羽黒蛇、大相撲について語るブログ

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大達羽左ェ門@OdateUzaemon、大相撲きょうの記事、昭和20年まで

2016年08月01日 | 大達羽左ェ門@OdateUzaemon
大達、昭和、今日の記事、〜昭和20年まで

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
昭和2年1月27日
元両国の出羽海取締兼相談役は、借地契約を結んでいた横網町の土地を借地人に無断で売り払ったとして、詐欺で訴えられる。記者に対し、出羽海は何でもないこと、対協会の問題ではないと発言。 #sumo

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昭和2年3月3日
(謹告)3月1日東京市内某新聞紙上に日本大相撲協会破産申請云々との記事があったが、これは事実無根であるからここに謹告する。 #sumo

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昭和2年5月2日
蒲田松竹撮影所でジャイアントやカラボタンの鬼に扮して好評を博していた東武夫君が立浪部屋入り。かつて雷部屋入りを断った事があったが、同じ富山出身の太刀山の再来とも思われる22歳の彼を立浪親方が口説き落とした。(注:後年の大八洲) #sumo

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昭和2年5月7日
清水川が暴行。二十山部屋経営のビリヤード場モミジで同部屋所属の清水川が、家人の不在中女性に暴行を加え負傷された上に行方をくらました。父親は告訴するとしており、二十山部屋では示談を交渉中だと言っている。 #sumo

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昭和2年7月29日
大連で興行中の大相撲では、幕内常陸島らが幕下力士との取組を拒否した問題に端を発して紛糾し、十一名が結束退場したが協会側はこれを全て破門した。 #sumo


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昭和4年5月30日
相撲協会の高砂取締と若藤が故雷の未亡人、娘と共に東京地方検事局に召喚され取調べを受けた。これは雷物故に際し協会から支払うべき筈の慰労金を他の債権者に直接手交したことに始まる告訴事件らしい。 #sumo


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昭和5年6月30日
文部省体育課が体育奨励費十万円を全国の体育団体にバラ撒くが、大相撲協会までもが補助金交付の申請を行っている。 #sumo

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昭和5年7月5日
人気小結武蔵山を拳闘に転向させんと小泉逓相らが出羽海部屋に働きかけている。欧米拳闘界を研究して帰朝した山中氏は武蔵山が一年半酒を止め練習に励めばヘビー級の世界選手権獲得も有り得るとし、その収入は経済的に恵まれない日本の為にもなると語る。 #sumo


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昭和6年1月28日
先日取締を辞任した元西ノ海井筒が前日に自殺。自分の一門の検査役を増やそうとした事に反発が出た為の引責辞任であった。協会は以上の事実の漏洩防止に躍起。 #sumo

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昭和6年4月19日
相撲協会が、現行法制上芸者俳優と力士が同様に扱われていることを遺憾とし、遊芸人から相撲を削除されたいと田中文相に請願。当局は相撲道確立のためなら体育振興の見地から賛成の意向で、折衝の上遠からず実現する見通しである。 #sumo

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昭和6年6月5日
相撲ファンとして定評のあるお歴々が丸の内常盤亭に集まり相撲趣味の会を催した。参加者は十六代様事徳川家達公はじめ、柳澤伯、酒井伯、秋元子爵など正面桟敷の御定連。 #sumo

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昭和6年6月9日
第一回大日本角力選手権大会は天龍玉錦を破った春日野が優勝。(注:春日野は元栃木山、既に引退後7年が経っていた。) #sumo


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昭和7年1月26日
前日午後5時、武蔵山が岩田清水両氏に伴われ出羽海親方の前に現れる。出羽はよく帰ったと涙を流し喜ぶ。武蔵は、拳闘界入は事情で言った心に無いこと、一生角力で暮らすと語るが、一方のパトロン清水氏は武蔵の拳闘界入の意志は固いと言う。 #sumo

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昭和7年1月26日
相撲協会は前日番付発表予定だったが、武蔵に続く更なる復帰力士の噂があるためこれを延期。一方玉錦ら東方力士が、新興力士団に復帰を勧告したいと協会に申し出たが、協会は三河島の大錦の二の舞となるのを恐れこれを拒絶した。 #sumo

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昭和7年1月27日
春秋園事件が遂に東方力士に飛び火。前日午後九時、東方13人が突如伊勢神宮に出掛けると言って部屋を去り東京駅に向かう。発車間際の車窓に縋って花籠井筒らが涙ながらに口説きにかかるが、結局列車は茫然自失の親方連を残して走っていったのだった。 #sumo

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昭和7年1月28日
前日脱走した東方力士13人に関して、黒幕と噂される国粋会の顔役井上初太郎はこれを否定。また、東方力士の代表として鏡岩は西方力士との関係を否定し、全く個別に動いていることを強調した。 #sumo

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昭和7年1月29日
力士の大量脱走に伴う前日の協会協議では、若手役員が取締の弾劾を叫び大混乱、遂に今日平年寄を加えた年寄会議が開かれることに。全役員辞職などを求める平年寄らは強硬、さらなる紛糾が予想される。一方天竜ら新興力士団は独自興行の準備を進める。 #sumo

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昭和7年2月2日
式守伊三郎など五行司が新興力士団に走り、明日からの旗揚げ興行に早速参加する。従来の行司制度を一掃して行司に絶対権限を与え、彼らによる審判部を創設する。 #sumo

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昭和7年2月3日
新興力士団は本日より根岸で興行。一方の協会側では、騒動の責任を取って全役員が辞職。 #sumo

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昭和7年2月4日
名古屋の顔役井上初太郎氏が東方力士と協会の調停のための改革案を示す。井上氏は協会の財政改革を自身で行う事に意欲を示し、もし協会が改革案を拒否した場合は新興力士団も交えて名古屋に新たな相撲協会を作るつもりであるらしい。 #sumo

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昭和7年2月5日
新興相撲初日風景。力士の髷が無くなり土俵入は入場式、行司は審判員と変わる中出羽ヶ嶽の髷は新名物。突然新興力士団応援演説を始めた男が警官に連れ出される。東方脱退組で在京の太郎山潮ヶ濱が現れ、天龍らと握手、新興力士万歳とやって喝采を浴びる。 #sumo

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昭和7年2月10日
旗揚げ興行を成功裡に終えた新興力士団が、現在の協会の窮状は見るに忍びないとして、今春場所に限り新興力士団の名において国技館の土俵に立とうと提案。 #sumo

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昭和7年2月14日
東方脱退力士を代表する井上初太郎らが協会役員と交渉したが不調に終わり、また新興力士団と協会の交渉も物別れに。ここに脱退力士と協会は完全に分離。脱退側は東西合流の上三月名古屋で興行を打つ予定、協会側は春場所を残留力士のみで行う決定をした。 #sumo

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昭和7年2月17日相撲
大鉄傘にやっと春が来た。協会は前例を破って館内での稽古を公開、幕内以下取的に至るまでの404名が土俵で汗を流した。入場者は六千を数え、年寄連もまずは一安心。稽古では、玉錦が武蔵山沖ッ海などを問題にせず圧倒的な強味を見せた。 #sumo

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昭和7年2月22日
新興力士団の天竜、加藤重六、茂木久平の三氏が革新力士団の井上初太郎、福田顧問、鏡岩、朝潮らと会見協議の末、大日本相撲連盟を組織し第一回興行を来月十日から十五日に名古屋で挙行することに。 #sumo

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昭和7年2月23日
昨日漸く初日の国技館大相撲、人気力士の多くを失って何となく淋しいが、六分の入りを見た協会員は大変朗らかにしていた。新取締の春日野が土俵で騒動の経緯等につき挨拶、さらに初の試みとして400余名の力士入場式も行われた。 #sumo

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昭和7年4月15日
新興力士団と革新力士団は今回その提携成って大日本相撲連盟を設立し、3日から靖国神社相撲場にて晴天十日間第一回選手権大会を開催することとなった。 #sumo

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昭和7年5月5日
出羽ヶ嶽が新興力士団を突如脱退。前日病院に行くと称し外出、そのまま脱退表明した。力士団側では彼が荷物を出羽海部屋に預けてあったなどの事情から既に予期しており、同夜協議の結果除名処分と規約に基づく法的手段をとる事に決した。 #sumo

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昭和7年5月7日
幕下能登錦、津軽嶽、佐田岬、駒ヶ谷、瀧ヶ谷、友錦の六力士は五日夜相撲連盟を訪れ、協会を脱退しての加盟を申込んだので連盟ではそれを容れた。六力士は今後革新力士団所属となる。(注:佐田岬は後年の横綱前田山) #sumo


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昭和8年4月5日
春場所優勝の男女ノ川は、今度は精神修行なのか弓の稽古を開始。オーダーメイドの巨大な弓矢を射る様は鎮西八郎為朝のよう。その様を見た姐さん達がヤンヤ、その為に精神修養どころが目下為朝はニキビの始末に困っていると。 #sumo

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昭和8年8月29日
関西相撲協会は新設の協会本部に一般同好者及び学生相撲選手のための稽古土俵を築き「力士養成学校」と銘打って指導養成する事になった。将来は関西の強豪中等学校選手から協会力士を物色する方針である。また、協会力士の月給制も決定された。 #sumo


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昭和9年5月4日
今年は相撲に由緒深い戌年なので、触れ太鼓の十日に相撲祭を催す事に。野見宿禰と当麻蹴速の御前試合や聖武天皇による初の天覧相撲が戌年であった。当日は吉田司家からも上京、横綱及び幕内土俵入や横綱、大関の三段構などが行われる予定。 #sumo

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昭和9年5月27日
カリフォルニア在住邦人が組織するアメリカ相撲協会が竹縄親方を師範として招聘し、相撲道普及と祖国意識の高揚を図る事に一決、竹縄も承諾し半年滞在する予定。もし二世の内に竹縄の眼鏡に適う者があれば、選抜の上母国の本場所に留学させる計画もある。 #sumo@OdateUzaemon: @OdateUzaemon 竹縄親方は元常陸嶽。

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昭和9年6月21日
暴風雨で相撲の櫓が倒壊し、三名が下敷きに。内一人は生命危篤である。 #sumo
@OdateUzaemon: @OdateUzaemon 補足です。本記事の櫓は上神明町の男女ノ川一行の興行相撲のため建てられたもので、19日取り壊し予定だったものがそのままになっていたとの事です。


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昭和10年3月26日
関西相撲協会の第一回東京春場所大相撲は大の里の引退披露を兼ねて八日間蔵前新設土俵で挙行されるが、出場力士百余名は昨日入京、本日は常陸山井筒の墓に詣でる事になっている。 #sumo

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昭和10年4月1日
関西相撲協会初の東京本場所が前日幕を開けた。11時土俵上で常陸山井筒雷三氏の慰霊祭を行った後勝負開始、正午近くで七分の入り。トタン屋根に当たる雨の音は昔の相撲情緒を思わせる。 #sumo


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昭和11年5月29日
東京発声が制作中の「一本刀土俵入」には非公式ながら玉錦清水川巴潟が出演予定で、清水巴は既に稽古場シーンを撮影したが、協会はこれを力士の俳優化として出場拒絶の通達。東京発声側でも了承し稽古場シーンをカットしたがひどく残念がっている。 #sumo

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昭和11年7月11日
オリンピックに先駆けてベルリンで芸術展覧会が開催されたが、日本は音楽と彫刻での参加となった。この内彫刻では中に力士男女の川の像が日本国技を象徴し大いに異彩を放っている。 #sumo

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昭和11年7月30日
梅常陸時代以来の角道復興に、秋場所新設が議論されている。酒井伯は二、三年前からの念願であり、是非実現させたいと語る。谷川幹事は十月頃に国技館で行われる菊人形の方が駄目になるから面倒と話す一方、実現すればこの上ない喜びとも語った。 #sumo


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昭和12年2月4日
部屋に風呂場の無い力士達が、稽古上りに毎日近所の銭湯に殺到。砂だらけの巨体を付き人数人掛かりで流す関取衆の入浴ぶりは傍若無人、こんなのが二人も来れば銭湯はシャットアウトされてしまう。一日、遂に両国署から協会に警告。 #sumo

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昭和12年2月7日
前日、元横綱太刀山の還暦祝が上野精養軒で催される。頭山満や男女ノ川、双葉山等も出席する中、真っ赤な横綱を太刀山独特の両結びに締め一世一代の土俵入。(注:還暦土俵入りの始まり) #sumo

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昭和12年5月4日
来場所から十三日制となるのを機に、力士会が配当増額を要求。配当金、養老金の増額は二月非公式に協会側と合意していたが、その後何の音沙汰もない事への力士側が表面化したもの。一方の藤島取締は、全て話がついており力士会の動きは感知せぬと強硬。 #sumo

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昭和12年5月7日
夏場所初日は13日だが、今暁零時半の切符売出しに前夜から籠城覚悟の相撲ファンが殺到。零時には三千人余となり大鉄傘をグルグル巻きに。零時半には水筒や毛布、空気枕を携えた老若男女が歓声を上げて館内に雪崩れ込む。大した相撲景気だ。 #sumo


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昭和13年4月24日
東北田舎から見出された天才豆行司赤松悟君が松翁の門に入る。呼出行司から松内アナの声帯模写までやり聴衆連を驚かせたのが入門の端緒。体を気遣う父に対し、「日本で松翁を頂いているのは二人きりでしょう、僕きっと松翁を頂いてみせる」と意気軒昂。 #sumo
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昭和13年4月26日
豆行司赤松悟君は初代松翁そっくり。上京した彼を庄之助夫人らが迎えるが姿が見えず、「山形の赤松さん」と書いた紙をぶら下げ二時間探し回り漸く捕まえる。庄之助宅に着いた悟君は疲れてやや元気がないが、軍配を握らせるとシャンとして猛練習。 #sumo

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昭和13年5月26日
浅草の善照寺で大ノ里の埋骨式が行われた。遺族の他藤ノ里ら帰参組の同士、脱退時行動を共にした綾川現千賀ノ浦、出羽海親方や春日野藤島両取締、劇「大関大ノ里」の俳優らが参列。今場所幕下全勝の松ノ里が霊前に全勝報告、涙に咽んだ。 #sumo

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昭和13年6月4日
前田山が江東劇場に赴き、自身の半生を劇化した「大関前田山」を見物。母親の激励で高砂部屋を目指す場面では拳を握り締め感慨深けにホロリ。幕が下りると舞台に上がり俳優と握手、思いがけぬ本物登場に観客は総立ちで大喜び。 #sumo

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昭和13年6月15日
立浪が雷を襲名へ。先代遺族と後援者らを含む話し合いで雷の譲渡が正式に決定した。また、梅ヶ谷も門弟が襲名するが、双葉はそのままの名前で通すべきとの意見もある。 #sumo

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昭和13年8月19日
満州国民生部の元天龍和久田君の努力により、満州角道会は9月18日の満州事変記念日を期し発会式を挙行する事になった。会長は星野長官。当日は同所で全満都市対抗角力大会を開く予定。 #sumo
星野 直樹(ほしの なおき、1892年4月10日 - 1978年5月29日)満州国では国務院総務長官

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昭和13年8月27日
召集を受け、○○日原隊に駆けつけた鹿島洋だったが、超弩級の体躯が祟り即日帰郷を命ぜられてしまった。「戦線に立つことが出来なかったことは返す返すも残念だがやむを得ない次第だ、この上は大いに我が角道のために微力を傾けたいと思う」 #sumo


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昭和14年3月23日
本場所15日制を正式発表。更に、初日恒例の50銭均一大衆デーは、今まで二階三階四階しか開放しなかったのを、夏場所からは一部除き一階桟敷も開放する事に。 #sumo

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昭和14年4月13日
双葉山と小柴澄子さんの結婚式は、夏場所を前にした天長節に東京会館で挙行される。 #sumo

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昭和14年4月19日
双葉山と結婚した小柴澄子さんに聞く双葉の魅力。大男で頼もしい。好きな表情は笑い顔で、それはお互いだそう。「ユーモアな方で、冗談言ったり、からかったり、下手な浪花節唸ったり...。」 #sumo

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昭和14年4月19日
映画部を新設した相撲協会では、全国配給の「大相撲日報」の封切系統を地域ごとに三社で分割し提供することを決定。東宝映画、SY、万国商事の三社である。 #sumo

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昭和14年4月22日
別府市九大温研病院に六ヶ月入院中の武蔵山は、右腕右膝の関節疾患全快になお二三カ月を要する見込で夏場所出場は不可能、見舞の出羽海親方と相談の結果本人が上京し諒解を求める事に。親方曰く、引退は協会でなく本人に決定権があり、進退問題はデマ。 #sumo

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昭和14年5月3日
協会では昭和7年尾野大将の辞任以来欠員となっていた会長に竹下勇海軍大将を迎える事に決定。竹下大将曰く、話は去年からあった、(推薦した)望月さんとは昔馴染だし嫌いな相撲じゃないから引き受けた、協会や外の意見を聞きながらやっていくとの事。 #sumo

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昭和14年5月25日
出羽ヶ嶽が引退を表明。雨の中出羽ヶ嶽が訪ねたのは、自身を出羽海部屋に入れた故宮田哲雄博士の弟、宮田病院長の宮田巡博士。引退の意志を伝えて欲しいと親方より先に相談したのである。結局たしなめられ帰って親方に引退を伝えた。(続く) 出羽ヶ嶽は田子ノ浦を襲名する予定。病気の為に寂しく幕下の相撲を取っていた彼、全盛期には52貫あった体重も42貫に減ってしまった。「何もかもみんな没法子だよ」洋傘から肩がはみ出た文ちゃんは濡れた着物のまま出掛けていった。 #sumo@OdateUzaemon: @OdateUzaemon 没法子(メーファーツ)は日中戦争期に陸軍将兵の間で使われた中国語からの借用で、「どうにもならない」の意味。なお、出羽ヶ嶽は自身の巨体を語る事を嫌っていた為、全盛期52貫の証言は貴重である。

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昭和14年6月20日
ロサンゼルスの米国相撲協会からの招聘で十両千葉昇が渡米。二世達に相撲を教えに行くためで、帰国時期は未定。 #sumo

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昭和14年8月15日
双葉山男女川の函館興行、井筒部屋の十両候補三舟浪が土俵上で仕切りの最中、突如届けられた召集の赤紙、行司はサッと軍配を引いて待ったの一声、土俵上から声高らかに三舟浪出征の披露。満場の観衆は万歳絶叫の後、愛国行進曲を唱和した。 #sumo


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昭和15年4月18日
応召力士十両雲仙嶽がトップを切って帰還。藤島取締や文ちゃんの田子浦らが駅頭で出迎える。ザンギリ頭に口髭を蓄えた雲仙嶽は言葉もすっかり軍隊風、「自分は防空任務にあったので大した手柄話もありませんただ力仕事で色々お役にたったのは幸せです」 #sumo

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昭和15年5月2日
去る三月九日逝去した松翁木村庄之助の本葬は役員会で協会葬を以て執り行うことに決定し、日時は夏場所終了後とする事になった。 #sumo

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昭和15年4月28日
双葉山が脇腹に故障を訴え、靖国神社奉納相撲は不出場に。地方巡業中寝違えたのが悪化したもので、これから原因を究明する。 #sumo
@OdateUzaemon: 昭和15年夏場所といえば双葉山が初めて途中休場した場所で、「信念の歯車が狂った」と言われる葛藤の後(但しこれは双葉が実際に語った言葉そのままではないらしい)山籠りして精神修養に努め、翌年以降の円熟期に繋がる訳だが、その発端が寝違えだとしたら面白い。伝記の類でも書かれてないと思う。

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昭和15年5月8日
銀の政府集中運動に協力し、協会では竹下会長と藤島取締の主張で来場所から好取組力士に寄贈していた銀杯を一切辞退する事に。寄贈先の新聞社や東西会では協議の結果、銀杯を木杯に替え、また賞金は国債にする事になった。 #sumo

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昭和15年5月26日
夏場所引退の決意を秘めて休場した双葉山だが、立浪親方ら一門の再起懇請で遂に決意を翻す。「相撲道の為なら喜んで犠牲になるが協会や巡業組合の犠牲にはなりたくない」。先の大阪大場所不出場を巡って立浪と協会等の板挟みの苦しい立場で悩んでいた。 #sumo@OdateUzaemon: @OdateUzaemon 大阪大場所は全力士が出場するものだが、立浪親方は一門の巡業を優先させ双葉山を休場させようとした。これに双葉が反発、意見の隔たりは後年の独立に繋がったとされる。

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昭和15年7月10日
双葉山が福岡県筑紫郡安徳村の、心の師と敬慕した故妙正尼の修行道場妙音の滝へ、元佐賀錦の警視庁柔道教師内川氏を案内に訪れた。これから一週間参籠堂に籠る予定。本人もしばらくみっちり心の修行をする予定と語った。 #sumo

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昭和15年8月2日
妙音の滝で24日間の苦行を終えた双葉山が下山。髭ぼうぼうの顔が逞しく日焼けした。「そう簡単に悟りが開けるものじゃないよ、だが人間は時々ああした修行が必要だよ、勿論土俵に還るさ、女房への土産か?名物鶴の卵でも持ってゆくか、フッフッフッ」 #sumo

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昭和15年8月17日
昭和13年9月召集の九州山が帰還。大坪上等兵として北中支の戦野を転戦した。目方は23貫だったのが4貫減った、肥っているので行軍は苦手だったと帰還の談。 #sumo

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昭和15年8月29日
怪童青海川が死去。半島出身の19歳で、身長六尺七寸五分、体重二十七貫、湊川部屋に入門し序ノ口附出で怪童ぶりを謳われていたが、巡業先の北海道で盲腸炎と臓石病を併発、手術を受けたが死去した。 #sumo


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昭和16年2月7日
双葉山が時津風を襲名へ。二枚鑑札で土俵に上ることになる。元鏡岩の 粂川部屋の弟子を譲り受け、立浪の内弟子を併せて経営するとも伝えられるが望み薄か。また、同門であるから例え独立しても羽黒山との顔合わせはないだろう。 #sumo

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昭和16年6月4日
双葉山が大日本相撲選手権大会で、名寄岩戦で右足を捻挫、歩行不能の状態である。負傷箇所の炎症甚だしく憂慮されている。 #sumo


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昭和17年1月30日
前日朝七時より、本所錦糸公園で軍事教練開始。国民皆兵の趣旨に伴い、横綱大関も一兵卒に。訓練は四股にスタートして順に進み、手榴弾をゴムボールのように投げる姿もあったとか。この訓練は31日まで朝七時から午後四時まで行われる。 #sumo

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昭和17年4月29日
夏場所開催に向け警視庁保安部は藤島取締らを招き空襲時の開催対応を決定。空襲警戒戒厳令の場合は禁止、警戒警報の場合興行中なら中止し観客を退場させ、残り取組は翌日同時刻に再開し切符は当日の物で観覧出来る。開始前警報発令では開催延期となる。 #sumo


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昭和18年4月14日
東京産報では戦力増強の第一線に挺身する産業戦士に健全な明るい慰安を贈ろうと、警視庁を通じて夏場所国技館の大衆券千人分を連日確保するよう交渉していたが、協会ではまず三百人分確保し、それ以上は出来る限り努力することになった。 #sumo

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昭和18年5月5日
放送協会では夏場所の放送は平日好取組の録音放送、日曜と千秋楽前土曜は中継放送する事に。また、AKでは前線に「声の慰問袋」として双葉山による相撲道の基本、安芸ノ海による四十八手の手解きを放送する。 #sumo

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昭和18年6月28日
来月より東京都の台所となる東京府下三多摩地方でお相撲さんが勤労奉仕の開墾に汗を流す。大島を指揮者、富ノ山高田川を班長とする青年力士50名余が参加、明年に50町歩開墾を目指し、炊事にも人手を借りず奉仕する予定である。 #sumo


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昭和19年4月13日
決戦非常措置の発表以来、本場所興行がどうなるか関心を払われていたが、後楽園で十日興行とする事に。桟敷や茶屋は廃止、入場料を引下げ指定席廃止で三万人収容、興行時間は4時間以内、取組は40番以内とする。藤島「一切は戦力増強の為に資したい」 #sumo

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昭和19年5月3日
苛烈な戦局に勝ち抜く国民の士気高揚を図るため、放送協会では慰安放送で明るく楽しめる番組を拡充する事に。大相撲夏場所に関しては毎晩7時40分より20分間好取組を録音放送し、他に日曜には午後2時から4時まで実況放送を行う。 #sumo
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昭和19年5月3日
決戦新興行について警視庁に藤島らを招き協議。屋根など土俵を簡素にする事、正午から四時間の興行時間や中止の際残り取組を非公開で行う事、観覧席の値段等を決定。またオペラグラスの使用は一切禁止される。 #sumo

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昭和19年5月4日
大相撲夏場所の幕下以下取組が7日の初日に先立ち3日から非公開で行われる。この客のない本場所は五日間行われる。 #sumo

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昭和19年5月25日
夏場所を打出した大相撲は工場慰問に練り出す。軍需省の後援で指導、慰問と生産部門への挺身を根本方針とし、大阪名古屋場所と巡業は廃止する。また、従来の部屋別ではなく各力士の出身地別で班を分けて全国に派遣し、郷土人と交流させる。 #sumo

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昭和19年6月10日
航空機増産の促進と相撲による工員の体位向上のため、軍需省航空兵器総局が全国航空機工場に派遣する力士の班編成と期日を決定。明日から相撲指導を行う。なお八月からは各力士の出身地別に班を編成し、郷土工場で相撲指導をする。 #sumo


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昭和20年5月5日
協会は警視庁と協議の結果、20日から一週間(予定)明治神宮外苑相撲場で奉納大相撲を挙行する事に。なお、今回は都民の志気鼓舞の為入場無料とし、特に産業戦士に優先的に観覧させる。 #sumo
注:この場所は結局非公開で行われたが、この時点では入場無料で一般公開とする予定だった事が分かる。また、場所の扱いについて、奉納大相撲と銘打っているものの文面からして最初から本場所の代替だった可能性が高いと考える。

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昭和20年6月5日
夏場所をまだやるとは実にしつこい連中だ。現在の東京はあらゆる点で以前と違う。相撲をやれば人が集まる、警戒に出る警官は余計な事で体が休まる暇がないとこぼす。第一食料が窮屈なのに、米を食って力を出すのは土俵の上ではないだろう。 #sumo
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昭和20年6月5日
夏場所大相撲は一般公開せず、録音放送で全国に伝えることに。 #sumo