kouheiのへそ曲がり日記

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Ⅳ 神と人間

2022-02-13 16:24:54 | 日記
社会は諸個人からなるというのは当然ですが、それでも社会はそれ独自の存在様式を貫徹させようとします。
こうして社会は、それを構成する個人にとってしばしば闘争すべき壁として現前するのです。
ですがこの社会と個人の二項対立という図式は、観念の経済とでも言うべきものであり、ことはそれほど単純ではありません。
人間は自己の精神内容を分裂させ、そのなかのある部分をより自己の本質に近いものとして捉える能力をもっています。
それは逆から言えば、自己の精神内容のあまり本質的とは感じられない部分が自分自身の自由を制限する拘束を課していると感じられるということを意味します。
つまり個人の内部に社会が顕現しているのです。

さて社会は、それ独自の存在過程として目標に向かうとき、必要に応じて個人を社会の部分となすことを要請します。
個人に社会の一部分としての機能遂行を要求し、魂に対する拘束を負荷するのです。
ですが人間は絶えず自由を、個人としての自らの魂の自律性を希求します。
この拘束と自由の二律背反を止揚するポイントが神なのであり、神への信仰において信者は、自らの自由意思において拘束生活を生きるのです。
ユートピアかもしれませんが、完全な社会とは完全な個人から構成されているものと言えるでしょう。

では、完全なる個人とは何でしょう?
それは魂が完全に救済された人間です。
では、救済とは何でしょう?
それは魂のもっとも価値ある要素が、精神内部において混交している他の不純物から完全に分離されることです。
そんなことがあり得るか疑問をもたれるかもしれませんが、少なくともキリスト教理念的には、神の家には万人のために場所が用意されており、人間に要求される最高の価値が同時に人間に必要とされる最低限のものであるところから、原理的には可能なはずです。
要するに、陳腐な表現ですが、神の前においてすべての魂は平等なのです。

しかしそれでは、人間の魂の多様性はどのように説明されるのでしょうか?
すべての魂は神の前で平等と言われます。
これを、すべての魂は神の前では一様なものであると解することは誤りでしょう。
というのも一様な魂というものは、すべての魂にとって宥和できない、なにか空々しく、よそよそしいものにすぎず、魂の無価値化と同義だからです。
魂の多様性と平等を同一の理論平面上で両立させるためには、ある理論操作が必要となると思われます。
すなわち、魂の多様性とは価値的差異を意味せず、性質的差異のみを意味するのだと理解すべきなのです。

コメント
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