kouheiのへそ曲がり日記

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Ⅲ 社会生活と宗教

2022-02-12 15:09:15 | 日記
ドイツ語で「信仰」はGlaubenです。
信仰とは宗教生活の特筆すべき契機であると言われます。
ただ宗教的でない一般の社会生活においても、信仰的なものが我々の生活を下支えしています。
それが「信頼・信用Glauben」と呼ばれるものです。
我々の社会生活は信頼・信用なくして成り立ちません。
そしてしばしば信頼・信用は、あらゆる反証の彼岸にあります。
信頼・信用が成り立たないという証拠が提示された場合にも、往々にして信頼・信用は存続しうるのです。

もちろん相対的に宗教的でない社会生活においては、信頼・信用が毀損されることはありますが、それは犯罪の発生率と同じく、一定の割合以下の頻度でしか起こりません。
社会生活が安定している場合、信頼・信用は単なる知識以上のものであり、他者との結びつきを実際以上に修飾するのです。

この信頼・信用が宗教的魂によってくり返し純粋化されたものが信仰なのです。
すなわち自己が他者を信頼する場合、その他者の魂をその信頼によって高めるように、信頼する自己は自らの魂をも純化するのですが――人間は未分化な自己を主体と客体とに自己分離する能力をもち、自身にとってさえ第三者に立ち向かうように振る舞えるのです――その過程が極限まで拡大・絶対化されたものが神への信仰なのです。

ところで、ローマ帝政期においては無数のギルドが成立しましたが、どんな職業のものであれギルドには守護神が祀られ、それぞれ神殿や祭壇をもっていました。
このことは神が社会集団の統一性の表れであることを示しています。
とくにキリスト教においては、愛の貴重性と被願望性という情調の共同的性格から、神への帰依という生の様態が希求され、これが社会の統一性の原因となると同時に結果ともなったのです。

キリスト教の神は愛の神、つまり人格神です。
古代の多神教世界における神々は小型人間的であり、神の絶対性を強調するには汎神論的論理が必要とされましたが、そのとたん神は人格性を剥奪されることになりました。
愛を説くキリスト教は論理必然的に異教徒世界から宗教形式を借用し、これを深化させ、絶対者でありつつ人格をもった神を導出したのです。

愛によって特徴づけられる宗教は「平和」を希求します。
社会のメンバーの活動が競争に陥ることなく協同的に発揮され、目標と利害の調和があますところなく実現される領域は、おそらく宗教世界以外にはないでしょう。

神は共同体の最高のメンバーであり、社会の統一性のなかに生き、その統一性の原因でもあるのです。

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