日本最古の歴史を誇り、また国内で最も信頼されていた
「日本紳士録」(交詢社出版局)
が、今から丁度一年前の、2007/4/19に、その月に刊行される第80版を最後に、休刊すると発表された。
昔は紳士録に名前の載っている事が一つのステータスと見られていた。
○○紳士録とか、○○人名録という似たような名のものが幾種類かあって、それらの出版社の内には、地方の名士を訪れて、ある程度の寄付金を出せば紳士録に掲載すると誘ったりする所もあった。
縁談、商談等に当って紳士録に名前が載っていることが信用の尺度として看做されたので、その様にして金を出してでも、紳士録に掲載される事を望む人達が多かったのであった。
交詢社は1880年(明治13年)に福沢諭吉の設立した日本最古の社交団体である。
其処で発行してきた「日本紳士録」は1889年6月に第一版が刊行された日本で最も旧い歴史を持つ紳士録であり、社会的な信用も抜群に高かった。
人名の登載範囲は、政官財界、法曹界、学界、文化芸能界など各界で活躍中の主要人物で、例えば中央官庁ならば本省部長級以上、大學ならば学長、学部長級教授以上、上場企業役員、といった目安であり、その編集も実に良心的に行なわれてきて信頼できるものであった。
改版ごとに記載事項の再確認を行なうのも大変な手数であったと思うが、それだけに内容の確かさは一寸類を見ないものであった。
安物紳士録とは違って、寄付金の多寡で掲載を決めるようなことはなく、
此処に掲載されることは、日本では公認された紳士
として見られるということであり、その様な信頼できる出版物が姿を消した事は誠に寂しい。
ある意味では、福沢諭吉が目指していた文明国「日本」の社会に限界が来たと見られなくもない。
★ ★ ★ ★ ★ ★ ★
これが昨年休刊されるに至ったのは、
2005年に個人情報保護法が施行されて以後、
住所・生年月日などの削除依頼が相次ぎ、紳士録の意味が無くなったことによる、
とされている。
最近では、個人情報の悪用が社会的に増えてきたため、紳士録に限らず、各種同窓会名簿、会員名簿、などで、経歴、住所や電話番号の記載を嫌う人が多くなったのは、確かである。
このため各種人名録が本来の機能を失ってきた。
社会的に実に不都合な事である。
この様な社会一般の事情と、インターネットの普及に依って雑な各種の情報が入手し易くなったことと、の両方の事情で、紳士録の存在意義が消失した。
しかし、この様な社会事情一般を放置しておいて良いものであろうか。
個人情報を悪用する輩が居たら、それを厳しく罰して、その様なことをしないようにすれば良いのであって、悪用する輩が居るからといって、同窓会名簿を廃止するような対処の仕方は好ましくないのでないか。
同様に、全ての社会的に重要な働きをしている人の情報を一切伏せてしまうのはスジが違うのではないか。
例えば、何か非常に重要な情報を偶々入手して、然るべき人物に通報しようと考えた時に、以前ならば紳士録があった。
現在では、打つ手がないのである。
最近の社会では全ての発想がこの様な方向で行なわれているのが、私には間違っているとしか思えない。
例えば、金を目当てに殺人のような悪事を働く者がいるとする。
厳罰を科して、その様なことを考えないようにするのが望ましい、と私は思う。
しかし、現代社会の最も普通の考えは、その悪事を犯したものにも、それなりの事情があるだろうからと、罰を科すよりは先に、本人の都合を考えようとなる。
私は、善意の人が不安なく過ごせる社会を作るのが先であって、自己都合で悪事を働いたものの言い分は後から情状酌量のときに聞いてやればよい、と思う。
死刑廃止論を言うよりも先に、殺人廃止論を言ってほしい。
紳士録の消滅ということから、社会の病根まで考えさせられる最近の世相、である。
「日本紳士録」(交詢社出版局)
が、今から丁度一年前の、2007/4/19に、その月に刊行される第80版を最後に、休刊すると発表された。
昔は紳士録に名前の載っている事が一つのステータスと見られていた。
○○紳士録とか、○○人名録という似たような名のものが幾種類かあって、それらの出版社の内には、地方の名士を訪れて、ある程度の寄付金を出せば紳士録に掲載すると誘ったりする所もあった。
縁談、商談等に当って紳士録に名前が載っていることが信用の尺度として看做されたので、その様にして金を出してでも、紳士録に掲載される事を望む人達が多かったのであった。
交詢社は1880年(明治13年)に福沢諭吉の設立した日本最古の社交団体である。
其処で発行してきた「日本紳士録」は1889年6月に第一版が刊行された日本で最も旧い歴史を持つ紳士録であり、社会的な信用も抜群に高かった。
人名の登載範囲は、政官財界、法曹界、学界、文化芸能界など各界で活躍中の主要人物で、例えば中央官庁ならば本省部長級以上、大學ならば学長、学部長級教授以上、上場企業役員、といった目安であり、その編集も実に良心的に行なわれてきて信頼できるものであった。
改版ごとに記載事項の再確認を行なうのも大変な手数であったと思うが、それだけに内容の確かさは一寸類を見ないものであった。
安物紳士録とは違って、寄付金の多寡で掲載を決めるようなことはなく、
此処に掲載されることは、日本では公認された紳士
として見られるということであり、その様な信頼できる出版物が姿を消した事は誠に寂しい。
ある意味では、福沢諭吉が目指していた文明国「日本」の社会に限界が来たと見られなくもない。
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これが昨年休刊されるに至ったのは、
2005年に個人情報保護法が施行されて以後、
住所・生年月日などの削除依頼が相次ぎ、紳士録の意味が無くなったことによる、
とされている。
最近では、個人情報の悪用が社会的に増えてきたため、紳士録に限らず、各種同窓会名簿、会員名簿、などで、経歴、住所や電話番号の記載を嫌う人が多くなったのは、確かである。
このため各種人名録が本来の機能を失ってきた。
社会的に実に不都合な事である。
この様な社会一般の事情と、インターネットの普及に依って雑な各種の情報が入手し易くなったことと、の両方の事情で、紳士録の存在意義が消失した。
しかし、この様な社会事情一般を放置しておいて良いものであろうか。
個人情報を悪用する輩が居たら、それを厳しく罰して、その様なことをしないようにすれば良いのであって、悪用する輩が居るからといって、同窓会名簿を廃止するような対処の仕方は好ましくないのでないか。
同様に、全ての社会的に重要な働きをしている人の情報を一切伏せてしまうのはスジが違うのではないか。
例えば、何か非常に重要な情報を偶々入手して、然るべき人物に通報しようと考えた時に、以前ならば紳士録があった。
現在では、打つ手がないのである。
最近の社会では全ての発想がこの様な方向で行なわれているのが、私には間違っているとしか思えない。
例えば、金を目当てに殺人のような悪事を働く者がいるとする。
厳罰を科して、その様なことを考えないようにするのが望ましい、と私は思う。
しかし、現代社会の最も普通の考えは、その悪事を犯したものにも、それなりの事情があるだろうからと、罰を科すよりは先に、本人の都合を考えようとなる。
私は、善意の人が不安なく過ごせる社会を作るのが先であって、自己都合で悪事を働いたものの言い分は後から情状酌量のときに聞いてやればよい、と思う。
死刑廃止論を言うよりも先に、殺人廃止論を言ってほしい。
紳士録の消滅ということから、社会の病根まで考えさせられる最近の世相、である。