羽黒蛇、大相撲について語るブログ

相撲ファンから提供された記事・データも掲載。頂いたコメントは、記事欄に掲載させて頂くことがあります。

平成24年・2012年7月場所前(真石博之)

2012年06月30日 | 相撲評論、真石博之
7月場所の資料をお送りいたします



○平幕優勝は、横綱、大関、三役が皆そろって不甲斐ない成績の場所に起るものです。東正横綱から数えて16人目までの優勝は、上位同士の対戦を勝ち抜いての優勝ですから、正式名称である「幕内最高優勝」に相応しいと言えます。ところが、5月場所の旭天鵬の場合は、対戦した役力士は琴欧洲と豪栄道だけで、幕内42人の中で番付が42番目の宝富士、41番目の玉鷲とも対戦しているのですから、とても「幕内最高優勝」とは言えません。この優勝によって、最高齢関取・旭天鵬の実に好もしいお相撲さんぶりが広く知られたのは嬉しいことではありましたが、なんとも釈然としない5月場所でした。








○こうなった原因の第一は白鵬です。昨年5月の技量審査場所のあとに、「下り坂にさしかかるには若すぎますが(当時26歳)、一抹の不安を感じました」と書きましたが、結局、昨23年は5場所で9敗。前年と前々年の6場所で4敗という驚異的な戦績に比べて明らかな後退です。さらに今年は、3月場所までの2場所で5敗と数字はさらに悪くなっていました。そして5月場所の直前、北の湖理事長が「白鵬は力が落ちている。衰えを感じる」と漏らしたと朝日が報じました。確かに、横綱審議会の稽古総見でも、大関相手にゆっくりと間を取りながらの8勝4敗で、息もあがっていました。蓋を開けてみれば、初日に20場所ぶりの黒星。廻しを取らずに不用意に前に出たところを引き足の速い安美錦にうまく回られたのです。過去に何度かあった負け方です。そして、そのあとがよもやの展開。7日目に妙義龍の土俵を飛び出しながらの小手投げに敗れたのはよしとしても、続いて中日に豪栄道、9日目に豊ノ島と3連敗。この強い横綱が初めて見せた惨めな姿でした。その後の大関戦での強い相撲ぶりを見れば、初日に左手人差指を剥離骨折していたのが原因ではなく、精神の疲れが来ていたのでしょう。白鵬は自分のことを「腕力は十両、上半身は前頭、下半身は大関、全部合わせて横綱」と評していると紹介したことがありましたが、5月場所では脚を送れない下半身の不安が出ていました。この先、白鵬がズルズルと衰えてしまうのか、復活するのか。後継者未だ現れずの大相撲界にとって重大事です。大関6人のうちの4人は横綱より年上です。








○平幕優勝の原因の第二は稀勢の里です。11日目を終えた時点で、星二つの差をつけて優勝争いのトップにいたにも拘わらず、残りの4日間で3敗。18歳で入幕、早くから大関候補といわれながら、大関になったのは25歳。その間、「脇が甘い」「立ち合いの張り手で腰高になる」と言われ続け、今回も同じことの繰り返し。がっかりしました。言いたくはありませんが、結局、スポーツIQが低いのでしょうか。



(スポーツIQとは、学業の知的能力とは相関のない、特定の競技に関わる知的能力。勝手な造語です。)








○ところで千秋楽、琴欧洲の欠場で優勝争いトップの栃煌山が不戦勝となりました。「不戦勝力士がそのまま優勝」の最悪の事態は避けられたものの、これにもがっかりさせられました。八角理事(北勝海)は「這ってでも出てほしかった」と語りましたが、これは大間違い。相撲がとれない力士を土俵にあげるのはファ



ンにも相手にも失礼です。また、「前日のうちに休場を申し出れば、取組を作り直すことができた」というのも大間違い。千秋楽の幕内十両35番の全取組は14日目の幕内前半戦に作っているのですから、たかだか数番の作り直しは当日できるはずです。何事も前例通りという頭の固さは稽古の賜物でしょうか。








○5月場所は、恒例の「初日満員御礼」が出ず、2日目は売れ残りが6080枚(11,000人収容の55%)で史上最悪を記録し、おしなべて不入りでした。客寄せの手立てがいくらもあることは、大阪場所で貴乃花親方が証明しているのです。それが、なぜ東京で出来ないのでしょうか。責めを負うべきは事業部長の九重(千代の富士)、玉ノ井同副部長(栃東)、総合企画部長の雷(春日富士)あたりでしょうか。 <続く>



○前回の便りでお伝えした通り、5月場所での幕内の平均体重が、史上もっとも重たかった平成9年1月場所と同じ159.5kgになりました。これはまことに由々しき事態です。



ひと昔前の拙著のテーマ『「うっちゃり」はなぜ消えたのか』の回答として、「体重が増えすぎ、今や、うっちゃりは危険な技であり、やろうにも身体を後ろに反らせるバネは肥満とは両立しない」と書きました。



内容を少々紹介させていただけば、昭和30年から平成12年までの45年間で、幕内の平均体重は43kgも増えた。それと同時に、激減したのが、うっちゃり、内掛け、吊り出し。腹が邪魔で内掛けの脚は届かず、吊るには重すぎる。逆に激増したのが、送り出し、叩き込み、突き落とし。これは、増えすぎた体重を自ら制御できず、いったん体勢を崩すと立て直せないことの証明。その結果、土俵上での攻防は昔に比べて極端に短くなり、手に汗を握る前に勝負がついてしまう。このように、太り過ぎは「相撲内容の充実」を阻害している。また、太り過ぎによって、力士に期待される凛々しさは影をひそめ、時には醜ささえ漂う。身体にサポーターをつけていない関取が珍しいほどまでに怪我が増えた原因も太り過ぎにある。



そして、太り過ぎ追放のために、「肥満度指数(BMI)50以上は出場停止」を提案しました。



BMI(body mass index)= 体重(kg) ÷身長(m) ÷身長(m)  一般人はBMI25超が肥満








○さて、幕内の平均体重が史上最高の159.5kgを記録した平成9年1月場所の幕内力士を日本・ハワイ・モンゴルの出身国別にまとめたのが別紙『平成9年1月場所 幕内40力士の体重・身長・肥満度』です。



一目瞭然です。体重が桁はずれの200kg以上の小錦、曙、武蔵丸のハワイ勢が、肥満度(BMI)でも、他を圧していました。武蔵丸に振り回されることが多かった貴乃花が、「160kgを目指す」と宣言して、それを実現したように、重い者が強く、皆が体重を増やすことに励んだ「体重相撲の時代」です。








○時代は移り、一人横綱が武蔵丸から朝青龍になったことに象徴されるように、「体重相撲の時代」は去り、



スピードと技が戻りました。8年半後の平成17年9月場所には、幕内の平均体重は11kg以上も減って



148.3kgにまで落ちたのです。ところが、平成20年から、再び増加の道をたどり、先場所の幕内平均は159.5kgに戻ってしまったのです。再び、太り過ぎの時代です。犯人は誰でしょうか。








○出身地域別にまとめた別紙『平成24年5月場所 幕内42力士の体重・身長・肥満度』をご覧ください。



幕内42人のグループ分けは、「日本(27人)」、「モンゴル(8人)」、「欧州(ブラジルを含む7人)」です。



平均身長が193cmで、「日本」を10cm近く上回る「欧州」が、平均体重でも173kgと他を圧しています。白人は大きいのです。「ハワイ去り 欧州来る」です。しかし、太り過ぎの犯人ではありません。








○グループごとの平均値(頁の下部)をご覧ください。肥満度を示すBMIで、なんと「日本」が「欧州」を凌いでトップなのです。肥満の中心はハワイから日本に移っているのです。BMIで、「欧州」はトップの臥牙丸から41位の琴欧洲まで万遍なく分布し、「モンゴル」は横綱と2大関が最下位から8位以内にいるなど全員が平均値以下でスリムなのに対し、「日本」は上位15名のうちの11名を占めています。








○私の昔の提案「BMI・50以上は出場停止」に該当する力士は、上から数えて10人。臥牙丸以外はすべて日本人で、天鎧鵬、若荒雄、雅山、琴奨菊、富士東、佐田の富士、豊響、千代大龍、豪風の面々です。



この中で、琴奨菊と豊響の二人を除く7人は、押しては叩く、つまらない相撲が多く、相撲の興を削いでいる元凶でもあります。見てくれも、西洋の女性の多くが相撲を嫌う理由のuglyそのもの。凛々しくないのです。再び、「肥満度指数(BMI)50以上は出場停止」を提案いたします。



平成24年6月26日   真石 博之

<訂正とお詫び> 5月場所7日目に白鵬が敗れた相手を妙義龍と記しましたが正しくは豊響です。


中村淳一さんからの投稿、小説について

2012年06月05日 | 小説
 管理人さんの同体であれば、技をかけられた方は、負けたように思う。というのは私も同感です。

 柔道での一本勝ちの場合、その決まった場面に相撲のルールを適用したとしたら、技をかけたほうが先に体が畳につき負けになる、そういう場合がしばしばあると思います。

でもかけられた側の感情は「やられた」でしょうし、相撲の場合も、それに近い感覚はあると思います。

 私も管理人さん同様、実際に廻しを締めて相撲を取った経験があるものとしての感覚です。

 というか、管理人さんご本人と、武蔵丸-貴ノ浪の本場所での対戦数をはるかに超えた番数を取っているかと思います。通算対戦成績は、おそらくダブルスコアくらいで負けているかな、と思います。
 それについては、架空の物語世界で、という極めてずるい方法で敵をとり、溜飲を下げさせていただきました。

 なお、先日、当ブログにご収載いただいた小説。自己PRめいて、恐縮ですが、

平幕下位に優勝の可能性がある力士が2名現れた本場所の場合の、彼らに上位力士と対戦させ、なおかつ、横綱、大関、三役同士の対戦は一番も省略しない、というモデルケースを書くという意図もありました。小説には登場しない14日目、千秋楽の想定していた対戦相手も含め、添付のとおりです。





羽黒蛇からの補足。
この投稿は7月でしたが、小説の次にエントリーしました。

中村淳一さんの小説を掲載します。前半です。

2012年06月04日 | 小説
小説「金の玉」について: 作者より







  本作品は、本年4月にほぼ書き上げたものですが、このたび管理人さんのご厚意で



当ブログにご掲載いただけることとなりました(前半、後半の二回に分けて掲載の予定とお聞きしています)。



 ご拝読いただければ、嬉しいです。







 作品の途中(後半の冒頭となる予定です)に、当該作品世界での番付、幕内力士42人の四股名が列挙されている箇所がありますが、この中のいくつかの四股名が、



 元々、作者が、主人公と、その他の主要キャラクターに付けようと思っていた四股名でした。



 が、これらの四股名はいささか人工的過ぎて、キャラクターが思うように動いてくれませんでした。



 そこで、主要キャラクターの四股名については、私が大学時代に所属していた相撲同好会(創設者は、当ブログの管理人さん)で、一緒に相撲を取っていたメンバーの四股名に変更しました。

 と、同時に彼らのイメージを使って、キャラクターを造形させていただきました。

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金の玉




























もう、母を慕って枕を涙でぬらすことはやめよう。



 美しく生きたいと思った。一度きりの人生である。おのれの選んだ道に、自らの精神と肉体の全てを捧げて、その道のはるか高みに到達する。



 そんな生き方をしたいと征士郎は思った。十一歳のときである。







中学を卒業してすぐに角界に飛び込んだ里井は、入門して二年目の夏、三段目の力士だったときに、弘子と知り合った。弘子は相撲が好きな一ファンだったが、国技館に観戦に行く日は朝早くから入場して地位が下の力士の取組から見るのが常だった。



その弘子から声をかけられたことが、ふたりが付き合うきっかけだった。里井のほうは、女の子に対してはシャイで、自分から話しかけることなどそれまでしたことがなかった。声をかけられたときはどきまぎしたが、弘子は、派手目の、充分に美人とよべる顔立ちをしていたから、そんな女性から声をかけられたことは嬉しかった。年齢は弘子がふたつ上だった。



国技館にしばしば現れていた弘子の姿に注目していた若い力士は少ない数ではなかったので、ふたりの交際が周知のこととなると、里井は多くの同輩の力士からやっかまれたし、そのことにより先輩力士からのいじめに近いような荒稽古も何度か受けた。










弘子は性格も明るく、彼女との付き合いは、もともとは大人しい性格だった里井の力士生活にとっても、よい影響を与えた。彼女に上手く引き立てられ、早く強くなりたいという里井の気持ちに拍車がかかった。



里井は、上背は、力士として平均レベルであったが、体重は、まだ体の出来上がっていない若い力士の中でも軽量の部類であった。が、柔らかい足腰をはじめ、肉体的な素質に恵まれ、大人しい分、素直な性格でもあったから、十九歳で関取になった。



給与を得られる身分となった里井は、すぐに弘子と結婚することになった。



弘子が、それを当然と思っているのは明白だったし、里井にも、それを断る積極的な理由はなかった。










取的(幕下以下の力士のことをこう称する)時代の里井の四股名は、本名に山をつけただけの「里井山」だった。



関取になり、あらためて四股名をつけることになったが、その四股名は弘子が考えた。



里井が所属していた瀬戸内部屋の瀬戸内親方は、四股名に対しては鷹揚で、部屋の力士の四股名に特に決まったルールはなかった。力士本人、親や恩師、後援者が名付けることが多かったのである。










「又造君の四股名、これに決めましょう。」



里井の名前は、又造という。一世紀か二世紀前なら、この国でも結構ポピュラーな名前だったのかもしれないが、今では、相当に珍しい名前であろう。



弘子が四股名を書いた紙を又造に見せた。



又造は、その四股名をしばし見つめた。



又造が、言葉を発するまで約二十秒かかった。



「冗談だよね」



弘子がにっこりと笑う。



「ううん、冗談ではありません」



その紙には「金の玉又造」と書かれていた。



それが弘子の考えた四股名だった。



「ね。面白いでしょ。又造君、人気でるわよ」と弘子が言う。



そうか、これがこのひとの笑いのセンスか。あざとすぎるではないか。



結婚するのは、やめたほうがよいかもしれない。



と、又造は思った。



しかし、取りやめた場合、どれほどの困難が待っているかを思うと、又造から、それを言い出せるわけがない。



ふと、思いついたことがあった。



「ねえ、もしかして、僕に声をかけたのは、この名前のせい」



「そうだよ」



弘子はあっさりと言った。



「お相撲さんとお友達になりたいな、とずっと思っていたら、相撲の専門雑誌で、あなたの本名が又造だと知ったの。こんな素敵な名前の人がいたなんて。そう思って胸がときめいたの」



そうだったのか。それにしても自分のこの名前に、胸をときめかす人がいるとは。想像したこともなかった。



「それで本人を見たら、これがまあ、なかなかハンサムじゃない。この人に決めた、って思った。付き合い始めてからも、又造君、素直だし、優しいし、有望力士だし、すっかり気に入ったのよ。声をかけてよかった、と思っているの」










四股名については、結局、押し切られた。



弘子が決めたことで、又造が断ったことは、これまでの付き合いの中でもなかった。










親方が許さないだろう。



又造は、そこに望みをかけた。



だが、瀬戸内親方は



「ふうん、いいんじゃないの」



とあっさり認めた。



協会が受理しないだろう。



又造は、最後の望みをかけた。



却下されなかった。










 弘子が言う通り、たしかに金の玉又造は、十両力士としては、異例の人気を得た。










 相撲ファンは、この四股名は、当然受け狙いであり、力士として三枚目路線で生きていくことの決意表明と受け取った。なかなかの二枚目なのに、勿体ない。なぜ、自らそっちの道を選ぶのだろう。まあ、そういう性格なんだな、と受け取られた。



 だが、力士金の玉又造はマスコミに対して、いいとこを売る(「冗談を言う」の相撲界での隠語)わけでもなく、その土俵態度は極めてストイックなものだった。



 四股名のイメージから世間が期待するような態度は、まるで取らなかった。マスコミやファンは、あてがはずれた思いだった。



 「金の玉」という四股名は、一般的に連想されることではなく、多分、何かもっと深い意味があったのだろうと推測した。



 登場時の衝撃が収まると、「金の玉又造」は、特に珍名と言うわけでもなく、普通の四股名として受け取られるようになったのであった。










ふたりが結婚した翌年、男の子が生まれた。名前は弘子がつけた。



「将来、お相撲さんになったら、お父さんの四股名を継ぐことになるから、赤ちゃんもそれに合った名前をつけようね」



弘子が考えた名前は、



「征士郎」



だった。



勝手にしろ、



と、金の玉は思った。



この受け狙いのセンスには大いに閉口していたが、そのことを除けば、弘子は、決して悪い女房ではなく、金の玉は、弘子との毎日を結構、楽しく送っていたのだった。










征士郎が生まれた年、金の玉又造は幕内力士になった。










体重はまだ軽量であったが、柔らかく粘りのある足腰を持ち、基本に忠実な、相撲っぷりの性質(たち)のよさ。そして、その出世の早さにより、金の玉は、識者の間でも将来有望な若手力士と見られていた。



将来、三役力士となることは確実であり、大関、横綱も望める。というのが金の玉の評価だった。その時期の角界は、横綱照富士の、第一人者としての君臨が始まり、彼の時代を確立しようとしている時期にあたっていたが、いずれは金の玉が照富士に対抗する、照金(てるきん)時代がやってくる、と予測する評論家もいたのである。



やや問題はあるが二歳年上の美人妻と、元気な息子に恵まれた若手有望力士。



金の玉の前途には輝かしい未来が待っているはずだった。










翌年、金の玉の人生が暗転した。



土俵の上で重傷を負ったのである。



その場所、金の玉は前頭の上位だった。序盤戦で、連日、横綱、大関と対戦した。まだ三役に昇進はしていない。二場所前、初めて横綱、大関と対戦する地位に番付をあげた金の玉のその場所は、大関ひとりを破ったが、五勝十敗に終わった。が、翌場所前頭中位で十勝五敗の星を残し、金の玉は、その場所、自己最高位の前頭筆頭になっていた。二度目の挑戦となった横綱照富士に勝つことはできなかったが、もうひとりの横綱から初めての金星を得て、六人いる横綱大関に対し、三つの勝ち星をあげた。そして、十一日目までで七勝四敗。あとひとつ勝てば勝ち越し、来場所の三役昇進がほぼ確実となるというところまでこぎ着けていた十二日目。金の玉の対戦相手は、平幕とはいえ、三役経験が豊かなベテランの巨漢力士、北嵐。北嵐の寄りに耐え、土俵際で打棄り気味の投げを放ち、その技が決まるか、と思われた瞬間、北嵐の右足が金の玉の右足に絡まり、二百キロ近い北嵐の全体重が、金の玉の右足だけにかかった。巨漢北嵐の下敷きになった金の玉の右膝が破壊された。翌日から金の玉は土俵人生で初の休場。三役昇進の絶好のチャンスが潰えた。










金の玉は翌場所から四場所全休した。再び土俵にあがったとき、金の玉の番付は、幕下三十五枚目まで落ちていた。前途有望な幕内力士が、十ヶ月後には無給の幕下力士に転落したのである。



その後、金の玉は三場所で再び関取となり、さらに二場所をかけて幕内に再昇進した。が、彼の天性であった下半身の粘りは失われた。怪我をする前は、軽量ではあっても、正統的な相撲をとっていた金の玉は、変則的な相撲に活路を見出すしかなくなった。以降も金の玉は幕内の座を維持した。だが、彼を大関候補として評価する識者はもういなかった。










そして、数年後、二度目の悲劇が金の玉を襲った。



二十一歳で結婚。二十二歳で母親になってしまった私には青春時代が短すぎた。もう一度青春時代を取り戻す。との言葉を遺して、弘子が、あっさりと家を出たのである。



俺が結婚したのも、父親になったのも、それより二歳若かったんだぞ。



金の玉は、思った。










征士郎にとって、弘子はいい母だった。時に激しく叱ることもあったが、天性の明るさで征士郎に接していたので、征士郎も母親のことが大好きだった。



自分はともかく、なぜこの子を置いていけるのか。金の玉には理解できなかった。










母の出奔後、征士郎は、金の玉の傍らから離れようとしなくなった。母がいなくなってしまった征士郎にとって、残された親は、父しかいなかった。



金の玉は、普段は、再び瀬戸内部屋で居住するようになった。征士郎も、金の玉の個室で、一緒に暮らした。



父が部屋の土俵で稽古をする際は、征士郎も稽古場にともにおりた。やがて征士郎は自分用の稽古廻しを買ってもらい、父の姿を見習って、土俵で稽古に励むようになった。幼くして母を失った五歳の少年を、親方も、親方の家族も、部屋の力士たちも可愛がった。










金の玉は、妻の付けた四股名を変えることはしなかった。



「戻りたくなったら、いつでも帰ってこい」



その思いをこめたつもりだった。










しかし、力士には、地方での本場所があり、巡業がある。小学校に入学する前は、通っていた幼稚園を休み、征士郎はついて行った。



小学校に入学したあとは、父と一緒に過ごすことができない日は、征士郎は親方の家族とともに暮らしたが、年間の内、かなりの日数を父と離れなければならなかった。










金の玉は、二十七歳の若さで引退した。結局、三役力士になることはできなかったが、幕内の位置は保ち続けた。力士としては最も力が出る年代であるが、弘子を失ったことは、特に気力の面で、金の玉の力士としての生命を縮めることになった。そして、金の玉はできるだけ多くの時間を征士郎と一緒に過ごしてやりたい、と思ったのである。



引退後、金の玉は年寄「武庫川」を襲名したが、瀬戸内部屋の部屋付き親方として後進の指導にあたった。



自らの部屋をもつことはしなかった。部屋を持てば多忙となり、征士郎と過ごす時間が減ることが明瞭だったからである。




























征士郎は、瀬戸内部屋で育った。










征士郎は、自分と同じく、中学卒業と同時に角界に入門するのであろうと、父である武庫川親方は、当然のように思っていた。



小学生時代のわんぱく相撲でも、中学時代でも、征士郎は全国大会で数多くの優勝を重ねていた。征士郎は、アマチュア相撲界では、かなり有名な存在になっていた。



しかし、征士郎は高校に進学した。理由を尋ねた父に対し、



「高校に進学しても、部屋の力士との稽古は続けることができる。すぐに関取になれるだけの力をつけてから入門する」と答えた。

















大横綱照富士は、引退後、相撲協会から一代年寄照富士を贈られ、照富士部屋を創設した。



照富士には三人の息子がいた。



三兄弟の二番目、明は、大横綱を父にもち、幼少時代は部屋の稽古場で、よく相撲を取って遊んでいた。しかし、小学校二年生のときに野球を始め、以後は、プロ野球選手になることが、彼の夢となった。



中学を卒業する前、彼は一度だけ、父親から、相撲界に入門する気はないか、と誘われた。



父は「もし、お前が相撲を始めたら、兄弟の中でお前が一番、強くなるのではないか、と思う」と言った。



そのとき、兄、洋は既に入門し、各段をスピード昇進で駆け上がっていたし、学年では一年だけ下になる弟、照也も各種の相撲大会で、極めて優秀な成績を残していた。



明は父の言葉が信じられなかった。



が、父は「洋も、照也も、儂と同様、その相撲は、技が勝った相撲だ。その抜群の相撲勘とテクニックで、あるいは儂の域まで強くなるかもしれない。しかし、儂を超えることはできんじゃろう。じゃが、お前は、儂には想像できん種類の強さを、その身に秘めている気がする。儂はお前が化けるところを見たい、と思うちょる」と言った。



明は、吃驚した。父は、二十六回優勝した力士ではないか。たしかに、全勝優勝は三回。連続優勝は、四連覇と三連覇が一度ずつ、二連覇が五度。連勝数の最高は二十九。横綱時代の勝率は八割一分台。大横綱と称される力士の中では、それらの記録は際立ったものではなく、技巧派であった相撲の取り口にもより、優勝回数の多さほどには無敵と言う印象を与える力士ではなかったようだ。とはいえ、相撲史上に残る強豪であることは間違いない。



今の言葉を素直に受け取れば、自分は、それを超える可能性がある、というのか。父の言葉は何の具体性もない、感覚的なものだ。だが、勝負の世界で大なる成功をなし得た人物が発した言葉でもある。



明の心は動いたが、それでも少年時代からの夢を諦める気にはなれず、野球の名門高校に進学した。










入学してすぐに、エースと主砲を兼ねることになった明は、高校の三年間で、甲子園に三度出場した。一年夏、ベスト8。三年春、ベスト4。三年夏、準優勝。甲子園通算十一勝三敗。防御率は、一点台の前半。イニング数を超える三振を奪った。通算打率は四割台で、ホームランは五本打った。ドラフト会議では、タイガース、ジャイアンツ、ベイスターズ、ライオンズ、バファローズの五球団から一位指名を受け、抽選の結果、バファローズが、交渉権を得た。



明の夢がかなった、はずだった。



しかし、ここにきて明は迷った。中学時代の父の言葉を思い出していた。







明は、野球が好きだ。野球史にもかなり詳しい。ONが全盛であった時代に球界に入りたかった、あの時代のプロ野球界には、明確なドラマがあった、と明は思う。九年連続日本一、無敵の強さを誇ったジャイアンツ。その中にあって、全国民的な人気を持ち、ふたりで十三年間にわたって、ホームラン王と打点王を独占した、王と長嶋。



あの時代のプロ野球であれば、躊躇なく球界に身を投じて、ONを倒すために全力を傾けただろう。



今のプロ野球にも数多のスター選手がいる。しかし、かつてのONのレベルで時代を体現するスターは、いない。明は、そう思った。



振り返って、今の相撲界はどうだろう。前時代の覇者がいる。無敵の道を歩み始めた力士がいる。そして次々に登場してくる若手有望力士。そのうちのふたりは、自分の兄と弟ではないか。










そんな思いを秘めながら、明は、その年の日本選手権を、国技館に見に行った。世間で話題になっている里井征士郎、という人物をこの目で見てみようと思ったのだ。



土俵周りに、廻しだけを締めた数多くの裸の男たちがいた。が、その中にあって里井の姿は、すぐに分かった。立ち居振る舞いが、その他の力士と違っていた。



明は、里井から目が離せなくなった。



里井は、十八歳の高校生でありながら、大学生と社会人が中心となっているこの大会であっさりと優勝した。その力は図抜けている、と感じた。彼の姿を見て、明は、結局は甲子園で優勝することはできなかったおのれを恥じた。里井は、勝負にかける心構えが、まるで違っている、そう感じた。



「この男を倒したい」



明はそう思った。










「親父、俺は相撲取りになるぞ」



明は、父に自分の進路を告げた。










 バファローズの担当スカウトに対し、明は迷惑をかけたことを詫び、同時にこう告げた。



 「三年以内に横綱になります。横綱になって数場所勤めたら、テストを経て、貴球団に入団することをお約束します」と。



 その約束をメディアに公表してもよいか、と問われた明は、ひとこと「はい」と答えた。

















征士郎は、高校三年で、史上二人目の高校生アマチュア横綱となり、その時点で幕下付出資格も得たが、やはり、大相撲に入門しようとはしなかった。



父に理由を問われた征士郎は、「今入門しても、まだ無敗で上がっていく自信が無い。」と答えた。



そんなことを考えていたのか、と、又造は吃驚したが、征士郎は、大相撲の世界を特別なものと考えていて、不敗の信念を得てから、その世界に飛び込みたいのだということが分かった。

















照富士親方の次男、明が、大相撲に入門した時点で、長男の洋は二十歳。三男の照也は、十七歳になっていた。



長男と三男は、中学卒業とともに、角界に入門していた。



洋は、既に関脇になっていた。四股名は伯耆富士。照也は、その前年の春場所が初土俵であったが、既に幕下の上位に進出していた。四股名は豊後富士。










伯耆富士も豊後富士も、父、照富士が残した記録を上回る昇進ペースであり、大横綱の息子としての期待に充分に応えていた。



しかし、三兄弟の中で、力士として最も素質に恵まれているのは次男であると、彼らの幼少時代から、照富士は見ていたわけである。



兄弟三人による横綱土俵入り。それが、照富士が未来に思い描いていた夢だったが、彼の想像世界の横綱土俵入りで、中心にいるのは常に次男だった。










明は、近江富士の四股名をもらい、高校卒業前の初場所に、初土俵を踏んだ。



近江は、照富士の母の出身地だった。

















その初場所、明は、彼が相撲界に入門する原因となった少年が、入門していないことを知った。



激怒した。










場所が始まる前、明は、征士郎を、瀬戸内部屋に訪ねた。



ふたりの少年は、初めて直接会い、言葉を交わした。



入門しない理由を問われた少年は、その理由を問うた少年に対し、答えた。



「幕下付出制度というのを知っているかい」



「知っている」



「僕は一年後に入門する。入門したときの番付は幕下だ。僕が入門したとき、君はそこまで昇っていてくれ。一年後に対戦しよう」



明は、頭の中ですばやく考えた。



「たしか優勝したら、一場所で、上の地位にいけるんだよな」



「ああ」



「春が序ノ口。夏が序二段。名古屋が三段目。秋が幕下・・・。おい、来年の初場所だと俺は幕内だぞ」



「そうか」



征士郎は微笑んだ。

















征士郎は、瀬戸内部屋の土俵で、部屋の力士たちと稽古を続けた。



高校を出た年の夏、いつものように瀬戸内部屋の土俵で、十両の蒲生野と三番稽古(文字通り三番取るという意味ではなく、同じ相手と何番も取り続ける稽古を、こう称する)を続けていた征士郎は、突然、自分の相撲が、それまでよりも一段高い境地に達したのを感じた。相手の動きを、力の入れ具合を、すべて感じ取ることができた。征士郎が意識せずとも、おのれの肉体が常に最善の動きで相手に対処していた。



稽古相手が、幕内上位の常連、曾木の滝に変わった。十番取ったが、すべて征士郎が勝利した。



「とうとうここまでたどりついた」



征士郎は、ひとり喜びをかみしめた。










夏から秋、そして冬。征士郎は、おのれの相撲にさらに磨きをかけた。その中で征士郎は、おのれの相撲の型を見出した。



そのとき、彼の稽古相手として、力量の面で何とか相手ができるのは、部屋頭の大関早蕨だけになっていた。










その年、征士郎は、国体と日本選手権の二冠に輝いた。



翌年の初場所、征士郎は角界に入門した。










父、武庫川親方は、瀬戸内部屋を出て、独立した。師匠ひとり、弟子ひとりの部屋が誕生した。



征士郎に付け人としての雑務を行わせないためであった。



幕下十枚目格付出。四股名は金の玉征士郎。武庫川部屋には、まだ土俵はなく、征士郎は、瀬戸内部屋で稽古を続けた。




























歴史に残る場所が始まる。



夏場所を前にして、相撲専門雑誌「国技」の記者、長田は、内心の興奮を抑えきれなかった。



いや、近年の相撲界には大きな話題となる出来事が相次いでいる。



人気もうなぎ上りで、テレビの相撲の実況放送は、高視聴率を記録し、昨年は、NHK以外に民放二社が、相撲の実況中継に参入した。



月刊誌である「国技」の発行部数も今や、百万部にせまる勢いだ。



人気力士に焦点をあてた増刊号も、ここのところ立て続けに出版したが、売れ行きは好調だ。










そして、きたる夏場所。



今や、角界の第一人者となった羽黒蛇が、昨年の九州場所六日目から負けしらず、その連勝記録は、四十に達した。



横綱羽黒蛇にとって、四歳あまり年上の横綱玉武蔵が、長く超えることのできない壁となっていた。玉武蔵は巨大な体躯の持ち主であり、力で圧倒されていた。しかし、横綱になって二年。二十四歳になったとき、羽黒蛇の力は、ようやく玉武蔵に追いつき、そして超えた。羽黒蛇の後の先の立ち合いからの泰然自若とした相撲が完成されていた。










大横綱照富士、今は照富士部屋の総帥、照富士親方の息子たち。



照富士三兄弟と称される、その長男、照富士の出身地の名山を四股名とした伯耆富士。



昨年の初場所、関脇で初優勝し、二十歳九ヶ月(新番付発表時)で、翌春場所に大関昇進。昇進後は、好不調の場所を繰り返したが、今年になって、初場所、十二勝三敗。春場所、十三勝二敗。の星を残し、この夏場所の成績によっては、横綱昇進も望める。










伯耆富士の下の弟、照富士の義父、先代照富士の出身地の名山を四股名とした豊後富士。



三年前の春場所の初土俵以降、中学を卒業してすぐの入門と言う年齢を考慮にいれると驚異的な昇進を続ける。



昨年名古屋場所、十七歳七ヶ月で十両昇進。



今年初場所、十八歳一ヶ月で幕内昇進。



ともに、史上二番目の最年少記録であった。



新入幕の初場所は九勝六敗。翌春場所は、前頭七枚目で、十勝五敗。



この夏場所の番付は東前頭筆頭。三役のすぐ下の地位である。



天才少年力士豊後富士が、ついに横綱、大関と対戦する地位に上ってきたのである。



さらに上の地位の史上最年少記録は、



小結は、十八歳十ヶ月。



関脇は、十九歳。



大関は、二十歳六ヶ月。



横綱は、二十一歳三ヶ月



である。



十両、幕内については、史上二番目の年少記録にとどまったが、



以降は、横綱まで、最年少記録を打ち立てるのではないか、との声が高い。



だが、そう簡単にはいかないであろう、と予想する評論家も多い。



今の相撲界の上位力士の平均年齢は低い。この初場所に、二十歳五ヶ月の若さで関脇昇進を果たし、初場所九勝六敗。春場所十一勝四敗。夏場所に十二勝すれば大関昇進確実。と言われている荒岩をはじめ若き強豪が目白押しだからである。










だが、話題はそれにとどまらない。それらに勝るとも劣らない話題がある。



照富士親方の次男。三兄弟で、ただひとり相撲では無く、別の道、野球を選択し、甲子園にも出場し、ドラフト一位で指名されながら、角界に入門し、三年以内に横綱になることを公言した近江富士が、この夏場所、入幕する見込みである。



入門以来、序ノ口で六勝一敗。七勝(序二段優勝)。七勝(三段目優勝)。五勝二敗。六勝一敗。六勝一敗で関取昇進。十両は十三勝二敗で、一場所で通過。



ここまでの通算成績は五十勝七敗。



野球選手としては大型であっても、入門時の体重は八十五キロ。その後、一年余りで、二十キロ以上増量したが、それでも百十キロ足らずであり、現在、二番目の軽量関取である。この体重で、この昇進スピードであったのだから、幼少時代に相撲を取った経験があったとはいえ、少年時代の相当の年数を、格闘技でもない別のスポーツにその身を捧げていたこの男のもつ身体能力は大変なものであると言わざるをえない。だが、公約した三年以内に横綱になるためには、来年の九州場所までに横綱昇進を決める必要がある。残された場所数は、十場所である。










そして、金の玉。金の玉征士郎である。ついにこの力士も幕内力士となる。八月生まれなので、新番付発表時の年齢は、十九歳八ヶ月となる。



かなりの若年昇進ではあるが、歴史的にみれば、さらに若年で幕内となった力士は数多くいる。



だが、ここにいたるまでの経緯は特別なものだ。



父親は、元前頭の金の玉又造。若手有望力士であったが、土俵上での怪我により、平凡な幕内力士として終わった。



五歳の時に母と生き別れ、以後、父とともに名門瀬戸内部屋で暮らし、幼少時より、相撲の稽古に打ち込む。



その稽古ぶりは常に一心不乱で、鬼気迫るものがあった。



長田も、瀬戸内部屋の取材の際、何度も彼の稽古をみた。その稽古は、どの力士よりもすさまじかった。



ひとたび、彼の稽古を目にすると、その情景に魅入られ、視線をはずすことができなくなる。



中学生になり、彼が、部屋の入門間もない若い力士と遜色のない力をもつようになってからは、土俵の上での三番稽古を繰り返すようになった。



彼が土俵にあがると、緊迫感がみなぎり、相手となる力士も、彼に引き出されるかのように、その持てる力のすべてをあげて、征士郎に対しているのがよくわかった。










長田は、これまで何度も征士郎に声をかけた。彼の相撲にかける思いを、聞き出したかった。だが、彼から返ってくるのは、沈黙か、極めて短い言葉の断片でしかなかった。その言葉も、要は「相撲のことは・・・言葉にはできない」という意味でしかなかった。










わんぱく大会、中学生、高校生の大会と。征士郎が優勝を重ねる大会を、長田は時間の許す限り観戦していた。



稽古での激しさと打って変わって、公式大会の土俵上の彼の姿は静かだった。気合をいれる掛け声を出したり、体や廻しを叩いたり、といった動作は行わなかった。無駄なものはいっさい廃した、研ぎ澄まされた土俵態度だった。



長田は、彼の土俵に最高度の品格を覚えていた。










新入幕力士、金の玉征士郎。通算成績二十二勝無敗。

















「国技」の増刊号に、長田が書いた記事が収載された。それは金の玉の立ち合いを論じた文章だった。



羽黒蛇の立ち合いは後の先である。対戦相手が動くのを待ち、動いてから、羽黒蛇も動く。



そして、金の玉もまた同様であった。










長田が書いたのは、そのことを紹介した記事である。羽黒蛇の四十連勝中の取組。そして、金の玉の入門以来の二十二番、さらにアマチュア時代の、長田自身の撮影も含む主要な対戦。あらためて、そのすべてのビデオを見てみた長田が発見したのである。



羽黒蛇が後の先の立ち合いであることは、一般ファンの間でも知れ渡っていた。が、金の玉もそうであるとは、長田が紹介するまで気が付かれてはいなかった。



金の玉は、絶妙のタイミングで、対戦相手と、ほぼ同時に動く力士であると思われていたのだ。だが、そうではなかった。羽黒蛇よりも、さらに短いタイミングで、相手が動いてから、動いていた。



ビデオを超低速で流し、さらにカメラで連写した写真を並べて、長田は、それを見つけた。










その記事が出た翌日、長田は、羽黒蛇から連絡を受けた。



長田の手許にある、すべての金の玉のビデオを貸してほしい、というのが依頼内容であった。



長田は、快諾したが、ひとつ条件をつけた。



「横綱が、そのビデオを見られるときは、私も同席させてほしい」と。



電話口で、苦笑している様子が想像できたが、羽黒蛇は受け入れた。










日時を約し、二日後、長田は、そのまま横綱に進呈するため、すべての映像をコピーしたDVDを持参した。



まだ独身の羽黒蛇だが、部屋からほど近い場所にある豪華なマンションを購入していた。庄内部屋にある彼の個室もそのままにしており、部屋とマンションを行き来する毎日であったが、その日は、マンションの、モニターを置いてある居間で、余人を交えず見ることとなった。










羽黒蛇が、金の玉のビデオをすべて見終わった。



横綱は沈黙していた。



長田からは話しかけなかったが、五分経っても、十分経っても、やはり、羽黒蛇は黙ったままだった。



同じ部屋に長田がいることも忘れているのではないか、と思った。



三十分経った。羽黒蛇の視線が動き、長田をとらえた。



横綱のため息を長田は聴いた。



「横綱」



長田はおそるおそる、羽黒蛇に話しかけた。



「どうでしたか。金の玉の相撲は」



横綱の口がようやく動いた



「無駄がなく、すべてが理にかなった動きというのは、あれほどに美しいものなんだな」



この答えは長田を驚かせた。それは、羽黒蛇自身の相撲について、識者が評している言葉ではないか。



そのままを横綱に聞き返した。



羽黒蛇は、またしばし沈黙したのち、静かに話し始めた。



「相撲の取り口の理想というものは、ひとつではないと、私は思っています」



「はい」



「先ず、圧倒的な力で相手を制圧する相撲。雷電、太刀山、現役では、言うまでもなく玉武蔵関の相撲がそれにあたるでしょう。攻めを基調とした相撲です。体に恵まれ、卓越した力をもつ力士のみが取ることのできる相撲です。ですが、力に頼る相撲だけに、乗じる隙を見出すことも可能ですし、その相撲をしのぎきれるだけの力をつければ、対抗し、超えることも可能な相撲だと思います」



それは、この横綱の実際の経験に基づく、感想であろう。長田はそう思った。



それにしても、



自分は、今、極めて大切なことを、大横綱羽黒蛇から聴こうとしている。長田は緊張した。



「次に、双葉山関の相撲です。後の先の立ち合いから、相手の動きに対応し、自然なかたちで勝利を得る。どちらかといえば守りを基調とした相撲です。近年でいえば、貴乃花関が、横綱に昇進する直前二場所の相撲がそうであったかと思います。私もこの相撲を、自らの理想として、双葉関の域まで達したい、と思っています」



「横綱は既に、その域に達しておられると思いますよ」



羽黒蛇は、否とも応とも答えず、軽く微笑んだ。



「が、理想の相撲はそれだけではない。もうひとつあると思っています」



もうひとつあるというのなら、横綱の口から出てくるのは、あの力士ではないか。長田は思った。



「栃木山関です」



当たった。長田もまた、金の玉の相撲からは、その力士を連想していた。



栃木山守也。史上の強豪十傑に必ず名前があがる、大正年間に活躍した大横綱である。優勝九回。三場所連続優勝継続中でありながら、突然、引退。頭が薄くなり、髷が結えなくなったことが原因との説がある。その後、全日本力士選手権に、引退後六年経っていた栃木山が年寄春日野として出場。時の第一人者であった玉錦をはじめ、現役力士を破って優勝したという逸話の持ち主でもある。










「私は双葉関の相撲を理想と思い続け、今は相当に近づけたのではないか、と思っています。しかし、心の中に、この相撲は、本当に理想の相撲だろうか。まだ動きが多すぎるのではないか。理想の相撲とは、あるいは、もっとシンプルなのではないか。そんなことを思うこともありました。それは、昔、栃木山という力士がいたことを知ったからです。文章で読む、栃木山の相撲っぷりが、私の考えていたもうひとつの理想の相撲なのかもしれない、と想像はできましたが、映像はほとんど残っていないので、実際はどんな相撲だったのか分かりません。見たい。そう思っていました」



羽黒蛇は、今まで食い入るようにみていたモニターのほうに目を向けた。



「今日、分かりました。栃木山関は、きっとこういう相撲を取ったのでしょう」










長田は驚いた。金の玉ほどではないにしろ、羽黒蛇も寡黙な力士である。自らの相撲を語ることもほとんどない。それが今日は、かくも饒舌に語っている。










「金の玉関は、アマチュア時代は、どちらかといえば双葉山型の相撲を取っています。あの体格で、その相撲が取れるということも驚きですが、入門前の、国体、日本選手権から、相撲が、変わっています。最も少ない動きで勝利する。一見、とても単純な相撲になっています。この間に、彼の相撲を変えるなにかがあったのでしょう」



ここまで語ると、羽黒蛇は、また沈黙した。










長田は、質問した。



「横綱、金の玉関は、まだ十九歳です。その若さで、相撲はもう完成されているのですか」



「完成しています」



羽黒蛇は、あっさりと断定した。



「横綱」



長田はさらに訊いた。最も訊きたかったことを。



「金の玉関と今対戦して、勝つのは横綱ですよね」



しばらく黙ったあと、横綱は静かに頷いた。










今日のことを記事にするな、とは羽黒蛇は言わなかった。



自分はジャーナリストとして、大変な特ダネを手に入れた。そのことも長田にはよく分かった。



だが、少なくとも、羽黒蛇と金の玉の最初の対戦が終わるまで、今日のことを記事にしてはいけないのだ。



長田は、そう思った。



それにしても、と、長田はさらに思った。



横綱の趣味は知っていたけれど、あのDVDの数はすごいな。










「今、金の玉と戦って、勝つのは私か」



長田が辞去したあと、ひとり居間に残った羽黒蛇は、心の中でつぶやいた。



横綱のプライドか。え、羽黒蛇さんよ。



羽黒蛇は目を閉じた。



先程見続けた金の玉の相撲の映像が、脳裏から離れない。



「勝てないかもしれない。あの男には」










玉武蔵と言う巨大な存在に追いつき。彼を超え、ようやく角界の第一人者となった。



自らが目指した相撲も完成した。



それなのに・・・・・・。










ひとつだけ、金の玉に確実に勝てると思われる方法がある。



金の玉の取組の映像を見終わったあとの沈黙の時間の中で、羽黒蛇はそれに気づいた。



金の玉の相撲は完成されている。ひとつの完璧な型が出来上がっている。



私が完成させた後の先の立ち合いよりも、さらに絶妙な短いタイミングでの後の先の立ち合いから、



見事としかいいようのない角度で相手に当たる。そしてそれは、全力で、すべてをそこにかけるという種類の当たりではない。相手がたとえ変わっても、柔軟に対応できる余力を残した当たりだ。現に、金の玉の初土俵以来、三人の力士が立ち合いに変化しているが、金の玉はこともなげにその変化に対応し、あっさりと押し出している。



当たってからは、右で筈押し、左でおっつけ、相手を最短距離で押し出す。判で押したような相撲だ。










要はその完璧な型をくずせばよい。立ち合いがポイントだ。くずす方法は、体を開いての変化だけではない。私が考えた立ち合いを他の力士がやっても、金の玉には通用しないだろう。だが、私ならそれで勝つことができるだろう。



だがそれをやるのか、本当に。私自身の型をくずして。記録の上で白星がついたとして、それで満足できるのか。どうなんだ。横綱羽黒蛇六郎兵衛。










しばし思いつめたあと、羽黒蛇は、



まあ、とりあえずはDVDを見よう。



と、AKB48を鑑賞した。










羽黒蛇はアイドリアンである。



AKB48については、まださほど有名ではなかった時期から目をつけ、秋葉原に通っていた。



ただAKBの中でも最も好きだった、初期からのメンバーで、チームBに属するアイドルが、近年脱退してしまった。



 羽黒蛇は残念でたまらない。










 羽黒蛇が属する庄内部屋はもともと小部屋だった。羽黒蛇が入門した時、部屋に関取は不在で、弟子は五人しかいなかった。



 今も庄内部屋には、関取は羽黒蛇しかいない。しかし、弟子の数は、二十人近くまで増えた。今、二十歳前後の若手が四人、幕下上位に集結している。



庄内若手四天王と称されるこの力士たちは、ずっと本名を四股名にしていたが、最近、新しい四股名がついた。四股名を考えたのは羽黒蛇である。



平羽黒。



蛇ノ嶋。



夏羽黒。



蛇ノ海。



羽黒蛇は自分が好きだったアイドルの名前を一字ずつ、弟弟子に分け与えた。



この四人の中では最年長の夏羽黒は、入門した時がちょうど羽黒蛇の十両昇進時にあたり、入門以来、ずっと羽黒蛇の付け人を務めていた。夏羽黒もアイドル好きだった。入門直後の会話からそのことが羽黒蛇に分かり、以後は付け人の中で、アイドルに関する業務担当となった。コンサートの予約。コンサート会場、握手会場でのご相伴。映像のダビング。写真集の購入。それらをほぼ一手に引き受けていたのである。



羽黒蛇は、四股名をつけて以降、このアイドル担当の付け人を「なっちゃん」と呼んだ。名を呼ぶときの声は、とても優しげで、夏羽黒は、他の付け人から羨ましがられた。










羽黒蛇はアイドルを愛する。



だが、それは疑似恋愛の対象として見ているわけでは無く、アイドルの輝きが自分に与えるときめきを楽しむという、観察者としての愛し方であった。

















もうひとりの横綱、巨漢、玉武蔵達夫は豪放磊落な人物であった。



玉武蔵も独身である。彼の女性の趣味は、羽黒蛇と比較すると、もっと本能的だ。



玉武蔵は、関取になる前の若いころ、「ソープ君」というあだ名で呼ばれていた。小遣いが入ると、玉武蔵はせっせと風俗に通った。



横綱になった今もそれは変わらない。「ソープ君」は「ソープさん」に変わり、今はそのあだ名で呼ばれることもほとんどなくなった。



横綱審議委員会からは、しばしば、「横綱の体面を考慮して、風俗通いは慎むように。せめておおっぴらには行かず、隠れて行くように」という勧告がなされる。



しかし、横綱はめげない。



「このでかい体で、どうやって隠れて行けるんだ」



玉武蔵は、ソープランドを愛する。



羽黒蛇が、一部のファンから「アキバの御大」と呼ばれるのに対して、玉武蔵は「吉原の大将」と呼ばれる。



玉武蔵は相撲を愛し、人生を愛し、相撲界の頂点にたった自分自身の立場を大いに楽しんでいた。既に大横綱としての赫々たる戦績も残している。優勝二十三回。一部の謹厳な識者からの「素行に問題あり」との反対はあるが、引退後、一代年寄が授与されることは間違いないであろう。



だが、ここのところ、玉武蔵は、あまり面白くない。数年前までは歯牙にもかけていなかった羽黒蛇がどんどん力をつけ、すっかり勝てなくなってしまった。通算の対戦成績では、まだ十六勝十二敗と勝ち越しているが、ここのところ七連敗だ。最近は、先場所も含め、腰の故障によりしばしば休場もしているので、最後に羽黒蛇に勝ったのは、もうほとんど二年前のことだ。



三十の大台にのった自分の年齢のことも考慮すれば、そろそろ引退の潮時かとも思う。ここのところの相撲界は、有望な若手力士が陸続として表れている。



だが、あと一回でよいから羽黒蛇に勝ちたい。羽黒蛇に勝ってやめたい。玉武蔵はそう思っていた。



そして、若手の中でも豊後富士。この夏場所に初めて本場所で顔を合わせることになるが、あの男には負けるわけにはいかない。あんな顔をした小僧に、大横綱である儂が負けることは許されない。



 玉武蔵はかたく決意していた。

















 照富士三兄弟の長兄、大関伯耆富士にとっては、きたる夏場所は横綱をかける場所になる。たとえ優勝できなくとも、十三勝すれば、初場所以降の三場所通算、三十八勝となる。一時期、やたら横綱昇進基準が厳しかったときがあったが、長い相撲史における幾多の横綱昇進例を概観すれば、この星なら昇進させるべきだ、という意見が今は主流だ。十二勝だったとしても昇進でいいではないか。との声もある。



 伯耆富士洋は、弟の明と同じく、少年時代は野球をやっていた。しかし、野球の才能では二歳下の弟に敵わない、と思い知らされ、中学生になったのを機に、野球をやめ、相撲を始めた。



 元々、大横綱、照富士の息子である。相撲は洋にとって、野球よりずっと合っていたようである。



中学時代から、各種大会で実績を残し、入門後も出世は早い。



技巧派の名人横綱でもあった照富士の衣鉢を受け継ぎ、今や現役有数の多彩な技を誇る名人大関である。



史上初の親子横綱誕生は間近い、というのが周囲の一致した評価である。










 彼はなかなかの読書家であり、特に推理小説を愛した。



 エラリー・クイーンの「Yの悲劇」。島田荘司の「占星術殺人事件」。綾辻行人の「時計館の殺人」。これまで読んだ推理小説の中では、この三作が最高だ、と思っていた。



こんな作品を自分も書いてみたい、と思い立った。



キャラクターは、すぐに思いついた。現役のお相撲さんが探偵役。シリーズのタイトルは「関取探偵」。



ワトソン役はふたり。現役の行司と呼出しである。



 結果的に犯人は必ず、女性。



 物語の最後で、探偵役の関取が、真犯人を指差しながら「犯人(ほし)は、星(相撲界の隠語で女性の意味。美人は金星)のあなたです」と指摘する。何故かその場面では、土俵上での装束に身を包んでいる行司が、軍配を掲げながら「これにて千秋楽でございます」という決め台詞を言いながらお辞儀し、その横で、やはり装束姿の呼出しが柝を鳴らし、一件落着。



 アイデアも色々考えてみた。「本場所の土俵上を舞台にした密室殺人」「容疑者は、関取探偵のライバル力士。しかし、殺人が行われたはずの時間、容疑者は、ほかならぬ関取探偵自身と本場所の土俵上で対戦しており、その映像は全国放送で流れていた、という鉄壁すぎるアリバイ。さあ、どうやってこのアリバイをくずす? 関取探偵」



 秀逸なアイデアだ。と、伯耆富士は自賛した。だが、このアイデアをどうやって具体化すればよいのか、思いつかなかった。したがって、上記のアイデアに基づく推理小説は、まだ世に出ていない。

















 大関、若吹雪は、相撲史オタク。相撲の記録マニアである。さほど知識をひけらかすわけではないが、メディアが間違ったことを言うのは許せない性分だった。



 取材にきた新聞紙の記者に「今日の朝刊の記事、過去の記録の間違いがありましたよ」と指摘したり、支度部屋に置いてあるモニターの相撲中継を見ながら、「今、間違ったな」とつぶやいている、という場面を多くの関係者が目撃していた。



 ある日、それは若吹雪がまだ大関になる前のことだが、学生時代に、相撲がテーマとなったクイズ番組に優勝した経歴をもち、相撲の記録に関する知識にも多大な自信を持っていた中央テレビの門岡記者との間で、こんなやりとりがあったそうだ。



 「若吹雪関。私は、学生時代、相撲クイズで優勝したことがあるんです」



 「知っていますよ。「難問速攻解答」でしょ。門岡さんのこと、覚えていますよ」



 「そうですか。それはどうも。私、ちょっと自慢させていただきますが、優勝制度が始まって以来の優勝力士をすべて記憶しているんですよ」



 「ほう、それはそれは」



 「若吹雪関も相撲の記録には相当詳しいと伺っています。よろしかったら、何か問題を出していただけますか」



 「そうですね。それでは、第五十代横綱、佐田の山の優勝回数は」



 「六回です」



 記者は即答した。特に難しくもない問題だ。よし、少し驚かしてやろう。



 「その六回をもう少し詳しく言ってみましょうか。



  昭和三十六年夏場所、平幕で優勝、十二勝三敗。



昭和三十七年春場所、関脇で優勝、十三勝二敗。



昭和四十年初場所、大関で優勝、十三勝二敗。場所後横綱昇進。



昭和四十年夏場所、十四勝一敗。



昭和四十二年九州場所、十二勝三敗。



昭和四十三年初場所、十三勝二敗。以上です」



 「なるほど。たいしたものですね。さすがクイズの優勝者」



 「いえいえ」



 「まあ、それはそのとおりですが、それじゃ、その初優勝の場所の三敗は、何日目に誰に負けたんでしたっけ」



 何を言ってるんだ、この人は。門岡は思った。



 「四日目、清ノ森に肩すかし。八日目、松登に寄切り。十一日目、安念山に押し倒しで負けていますね」



 「・・・・・・若吹雪関」



 「はい」



 「もしかして若吹雪関は、あとの五回の優勝についても、それが全部言えるんですか」



 「ご想像にお任せします」



 この話は、相撲を担当する記者の間ですぐに知れ渡った。以降、若吹雪に取材するときは、各記者は、ある種の緊張感を覚えさせられることになった。



 なかには、記録を調べる必要があるとき、若吹雪に問い合わせてすませる、ちゃっかりした記者もいた。



若吹雪は、いつも嬉々として教えてくれた。

















大関、早蕨。やや小柄で、押し相撲である。金の玉が、今の相撲を身につけることができたことについては、この人の寄与が大である、と言われる。



妻帯者で、去年、第一子となる女の子が生まれた。物静かな人柄で、しばしば美術館で、その姿が目撃される。趣味は絵画鑑賞。特にコロー、坂本繁二郎、金山平三の絵がお気に入りだった。



四股名は、彼の人柄を愛する、源氏物語の女性研究者であるファンが考えた。

















関脇、荒岩。よくよく見ればなかなか味のある顔をしているのだが、一見地味な風貌である。今は、若手美男力士が何人もいるので、彼には若い女性ファンは、あまりいない。彼のファンの年齢層はかなり高目である。



だが、彼は気にしない。彼は、二十歳の若さであるにもかかわらず、結婚はお見合いで、と決めている。



僕は、女の子には持てないけれど、高収入だし、結婚相手の条件としては、とてもよいはずだ。だから、かなりのレベルの女性を紹介してもらえるはずだから、その中から、選べばよい。それに僕は、女の子本人には、どう思われるかわからないけど、ご両親には気に入られる絶対の自信がある。親のいう事はよく聞く、素直な性格の美人さんが、僕の将来のお嫁さんになるに違いない。これが、荒岩が思い描く、明るい未来である。



そう、荒岩亀之助は、目上の人をきちんと敬う、礼儀正しく謙虚な好青年なのであった。

















照富士三兄弟の末弟、豊後富士照也は、稽古場の大鏡に映る自分の姿に、いつもうっとりしてしまう。



豊後富士は美少年である。そして誰よりも自分自身がそのことをしっかりと意識していた。



父、照富士も二枚目力士として人気は高かった。その血をひく兄ふたりも美男力士である。しかし、伯耆富士と近江富士が、一般人としてかなりの美男、というレベルであるのに対して、豊後富士は、芸能人の中に入ったとしても際立つ、というレベルの、美男である。



 若い女の子の間では「照さま」と呼ばれ、絶大な人気を誇る。



マスコミは、彼を「フンドシ王子」と呼んだ。










 豊後富士は、容姿だけでなく、歌も上手かった。



 夏場所後にレコーディングして、歌を出すことも決まっている。タイトルは「土俵の王子様」。



高名な振付師による、四股、鉄砲、すり足といった相撲の基礎訓練を基調とした、歌のフリも決まっている。歌って踊れるお相撲さんだ。



 この話を聞きつけた兄ふたりが「俺たちも混ぜろ」と言ってきた。レコード会社も、願ってもない話と、シングルデビューする末弟と別に、三兄弟によるトリオの歌手デビューも決まった。



トリオの名前は、「照富士三兄弟」と、いたってシンプルだ。



曲のタイトルは「土俵を駆け巡る青春」。



昔のヒット曲を基調とし、それにアレンジを加えた曲だ。 










超人気力士、フンドシ王子豊後富士照也が、夏場所、ついに横綱、大関陣と顔を合わせる。

















 金の玉征士郎が入門し、幕下十枚目格付出となった初場所、近江富士明は、幕内力士になれてはいなかったが、東幕下三枚目まで昇進していた。



その場所の七日目、三勝同士で、ふたりは対戦した。



近江富士は、立ち合いからの一気の押出しで、金の玉に敗れた。



 翌春場所、前場所六勝一敗だった近江富士は、東十両十四枚目。前場所、七戦全勝だった金の玉は、



西十両十四枚目。



 ふたりは、初日に顔を合わせたが、近江富士は、やはり立ち合いからの一気の押出しで、金の玉に敗れた。



 この場所の近江富士は、金の玉以外にもう一敗して、十三勝二敗。金の玉、十五戦全勝。



捲土重来。きたる夏場所の三度目の対戦では、近江富士は、金の玉との相撲の際、まだ一度も取れていない、彼の廻しを掴みたかった。

中村淳一さんの小説。後半です。

2012年06月03日 | 小説
夏場所の新番付が発表された。

東横綱、羽黒蛇。二十五歳、場所中に二十六歳。山形県出身。庄内部屋。186センチ、152キロ。優勝十五回。

西横綱、玉武蔵。三十歳。埼玉県出身。菱形部屋。194センチ、172キロ。優勝二十三回。

東大関、伯耆富士。二十一歳。場所中に二十二歳。東京都出身。照富士部屋。185センチ、136キロ。優勝一回。

西大関、若吹雪。二十二歳。北海道出身。千葉乃海部屋。182センチ、151キロ。優勝一回。

東張出大関、早蕨。二十六歳。奈良県出身。瀬戸内部屋。180センチ、135キロ。

東関脇、荒岩。二十歳。兵庫県出身。菱形部屋。186センチ、145キロ。

西関脇、緋縅。二十三歳。群馬県出身。石見部屋。183センチ、123キロ。

東小結、曾木の滝。二十三歳。鹿児島県出身。瀬戸内部屋。188センチ。147キロ。

西小結、若飛燕。二十三歳。青森県出身。越ヶ浜部屋。184センチ。116キロ。

東前頭筆頭、豊後富士。十八歳。東京都出身。照富士部屋。186センチ。126キロ。

西前頭筆頭、竹ノ花。二十二歳。宮城県出身。浜寺部屋。184センチ。143キロ。

東前頭二枚目、芙蓉峯。三十二歳。山梨県出身。秋月部屋。190センチ、176キロ。

西前頭二枚目、獅子王。二十九歳。中国出身。飛鳥部屋。183センチ、167キロ。

東前頭三枚目、神剣(みつるぎ)。三十四歳。静岡県出身。村里部屋。180センチ、134キロ。

西前頭三枚目、神王(しんおう)。三十一歳。モンゴル出身。村里部屋。176センチ。125キロ。

東前頭四枚目、北斗王。三十五歳。北海道出身。飛鳥部屋。193センチ、155キロ。

西前頭四枚目、松ノ花。二十四歳。宮城県出身。浜寺部屋。187センチ。156キロ。竹ノ花の兄。

東前頭五枚目、安曇野。二十九歳。長野県出身。志摩部屋。186センチ、130キロ。

西前頭五枚目、光翔。三十四歳。モンゴル出身。鳴尾部屋。182センチ。155キロ。

東前頭六枚目、早桜舞(はやおうぶ)。三十歳。京都府出身。沢渡部屋。191センチ、137キロ。

西前頭六枚目、高千穂。三十一歳。宮崎県出身。日高部屋。183センチ、144キロ。

東前頭七枚目、神翔(しんしょう)。三十七歳。兵庫県出身。村里部屋。179センチ。130キロ。

西前頭七枚目、若旅人(わかたびと)三十三歳。秋田県出身。志摩部屋。185センチ。127キロ。

東前頭八枚目、光聖(こうせい)。二十八歳。福岡県出身。鳴尾部屋。191センチ。142キロ。

西前頭八枚目、光優(こうゆう)。三十二歳。山口県出身。鳴尾部屋。171センチ。148キロ。

東前頭九枚目、神天勇(しんてんゆう)二十四歳。青森県出身。村里部屋。184センチ。145キロ。

西前頭九枚目、萌黄野(もえぎの)。二十九歳。千葉県出身。志摩部屋。188センチ。147キロ。

東前頭十枚目、飛鳥王。三十四歳。奈良県出身。飛鳥部屋。182センチ。168キロ。

西前頭十枚目、雪桜(せつおう)。三十二歳。石川県出身。朝比奈部屋。181センチ。131キロ。

東前頭十一枚目、神天勝(しんてんしょう)二十三歳。愛知県出身。村里部屋。185センチ。163キロ。

西前頭十一枚目、光翼(こうよく)。三十四歳。岡山県出身。鳴尾部屋。185センチ。153キロ。

東前頭十二枚目、月桜(げつおう)。三十二歳。石川県出身。朝比奈部屋。181センチ。134キロ。雪桜の双子の弟。

西前頭十二枚目、神天剛(しんてんごう)二十一歳。大阪府出身。村里部屋。188センチ。150キロ。

東前頭十三枚目、神優(しんゆう)。三十五歳。東京都出身。村里部屋。187センチ。188キロ。

西前頭十三枚目、白鳥。二十五歳。静岡県出身。結城部屋。185センチ。139キロ。

東前頭十四枚目、翔翼(しょうよく)。二十七歳。モンゴル出身。鳴尾部屋。175センチ。155キロ。

西前頭十四枚目、青翔。二十五歳。モンゴル出身。芦名部屋。187センチ。134キロ。

東前頭十五枚目、北乃王。二十四歳。ロシア出身。高梨部屋。193センチ。210キロ。

西前頭十五枚目、優翔。二十九歳。徳島県出身。美馬部屋。177センチ。132キロ。

東前頭十六枚目、金の玉。十九歳。東京都出身。武庫川部屋。182センチ。127キロ。

西前頭十六枚目、満天星(まんてんせい)。二十七歳。モンゴル出身。秋葉部屋。189センチ。185キロ。

東前頭十七枚目、近江富士。二十歳。東京都出身。照富士部屋。185センチ。109キロ。











近年、本場所の土俵は連日、満員御礼となっていた。

初場所、夏場所、秋場所と、東京の国技館で場所前に行われる、一般ファンにも無料で公開される、稽古総見。近年は、この行事のときも、満員になる。

が、その夏場所前は、異常だった。開催日の数日前から、入場するための徹夜組が出現したのだ。この報道が流れたことにより、徹夜での順番待ちはどんどん増え、二日前には、その時点で、もう満員になるだけの人数が列を作った。相撲協会は、その前日から、列の先頭のファンから順番に、国技館内の客席に誘導していた。

なぜ、ただ稽古を見せるにすぎない行事が、それほどの人気を呼んだのか。それは、稽古土俵であっても、まだ一度も実現していない、四十連勝中の横綱、羽黒蛇と、入門以来、二十二連勝中の、新入幕力士、金の玉の土俵での初対戦が、この日、実現することになるであろうと、予想されたからである。

羽黒蛇は、照富士三兄弟の、豊後富士、近江富士とも本場所ではまだ対戦していない。だが、羽黒蛇が属する庄内部屋と照富士部屋は同じ一門でもあり、稽古場では、これまでに既に何度か胸を貸し、対戦もしていた。

そのときもマスコミは、稽古風景を大きく取り上げた。稽古場での対戦では、豊後富士も、近江富士も、やはり、羽黒蛇の敵ではなかった。






だが、羽黒蛇と金の玉は、まだ一度も土俵で顔を合わせてはいない。違う一門とはいえ、しばしば出稽古を敢行する羽黒蛇が瀬戸内部屋に、あるいは、金の玉が庄内部屋に出稽古に行けば、ふたりは顔を合わせることになったはずだが、なぜか、ふたりとも、そうしようとはしなかった。






また、ふたりの対戦には、別の興味も持たれていた。立ち合いである。長田が書いた記事により、ともに後の先の立ち合いをする両者が対戦したら、いったいどちらが先に立つのか、という興味である。






国技館での公開の稽古総見の日がやってきた。

十両力士を中心とした稽古。幕内力士を中心とした稽古。大関を中心とした稽古と続き、羽黒蛇が、土俵に上がった。

大きな歓声が上がった。いきなりの金の玉の指名があるかと、満員の観衆は固唾をのんだが、羽黒蛇が最初に指名したのは、もうひとりの新入幕力士である近江富士だった。

これまた人気力士である。歓声があがった。

三番取った。いずれも羽黒蛇の完勝だったが、内一番は、近江富士に存分に取らせる、という意図があったのか、三十秒足らずの相撲になった。

横綱が次に指名したのは豊後富士。

そこここで「照さまあ」という若い女性ファンの嬌声がこだました。

横綱は、今度は四番取った。やはりすべて羽黒蛇の勝利であったが、内一番、豊後富士が、横綱を土俵際まで持っていく相撲があり、大きな歓声が沸いた。






羽黒蛇の体が十分に温まった。羽黒蛇と、土俵の周囲に立つ、金の玉の視線が交錯した。

「征士郎」

横綱が、金の玉に呼びかけた。

「来い」

金の玉が、新鋭とは思えない、悠然たる態度で土俵に上がった。

大歓声があがった。

一度の仕切で羽黒蛇と、金の玉がともに仕切線に両手をついた。

ふたりは、にらみ合う。

十五秒たった。

満員の観衆は、息をつめて見続けるが、両者ともに動かない。

記者席にいた長田は、ふたり連れてきたカメラマンの内、ひとりに指示して、金の玉が土俵に上がった時から、ずっとビデオをまわさせた。もうひとりには立ち合いに入ってからの連写を指示していた。

三十秒たった。

羽黒蛇が立ち合うことなく、すっと立ち上がった。

合わせて、金の玉も立ち上がった。

羽黒蛇が、ふっと顔をくずし、右手で金の玉の左肩を軽く叩いた。金の玉がお辞儀する。

長田は、後刻、「これは羽黒蛇の力士生活における、初めての「待った」ではないか」と気付いた。






両者は、再び仕切線の後ろに下がった。

一度、仕切り、

両者が仕切線に両手をついた。

十秒を超えたところで、両者が立ち上がった。

どちらが先に立ったのか、肉眼では分からなかった。

金の玉がやや押し込んだと見えた瞬間、羽黒蛇の右が入った。金の玉の体が起こされた。

相手力士に廻しを取られることはおろか、組まれることさえほとんどない金の玉が、横綱に組まれた。

そのまま横綱が、左の上手を取りながら一気に寄り、寄り切った。

観衆の間からため息がもれた。

金の玉は、今や稽古場では、大関早蕨を圧倒し、先頃瀬戸内部屋に出稽古にやってきた横綱玉武蔵と三番稽古をして、むしろ分が良かったという。

その金の玉をもってしても、やはり羽黒蛇には敵わないのかと。






この相撲のあと、横綱は、すぐに次の稽古相手として、荒岩を指名した。

稽古総見の中で、羽黒蛇と金の玉はただ一番だけ、相撲を取った。






金の玉との取り組みが終わった直後、

羽黒蛇は、記者席に座る長田のほうを見た。偶然かと思ったが、羽黒蛇の視線は明らかに長田の視線をとらえていた。横綱は、長田に向かって、軽く笑った。






長田は、社に帰るのももどかしく、すぐに、撮影したビデオを再生した。






分析には長い時間がかかった。超低速で再生しても、ふたりは同時に立ち上がったとしか思えなかった。

だが、さらに精密な機械で解析した結果、長田は、横綱が、いつもとは異なる立ち合いをしたことを知った。

立ち合いは、・・・羽黒蛇が先に動いていた。刹那の差で、金の玉が動いた。これは、金の玉のいつもの立ち合いだ。金の玉は、今、マスコミ、ファンの間では、その稽古のすさまじさや、相撲への打ち込み方から「修羅の力士」というニックネームが定着しつつあるが、この絶妙なタイミングの立ち合いにより、一部のファンから「刹那の力士」とも、呼ばれていた。

すると、羽黒蛇の動きが止まった。これまた刹那の時間のみ。金の玉の動きは変わらない。羽黒蛇が再び動く。金の玉の体に微妙な驚きが走った。当たるはずの瞬間に、相手はまだ、その地点に到達していない。金の玉の体が、わずかに伸びた。両者が激突し、羽黒蛇が少し押し込まれるが、押し込まれながら、羽黒蛇の右が入り、金の玉の体をとらえた。






翌朝、長田は勤務する雑誌社と提携しているスポーツ紙の朝刊に、横綱の立ち合いを分析し、解説した記事を書いた。見出しは「神技、先の後の先」

しかし、長田は疑問に思った。

なぜ、横綱は、この立ち合いを本場所まで秘めておかなかったのだろう。






この記事に対し、さすが横綱羽黒蛇、との賞賛の声が集まった。と同時に、相手が横綱であっても自分の立ち合いを押し通そうとする金の玉に対して、一部批判の声もあがった。また、羽黒蛇に対しても、相手が望む存分の立ち合いをさせて、それでも勝つのが横綱ではないか、との声も少数ながら寄せられた。


















夏場所初日の二日前の金曜日。

初日と二日目の取組が発表された。

初日の目玉は、羽黒蛇-豊後富士。そして、金の玉-近江富士である。

玉武蔵-豊後富士は二日目の取組となった。

三役以上の力士がからむ取り組みを除いて、初日は番付順に取り組まれるのが通例であるので、本来であれば、近江富士-満天星。金の玉-優翔。となるはずであるが、取組を編成する協会審判部は、夏場所幕内の最初の取組に、通例をくずして、金の玉-近江富士を選んだ。

さらに、東横綱には西小結の力士を当てるのが、初日の通例であるが、この通例もこわして、四十連勝中の横綱羽黒蛇に、横綱初挑戦、人気の美少年力士、豊後富士を当てた。それは、ただ一回対戦した千代の富士-貴花田(貴乃花)戦に倣い、注目の取組を、両者にまだ、場所の星取表がまっさらな内に当てよう、という意向が働いたものである。

その考えでいくのならば、と、取組編成の際、初日に、羽黒蛇-金の玉の取組を推す一部の委員の声もあった。金の玉の実力は、既に、全力士の中で、羽黒蛇に次ぐNo.2になっているのではないか。この取組こそ、今場所の最大の目玉であり、場所を盛り上げるためには終盤戦に、この取組を持ってきたほうが望ましいことは分かる。本来、幕内の下位力士は、よほど勝ちこまない限り、横綱と対戦することはないわけでもあるし。しかし、と同時に、この両者については、ともに負けがつかない連勝記録継続中に対戦が実現すれば、その盛り上がりは大変なものになるだろう。今の両力士の力からいって、終盤戦の対戦であっても、連勝記録継続中のまま対戦となる可能性はかなり高い。しかし、勝負事である限り対戦前に金の玉に、あるいは羽黒蛇にだって黒星がついてしまう可能性はある。初日に対戦させれば、間違いなく連勝記録継続中の力士の対戦となる。四十連勝継続中と、二十二連勝継続中の力士の対戦など、今後見られるものじゃない。初日にこの取組を実現させてしまっても、今場所は注目力士目白押しなのだから、好取組は、羽黒蛇-金の玉以外でもいくらでも作れる、と。

が、結局この提案は、慣例からはずれすぎるとして見送られた。と同時に、金の玉が勝ち進んでいった場合、早い段階から上位力士にぶつけていこう、との方針も確認された。






初日の前夜となった。

幕内力士としての金の玉との初顔合わせ。しかし、近江富士にとっては、初場所、春場所に続く三度目の対戦という思いが強い。初場所に幕下だった力士で、この夏場所に幕内力士となっているのは、もちろん、近江富士と金の玉のふたりだけである。近江富士と金の玉にとっては、お互いが、この三場所で、三度対戦する唯一の力士となることは間違いない。

俺は、この男を倒すために、相撲の道を選んだのだ。今も、近江富士の心の中には、その思いが強い。

しかし、過去の二度の対戦は、ともに鎧袖一触。あっさりと押し出された。どうやったら金の玉に勝てるのか、近江富士にはそのイメージがわかない。

 抜群の運動神経をもち、高校時代に相撲を取っていないにもかかわらず、図抜けたスピード出世を遂げている近江富士。ではあっても、十両以上の関取力士の中で二番目。幕内力士では最軽量の近江富士に、寄り、押し主体の相撲はまだ取れない。スピード。ここぞというときの勝負勘。そして、かつて150キロのスピードボールを投げた右腕から繰り出す上手投げ。これが今の近江富士の相撲だ。とにかく右上手だ。右上手がほしい。近江富士はそう思った。

 それにしても、初場所、そして春場所の金の玉との対戦の際も感じた、あの土俵上の感覚を、明日また味わうことになるのだろうか。近江富士は、恋人とのランデブー前夜にも似た、ときめきを覚えた。






 羽黒蛇関と初日にいきなり合うのか。

 豊後富士の胸は高鳴った。

自分は時代を担う力士になる。豊後富士にはその思いが強い。これだけの美貌の持主だ。そういう運命をもっていないはずがないではないか。

 今場所横綱を倒せば、十八歳六ヶ月での金星獲得。貴花田の記録を三ヶ月更新しての新記録である。来場所でもまだ新記録になるが、来場所は、俺は三役に昇進しているから、もう金星を得ることはできない。今場所が唯一のチャンスだ。十両昇進、幕内昇進では貴花田の記録を更新することができなかった。豊後富士は悔しかった。すべての最年少記録を更新するつもりだったからである。

 貴花田の初金星は、優勝三十一回の大横綱、千代の富士との唯一の対戦という歴史的一番で獲得したものだった。奇しくも同じ、夏場所の初日。

 明日、俺が羽黒蛇関に勝ったら。それは千代の富士-貴花田戦をも超える歴史に残る一番になる。羽黒蛇関の連勝記録を四十でストップさせることになるのだから。








 ああ、あの感覚だ。また、やってきた。近江富士は感じた。土俵にあがる前、金の玉とどういう相撲を取るか、近江富士は色々と考える。

 土俵下で、東の控えに座る金の玉の姿を見る。金の玉が、自分のほうを見ている。その視線は実に穏やかだ。勝敗の場に臨む勝負師の目とはとても思えない。自分を凝視しているわけでもない。彼は対戦相手ではなく、もっとはるかなものを見ているのだろう、近江富士はそんなことも思った。

 金の玉の姿を見ている内に、どういう相撲を取るかという思いが、脳裏から去っていく。






「ひが~~し~~、きんの~~た~~ま~~」「に~~し~~、おおみ~ふ~じ~~。」

呼出しが両力士を呼び上げる。金の玉と、近江富士が土俵にあがった。金の玉も、近江富士も高々と伸びやかに四股をふむ。

 仕切が続く。金の玉の仕切姿は、羽黒蛇のそれと同様、今や国技館の呼び物のひとつだ。静かなたたずまい。無駄な動きはいっさいない。これ以上削ぎ落とすことはできないであろう、という必要最小限の動きだ。そして動作は実にゆったりしている。仕切の最後に呼出しから差し出されるタオルを手にすることもない。だいいち彼は、本場所の土俵上で全く汗をかかない。

 本来、極めて三枚目的な四股名も、この仕切を見せられると、そんなつまらないことで揶揄することが、愚かなことと思わせられてしまう。

今、その四股名は、変な連想をもたらすことなく、元々の字義通りに受け取られている。

金色に輝く玉。美しい四股名である。

そして、征士郎。響きがよく、決然とした印象を与える美しい名前である。

金の玉征士郎、その名は崇高なものとなり、神韻を帯びる。






 近江富士は、他の力士との対戦の時は自分のペースで仕切る。しかし、金の玉とのときは、いつの間にか自分の仕切のペースが金の玉に同調していることに気付く。勝つとか、負けるとか、そんなことにこだわっている自分がばかばかしくなってくる。ただ、この男とふたりで、この土俵の上で、美しい時間を過ごしたいと思う。






 立ち上がった。はっと気が付き、右上手を取りに行こうとするが、そのときには、もう土俵の外に押し出されていた。

 礼をして土俵から降り、近江富士は夢から醒めたような気分になった。

今場所も、まるで相手にならなかったか。俺が、あの男に勝つ日はやってくるんだろうか。

 悔しくない、と言えば嘘になる。だが、それ以上に、何やら清々しい気持ちになっている自分に気が付く。いい夢を見させてもらった。そんな気持ちだった。











野望は潰えた。天才美少年力士、豊後富士は、羽黒蛇に対し、立ち合いで当たってから突っ張り、いなして右上手を取り、自分充分の左四つに持ち込んだ。よし、と思い、寄った瞬間、横綱の左からの掬い投げで、土俵に裏返った。






初日の取組結果(数字は幕内での対戦成績)

  勝              負

金の玉 (一勝) 1(押出し)  0 近江富士(一敗)

緋縅  (一勝) 3(寄切り)  1 神剣  (一敗)

荒岩  (一勝) 2(浴びせ倒し)1 獅子王 (一敗)

早蕨  (一勝)10(突き落とし)5 芙蓉峯 (一敗)

若吹雪 (一勝) 1(寄切り)  0 竹ノ花 (一敗)

伯耆富士(一勝) 4(切り返し) 0 曾木の滝(一敗)

玉武蔵 (一勝) 4(はたき込み)2 若飛燕 (一敗)

羽黒蛇 (一勝) 1(掬い投げ) 0 豊後富士(一敗)








二日目、波乱が起こった。玉武蔵と豊後富士の結びの取組。立ち合いから、玉武蔵は、豊後富士の顔面を張りまくった。美貌の力士、豊後富士はその美貌への攻撃をいやがるかと思われたが、そんなことはなかった。玉武蔵の豪腕をかいくぐり、なんとか懐に飛び込もうとする。そうはさせじとさらに突っ張る玉武蔵。激しい攻防が続いた。古老の中には、昭和三十年夏場所千秋楽、伝説の栃錦―大内山戦を見るようだったと振り返る人もいた。

豊後富士がようやく組み止めたが、両上手を引きつけ、玉武蔵は一気に土俵際に攻め込んだ。ここで豊後富士は、玉武蔵の巨体を腰にのせ大きく右から下手投げを放った。左の上手から潰そうとする玉武蔵。ふたりは同時に落ちたかとみえたが、玉武蔵が一瞬、早かった。豊後富士は顔面から飛び込んだ。

勝ち名乗りを受ける豊後富士の顔面は玉武蔵に張られ、真っ赤になっていた。左の顔面から流血。乱れた大銀杏で勝ち名乗りを受け、すっくと立ち上がる豊後富士。その立ち姿の美しさ。颯爽、少年美剣士、豊後富士照也。男一代の晴れ姿。

十八歳六ヶ月。金星獲得最年少記録である。






玉武蔵は、西の支度部屋に引き上げた。一番奥にどっかりと座る。一番負けたくない相手に負けてしまった。悔しい。記者連中が、玉武蔵を取り囲み、色々と質問を浴びせかけてくるが何も答えたくない。

その記者の集団の後ろに、大柄な相撲取りの姿がのぞいた。弟弟子の関脇荒岩である。見ると彼の付け人も全員付いてきていた。

横綱は、いつものように四股名ではなく、荒岩の本名で呼びかけた

「荒井か。何をしている。お前の支度部屋は東だろう」

「大将、残念でしたね。」

「おお、お前が仇をうってくれ」

「はい、豊後関とは序盤で顔が合うでしょう。必ず、勝ちます」

「頼むぞ。それを言うためにわざわざ残ってくれていたのか」

「いえいえ。大将、今夜は行かれるんでしょ」

「うん?」

「負けた時はベルサイユですよね」

「ああ、あそこのポンパドール夫人は、慰め上手だからな。またやる気にさせてくれる」

「行きましょう、ベルサイユへ。不肖荒岩亀之助、お供させていただきます」

「よし」

玉武蔵は、自分の付け人のほうを見やった。

「おい、ベルサイユに予約の電話を入れろ」

玉武蔵と荒岩の付け人全員から歓声が起こった。

横綱も荒岩関も、そこに行くときは、付け人全員に個室をおごってくれる。今夜は超高級ソープだ。






「横綱。今夜も吉原ですか。いいですね」

「おう、記者さんたちも一緒に行きますか」

「いえ・・・私たちはこれからが忙しいので、ちょっと」

とはいえ、サラリーマンの身の上では、とても行くことなど不可能な超高級ソープ様である。

もし、横綱がおごってくれるというのなら。仕事だって、締切だって、あとは野となれ山となれ。

行きたい。

だが、相撲取りは「ごっつぁん」である。

おごられるのが当たり前で、おごる、という生活習慣を持っている相撲取りなどいないはずだ。

この話はあぶない。

集まった記者たちは、暗黙の内にお互いの眼と眼を交わし、横綱の誘いを見送った。が、最近、相撲担当になり、そういう相撲界の慣習をきちんと教わっていなかった二人の若い記者が、「仕事は待合室でやればいいや」と、この大男たちの一行に参加した。

ニッポン新聞の清水記者と、さくらスポーツの野口記者である。






この種のお店で、客が、身分と本名を名乗って入店と言うことはあまり考えられないのだが「ベルサイユ」は、伝統のある一流店で、ファンの間では安心できるお店として定評があった。

お馴染み様で、身分のはっきりした人には、つけもOKであり、各種特典が用意されているのであった。

だが、名にし負う吉原の超高級ソープ「ベルサイユ」も、近年はなかなかに経営環境が厳しい。

一流店の格式も擲って「延長時間については、料金50%オフ」「新規お客様をお連れいただいたお馴染み様の入浴料の30%オフ」の二大キャンペーン実施中である。

今期の業務目標は、「売掛金の迅速な回収」である。その目標を達成するための具体的な行動指針として掲げたのは「ことのあった翌日に、お客様に請求書を送ろう」であった。この行動指針に従って、「ベルサイユ」から、ニッポン新聞の清水記者と、さくらスポーツの野口記者宛に、力士の分も含めた総額が等分された額面の請求書が送付された。

尚、二大キャンペーンについては、前者は一行の全員がその適用を受けたが、後者は記者二名と、力士の中で、最近入門した一名の計三名が、新規お客様なのであったが、当の連れてきたお馴染み様が、受付へのその旨の書面提出を怠ったので、適用はされなかった。






作者は、先程、不正確なことを書いた。

横綱も荒岩関も、そこに行くときは、付け人全員に個室をおごってくれる。という箇所である。

おごるのは、横綱と荒岩に同行する、そのときどきの後援者である。

横綱も荒岩も、後援者と付き合い、その種の場所に行くことになった場合は、後援者から渡されたご祝儀から、その分に相当する金額を付け人頭に渡し、お前たちも遊んで来い、と言ってくれる。あるいは後援者に、付け人たちもみんな遊ばせてあげないといけない、という気持ちになるような会話をする、と書くのが正しかった。






 二日目の取組結果(数字は幕内での対戦成績)

 勝                    負

近江富士(一勝一敗)1(上手出し投げ)0 満天星 (一勝一敗)

金の玉 (二勝)  1(押出し)   0 優翔 (  二敗)

荒岩  (二勝)  3(押出し)   0 神剣  (  二敗)

緋縅  (二勝)  4(寄切り)   1 獅子王 (  二敗)

伯耆富士(二勝)  7(はたき込み) 2 芙蓉峯 (  二敗)

早蕨  (二勝)  8(突出し)   1 若飛燕 (  二敗)

若吹雪 (二勝)  3(寄切り)   3 曾木の滝(  二敗)

羽黒蛇 (二勝)  1(寄切り)   0 竹ノ花 (  二敗)

豊後富士(一勝一敗)1(下手投げ)  0 玉武蔵 (一勝一敗)






 三日目の取組結果(数字は幕内での対戦成績)

 勝                     負

近江富士(二勝一敗) 1(送り出し)  0 北乃王 (二勝一敗)

金の玉 (三勝  ) 1(押出し)   0 光翼  (二勝一敗)

芙蓉峯 (一勝二敗) 3(寄り倒し)  1 緋縅  (二勝一敗)

荒岩  (三勝  ) 3(寄切り)   1 曾木の滝(  三敗)

若吹雪 (三勝  ) 1(突出し)   0 豊後富士(一勝二敗)

伯耆富士(三勝  ) 4(寄切り)   2 獅子王 (  三敗)

早蕨  (三勝  )13(押出し)   4 神王  (一勝二敗)

玉武蔵 (二勝一敗) 1(寄切り)   0 竹ノ花 (  三敗)

羽黒蛇 (三勝  ) 9(寄切り)   0 若飛燕 (  三敗)






四日目の取組結果(数字は幕内での対戦成績)

  勝              負

近江富士(三勝一敗) 1(寄り倒し)  0 翔翼  (二勝二敗)

金の玉 (四勝  ) 1(押出し)   0 若旅人 (三勝一敗)

荒岩  (四勝  ) 4(突出し )  2 若飛燕 (  四敗)

曾木の滝(一勝三敗) 4(外掛け)   3 緋縅  (二勝二敗)

早蕨  (四勝  ) 1(突き落とし) 0 豊後富士(一勝三敗)

若吹雪 (四勝  ) 5(寄切り)   2 神剣  (  四敗)

伯耆富士(四勝  ) 1(打棄り)   0 竹ノ花 (  四敗)

羽黒蛇 (四勝  )21(上手投げ)  3 芙蓉峯 (一勝三敗)

玉武蔵 (四勝  )20(押出し)   1 獅子王 (  四敗)






五日目の取組結果(数字は幕内での対戦成績)

  勝                   負

近江富士(四勝一敗) 1(上手投げ)  0 青翔  (三勝二敗)

金の玉 (五勝  ) 1(押出し)   0 神翔  (四勝一敗)

緋縅  (三勝二敗) 6(寄切り)   2 若飛燕 (  五敗)

豊後富士(二勝三敗) 1(寄切り)   0 荒岩  (四勝一敗)

伯耆富士(五勝  ) 5(内無双)   2 神剣  (  五敗)

竹ノ花 (一勝四敗) 1(押出し)   0 早蕨  (四勝一敗)

若吹雪 (五勝  ) 6(はたき込み) 0 獅子王 (  五敗)

玉武蔵 (四勝一敗)29(寄切り)   2 芙蓉峯 (一勝四敗)

羽黒蛇 (五勝  ) 4(寄切り)   0 曾木の滝(一勝四敗)






 荒岩が、二分を超える大相撲の末、兄弟子の横綱玉武蔵に次いで、豊後富士に敗れた。

取組後、荒岩が付け人を引き連れて西の支度部屋にやってきた。玉武蔵と荒岩は、お互いに黙って頷きあった。この菱形部屋コンビは、今や記者の間では秘かに(いや・・・露骨に)「ソープの義兄弟」と呼ばれている。

「記者さんたちも一緒にどうです」

声をかける横綱に応じる記者はいなかった。

 横綱玉武蔵は、自分の後援者の中で、最もスケベな某社社長の携帯電話の番号をプッシュした。






 ところで、例の請求書を受領したニッポン新聞の清水と、さくらスポーツの野口だが(この日の前日に到着)、清水は、送られてきた請求書に仰天し、心を大いに乱したが、場所も終盤に入ったあたりで、上司の笠間におずおずとその請求書を見せ、事情を説明した。

笠間は、自分も相撲を担当した経験があった。部下に対し、あらためて相撲界の慣習を説明した後、当該請求書に関しては、「継続的な取材対象者との、友好な人間関係を構築するための必要経費」という名目で、交際費で処理することとした。

 「天下のお関取とそういうところに一緒に行ったとなれば、本来であれば、こちらからご祝儀をお渡しするのが礼儀だ。まして今回は、相手は横綱と関脇なんだからな。まあ、この件については上に報告しておく。後日、「うちの若い者が、先日、懇ろなお世話になりまして」と言って、あらためてご挨拶となるだろう。うちの西尾社長も相撲はお好きだから、玉武蔵関と荒岩関となれば、「私が行く」と言われるんじゃないかな。その際は、多分、お前と私も同席を仰せつかるだろう。玉武蔵に荒岩か。うちの社長だって、経済界ではそれなりの立場におられる方だ。きっとこれまでの人生で一番高い食事が食べられるぞ」

 清水は、「どうすればいい」と悶々と悩み続けた時間を思い、夢にも思っていなかった結末に狂喜した。

「会食の際は、話の流れ次第では「それでは、今夜も行きますか」となる可能性もあるぞ。・・・いや、どう考えてもそうなるな。社長もそれなりにお好きな方だ。そうか。ベルサイユかあ」

笠間は、とろんとした目つきで、座っていた椅子の背に、深々と身を預けた。

清水記者は、このときほど、ニッポン新聞に入ってよかった、と思ったことはない。






 さくらスポーツは、「事前の申告が無かった」と、この請求書の会社経費としての支払いを却下した。野口は、自分の給料のほぼ二ヶ月分にあたる額を自腹で支払わなければいけない破目に陥った。野口は、結婚二年目、妻帯者である。

「嫁にどう説明すればいいんだ」と暗澹たる気持ちになった。

「巨大な体をしたお兄さんに、だまし取られた」という理由で妻が納得してくれるとは思えなかった。

 この話は、関係者の間にすぐに広まった。






 伯耆富士は「それは充分に殺人の動機になるな」と受け止め、

「ソープ横綱殺人事件」というタイトルが思い浮かんだ。

 だがこのタイトルでは、誰がモデルかあまりにも明らかだ。将来の一代年寄に、こんなことで目をつけられるのは避けておこう、との賢明な判断により、伯耆富士は、このタイトルの小説の執筆については、やはりまだ、一行も書かないうちに断念した。したがって、このタイトルの推理小説も、世に出ることはなかった。



 この話には、聞く人の涙を誘わずにはおかない美しい後日談がある。

二ヶ月分の給与がふっとぶことになった野口記者の元に、その金額を超える額面の商品券が送られてきたのだ。

送付主は、荒岩亀之助。

野口は、結局、収支計算で、二ヶ月分の小遣いにあたる額の利益を得たことになった。

 その利益分は、すべて、妻をなだめるためのプレゼント代で消えてしまったが、記者は、財政破綻を救ってくれたこの関取の、弱冠二十歳の若者とは思えない配慮にいたく感動した。

 野口は、荒岩の元に御礼を言うために赴いた。そのときの話で、あの日、野口が個室でともに時間を過ごしたデュバリー夫人は、かつて、荒岩のお相手をしたこともある女性であったことが判明した。

 ふたりは義兄弟の杯を交わし、終生の友情を誓ったのであった。






六日目の取組結果(数字は幕内での対戦成績)

  勝                   負

近江富士(五勝一敗) 1(上手投げ)  0 神天勝 (三勝三敗)

金の玉 (六勝  ) 1(押出し)   0 早桜舞 (四勝二敗)

荒岩  (五勝一敗) 4(首投げ)   3 芙蓉峯 (一勝五敗)

豊後富士(三勝三敗) 1(下手投げ)  1 竹ノ花 (一勝五敗)

若飛燕 (一勝五敗) 5(蹴手繰り)  3 若吹雪 (五勝一敗)

伯耆富士(六勝  ) 8(吊り出し)  1 神王  (二勝四敗)

早蕨  (五勝一敗) 7(押出し)   2 緋縅  (三勝三敗)

羽黒蛇 (六勝  )13(寄切り)   0 獅子王 (  六敗)

玉武蔵 (五勝一敗) 3(突き倒し)  0 曾木の滝(一勝五敗)






大関若吹雪が苦手力士である小結若飛燕に敗れ、幕内での全勝力士は、羽黒蛇、伯耆富士、金の玉の三人になった。

 中入りの、翌七日目の取組言上で、豊後富士-金の玉の対戦が告げられた。満員の客席から大歓声が起こった。






 豊後富士の左の顔面には、男の勲章ともいうべき、二日目の土俵で受けた傷がまだ残っていた。

 この傷が、自分の男としての、力士としての株を一段と揚げたことを、豊後富士は、充分に自覚していた。相撲のためなら、この美貌を犠牲にすることもいとわない少年力士。なんてかっこいいのだろう。

 支度部屋で、取り囲む記者から豊後富士は、明日の金の玉戦に臨む心境を訊かれた。

 対戦が決まれば必ず、この質問を受けるであろうことはもちろん想像できていた。

 その質問を受けたら、日頃、自分が思っていることを語ろうと豊後富士は決めていた。大きな話題になることは間違いない。

 「僕は、金の玉関の相撲と生き方を否定したいと思っています」

 その答えを聞いた記者たちの眼が輝いた。フンドシ王子が、大きなネタになることは間違いない話をしようとしている。

 「僕は、金の玉関のことは尊敬しています。年上とはいっても、相撲界への入門については、僕よりずっと後輩になるわけですが、あの人の相撲に打ち込む姿勢は凄いと思います。それに、とにかく強いです。もう何度も稽古していますが、僕はほとんど勝てたことがありません」

 正確に言えば、一度も勝ったことがないのだが、まあいいだろう。

 「でも、あの人の相撲を見ていると、息がつまるんです。あの人の相撲は、見ていて面白い相撲ではない。あまりに研ぎ澄まされ過ぎています。金の玉関の、相撲にかける必死な覚悟がそのまま伝わってきて、見る人を緊張させる相撲です」

 記者たちが熱心にメモを取る。

 「僕は、相撲にあまり精神的なものを持ち込んでほしくない。相撲はもっと単純明快なものだと思います。刹那の立ち合いとか言われて、ずいぶん騒がれていますが、相撲をそんなに窮屈にとらえることはないと思います。金の玉関は、相撲漬けの毎日を送っているようですが、それで楽しいんでしょうか。

 僕にはできないですね。

 稽古するときは、一生懸命稽古する。鍛えて、鍛えて、強くなる。そして、遊ぶべきときは遊ぶ。僕はそれでいいと思います。」

記者から確認の声が出た。

「関取。このコメント、記事にさせていただいて、いいのですよね」

「いいですよ。金の玉関に対する挑戦状と受け取ってください。もっとも今の段階では、まだあの人には勝てないと思います。でも二年後、三年後には、そうはいかないと思っています」

 よし、言うべきことを言った。フンドシ王子は顔が良いだけでなく、勝負根性もある。その上、きちんと自分の意見を語ることができる、と。いいね、いいね、僕。それに最後は、明日負ける予防線もちゃんと張っておいたし。二、三年の内には勝たないといけなくなっちゃったけど、それだけあれば、間違って一番や二番は勝てるだろう。

 が、豊後富士の中には、忸怩たる思いもあった。自分は、時代を担う運命をもった力士だという信念があったが、同じ時代にあの男がいるのであれば、自分は時代のNo.2にしかなれないではないか。

 でも、そんなことはないのではないか、とも豊後富士は思う。

 相撲の稽古と言うものが、どれほど短時間での集中を要するものか。そしてそのあと体を休めることもまた、不可欠なことのはずである。伝え聞くことをそのまま受け取れば、金の玉関は、毎日、自分の何倍もの時間の稽古をし、稽古以外の時間も相撲のことを考え続けているということになる。そんな生活を続けていれば、そう遠くない時期に、あの人は壊れてしまうのではないだろうか。

二年後、三年後には、そうはいかない、か。だが、あの力士にそれだけの時間が残されているのだろうか。

 時代を担うこの僕の前に輝いた、一陣の風、一瞬の光。それがあの人の運命なのではないだろうか。

 それは、自分自身を納得させるため、豊後富士が無理矢理に考え出したことである。が、その考えはそうはずれてはいないのではないだろうか。彼はそう思った。






豊後富士が記者に語ったコメントは、直ちにインターネットにアップされた。






「征士郎、入るぞ」

そう断って、武庫川親方が、金の玉の部屋に入ってきた。

親子であっても、このふたりの間に、普段、会話はほとんどない。

武庫川は、息子を見ていて、痛ましくて仕方がない。

なぜ、こんな生き方しかできないのか。

 征士郎の大相撲界への入門が決まると、武庫川は、直ちに瀬戸内部屋を出て、独立した。

師匠ひとり、弟子ひとりの武庫川部屋。

この行為については、協会の内外からずいぶんと批判を受けた。

「それまでずっと瀬戸内部屋で厄介になっていながら、超有望力士を自分ひとりで囲い込むための忘恩行為」と。

そしてその理由が、金の玉に、関取ではない若い衆が行わなければならない、付け人としての雑務をさせないためであるということが知れ渡ってからは、その批判の声はさらに大きくなった。

相撲界の長きにわたる伝統を無視する行為である、と。修行経験のない関取など、存在させたらいけない、と。

しかし、我が息子は、そんな世間の常識とはかけはなれた人間だ、ということが、父である武庫川にはよく分かっていた。

征士郎は、いつも相撲のことしか考えていない。相撲に憑かれた男だ。それ以外のことなど何もできない。付け人の仕事などできるわけがない。

息子は・・・。武庫川は認めざるをえない、相撲以外のことについては無能力者であり、生活不適格者であると。

幼いころはそうではなかった。弘子が家にいた間は、明るくて活発な子だった。弘子が家を出てからは、母のことを思ってよく泣き、いつも自分にくっついていて、随分と甘えん坊になったが、境遇を考えれば、それは仕方がないことだろう。生活に関しては、母親がいない分、自分のことに関しては、むしろ他の同年代の子よりも、しっかり自分でやっていた。

変わったのは。そう、小学校六年生になった春からだったろう。相撲の稽古に臨む態度が、それまでより、さらに一段、真剣になった。そして、その分、その他のことに関しては、えらく無頓着になった。

中学時代、よく、学校の先生から注意を受けた。学校のなかで、他の生徒から浮いていて、ひとりでいることが多く、集団生活になじめないのではないかと。

でも、その段階では、中学を卒業して、相撲界に入門し、部屋で若い衆としての厳しい生活を送れば、それで矯正されるだろうと多寡をくくっていた。

高校に入ったら、さらにひどくなった。学校にも行かないようになったし、高校の相撲部にも行かず、瀬戸内部屋でただひたすら稽古に励む毎日だった。高校時代、色々な大会で、優勝したけれど、相撲部の他の連中とは、その大会のときに一緒に出場するだけで、普段は、ほとんど交流はなかった。






師匠ひとり、弟子ひとりの部屋。

征士郎を、それでも人間としての生き方をさせてやろうと思えば、こうするしかなかった。私が保護してやらなければ、息子は生きていくことなどできないのだ。

幸い、幼少時代から征士郎を見続けてきている瀬戸内親方も、征士郎がどういう人間かは理解してくれていた。

それにしても、と、武庫川は思う。征士郎のあの研ぎ澄まされた相撲が、そして、ひとつのことだけに憑かれてしまった生活が、いったい、いつまで続けられるというのだろう。ただのひとりの人間の精神と肉体の、その限界は、いったい、いつやってくるのだろう。

武庫川は、もうそう遠い日ではないであろう崩壊の予感におののいていた。



 武庫川は、征士郎に、豊後富士の談話の概略を伝えた。豊後富士は、無意識であろうが、征士郎の相撲と生活の本質をつかんでいた。

 それを伝えたら、征士郎が何か反応を示さないか。あるいは、自分自身のことを考えてみる、その契機にでもならないだろうか。






 征士郎は、父の話を聞き終えると、ぽつんとつぶやいた。

「そう、豊後関が、そんなことを言っていたの」

しばらく待った。が、息子は黙ったままだった。やはり何も話さないか。

武庫川が、あきらめて引き揚げようとしたとき、

 征士郎がまたぽつんと言った。

「僕は平凡な男だから。才能なんてない。ただの男がはるか高くまで昇りたいと思ったら・・・」

 征士郎は、それ以上は、何も言わなかった。

「父さん」

「ん」

「四股をふんでくる」

武庫川部屋に土俵はない。朝稽古は、瀬戸内部屋に出かけている。

しかし、征士郎は、本場所中の夜も、思い立てば近所の公園に行き、四股をふみ、古木に向かっての鉄砲を繰り返す。

「征士郎」

武庫川は叫んだ。

たったひとりの息子に、そしてたったひとりの家族に、背中から抱きついた。

「もう、やめよう。やめてくれ征士郎。相撲だけが、相撲だけが人生じゃないんだ。才能がないのならそれでいいじゃないか。豊後関も言っていただろう。楽しんだらいいじゃないか。何かほかのこともやってくれ。横綱だって、大関だって、みんな相撲だけじゃないぞ。ちゃんと楽しくやっているじゃないか。普通に、真面目に稽古して。それで行ける場所までいけたら、それでいいじゃないか」

 息子が振り返った。

「父さん、ごめん」

またぽつんとつぶやいた

「僕は、相撲しかできないんだ」











七日目の取組結果(数字は幕内での対戦成績)

  勝                   負

近江富士(六勝一敗) 1(上手投げ)  0 萌黄野 (五勝二敗)

金の玉 (七勝  ) 1(押出し)   0 豊後富士(三勝四敗)

曾木の滝(二勝五敗) 2(寄切り)   3 獅子王 (  七敗)

荒岩  (六勝一敗) 2(寄切り)   0 竹ノ花 (一勝六敗)

早蕨  (六勝一敗)11(送り倒し)  4 芙蓉峯 (一勝六敗)

若吹雪 (六勝一敗) 5(割出し)   2 緋縅  (三勝四敗)

伯耆富士(七勝  ) 6(引き落とし) 1 若飛燕 (一勝六敗)

玉武蔵 (六勝一敗)26(吊り出し)  1 神王  (二勝五敗)

羽黒蛇 (七勝  )18(寄切り )  0 神剣  (一勝六敗) 






八日目の取組結果(数字は幕内での対戦成績)

  勝                   負

近江富士(七勝一敗) 1(押出し)  0 神天剛 (五勝三敗)

松ノ花 (六勝二敗) 2(寄切り)   0 豊後富士(三勝五敗)

曾木の滝(三勝五敗) 3(突き落とし) 4 若飛燕 (一勝七敗)

金の玉 (八勝  ) 1(押出し)   0 荒岩  (六勝二敗)

伯耆富士(八勝  ) 1(寄切り)   0 北斗王 (四勝四敗)

早蕨  (七勝一敗) 9(押出し)   4 神王  (二勝六敗)

若吹雪 (七勝一敗) 8(寄切り)   2 芙蓉峯 (一勝七敗)

羽黒蛇 (八勝  ) 9(押出し)   0 緋縅  (三勝五敗)

玉武蔵 (七勝一敗)19(寄切り)   5 神剣  (一勝七敗)






九日目の取組結果(数字は幕内での対戦成績)

  勝                   負

近江富士(八勝一敗) 1(上手投げ)  0 若旅人 (六勝三敗)

若飛燕 (二勝七敗) 2(突出し)   0 竹ノ花 (二勝七敗)

曾木の滝(四勝五敗) 1(上手投げ)  0 豊後富士(三勝六敗)

伯耆富士(九勝  ) 6(上手出し投げ)1 緋縅  (三勝六敗)

金の玉 (九勝  ) 1(押出し)   0 早蕨  (七勝二敗)

玉武蔵 (八勝一敗) 6(寄り倒し)  2 若吹雪 (七勝二敗)

羽黒蛇 (九勝  ) 6(上手投げ)  0 荒岩  (六勝三敗)






十日目の取組結果(数字は幕内での対戦成績)

  勝                   負

近江富士(九勝一敗) 1(寄切り)   0 早桜舞 (七勝三敗)

竹ノ花 (三勝七敗) 1(はたき込み) 0 曾木の滝(四勝六敗)

芙蓉峯 (二勝八敗) 3(突き落とし) 2 若飛燕 (二勝八敗)

荒岩  (七勝三敗) 5(上手投げ)  1 神王  (二勝八敗)

緋縅  (四勝六敗) 1(押出し)   0 豊後富士(三勝七敗)

金の玉 (十勝  ) 1(押出し)   0 若吹雪 (七勝三敗)

羽黒蛇 (十勝  )18(寄切り)   2 早蕨  (七勝三敗)

伯耆富士(十勝  ) 5(下手投げ)  7 玉武蔵 (八勝二敗)






十一日目の取組結果(数字は幕内での対戦成績)

  勝                   負

豊後富士(四勝七敗) 1(突き倒し)  0 若飛燕 (二勝九敗)

曾木の滝(五勝六敗) 2(寄切り)   0 松ノ花 (七勝四敗)

荒岩  (八勝三敗) 1(寄り倒し)  0 近江富士(九勝二敗)

金の玉 (十一勝 ) 1(押出し)   0 伯耆富士(十勝一敗)

早蕨  (八勝三敗) 8(押出し)   5 神剣  (三勝八敗)

玉武蔵 (九勝二敗) 6(押出し)   0 緋縅  (四勝七敗)

羽黒蛇 (十一勝 )10(寄切り)   1 若吹雪 (七勝四敗)






十二日目の取組結果(数字は幕内での対戦成績)

  勝                   負

豊後富士(五勝七敗) 2(外掛け)   0 光翔  (七勝五敗)

曾木の滝(六勝六敗) 2(寄切り)   2 神剣  (三勝九敗)

若飛燕 (三勝九敗) 4(引き落とし) 3 獅子王 (一勝十一敗)

緋縅  (五勝七敗) 1(寄切り)   0 松ノ花 (七勝五敗)

伯耆富士(十一勝一敗)5(寄切り)   2 荒岩  (八勝四敗)

若吹雪 (八勝四敗 )6(寄切り)   6 早蕨  (八勝四敗)

羽黒蛇 (十二勝  )1(上手投げ)  0 近江富士(九勝三敗)

金の玉 (十二勝  )1(押出し )  0 玉武蔵 (九勝三敗)






横綱羽黒蛇と、金の玉は、十二戦全勝同士で、十三日目の結びの一番で顔を合わせることになった。






その前夜、

横綱羽黒蛇は、彼のマンションの居室にいた。彼は、本場所中、外出することはほとんどない。いつもの東京場所であれば、彼は、夜はこの居室で、AKB48の映像を見て、心をリラックスさせる。

だが、この夏場所では、彼が毎日見ているのは、美少女の集団ではなく、ひとりの若者の映像だ。






金の玉征士郎。この夏場所の取組映像。

羽黒蛇は、この男は、またさらに強くなっている。と思う。






少年時代に羽黒蛇が、近所にあったクラブに入り、相撲を取り始めて何ヶ月かたったころ、彼は、貴乃花光司の相撲の映像を見る機会があった。

彼が、横綱になる直前の場所の映像だった。

対戦相手が攻め込む。上半身は相手の動きに応じているが、下半身は乱れない。流れのままに対応している内に、いつの間にか、相手は土俵際に追い込まれている。貴乃花は、そっといたわるかのように、土俵の外に運ぶ。

少年羽黒蛇は驚愕した。相撲を始め、その世界に深くのめりこむようになった彼は、よほどの力量の差が無ければこの相撲は取れない、と思った。

この相撲こそ、自分が目指すべき理想の相撲。掲げた目標に向かって、羽黒蛇はひたすら修行を重ねた。いかなる相手の動きに対しても柔軟に対処し、相手を包み込み勝利を得る円の相撲。ようやくその相撲を完成させることができたと自覚した時、彼の連勝が始まった。






金の玉の相撲は、相手のことなど何も考えない。ただひたすら自分を貫く相撲だ。いっさいの無駄を排除して、単純に必要最小限の動きで勝利する、直線の相撲。

相手がどんな力量であっても、どんな相撲を取ろうとも、この一本調子の相撲を貫き通す。

それにしてもと、羽黒蛇は思う。

なんという体の動きだ。その全身の力が、いっさい放散されることがなく、ただ「押す」という一点に集中されている。人とはこんな動きができるものなのか。これは神の領域に達した人間の動きではないのか。

ただの人に対して、簡単に神などと言う表現はしたくない。しかし、この私は、人として力士の最高の領域まで達することができた、と自負している。それを超えるものを見せられてしまったら、神と表現するしかないではないか。

私は、これまでの人生を振り返って、この私ほど相撲のことを考え続け、相撲と言うものを深く理解することができた男はいないと思っていた。

だが、この男は、その十九年間の人生で、私よりもさらに深く相撲と関わってきたのだろう。そうでなければ、こんな相撲が取れるわけがないではないか。

この男の強さは、こんな高みまで達してしまったのか。






先の後の先の立ち合いか。あれは、たかだか三週間ほど前のことだった。元々、本場所であの立ち合いをするつもりはなかったが、仮に今、あの立ち合いをしても、もうこの男には勝てないだろう。






なぜ、ここまで強くなったのだろう。ただひたすら相撲の修行に打ち込み続けた男が、十八歳、十九歳とだんだんと大人の体になっていったから、ということか。

では、この男は二十歳、二十一歳、二十二歳と年齢を重ねるにしたがって、さらに強くなっていくのか。いや、それはありえない。と羽黒蛇は思う。

この男の強さは、もう神の領域に達した。人としての肉体と精神をもっているものが、神の領域に達してしまったら・・・・・・その身はもう滅びるしかないだろう。






明日の対戦は、本場所における、私と金の玉とのたった一度きりの対戦になる。羽黒蛇はそう予感した。やがてその予感は確信に変わった。






明日、私はどういう相撲を取るのか。

羽黒蛇は決心した。

受けよう。受けて、受けて、受け切ろう。

人として、最高の力士として、誇りをもって神の押しを受け止めよう。わが身が堪え得るその瞬間まで。






武庫川親方は、ひとり息子の部屋にはいった。

豊後富士との相撲に勝利し、そのあと、関脇、大関、横綱と、対戦相手の地位が上がっていっても、我が息子は、勝ち続けた。

強豪、強豪、さらなる強豪と。相撲を取るたびに、征士郎のたたずまいから、現実感が薄れていく。我が子はまだ、この現実の世界を認識しているのだろうか。その心はもう、別の世界に行ってしまっているのではないのだろうか。

又造は息子と何か話がしたかった。相撲のことや、人生がどうとか言ったことではなく、そこらに転がっているようなごくごく平凡なことを話したかった。

だが、征士郎と、いったいいつそんな話をしただろう。

又造は、ずっとその部屋にいた。

征士郎は、又造が同じ部屋にいることさえ意識してはいない。

又造は、たとえ何も話すことができなくても、無言で、ただひたすら精神を集中させ続けている息子のすぐそばで、同じ時間を過ごしたかった。











 土俵の向こうに、金の玉征士郎が、静かに座っていた。

 この男はこんな顔をして、呼び上げを待っているのか。羽黒蛇はそんなことを思った。

立呼出しが、羽黒蛇と金の玉の四股名を呼び上げる。

 地を震わすような大歓声が轟く。

 東横綱、羽黒蛇六郎兵衛、五十二連勝。

 東前頭十六枚目、金の玉征士郎、初土俵以来三十四連勝。

ついにそのときがきた。






 土俵に上がる。

 相対して礼をする。

力水を受ける。

塩を手に取り、蹲踞をして、背中で立行司の結びの一番の呼び上げを受ける。

塩を撒く。

塵手水を切る。

再び塩を取り、塩を撒く。

土俵中央で相対して四股をふむ。

 羽黒蛇と金の玉。ふたりのすべての所作がぴたりと合っていた。

 羽黒蛇は目に映っていようが、映っていまいが、金の玉の動きを、その呼吸にいたるまでを、全身で感じ取った。

 また塩を取りに行く。土俵に向かって振り返る。

 金の玉も同じタイミングで振り返っていた。






 土俵の上にいる行司が消える。

土俵を掃く呼出しが消える。

土俵の下にいる、勝ち残りと負け残りの力士が消える。

検査役が消える。

すべての観客が消える。






この広い天と地の間で、存在するのは、ただ彼と我のふたりのみ。

そうか、金の玉征士郎よ。お前は、こんなところまで私を連れてきてくれたのか。






最後の仕切。

両手をつく。

静止する。

立ち合う。

後刻の確認によっても、刹那の差もない同時の立ち合い。

当たる。

金の玉が押す。

羽黒蛇が受ける。

土俵際までしばしの距離を残して止まった。

両力士の静止時間は六秒に及んだ。後に「凍結の六秒」と称される時間である。このときの、押し込む金の玉と、受け止める羽黒蛇の姿は、相撲の攻防の理想の型が具現化した姿として、その映像、画像は、様々な場所で引用されることになる。

金の玉は押した。おのれの十九年の人生を。相撲のことを思い続けた精神と、鍛え続けた肉体の、そのすべてをこの刹那にかけて。

羽黒蛇は受けた。おのれの二十六年の人生を。相撲のことを思い続けた精神と、鍛え続けた肉体の、そのすべてをこの刹那にかけて。

だが、羽黒蛇の精神と肉体は、その最も深い場所で、明日も、そしてその先も相撲を取り続けることを選択した。

凍結の六秒が経過し、時間が再び動き出す。

羽黒蛇がじりじりと下がる。

金の玉は、押して、押して、押し切った。






 羽黒蛇の足が、土俵の外にでるやいなや、金の玉の動きはぴたりととまった。これまで勝利しつづけた三十四番と同様、金の玉の体は、土俵の俵の中に残った。

 そのまますっくと立ち、土俵の外から、土俵に上がろうとする羽黒蛇に手を添えた。



 対戦を終えた両力士は、東西に分かれ、礼をする。

 金の玉は、美しい所作で勝ち名乗りを受け、常と変らぬ姿で、支度部屋に引き上げた。






羽黒蛇が土俵を割ったあとの、いつもどおりの金の玉の姿は、彼の肉体が記憶する、力士としての最後の矜持だった。






支度部屋に駆け付けた武庫川親方が見たのは、常の人としての光を完全に失った、ひとり息子の眼だった。

又造は征士郎を抱きしめ、まだ髷の結えないその頭をゆっくりと撫でた。






十三日目の取組結果(数字は幕内での対戦成績)

  勝                   負

豊後富士(六勝七敗) 1(上手投げ)  1 早桜舞 (九勝四敗)

若飛燕 (四勝九敗) 4(引き落とし) 1 北斗王 (六勝七敗)

曾木の滝(七勝六敗) 4(寄切り)   1 神王  (三勝十敗)

緋縅  (六勝七敗) 1(寄切り)   0 竹ノ花 (四勝九敗)

荒岩  (九勝四敗) 3(寄切り)   4 若吹雪 (八勝五敗)

伯耆富士(十二勝一敗)8(首投げ)   4 早蕨  (八勝五敗)

玉武蔵 (十勝三敗 )1(突き倒し)  0 近江富士(九勝四敗)

金の玉 (十三勝  )1(押出し)   0 羽黒蛇 (十二勝一敗)


















夏場所が終わり、金の玉の病状が明らかにされた。再起不能になったというニュースが全国に流れた。

父である武庫川親方から、金の玉征士郎の引退届が提出された。






相撲協会は、特別な措置として、夏場所の星取表の十四日目に記された、金の玉の不戦敗の記録を抹消すると発表した。

星取表に関して協会が決めたことはそれだけだったが、十四日目の対戦相手となるはずだった曾木の滝から、協会に対して直ちに、

「私の不戦勝の記録も抹消してほしい」

との申し入れがあった。

その白星により、曾木の滝は、初めて三役で勝ち越すことになったわけだが、協会は、瀬戸内部屋に入門以来、成長し続ける征士郎少年の、稽古相手をずっと勤め続けてきた男の思いを慮り、この申し入れを受理した。






征士郎の再起不能のニュースが流れた翌日。

出奔していた弘子が、十四年ぶりに又造の元へ帰ってきた。

又造は、弘子を責めた。

「なぜ、征士郎がこうなる前に戻ってきてくれなかった。あいつはな。入門するとき、四股名をどうするか尋ねた俺に「金の玉」と躊躇なく答えたんだぞ。お前が受け狙いの冗談で思いついた四股名を、あいつは「母さんが考えた四股名だから」と言って、それはそれは大切にしていたんだぞ。俺だってお前が出たあとも四股名は変えなかった。どうして俺たちの気持ちを分かってくれなかったんだ」

「あなたが、私が出て行っても、四股名を変えなかったのは知っていたけど、あのころの私は新しく手に入れた自由な生活に夢中で、あなたの気持ちを考えることはできなかった。でも何年かたって、八年前だったと思う。どうしてもあなたたちに逢いたくなって、もう一度一緒に暮らしたくなって、戻ろうと決心したことがあったの。お詫びして、お詫びして、許してください、と頼んで。許してもらえなくても、そのまま居座ろうと考えたわ。でもちょうどそのときに、征士郎が、天才相撲少年と書かれている記事が目に入ったの。今、帰ったら、ずっと放っておいたのに、息子が有名人になったら、すぐ戻ってきたみたいであんまりあざとすぎる、と思って、戻ろうとする自分が許せなくなったの。それからも征士郎は、どんどん有名になっていったから」

あざといのは、お前の持ち味じゃないか。なんで、一番肝心なことに限って遠慮する。

又造はしばらく黙った。

 「弘子」

 「はい」

 弘子が、緊張して又造を見る。

 「よく、戻ってきてくれたな」

 そうか、この人は、こんな場面でこんな台詞を言うんだ。そう、たしかにこの人はこんな人だった。

 「弘子、長生きしてくれよ。俺も長生きする。俺たちは、征士郎より先に死ぬことは許されないんだからな」

弘子はそれ以降、又造以上に、大きな赤ちゃんになってしまった征士郎の面倒を見続けた。






金の玉征士郎が、幕内力士としてたった一場所出場した夏場所の翌名古屋場所、相撲協会審判部は、その番付に、既に引退している金の玉征士郎の名前を残した。






番付表で、息子の四股名の上に記された、自分が届かなかった地位の文字を見て、武庫川親方は肩を震わせて泣いたという。






武庫川部屋は閉鎖されることなく、又造はそれから、入門を志願する弟子を受け入れた。






武庫川部屋に入門した若い力士たちは、朝起きると、先ず、親方夫妻の居室に入り、挨拶をする。

そのあと、夫妻のひとり息子が日常を送っている部屋に入り、挨拶する。

征士郎は、この挨拶に対し、いつも機嫌よさそうに、にこにこと応じた。






やがて、武庫川部屋に稽古場が出来た。部屋は自前の土俵を持った。

親方夫妻は、あるいは息子の正気が戻る切っ掛けにならないか、との儚い望みをかけ、新しくできたばかりの稽古場に、征士郎を連れてきた。

征士郎は、しばらく土俵のほうを見やったかと思うと、怯えたような表情になり、その目からぽろぽろと涙が零れ落ちた。

夫妻は、もう二度と征士郎を稽古場に入れなかった。











力士、金の玉征士郎。






最高位、東関脇。

金星獲得数 二。

殊勲賞 一回。

敢闘賞 一回。

技能賞 一回。

幕下優勝 一回。

十両優勝 一回。

幕内最高優勝 なし。

生涯通算成績 三十五勝無敗。








吉田秀和「相撲は勝ち負けがすべてではない」「わが相撲記」

2012年06月02日 | 書籍、映画、展示会、美術等相撲作品の感想

「相撲は勝ち負けがすべてではない。」吉田秀和2011年(羽黒蛇)






ネット情報で見つけた、2011年2月19日の朝日新聞に、吉田秀和の一文を文末に引用。






「相撲は勝ち負けがすべてではない。」とは、相撲を文化として鑑賞するということ。

私は、このブログで、勝負に関する曖昧さを排除すべきと主張している。

それは、勝負については精緻なルールを決めることが、文化としての曖昧さ「例えば、同部屋は対戦しない。」を文化として残していくために大事だと思うから。 羽黒蛇








大正2年の生まれの吉田秀は、小学校に上がる前に、大工の棟梁から聞いたこんな相撲談義をよくおぼえている。以下引用。

Quote

「坊ちゃんも相撲は好きでしょう?相撲は何たって梅常陸。西と東の横綱が楽日に顔を合わせる。待った数回、やがて呼吸が合って立ち上がると、差手争いで揉み合ったあと、ガップリ四つに組むと動きが止まる。立行司の庄之助がそのまわりをまわりながら『ハッケヨイ』のかけ声も高く気合いを入れるが、小山のような二人の巨体はいっかな動かない。その姿は錦絵そのまま。いや見事なものです。相撲の取組はこう来なくちゃ行けません。」



彼に言わせると、相撲は勝ち負けがすべてではない。鍛えに鍛えて艶光りする肉体同士が全力を挙げてぶつかる時、そこに生まれる何か快いもの、美しく燃えるもの。瞬時にして相手の巨体を一転さす技の冴え、剛力無双、相手をぐいぐい土俵の外に持ってゆく力業。そういった一切を味わうのが相撲の醍醐味。
それに花道の奥から現れ、土俵下にどっかと座り腕組みして、自分の取組を待つ姿から土俵上の格闘を経て、また花道をさがってゆく。その間の立ち居振る舞いの一切が全部大事なのだ。


これがおよそ私の受けた最初の相撲に関するレッスンであり、この時の話は酒臭い息の匂いとともに今も私は忘れない。
(中略)
落日の優勝をかけた熱戦といえば、ある年の大阪春場所での貴ノ花と北の湖の一戦も忘れ難い。当時の北の湖は「憎らしいほど強い」といわれ、実力抜群。一方、貴ノ花は猛稽古で鍛えた強靭な足腰と技の冴え。貴公子然とした容姿で絶大な人気を博していたが。相手の大太刀に対して細身の剣のような感があり、勝つにはどうかと思われたが、それがまた観衆の判官びいきの熱を一層高める。そんな中で、かなり長い攻防の末、勝ち名乗りを上げたのは貴ノ花だった。その時の満場の歓呼、歓喜の沸騰の凄まじさ!あれはもう喜びの陶酔、祭典だった。あとで北の湖は「四方八方、耳に入るのはみんな相手の声援ばかり」と言っていたが、私はTVを前に「北の湖、よく負けた」とつぶやいた。
今、相撲は非難の大合唱の前に立ちすくみ、存亡の淵に立つ。救いは当事者の渾身の努力と世論の支持にしかない。
あなたはまだ相撲を見たいと思っていますか。

Unquote

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吉田秀和「わが相撲記」感想(羽黒蛇)







図書館で、吉田秀和の全集より、相撲の記述を見つけたので、興味深いところを要約・部分引用します。







書籍:吉田秀和全集10



出版社:白水社



発行日:1975年11月25日



317ページ以降に、次の一文。



わが相撲記 文芸春秋 昭和47年10月号



国技館変貌 読売新聞 昭和46年1月27日



番付の擁護のために 朝日新聞 昭和50年7月23日



大鵬引退の報をきいて、その場で 朝日新聞 昭和46年5月15日







私が国技館で初めて相撲をみたのは、大正11年5月場所2日目。



http://sumodb.sumogames.com/Results.aspx?b=192205&d=2&l=j 取組表をリンク







初日に横綱栃木山が阿久津川に敗れた翌日。



めったに負けることがなかった栃木山が初日に負けるとは、まったくありそうもないことだった。







大関常ノ花が阿久津川に負けた一番を見て好きになった時の感情



「今にして思えば、これこそ、私が生涯でいちばん早く経験した情熱の劇だった。」



「人は必ずしも自分で望ましく、願わしいと思う存在を愛するようになるとは限らない。それどころか、初めからこれは不幸の種になるぞと、予感していたにもかかわらず、好きになってしまう。」



「小学から中学の初めにかけての私が、精神のほとんどすべてを傾けて努力したことは、まさに自分がはまりこんだ情熱の克服、それからの脱却にあったといっても、誇張ではない。」



「解決は、彼の引退によって、やっと獲得された。それ以後、私の相撲熱は、減退した。私は救われ、解放されると同時に、情熱を失った。



 私はやっと息をついた。



 だが、このときの私は、まさかまた何十年かの後になってから、またしても、そういう苦しみを味わう羽目になろうとは思ってもみなかった。」







最後の一文は、昭和35年に柏戸のファンになったこと。



筆者は、柏戸が、琴桜・清国を相手に、ものすごい力と力の攻め合いを演じた姿を思い浮かべる。







父は中立親方、現役時代は友綱部屋の後援会にはいっていた。



東京生まれで大関になった伊勢ノ浜。







ラジオもテレビもない当時、国技館からの電話を受け、商店街で力士の木札で表示したので、翌日の新聞より早く知ることができた。



制限時間がないので、いつ木札が表示されるか、待つしかなかった。














「相撲を知らない人は気がつかないだろうが、力士たちが立ち合いの呼吸を担うその微妙さは、超人間的動物的敏感さの絶頂であり、これが勝敗の大部分を決定してしまう。



 相撲ほど一つの呼吸が大切なものは、音楽を別とすれば、ほかに一つもないのではないか。」







相撲場で見られる公衆のあり方について、



「かきつくせないようないろいろな要素が重なり合う中で、一つの微妙な均衡が生まれ、ハーモニーが成立する。」



「そのためには力士をはじめ興行者の側だけでなく、公衆の間にも、ある本能的なものがかよっていて、異物を排し、本当に適したものを選びとり、保存するように働く。」







相撲土産に風呂敷が使われなくなったという「味気ない変化」に疑問を提示したあとに、










「相撲に限らず、およそ歴史があり、ある方向に向かって洗練されてゆく過程の中で、微妙なハーモニーを成立させるのに成功した集合的組織をささえるには、さっきいった本能的選択の力がなければならない。」







「本能とか直感とかいったものは、はっきりしたつかまえどころがなく、たよりにならないようでいて、実はこれほど根の深く強いものはない。」







「つまり、これは、意識的な努力で、育てたり強化したりしようのないものなのである。私の商売にしている音楽でも同じである。」










「私は、相撲がこのまま衰えるのではないかとなどといっているのではない。だが、新しい変化の中には、何か私を不安にするものがあり、もしこの新しいものがまた生き生きとしたハーモニーを鳴り響かす原動力の一つになるとするなら、それはいつ、どんな仕方でだろうか?と、宿題でも渡されたような思いでいる。」







最後の引用は、昭和46年に国技館の壁が猥雑でなくなり、力士のまわしの色が鮮やかになったことを不安に感じた一文。










「相撲は私の好物である。」と書いている筆者は、その魅力について、



「私たちの生活となんの関係のないところに反映されている人生の哀歓の姿、それから土俵をとりまくすべてにつきまとっている一種の祭礼のドラマとでもいった性格が、私にはたまらない魅力なのである。」



「これは、基本的にはこのうえなく簡単で原始的でありながら、しかもすごく洗練された精緻な近代的性格を発展させてきた競技である。」














感想:相撲が文化として継承されるには、相撲が相撲たる伝統を守りつつ、観客に見に来ていただき収入を得る必要がある。収入がなければ、文化としての維持ができない。



吉田秀和が不安を覚えたまわしの色は、カラフルさにより観客が増えたという効果があり、伝統が守られていると感じる。



まわしの色はなす紺か黒という伝統はなくなったが、失ったものより、大きな収入があったと解釈できる。



これからも、試行錯誤して、伝統を変えつつ、収入を維持しなくてはならない。










ファンサービスの議論で、「野球場のようなスクリーンでビデオを見せる」という案が出るが、私は反対。



理由その1:相撲場の文化に似合わない。



理由その2:次の取組の邪魔。



理由その3:携帯電話でNHKの中継を見ることができるので、見たい人はすでに見ている。










羽黒蛇