勝海舟の「氷川清話」をみると、水戸はさんざんにいわれていることが多いようです。水戸に住む私のような人間にとっては、もやもやするところなのですが、発想の柔軟な勝から見ると、原則に固執して突っ走る水戸流は、肌に合わなかったということなのでしょうか。
攘夷論の支柱になったといわれる「新論」を書いた会沢正志斎は、その後、開国が時流であることは分かっていたそうですが、血なまぐさい対立をしていた、天狗党(改革派 尊皇攘夷派)と諸生党(保守派 旧来の重臣中心の治政派)の両陣営にとっては、そうした流れは余り目に入らなかったということなのでしょう。そうした水戸の流れは、勝にとっては不満以上のものだったのでしょうか。写真は、両国公園にある勝海舟のお墓です。
勝が咸臨丸で帰ってくると、桜田門外で井伊大老が殺されたので、水戸人を厳重に取り調べなくてはならないと、捕吏(ほり)が船に乗り込んできたそうです。それを聞いた勝は、アメリカには水戸人は一人もいないからすぐ帰れとひやかして帰らせたそうです。当時の水戸人に対する幕府の様子がよく分かるようです。
勝が、長州征伐の事後交渉を徳川慶喜に命じられた時、慶喜の屋敷に行ったところ、そこにいた原市之進が、ふだんいわないようなお世辞のようなことを言ってきたので、いい加減な返事をしておいたそうです。また、山階宮(やましなのみや)から、西洋の事情を聞きたいとの話があったそうですが、原が口を出したのでだめになったそうです。
徳川斉昭の片言隻語も、当時は大事なものとされたが、今はどうか、斉昭の名前さえも知られていない、ちょっと芝居をやったくらいでは名前は残らない、と勝はいっています。ただし、「まがきのいばら」では、斉昭の激しい表立っての言葉を本意と見る人は政治を知る人ではない、また、斉昭以外の人が斉昭流を行うと破綻するだろうともいっています。
人見寧(後の茨城県令)が若い頃、勝のもとに来て、西郷への紹介状を願ったが、勝はそれに「あなた(西郷)を刺すはず」と書いて渡したそうです。人見はそれを知らずに薩摩へ行き、紹介状をを桐野利秋に渡すと、桐野はひそかにそれを見て、それを西郷に伝えたそうですが、西郷は勝の紹介ならといって平然として人見と会い、天下の形勢など自分には分からないと言って笑ったそうです。気をのまれた人見はすっかり西郷に感服したしまったそうです。
勝は藤田東湖がだいきらいで、御三家という直接幕府に申し入れることのできる立場にありながら、書生を集めて騒ぎ回っている、といって批判しています。勝は、藩主のブレインでは、横井小楠に敬服していたそうです。性格でいうと、横井より藤田の方がずっと魅力的なようなのですが…。