羽黒蛇、大相撲について語るブログ

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平成25年・2013年5月場所前(真石博之)

2013年04月30日 | 相撲評論、真石博之
5月場所の資料をお送りいたします

○大阪場所は7日目から千秋楽までと初日の計10日間が満員御礼でした。9日目のテレビ中継で、「満員御礼」の垂れ幕が降りるのを見た北の富士が失笑し、アナウンサーが「3割ほど空いてますが・・・・」と口を滑らせるほど大甘な満員御礼。生真面目な時津風事業部長(豊山)が「まだ2枚売れ残っている」といって満員御礼にしなかったのとは大違いではありますが、客の入りは確かに良く、閑古鳥が鳴く九州場所とは月とすっぽん。場所に先立つ10日間、梅田地下街で大相撲展を開き、「大相撲×吉本W観賞券」を発行し、自らも場所中15日間欠かさず和服姿で1時から2時まで客を迎えるなど、大阪場所担当理事の貴乃花の努力は評価すべきでしょう。ただ、この客の入りに応えるだけの相撲内容であったかどうか。



○場所前、大関のいる部屋などに積極的に出稽古した初場所全勝優勝の日馬富士でしたが、前半戦で配給した金星が3つ。高安の捨て身の突き落としにあっさりと落ち、これしかない千代大龍のかち上げからの引きに手をつき、豊ノ島の一気の前進に土俵下まで落されました。終盤では、鶴竜に一方的に寄り切られ、稀勢の里には胸をひと押しされて空中で一回転の屈辱。白鵬戦では47秒の熱戦を展開したものの、最後は力負けで、結局、9勝6敗。1月場所前には133kgあった体重が、2月8日の健康診断時に、またまた129kgに落ちたのは、全勝優勝の疲れのせいなのか、煙草のせいなのか。相撲の型を持たない軽量横綱は、ひとつ狂うと立て直しが難しく、今後も険しい道が続くことでしょう。それと、「左足首の古傷が痛んでなかなか踏ん張れなかった」といった弱音も口にしない方がいいでしょう。今場所は134kgです。



○横綱・日馬富士の不振に加えて、大関陣の不甲斐なさに輪がかかってしまった大阪場所でした。琴欧洲は1勝5敗となったところで休場。中日までに、稀勢の里は抜け抜け(白星と黒星が交互)の4敗、鶴竜は3敗、琴奨菊は2敗と、揃って前半戦で優勝戦線から離脱。終ってみれば、10勝したのは稀勢の里一人で、鶴竜と琴奨菊は2場所連続しての8勝7敗に終わりました。



○こうした中で優勝戦線に12日目まで絡んだのは、上位とは当らない7枚目の隠岐の海でした。注目が集まったせいで、これほどハッキリ「稽古嫌い」と書かれた力士も珍しいでしょう。10日目に給金を直した翌日の朝日新聞で、師匠の師匠である北の富士は「あいつの稽古嫌いは筋金入り、八っちゃん(八角親方・北勝海)の1/3の稽古をすれば横綱」、師匠の八角は「三役になりたきゃ稽古しろ」と話しています。

確かに、以前から「大器ながら稽古嫌い」と言われてはいましたが、ここまで書かれると気の毒な気もします。稽古嫌いでも大関までいった力士もいたわけで・・・・。5月場所は晴れて三役です。



○こうした展開では、当然のように白鵬の独走となりました。中に入られて危なかった初日の安美錦戦について、師匠の宮城野は「先場所のような腰だったら負けていた。今場所は腰がギュッと締まって、ひとまわり大きくなった。ぶつかり稽古をしっかりやった証拠です」と雑誌“大相撲”で語っています。本人も「場所前の稽古の成果」を口にしています。終盤での発熱に触れないあたりも流石です。年間86勝4敗だった平成21年と22年当時の飛ぶ鳥を落とす勢いは影をひそめたものの、円熟した強さを見せました。

「年2場所時代」に双葉山が達成した8回の全勝優勝の回数を抜いたと騒ぎ立てるのには的外れですが、同じ年6場所の北の湖の優勝回数に並んだのは事実です。そして、関取の業績の累積をもっとも端的にあらわす「持ち給金」で、北の湖を抜いて史上3位になりました。  (別紙『持ち給金ランキング』の脚注)

なお、「持ち給金」が、大鵬は1489円50銭、北の湖は1207円とされていますが、これは計算違いで、正しくは大鵬は1491円、北の湖は1216円です。

○三賞選考委員会は、技能賞は該当者なし、日馬富士を降した豊ノ島を殊勲賞候補、優勝にからんだ隠岐の海を敢闘賞候補とし、両者とも千秋楽に勝つことを条件としました。隠岐の海が格上の妙義龍に勝ったからいいようなものの、負けていれば、三賞制度ができて27年目にして初めて、「三賞該当なし」になるところでした。したり顔で三賞を出し渋っては相撲人気に水を差す選考委員会には困ったものです。豊ノ島が負けた場合には、4大関を総なめにした栃煌山を殊勲賞にするくらいの代案を考えて欲しいものです。



○九重部屋の若い力の台頭です。途中休場になったものの金星をあげた24歳の千代大龍、幕内に踏みとどまった22歳の千代の国に続いて、新入幕を果した千代鳳は20歳で関取最年少。再十両の千代嵐と新十両の千代皇はともに21歳で、千代鳳とともに「最年少関取トリオ」です。5人の関取全員が24歳以下とは、異例中の異例です。ただ、この部屋には、なぜか怪我が多いのが気がかりです。(別紙『年齢順一覧』



○木瀬部屋からも関取が次々と誕生しています。夏場所での関取数は、新十両の希善龍を加えて6人。グルジア出身の臥牙丸を除いては、親方(肥後ノ海)と同じ大学相撲出身なのが、この部屋の特徴です。もう一つの特徴は、四股名にまるでセンスがないことです。常幸龍、徳勝龍、徳真鵬、希善龍。



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おん

)
を聞いても字がまるで浮かんでこない無粋な四股名、しかも陳腐な龍と鵬のオンパレードです。(別紙『部屋別勢力分布』)



○伊勢ケ濱部屋(旭富士)が間垣部屋(二代若乃花)を吸収しました。経営難と間垣の健康が優れないのが原因とか。間垣は二所ノ関一門から出た貴乃花組、伊勢ケ濱は立浪部屋出身の伊勢ケ濱一門。一門が異なるこの合併は、お互い津軽出身の縁とか。一門をなした立浪部屋が貴乃花組に移ったり、時津風一門の式秀部屋を出羽海一門の北桜が継承したり、昔は綱のように太かった一門の縁は糸のように細くなりました。



○他方、現役引退から10年目の武蔵丸が藤島部屋から独立して武蔵川部屋を再興しました。これによって、出羽海一門は13部屋になり、44部屋の3割を占めます。かつて出羽海は「分家御法度」で、長い間、出羽海・春日野・三保ケ関の一門3部屋時代が続きましたが、今や隔世の感です。部屋の独立は平成18年の尾上部屋(濱ノ嶋)以来7年ぶりのことですが、これは、部屋新設の条件が「幕内1場所以上」から「横綱大関経験者以外は幕内60場所か三役25場所以上」へと厳しくなったからです。(別紙『部屋系列略図』)



○「力士の体重の増えすぎが相撲をつまらなくしている」との自説を繰り返すのは控えるとして、最近の数字だけを報告します。幕内の平均体重は昨年秋場所前に初めて160kgの大台を越えて161.3kgを記録。今年初場所前では162.4kg、そして、今5月場所前は161.5kgと高どまりしています。

ちなみに、栃若時代の昭和35年初場所の幕内平均体重は、今より50kg近く軽い115kg。幕内最重量は松登で、今の平均体重より10kg以上軽い150kgでした。



○大相撲界を揺るがせた一昨年の八百長問題。多くの関取が協会からの引退勧告を受け入れた中で、蒼国来と星風は勧告を拒否し、解雇されました。二人は解雇無効の訴えを起こし、星風は一審、二審とも敗訴でしたが、蒼国来への東京地裁の判決は「解雇無効」。現理事で危機管理委員会委員長の宗像紀夫氏(元東京地検特捜部長)は「こんな薄い証拠で処分していいのかという内容だった」と語り、解雇した当時の村山弘義元副理事長(元東京高検検事長)らから事情聴取をする方向とか。相撲協会は控訴しないことを直ちに決定し、北の湖理事長が蒼国来に陳謝。昨日の横審総見では白鵬が蒼国来に胸を出して歓迎していました。幕内に復帰して土俵に立つ名古屋場所までに、蒼国来の体力が回復することを願っています。

                 平成25年4月28日   真石 博之

大岩戸(庄内日報)

2013年04月07日 | 公表原稿(羽黒蛇、読者)
わが愛する新入幕大岩戸




今年(平成25年)の3月場所で新入幕を果たした大岩戸は5勝10敗の成績で、十両から再出発をすることになった。新入幕の力士にとって幕内の壁は厚く、平成の大横綱といわれる貴乃花は4勝 11敗、直近では初土俵から9場所で入幕という最速記録(幕下付け出しを除く)を作った常幸龍も6勝9敗の成績で十両に落ちたことからしても、大岩戸の1場所での十両陥落もさして悲観することではない。

ところで3月場所の新番付発表の翌2月26日の新聞は、31歳9カ月の新入幕大岩戸を「30代に春来る」「遅咲きの春」と報じた。事実、大岩戸の新入幕は戦後8位の高齢昇進であり、新十両から所要46場所の入幕は戦後2位タイのスロウ出世であった。

このように大岩戸の幕内昇進の記録が特記されるほど遅れた主な理由の一つは彼の相次ぐ疾病と怪我もあったが、更には得意とする押し相撲に際立った威力が出るのに相当な日時を要したためでもあった。






平成15年全日本学生選手権個人戦を制覇した上林(実家の姓。後述するように平成23年9月場所に改名するまでのシコ名)は、翌16年3月場所に幕下15枚目格付け出しで初土俵を踏み、翌17年5月場所に十両に昇進した。平成18年の年賀状の添え書きに「今年は幕内を狙います」と張り切っていたのに、十両5場所目の18年1月場所は左足蜂窩織炎のため4勝11敗と大敗し幕下に陥落した。更には19年9月場所(東幕下13枚目)で左頭部に帯状疱疹が発生し高熱のため途中休場(1勝1敗4休)となり、11月場所の番付は幕下34枚目という入門以来の最下位で彼にとって最も苦難の時であった。この場所11日目に4勝し勝ち越しを決めた日に「やっと勝ち越しました」という彼のほっとした電話の声を聞いた。その後平成20年、21年と幕下の中・上位に低迷していたが、22年5月場所に3年半振りに3回目の十両復帰を果たした。しかし2場所で幕下に陥落してしまった。

平成23年2月初めに八百長問題が発覚して3月の大阪場所は興行中止となったが、上林は3月11日(東日本大震災の日)に左肘軟骨除去の手術をした。彼は24年9月場所(東十両6枚目)後に右肘で同じ手術を受けたが、手術前の本場所では土俵上で力水をつける軽い柄杓を持てないほどの痛みであったと言っていた。このように重症を抱える身体でありながら力士たちは土俵上で激しくぶっつかり合うわけである。






上林が十両に初昇進した平成17年頃、28代木村庄之助こと後藤悟さんと私の3人で会食の機会を持ったが、「人間としての上林は立派な男だ。しかし押し相撲の力士である彼が十両に定着し幕の内を望むには立ち合いに相手を土俵の外に一っ気に持って行く馬力が欲しい」というのが後藤さんの上林評であり私も同感であった。上林が番付を上げることが出来なかったのは病気や怪我もあったが、彼が身上とする押しに今一つ威力がなかったからでもあった。

平成23年5月場所、上林は西幕下2枚目で4勝3敗と一点の勝ち越しであったが、八百長疑惑で25人が解雇されたため7月場所には西十両8枚目と番付は大幅に上がった。ところが場所が始まるや左足の傷から黴菌が入り蜂窩織炎を発症して、高熱に苦しみながら土俵に上がる状態で3勝12敗の惨敗の成績に終りまたもや幕下に舞い戻った。

しかしこの病気療養後に体重も140キロ台に増え押しの威力も増してきた。心機一転、シコ名を大岩戸と改名(名付け親は九州で書道の先生をしておられる山岸蒼龍氏)した9月場所(西幕下筆頭)で5勝2敗の成績で5回目の十両復帰であった。この場所以来、平成25年1月場所で9勝6敗の成績を上げて入幕を果たすまで、新生大岩戸の見事な押し相撲が何番かあった。私はその中のベスト3番として平成24年3月場所の千代大龍(今場所横綱日馬富士を破った)同年7月場所の常幸龍、25年1月場所の旭秀鵬を挙げたが、大岩戸もこの3番は「(自分にとっても)快心の相撲であった」と言っていた。大岩戸の押し相撲に敗れたこの3力士は将来の角界を背負うことを期待されている力士達である。

今場所(3月)5日目のNHKTV相撲解説で大岩戸の師匠八角親方(元横綱北勝海)は「大岩戸はこれ迄おっかなびっくり相撲を取っていたが、最近は押しに威力が出できた。入幕出来たのもそのためだ。また良く稽古をする、出稽古(他の部屋に稽古にゆく)にも積極的だ」と、弟子には辛口批評の親方が珍しく弟子のことを褒めていた。

大岩戸は、後藤悟さんが言っておられたように社会人としても通用する立派な人物で指導力もある。平成22年7月6日、「28代木村庄之助を偲ぶ会」が東京第一ホテル鶴岡で開催されたとき、私が大岩戸の父上の上林哲弥さんに「上林君のような人材を日本相撲協会に残したいものだ」と言ったところ、側にいた水野尚文(元グラフNHK大相撲特集編集長)さんは、すかさず「相撲協会に残るには番付を上げることが大事だ」と付言した。

相撲界は力の社会であり、引退して協会の役職についても現役時代の番付がものをいう社会である。しかし相撲界の相次ぐ不祥事や協会の新公益財団法人への迷走ぶりをみても分かるように、いかにも人材不足である。大岩戸に1場所でも早く幕内に返り咲き、ますます押し相撲に磨きをかけて長く現役で活躍することを期待したいものである。  尾形昌夫

北勝国 (庄内日報より引用)

2013年04月06日 | 公表原稿(羽黒蛇、読者)
無念なり  北勝国引退

将来を嘱望されていた北勝国が度重なる怪我には勝てず、この1月場所限りで引退して2月2日に両国国技館で引退断髪式を行うことになった。まさに志半ばで土俵を去る彼の無念を想うと切なるものがある。

北勝国が17歳で最少年幕下昇進と評判になった平成15年の5月場所前、八角部屋で朝稽古を見たあと私は、「林君ちょっと」と北勝国(本名・林)を呼んで、「私は加茂の生まれで南校の出身だ」と自己紹介したところ、彼は「中学(鶴岡4中)を卒業したときに私は加茂水産高校に誘われたが、八角部屋入門が決まっていたので断わりました。尾形さんは南校とは秀才ですね」と、にっこり笑った。南校出身で秀才と言われ私びっくりしたが、彼のハキハキした応対には好感をもった。

28代木村庄之助こと後藤さんに、北勝国を「押し相撲で明るい性格、久方ぶりに有望な力士が鶴岡からきましたよ」と話したところ、後藤さんは早速、荘内日報5場所評に「北勝国は相撲の質(たち)がよいから、これからが楽しみだと加茂出身の尾形昌夫氏が言っていた」と書き、在京荘内出身者による北勝国激励会に毎回参加してくれようになった。

今を時めく横綱白鵬が北勝国と同じ平成13年3月に初土俵、昨年11月場所に新横綱に昇進した日馬富士は同年1月場所入門と、当時はモンゴル有望力士の多産の時期であった。しかし相撲協会や心ある相撲ファンがもっとも待望していたのは、北勝国のような中学出力士の成長であった。平成14,5年頃、とくに注目されていた中学出の力士は、北勝国の他に、彼よりも2年前入門の鈴川(若麒麟、最高位前頭9枚目、大麻所持で検挙されて解雇)、1年前の再田(現・幕下若之島)1年後の萩原(現・大関稀勢の里)などで、各年入門の有望力士が選ばれたのか、この4力士が巡業中に親方衆の指名で、山稽古(土俵ではなく地面に適当に丸をかいて稽古をする)に励んだことが相撲雑誌で報じられたこともあった。

ところで北勝国は、平成16年11月場所後の風冨山(現・幕下)との稽古中に右手首舟骨骨折という不運に見舞われた。両国の同愛病院での診断では手術による全治は不能という大怪我で、折れた骨をつなぐボルトを埋める処置が取られた。この怪我により、それまでの頭で当たって一気に押す相撲から右差しからカイナを返して前に出る、また立ち合いからモロ差し狙いの相撲に変わった。とくに彼の立ち合い一瞬のモロ差しは天性のもので、昭和20年代後半から30年代のモロ差しの名手といわれた信夫山、鶴ヶ嶺(両力士とも最高位関脇)にも劣らぬものと褒めたものであった。

北勝国は平成20年3月、待望の十両昇進を果たした。右手首骨折という痼疾があったが、柔軟な足腰に恵まれ動きも早く、そのうえ馬力もあり、ものにこだわらない力士向きの闊達な性格から、将来は幕内上位に昇進して三役を狙える逸材と評価する声も上がってきた。

ところが初十両の場所に6勝9敗と負け越し幕下に陥落したが、これから彼の苦難の道は始まったのである。彼は私に次のように語った。

「一場所でも早く十両に復帰したい一念で稽古に励んだのですが、無理をしたためか右手首の古傷が悪化して稽古もできなくなり、親方と相談してスポーツ医学では日本の最高権威である聖マリアンナ医科大(川崎市宮前区)の別府諸兄教授の手術を受けることになりました。第一回目の手術は平成21年の5月、同医科大の登戸多摩病院で全身麻酔を要する8時間にもの大手術であった。第二回目の手術は22年1月で前腕部の靭帯を手首に移植しました」

この手術のため平成21年5月場所から22年7月場所まで連続8場所休場して番付外に転落し、北勝国は前相撲からの再出発となった。十両以上の関取経験者が前相撲を取るのは昭和以降初として話題になったのだが、序の口から三段目まで全勝で通過し幕下9枚目で5勝2敗の好成績で、3年半20場所ぶりに十両復活を果たした。そして再十両の5場所目の24年5月場所に10勝5敗の成績で、幕内を狙える自己最高位の東十両6枚目に昇進した。ところが同年7月場所の8日目に身長181センチ、体重191キロの巨漢力士天鎧鵬の土俵際の上手投げに両力士が正面土俵下に重なり合って落ち、彼は土俵生活を断念せざるを得ない重症を負った。相撲協会の正式発表による傷病名は「右膝外側側副靭帯損傷、右脛骨剥離骨折、右膝前十字靭帯断絶」であった。






北勝国に力士生活でもっとも印象に残る一番は?と聞いたところ彼は、「24年5月場所の13日目、幕内経験のある旭秀鵬を白房下に豪快に押し倒して勝ち越しの8勝目をあげた相撲」と答えた。この場所は14日目、千秋楽と連勝して10勝目をあげ、彼の最高位である十両東6枚目に昇進したのであった。

北勝国の土俵人生は11年(平成13年~24年)で、平成22年11月場所序の口、23年5月場所三段目で全勝優勝、十両在位通算7場所、最高位は東十両6枚目であったが、まだ大きく将来が期待された惜しい逸材であった。






尾形昌夫  平成25年1月

(庄内日報より引用)

2013年04月06日 | 柏戸、北勝国、大岩戸
わが愛する新入幕大岩戸

今年(平成25年)の3月場所で新入幕を果たした大岩戸は5勝10敗の成績で、十両から再出発をすることになった。新入幕の力士にとって幕内の壁は厚く、平成の大横綱といわれる貴乃花は4勝 11敗、直近では初土俵から9場所で入幕という最速記録(幕下付け出しを除く)を作った常幸龍も6勝9敗の成績で十両に落ちたことからしても、大岩戸の1場所での十両陥落もさして悲観することではない。

ところで3月場所の新番付発表の翌2月26日の新聞は、31歳9カ月の新入幕大岩戸を「30代に春来る」「遅咲きの春」と報じた。事実、大岩戸の新入幕は戦後8位の高齢昇進であり、新十両から所要46場所の入幕は戦後2位タイのスロウ出世であった。

このように大岩戸の幕内昇進の記録が特記されるほど遅れた主な理由の一つは彼の相次ぐ疾病と怪我もあったが、更には得意とする押し相撲に際立った威力が出るのに相当な日時を要したためでもあった。

平成15年全日本学生選手権個人戦を制覇した上林(実家の姓。後述するように平成23年9月場所に改名するまでのシコ名)は、翌16年3月場所に幕下15枚目格付け出しで初土俵を踏み、翌17年5月場所に十両に昇進した。平成18年の年賀状の添え書きに「今年は幕内を狙います」と張り切っていたのに、十両5場所目の18年1月場所は左足蜂窩織炎のため4勝11敗と大敗し幕下に陥落した。更には19年9月場所(東幕下13枚目)で左頭部に帯状疱疹が発生し高熱のため途中休場(1勝1敗4休)となり、11月場所の番付は幕下34枚目という入門以来の最下位で彼にとって最も苦難の時であった。この場所11日目に4勝し勝ち越しを決めた日に「やっと勝ち越しました」という彼のほっとした電話の声を聞いた。その後平成20年、21年と幕下の中・上位に低迷していたが、22年5月場所に3年半振りに3回目の十両復帰を果たした。しかし2場所で幕下に陥落してしまった。

平成23年2月初めに八百長問題が発覚して3月の大阪場所は興行中止となったが、上林は3月11日(東日本大震災の日)に左肘軟骨除去の手術をした。彼は24年9月場所(東十両6枚目)後に右肘で同じ手術を受けたが、手術前の本場所では土俵上で力水をつける軽い柄杓を持てないほどの痛みであったと言っていた。このように重症を抱える身体でありながら力士たちは土俵上で激しくぶっつかり合うわけである。

上林が十両に初昇進した平成17年頃、28代木村庄之助こと後藤悟さんと私の3人で会食の機会を持ったが、「人間としての上林は立派な男だ。しかし押し相撲の力士である彼が十両に定着し幕の内を望むには立ち合いに相手を土俵の外に一っ気に持って行く馬力が欲しい」というのが後藤さんの上林評であり私も同感であった。上林が番付を上げることが出来なかったのは病気や怪我もあったが、彼が身上とする押しに今一つ威力がなかったからでもあった。

平成23年5月場所、上林は西幕下2枚目で4勝3敗と一点の勝ち越しであったが、八百長疑惑で25人が解雇されたため7月場所には西十両8枚目と番付は大幅に上がった。ところが場所が始まるや左足の傷から黴菌が入り蜂窩織炎を発症して、高熱に苦しみながら土俵に上がる状態で3勝12敗の惨敗の成績に終りまたもや幕下に舞い戻った。

しかしこの病気療養後に体重も140キロ台に増え押しの威力も増してきた。心機一転、シコ名を大岩戸と改名(名付け親は九州で書道の先生をしておられる山岸蒼龍氏)した9月場所(西幕下筆頭)で5勝2敗の成績で5回目の十両復帰であった。この場所以来、平成25年1月場所で9勝6敗の成績を上げて入幕を果たすまで、新生大岩戸の見事な押し相撲が何番かあった。私はその中のベスト3番として平成24年3月場所の千代大龍(今場所横綱日馬富士を破った)同年7月場所の常幸龍、25年1月場所の旭秀鵬を挙げたが、大岩戸もこの3番は「(自分にとっても)快心の相撲であった」と言っていた。大岩戸の押し相撲に敗れたこの3力士は将来の角界を背負うことを期待されている力士達である。

今場所(3月)5日目のNHKTV相撲解説で大岩戸の師匠八角親方(元横綱北勝海)は「大岩戸はこれ迄おっかなびっくり相撲を取っていたが、最近は押しに威力が出できた。入幕出来たのもそのためだ。また良く稽古をする、出稽古(他の部屋に稽古にゆく)にも積極的だ」と、弟子には辛口批評の親方が珍しく弟子のことを褒めていた。

大岩戸は、後藤悟さんが言っておられたように社会人としても通用する立派な人物で指導力もある。平成22年7月6日、「28代木村庄之助を偲ぶ会」が東京第一ホテル鶴岡で開催されたとき、私が大岩戸の父上の上林哲弥さんに「上林君のような人材を日本相撲協会に残したいものだ」と言ったところ、側にいた水野尚文(元グラフNHK大相撲特集編集長)さんは、すかさず「相撲協会に残るには番付を上げることが大事だ」と付言した。

相撲界は力の社会であり、引退して協会の役職についても現役時代の番付がものをいう社会である。しかし相撲界の相次ぐ不祥事や協会の新公益財団法人への迷走ぶりをみても分かるように、いかにも人材不足である。大岩戸に1場所でも早く幕内に返り咲き、ますます押し相撲に磨きをかけて長く現役で活躍することを期待したいものである。  尾形昌夫
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無念なり  北勝国引退

将来を嘱望されていた北勝国が度重なる怪我には勝てず、この1月場所限りで引退して2月2日に両国国技館で引退断髪式を行うことになった。まさに志半ばで土俵を去る彼の無念を想うと切なるものがある。

北勝国が17歳で最少年幕下昇進と評判になった平成15年の5月場所前、八角部屋で朝稽古を見たあと私は、「林君ちょっと」と北勝国(本名・林)を呼んで、「私は加茂の生まれで南校の出身だ」と自己紹介したところ、彼は「中学(鶴岡4中)を卒業したときに私は加茂水産高校に誘われたが、八角部屋入門が決まっていたので断わりました。尾形さんは南校とは秀才ですね」と、にっこり笑った。南校出身で秀才と言われ私びっくりしたが、彼のハキハキした応対には好感をもった。

28代木村庄之助こと後藤さんに、北勝国を「押し相撲で明るい性格、久方ぶりに有望な力士が鶴岡からきましたよ」と話したところ、後藤さんは早速、荘内日報5場所評に「北勝国は相撲の質(たち)がよいから、これからが楽しみだと加茂出身の尾形昌夫氏が言っていた」と書き、在京荘内出身者による北勝国激励会に毎回参加してくれようになった。

今を時めく横綱白鵬が北勝国と同じ平成13年3月に初土俵、昨年11月場所に新横綱に昇進した日馬富士は同年1月場所入門と、当時はモンゴル有望力士の多産の時期であった。しかし相撲協会や心ある相撲ファンがもっとも待望していたのは、北勝国のような中学出力士の成長であった。平成14,5年頃、とくに注目されていた中学出の力士は、北勝国の他に、彼よりも2年前入門の鈴川(若麒麟、最高位前頭9枚目、大麻所持で検挙されて解雇)、1年前の再田(現・幕下若之島)1年後の萩原(現・大関稀勢の里)などで、各年入門の有望力士が選ばれたのか、この4力士が巡業中に親方衆の指名で、山稽古(土俵ではなく地面に適当に丸をかいて稽古をする)に励んだことが相撲雑誌で報じられたこともあった。

ところで北勝国は、平成16年11月場所後の風冨山(現・幕下)との稽古中に右手首舟骨骨折という不運に見舞われた。両国の同愛病院での診断では手術による全治は不能という大怪我で、折れた骨をつなぐボルトを埋める処置が取られた。この怪我により、それまでの頭で当たって一気に押す相撲から右差しからカイナを返して前に出る、また立ち合いからモロ差し狙いの相撲に変わった。とくに彼の立ち合い一瞬のモロ差しは天性のもので、昭和20年代後半から30年代のモロ差しの名手といわれた信夫山、鶴ヶ嶺(両力士とも最高位関脇)にも劣らぬものと褒めたものであった。

北勝国は平成20年3月、待望の十両昇進を果たした。右手首骨折という痼疾があったが、柔軟な足腰に恵まれ動きも早く、そのうえ馬力もあり、ものにこだわらない力士向きの闊達な性格から、将来は幕内上位に昇進して三役を狙える逸材と評価する声も上がってきた。

ところが初十両の場所に6勝9敗と負け越し幕下に陥落したが、これから彼の苦難の道は始まったのである。彼は私に次のように語った。

「一場所でも早く十両に復帰したい一念で稽古に励んだのですが、無理をしたためか右手首の古傷が悪化して稽古もできなくなり、親方と相談してスポーツ医学では日本の最高権威である聖マリアンナ医科大(川崎市宮前区)の別府諸兄教授の手術を受けることになりました。第一回目の手術は平成21年の5月、同医科大の登戸多摩病院で全身麻酔を要する8時間にもの大手術であった。第二回目の手術は22年1月で前腕部の靭帯を手首に移植しました」

この手術のため平成21年5月場所から22年7月場所まで連続8場所休場して番付外に転落し、北勝国は前相撲からの再出発となった。十両以上の関取経験者が前相撲を取るのは昭和以降初として話題になったのだが、序の口から三段目まで全勝で通過し幕下9枚目で5勝2敗の好成績で、3年半20場所ぶりに十両復活を果たした。そして再十両の5場所目の24年5月場所に10勝5敗の成績で、幕内を狙える自己最高位の東十両6枚目に昇進した。ところが同年7月場所の8日目に身長181センチ、体重191キロの巨漢力士天鎧鵬の土俵際の上手投げに両力士が正面土俵下に重なり合って落ち、彼は土俵生活を断念せざるを得ない重症を負った。相撲協会の正式発表による傷病名は「右膝外側側副靭帯損傷、右脛骨剥離骨折、右膝前十字靭帯断絶」であった。

北勝国に力士生活でもっとも印象に残る一番は?と聞いたところ彼は、「24年5月場所の13日目、幕内経験のある旭秀鵬を白房下に豪快に押し倒して勝ち越しの8勝目をあげた相撲」と答えた。この場所は14日目、千秋楽と連勝して10勝目をあげ、彼の最高位である十両東6枚目に昇進したのであった。

北勝国の土俵人生は11年(平成13年~24年)で、平成22年11月場所序の口、23年5月場所三段目で全勝優勝、十両在位通算7場所、最高位は東十両6枚目であったが、まだ大きく将来が期待された惜しい逸材であった。






尾形昌夫  平成25年1月