうのか。
そのことは羽黒蛇を、何だかとても新鮮な、そして、とても愉快な気持ちにさせた。
羽黒蛇は、怪我が癒えた後、再び、土俵に立つことを決意した。

「ところで先生。今日は、わざわざ、こんなところまでおいでいただきありがとうございました」
「いや、いや。見舞いを兼ねて、横綱にお願いしたいことがあってな。それで来させてもらったんじゃよ」
「何でしょう」
「いや、横綱に、一度、連れて行ってもらえんかな、と思ってな」
「はい、どこでしょう」
「アイドルのコンサート」
「・・・・・・・分かりました」
師は、ちょっと恥ずかしそうな顔をした。
「お目当てのアイドルがおられるのですか」
「いやあ、みんな可愛いけどな。区別はつかんのじゃ。横綱にお任せしたい」
「はい」
羽黒蛇は、考えた。
最初はメジャーアイドルかな。それともフレンドリーなローカルアイドルのコンサートにお連れしたほうが喜んでいただけるだろうか。
羽黒蛇の脳裏を様々なアイドルグループが駆け巡った。
まあ、今の私には、時間はたっぷりある。ゆっくり考えよう。


近江富士は、病室で金の玉征士郎のことを思った。
ニュースは、大きな衝撃だった。
結局、金の玉に及ばなかった自分であったが、金の玉を心の聖域に据えることによって、あらたに、金の玉以外の、達成可能な目標に標的を定めていたのに。その男が聖域に据えるべき存在ではなかったというのか。
いや、薬のことがあったとしても、やっぱりあいつは凄い奴だった。それは認めよう。でもそれだけでいい。聖域として金の玉征士郎を観ることはない。

明の心を、自分はもう何もこだわらなくてよいのだ。そのことは、明の心を解放させた。
今、もし、この心で、肩が破壊される前の、あの体が俺にあったら。
俺は、一体どれだけのことが出来ただろう。だがそれはもう敵わないこと。
自分の右肩は、聖域としての存在だった金の玉に捧げたのか。
近江富士明は、そんなことを思った。

 父である、照富士親方が見舞いにやってきた。
近江富士は、これからどうするのかを訊ねた、照富士親方に告げた。
怪我が癒えたら、再び、土俵に立つと。
「じゃ、もう野球に戻るのはやめて、相撲をずっと続けるということかな」
「プロ野球ですか。まだ諦めたくはないですね。取り敢えず、二十五歳くらいまでは、相撲を続けようかと思います」
「何を目指す」
「この秋場所で、番付上は小結になるようですから、番付が落ちたら、もう一度、その地位に戻ること。できれば、それを一つ越えた関脇を目指そうと思います」
「そうか」
「で、野球に戻ります」
「すごくブランクがあるな。それにもうあの速球は投げられんじゃろう。バッターに専念するのか」
「速球を投げるのは無理ですね。バッターとしても、右肩が完全でないとすれば、私が目指していたホームランバッターになるのは無理でしょう。でも、投げられるし、打つことはできる」
しばしの沈黙があった。
「お父さん」
「うん」
「俺は、横綱になって。プロ野球に行ったら、エースになって、三番か四番を打って。俺にはそれが出来た。出来たはずなんだ」
照富士は何も言えなかった。
「お父さん、少しだけ、泣かせてください」
明は、静かに泣いた。
照富士も、わが次男の心を思いやって、涙を浮かべた。

明は涙を収めた。
「関脇、ローテーションの谷間で先発して中継ぎもこなす。そして準レギュラー野手」
「うん」
「ひとつ、ひとつは、地味で、脇役というべき存在ですけどね」
「うん」
「ひとりの人間が、それを全部やってしまったら、とても渋いでしょう」
ずいぶんと焦点が絞られた目標設定だな。照富士は、思った。
横綱。エースに、三番か四番バッター。少年の夢丸出しだった目標が、急に、えらく小父さんぽく、具体的になったな。まあ、こいつも色々考えたのだろう。良いことだ。それだけ揃えば、こいつも将来、食いっぱぐれることはないだろう。

「おっと、放送される時間だ」
明が病室に置かれたテレビのリモコンのスイッチを押した。音楽番組だった。
しばらくして流れてきたのは、
 照富士三兄弟が歌って踊る「土俵をかけめぐる青春」
「これ、流行っているのか」
「ええ、そこそこには」
そうか、こいつには芸能界の道も開かれているんだったな。
あらためて考えたら、かなり羨ましい人生ではないか。さっきは、つられて、思わずもらい泣きしてしまったぜ。ちっ。

照富士の脳裏を、ひとつの映像が浮かんだ。
三兄弟が揃って綱を締め、各々、露払いと太刀持ちを従えて、並び立つ姿。
それは、もう決して実現することはない。
照富士は頭を軽く振った。
儂は、もう二度とその映像を思い描くことはすまい。
照富士は心に誓った。


丸山グループのオーナー社長、丸山春雄は、次女の利菜が、豊後富士と付き合っているということを知ったときは、我が娘よ、でかした。と叫び出したいような気持になった。
丸山グループ。スーパーマーケット、レストラン、ホテルを経営する企業である。だが、その知名度は全国的なものではなく、地方のグループ企業に過ぎない。
丸山は、相撲にはさほど詳しくはない。
しかし、美少年力士、豊後富士のことは、さすがに知っていた。アイドル顔負けのハンサムボーイで、絶大な人気を誇る。
我が娘の交際相手が、豊後富士ということになれば、この丸山グループのことも、大々的にマスコミに取り上げられるはずだ。ましてや、将来、結婚ということにでもなれば、その宣伝効果は計り知れない。

だが、豊後富士との交際を嬉しそうに話していた利菜は、やがて、すっかりふさぎこんでしまった。
豊後富士と上手くいっていないのだろうか。
気になって、豊後富士のことを報じるマスコミの記事を読み込んでみた。豊後富士は相当なプレーボーイのようだ。
うちの利菜もまさか。丸山は不安になった。うちの利菜に限ってまさか。丸山は不安を打ち消した。

やがて、利菜はまた明るくなった。そして、丸山に対して、「会ってほしい人がいるの」と告げた。
「お相撲さんなの」
そうか、豊後富士とのよりが戻ったのか。豊後富士の素行を思うと一抹の不安は残ったが、相手の親に会うというのであれば、利菜のことは、特別に、大切に考えているのであろう。

当日、利菜の横に座っていた相撲取りは、どこから見ても、豊後富士照也には見えなかった。


秋場所が始まる、約十日前。
大関、早蕨は、朝の稽古が終わると、部屋のちゃんこもそこそこに、上野公園に向かった。そこで、妻と娘と待ち合わせた。会って間もなく、早蕨はまた、妻子と別れた。夕食は近くの予約済みのレストランで一緒にたべることを約しているが、それまでの時間は別行動。
妻と一人娘は、上野動物園へ。早蕨は国立西洋美術館へ。
目的は、今開催されている特別展。
最大のお目当ては、ヨハネス・フェルメール「真珠の首飾りの少女」

静謐、典雅なフェルメールは、早蕨の心をとろけさせた。
その絵を観たあと、早蕨はさらに、展示されたヨーロッパ絵画を見続けた。
だが、早蕨は、いつもほどには絵画の鑑賞に集中できない。
早蕨のこころを、ひとりの力士の姿が占める。金の玉征士郎。
世間は、早蕨のことをこう呼んでいた。
「金の玉と、最も多く相撲を取った男」

早蕨は、高校を卒業して十八歳で、瀬戸内部屋に入門した。その瀬戸内部屋に、毎日、稽古に来ていたのが十一歳の里井征士郎だった。
それから八年。いったい征士郎と、どれだけの数の相撲を取っただろう。七歳の年齢差。いかに天才相撲少年とはいえ、まともな相手になるわけがない。だが、征士郎は、いくら土俵に叩きつけても、何度も、何度も向かってきた。
一年前の夏。実力でついに追いつかれたと感じた。と思う間もなく、あの男はどんどん強くなっていった。そして最後は、はるかに手の届かない存在になっていた。

自分は一昨年の秋に大関になった。それから二年。大関として可もなく不可もない。そんな成績を続けている。
今年の初場所から夏場所まで。金の玉征士郎は、わずか三場所で、土俵を去った。三十五勝無敗という成績を残して。
金の玉が去った名古屋場所。早蕨は、一部のファンから、自分が金の玉の身代わりのように見られていることを感じた。
金の玉と、最も多く相撲を取った男。
さらに、早蕨は金の玉同様、押し相撲であり、力士としては小柄である、というのも同じ。
自分があの金の玉の代わりになるわけがない。早蕨にはそれは自明のことだった。一部のファンも、むろん、完全な身代わりと思っているわけではない。そのイメージをわずかに投影させているだけ。
金の玉の相撲、あの最後の一年に満たない、完成された相撲。その押しも早蕨は受け続けた。
だが、金の玉のあの相撲は、薬物の力を借りていたという。三十五勝の記録も抹消された。
そうだったのか。早蕨は、全てが腑に落ちた気がした。

だが、そうであったとしても、あの押しが、自分には及びもつかない、究極の押しであったことに変わりは無い。
その押しは、この体が覚えている。

私は、何をすればいいのだろう。
金の玉征士郎の姿が浮かんだ。その表情は悲しげだった。

別のものの助けを借りずに、押しを完成させよう。自分なりの押しを。
征士郎、私がそれをやっていいか。
答えはない。

もう一度目指してみようか。
早蕨は思った。
横綱を。


曾木の滝が、夏場所十四日目の不戦勝の記録の抹消を願い出たのは、深い思惑があってのことではなかった。
突然倒れ、再起不能となった金の玉征士郎。その生涯記録は三十五勝一敗。その一敗は誰に喫したものだ。将来の相撲ファンは注目するだろう。その相手の名は、曾木の滝。
そして、それが不戦敗であることも同時に知ることになるだろう。
俺は、そのことを一番に語られてしまう力士になってしまうのか。曾木の滝は気が重かった。
そのとき、協会が、金の玉の不戦敗を、記録から抹消することを検討しているという話を聞きつけ、それに便乗しただけにすぎない。
だが、その行為は、早蕨と並んで、最も多く、金の玉と相撲を取った男の義挙というふうに世間には見られた。今は「薩摩の義士」などというニックネームも付けられてしまった。
曾木の滝は面映ゆかった。

金の玉が再起不能になり、さらに記録の抹消がなされた際、曾木の滝はマスコミから多くの取材を受けた。むろん、全て金の玉に関することである。
マスコミが何を求めているかは、よく分かっていた。要は世間を感動させるような、いい話を求めているのである。その線にそった誘導尋問も多かった。
だが、曾木の滝は、その世間の期待にそうことはできなかった。
金の玉征士郎と、何か心の交流があったろうか。
あいつは、いつも一心不乱に稽古に励んだ。
曾木の滝の入門前、幼かったころの征士郎は、よく笑う、活発な少年だったようだ。古くからいる部屋の力士はそう言っている。
だが、曾木の滝は金の玉の笑顔を、ほとんど見た記憶がない。会話をしたというほどの記憶もほとんどない。
両親は、なかなかの美男であり、かなりの美人。その間に生まれた征士郎も整った顔立ちをしていた。だが、常に思い詰めていたことの影響だろう。元々、恵まれていたはずの素材はだいなしになっていた、と思う。蔭にこもった暗い顔立ち、そういう印象しかなかった。

金の玉の薬物のニュースが流れたとき、曾木の滝は、マスコミに雷同しなくてよかったと思った。

夏場所が終わって以降の瀬戸内部屋。
それは、
金の玉征士郎がいない稽古場。
曾木の滝にとっては入門以来、初めてのことである。
最初は、とても自由に伸びやかな稽古場になったような気がした。

寂しい。
曾木の滝は、今、そう感じていた。


金の玉が相撲に開眼したのは、自分との稽古の最中のことだった。
蒲生野は、本人から直接ではなく、誰かにそのことを教えられた。あのほとんど話すことのなかった金の玉が、そのことを誰かに語ったのだろう。
名誉なことだ。蒲生野はそう思った。
蒲生野は、一昨年の九州場所に関取になった。年齢を考えれば、かなりのスピード出世である。だが、そこで停滞した。金の玉が自分との稽古の最中に開眼した際、自分は十両力士だった。そのあとも、蒲生野は十両を抜け出すことができなかった。
金の玉は、今年の初場所、幕下10枚目格付け出しで初土俵を踏んだ。
春場所は十両。夏場所は新入幕。
蒲生野は、あっという間に追い越された。
そのことは仕方がない。自分と比較できるような力士ではない。

金の玉が土俵を去った名古屋場所、蒲生野は、ようやく入幕を果たした。
金の玉関が僕を引き上げてくれたのだ。
蒲生野は、そう思った。
新入幕のその場所、蒲生野は、八勝七敗。勝ち越した。
その後、流れたニュースで、蒲生野は、自分の大切にしていたものが、無くなってしまったと思った。
でも、金の玉征士郎を批判する気にはなれなかった。


月刊国技、秋場所展望記事。

 各種メディアで報じられているとおり、この夏、大相撲界をみっつの悲劇が襲った。
そのうちのひとつ。引退した金の玉征士郎に関して、発覚した事件については、他で特集を組んでいるので、ここではふれない。

あとのふたつ。
横綱羽黒蛇と、新三役、近江富士の故障による長期離脱である。
 五十二連勝を金の玉にストップされ、夏場所終盤三連敗を喫した羽黒蛇は、名古屋場所、見事に復活。いや、連勝時をも超えた自由自在な相撲により、他に冠絶する圧倒的な強さを見せた。新たな連勝記録のスタートの場所。相撲ファンは、誰もがそう感じたことであろう。
今回の横綱の故障箇所は、膝である。それも、元通りに完治することは望めない、という性質のものである。
羽黒蛇は、休場後の現役続行を表明しているが、横綱は、その相撲の基幹をなしていた強靭かつ柔軟な下半身を、今回の故障で、失ってしまったと言わざるをえない。
近年の大相撲は、羽黒蛇の一強時代であった。直近三年十八場所中十二回。直近二年十二場所中では九回の優勝。羽黒蛇一強時代は、突然、その終焉を迎えた。
 投打にわたって卓越した記録を残した高校時代。五球団からドラフト1位指名された甲子園のスター、新谷明は、昨年初場所、三年以内に横綱になる、との公約のもと、大相撲の世界に飛び込んだ。そして、この名古屋場所まで、土俵に鮮やかな軌跡を残した。先の名古屋場所では、最強豪力士たちに互するだけの力量を示し、その後の夏巡業では、羽黒蛇との稽古相撲で右肩靭帯を断裂させるその瞬間まで、さらに強みを増した姿を見せていた。
羽黒蛇時代のあとの大相撲界を展望した時、その時代を担う力士としては、照富士三兄弟、若吹雪、荒岩といった力士の名前があげられるが、近江富士は、その抜群の身体能力から、それらの力士の中でも、ひとり抜きん出るのではないか。そう思わせるものがあった。
初土俵以来三年以内の横綱昇進も、この男であれば、成し遂げたであろう。但し、近江富士は、横綱昇進後、短期間での引退。野球の道への再転向も表明していた。
ゆえに、彼、近江富士明の土俵人生は、金の玉征士郎にも似た、短く、栄光と伝説に彩られた物語として完結するはずだった。
物語は、未完に終わった。

残された力士たちにより、きたる秋場所は、行われる。この場所の優勝予想をするとなると、大相撲界は、群雄割拠の時代を迎えたと言うことになろう。
優勝候補としては、横綱、玉武蔵。伯耆富士。新大関、荒岩の名前が挙げられよう。
今年に入って、初場所からの成績を列挙すれば、
玉武蔵:11勝、全休、12勝、12勝。
伯耆富士:13勝、13勝、14勝、11勝。
荒岩: 9勝、11勝、10勝、12勝。
羽黒蛇が不在となった今、成績の上では、この三力士の、中でも伯耆富士の安定感が、目立つ。弟である近江富士の長期離脱というショッキングな出来事はあったが、横綱二場所目。
本命には、伯耆富士をあげたい。
対抗は、玉武蔵。全盛期から比べれば、衰えを感じさせていたが、ここ二場所は、しばしば往年の力を取り戻したかのような、相撲を見せている。一昨年名古屋場所から二年間、賜杯から遠ざかっているだけに、この秋場所、優勝に対する意欲は強いであろう。
三番手は、荒岩。何かと行事の多い新大関の場所だけに、その分、割引は必要だが。先の名古屋場所、特に後半戦は、一皮向けたかのような強みを見せた。
ここのところ停滞気味の、大関早蕨、若吹雪も優勝争いに加わるだけの活躍を期待したい。
先場所ともに九勝六敗だった関脇曾木ノ滝と緋縅。羽黒蛇との対戦がないとなれば、それだけで二桁。十勝が望めるわけだが、さらに白星を重ね、大関候補と名乗りを上げてほしい。
十八歳九ヶ月。貴花田の記録を一ヶ月更新、史上最年少三役となる豊後富士。夏場所は横綱玉武蔵から、名古屋場所は、大関若吹雪から殊勲の星を挙げ、更には新大関荒岩にはここまで二連勝。既に大物キラーと言いえるだけの実績を残しており、その若さを考えれば、前途洋々。下位への取りこぼしが無くし、安定して二桁の星を残していけば、十代大関への展望も開けるであろう。
その他、この秋場所は、横綱、大関、三役との対戦圏内に、松ノ花、竹ノ花、神天勝、神天剛の若手有望力士が集結した。その活躍も楽しみにしたい。
羽黒蛇、近江富士が長期離脱となり、この秋場所は、その最初の不在場所となるが、まだまだ見どころは多い。白熱した場所となることを期待する。



秋場所番付(各末尾は、前場所成績)

東横綱、羽黒蛇。二十六歳。山形県出身。庄内部屋。186センチ、154キロ。優勝十六回。15-0
西横綱、玉武蔵。三十歳。埼玉県出身。菱形部屋。194センチ、172キロ。優勝二十三回。12-3
東張出横綱、伯耆富士。二十二歳。東京都出身。照富士部屋。185センチ、132キロ。優勝二回。11-4
東大関、早蕨。二十六歳。奈良県出身。瀬戸内部屋。181センチ、135キロ。10-5
西大関、若吹雪。二十三歳。北海道出身。千葉乃海部屋。190センチ、155キロ。優勝一回。8-7
西張出大関、荒岩。二十一歳。兵庫県出身。菱形部屋。188センチ、141キロ。12-3
東関脇、曾木の滝。二十三歳。鹿児島県出身。瀬戸内部屋。188センチ。147キロ。9-6
西関脇、緋縅。二十三歳。群馬県出身。石見部屋。183センチ、123キロ。再関脇。9-6
東小結、豊後富士。十八歳。東京都出身。照富士部屋。186センチ。128キロ。新小結。9-6
西小結、近江富士。二十歳。東京都出身。照富士部屋。185センチ。113キロ。新小結。12-3
東前頭筆頭、若旅人(わかたびと)三十四歳。秋田県出身。志摩部屋。185センチ。127キロ。9-6
西前頭筆頭、松ノ花。二十四歳。宮城県出身。浜寺部屋。187センチ。156キロ。竹ノ花の兄。7-8
東前頭二枚目、神天勝(しんてんしょう)二十三歳。愛知県出身。神竜部屋。185センチ。163キロ。9-6
西前頭二枚目、竹ノ花。二十二歳。宮城県出身。浜寺部屋。184センチ。143キロ。8-7
東前頭三枚目、神天剛(しんてんごう)二十一歳。モンゴル出身。神竜部屋。188センチ。150キロ。10-5
西前頭三枚目、神剣(みつるぎ)。三十四歳。静岡県出身。神竜部屋。180センチ、134キロ。8-7
東前頭四枚目、青翔。二十六歳。モンゴル出身。芦名部屋。187センチ。134キロ。9-6
西前頭四枚目、北斗王。三十五歳。北海道出身。飛鳥部屋。193センチ、155キロ。7-8
東前頭五枚目、若飛燕。二十三歳。青森県出身。越ヶ浜部屋。184センチ。116キロ。6-9
西前頭五枚目、神王(しんおう)。三十一歳。モンゴル出身。神竜部屋。176センチ。125キロ。8-7
東前頭六枚目、芙蓉峯。三十二歳。山梨県出身。秋月部屋。189センチ、176キロ。8-7
西前頭六枚目、早桜舞(はやおうぶ)。三十歳。京都府出身。沢渡部屋。191センチ、137キロ。3-12
東前頭七枚目、神翔(しんしょう)。三十七歳。兵庫県出身。神竜部屋。179センチ。130キロ。4-11
西前頭七枚目、光翔。三十四歳。モンゴル出身。鳴尾部屋。182センチ。155キロ。4-11
東前頭八枚目、安曇野。二十九歳。長野県出身。志摩部屋。186センチ、130キロ。3-12
西前頭八枚目、萌黄野(もえぎの)。二十九歳。千葉県出身。志摩部屋。188センチ。147キロ。4-11
東前頭九枚目、優翔、二十九歳。徳島県出身。美馬部屋。177センチ。132キロ。8-7
西前頭九枚目、光翼(こうよく)。三十四歳。岡山県出身。鳴尾部屋。185センチ。153キロ。7-8
東前頭十枚目、神天勇(しんてんゆう)二十四歳。青森県出身。神竜部屋。184センチ。145キロ。8-7
西前頭十枚目、印南野、二十五歳、兵庫県出身、伊豆部屋。188センチ、147キロ。9-6
東前頭十一枚目、白鳥、二十六歳、静岡県出身、結城部屋、185センチ、139キロ。8-7
西前頭十一枚目、蒲生野、二十二歳、滋賀県出身、瀬戸内部屋、186センチ、158キロ。8-7
東前頭十二枚目、颯(はやて)、三十歳、岩手県出身、結城部屋、180センチ、133キロ。再入幕。10-5
西前頭十二枚目、獅子王。二十九歳。中国出身。飛鳥部屋。183センチ、167キロ。5-10
東前頭十三枚目、高千穂。三十一歳。宮崎県出身。日高部屋。183センチ、144キロ。5-10。
西前頭十三枚目、月桜(げつおう)。三十二歳。石川県出身。朝比奈部屋。181センチ。134キロ。雪桜の双子の弟。6-9
東前頭十四枚目、光聖(こうせい)。二十八歳。福岡県出身。鳴尾部屋。191センチ。142キロ。6-9
西前頭十四枚目、光優(こうゆう)。三十二歳。山口県出身。鳴尾部屋。171センチ。148キロ。5-10
東前頭十五枚目、雪桜(せつおう)。三十二歳。石川県出身。朝比奈部屋。181センチ。131キロ。7-8
西前頭十五枚目、北乃王。二十四歳。ロシア出身。高梨部屋。193センチ。210キロ。再入幕 10-5
東前頭十六枚目、筑州山。二十八歳。福岡県出身。淡路部屋。191センチ。142キロ。6-9
西前頭十六枚目、飛鳥王。三十四歳。奈良県出身。飛鳥部屋。182センチ。168キロ。6-9